東雲とばりは諦める

 星宮家の風呂場から出ると、俺のものではないジャージが置かれていた。
「それ、お父さんのだからー。ちょっとサイズ違うかもだけど、制服乾くまでそれでガマンしてねー」
 脱衣所の扉の向こうから、間延びした幼なじみの声。俺は黙って、肘や膝のあたりが擦れてつるつるになったそれをありがたく拝借することにした。
 びしょ濡れの俺を発見した夕月は、家に帰ると言う俺を無視して、自分の家が近いからと半ば無理やり星宮家まで引っ張り、濡れた制服を問答無用で乾燥機にぶち込んだ。そして風邪を引くといけないからと、制服と同じように俺を風呂場にぶち込んだ。そして今に至る。
 ジャージに袖を通した俺は、廊下に出る。木目が鮮やかな床や柱に、若干色のくすんだふすまに障子。昔ながらの和風の家屋、それが夕月の家だった。
「あ、ハル」
 ひょい、と階段の入口から顔を覗かせた夕月がポニーテールを揺らしながら、
「上がったんなら私の部屋に来なよー。まだ乾燥に時間かかるでしょ?」
「ああ、うん」
 乾燥機はまだゴウンゴウン唸っているし、お言葉に甘えることにする。
 ちょっとばかり急な階段を上がって二階。手前にあるのが夕月の部屋だ。
「入るぞ」
「んー、どうぞー」
 一応ノックをしてから、部屋の扉を開けた。
「まー適当に座ってよ。くるしゅうない、くるしゅうない」
 部屋の主がそう言うので、俺はカーペットの上に腰を下ろす。制服を着替えて薄手のパーカーとショートパンツに身を包んだ夕月は、眼帯をしたサメという風変わりなキャラクターのクッションを抱きながらベッドにゆったり座っていた。
 夕月の家に来るのも久しぶりだな。それこそ小さいころは一緒に遊んで、しょっちゅうお互いの家に行っていたっけ。お互い同性の友だちと遊ぶようになってからは、めっきり回数は減ったけど。
「にしても夕月の部屋、こんなんだったっけ」
 ピンクを基調とした家具に、かわいらしい小物。少なくとも、俺の記憶にある夕月の部屋とは違う気がした。それになんだろう、すごくいい匂いがする。
「ちょっとー、レディーの部屋をじろじろ見ないでくれますー?」
 とは言ったものの、とくに咎めるつもりはないらしく、ベッドの上でごろごろの往復を繰り返す。
「お前、あんまり勢いよくごろごろするなよ」
「えー、いーじゃん私の部屋なんだしー」
 夕月のJKローリングはさらにスピードを増す。
「そういうことじゃなくて。見えてるぞ、下着」
「うそっ!」
 がばあ、とその場に座り直し、ショートパンツの部分をクッションで隠す。
「……見た?」
「そりゃ指摘したの俺だからな」
 あんまりごろごろするものだから、ショートパンツがずれてピンクの縞模様が露わになっていた。部屋といい、どうやら夕月はピンクがお好みらしい。
「~~~~! ハルのスケベ! ヘンタイ! エロ魔人!」
「待て。俺は何もしてないだろ」
 いわれのない罵詈雑言はやめろ。というかなんだエロ魔人て。
「むー」
 夕月は照れ隠しからか、サメのクッションをばふばふ殴りつける。やめろ、そいつに罪はない。
 ……まあ、ほんとは少しドキッとしたことは黙っておこう。幼い頃の記憶とは異なる部屋といい、服の上からでもわかる滑らかな曲線といい、夕月はもう十分「女の子」だ。
「はあーあー」
 夕月はクッションを抱え直し、その場に居直る。そしてひとつ咳払いをしてから訊いてきた。
「それで、ハルはなんであんなところでびしょびしょだったわけ?」
「それはだな……」
 正直に言ったものか、と少し考えていると、夕月はさらに問いを投げかけてくる。
「まーどうせ、何かしてたんでしょ? まっひー先輩の猫のことで」
「いや、別に……ん?」
 猫、という言葉が出てくるってことは。
「夕月、知ってるのか? 依頼内容とか」
「そりゃねー。だってハルたちのこと紹介したの私だし」
 それもそうか。
 依頼に関することは他言無用、というのが『諦め屋』の二つあるルールのうちの一つだった。だけど、すでに依頼のことを知っている夕月には黙っていてもしょうがない。
「そうだよ。猫の目撃情報がないか、聞いて回ってた」
 成果が全くなかったことは伏せた。なんとなく。
 すると、夕月はいつになく真剣な眼差しで、
「なんで?」
「なにが」
「先輩、諦めたいって言ってきたんでしょ? なのになんでハルは猫を探してるの?」
「……」
 ま、事情を知ってるってんなら、その疑問に行き着くよな。
「じゃあ逆に訊くけど、夕月はどう思ってるんだよ。部長のことを紹介したってことは、桜庭先輩は諦めた方がいいって思ってるのか?」
「それは……」
 夕月は言葉に詰まる。意地の悪い質問だってことは自覚している。
「わかんない」
「わからないって」
「わかんないよ。でも先輩、猫がいなくなってからずっと元気なくて……私とか他の部員が励ましても、ぜんぜん笑わなくて。前はいつも優しく笑ってる先輩だったのに」
 言うと、夕月はぎゅ、と膝を抱える。
「今日遊びに行ったのだってさ、ホントはまっひー先輩を元気づけるためにっていう目的もあったの。ちょっとでも前みたいに笑ってほしくて。でも……」
 言葉が途切れるが、そこから先は聞くまでもなく悟ることができた。
「猫のことは諦めたら、なんて簡単に言えるはずないじゃん。けど、先輩がずっとこのままなんじゃないかって思うと、私にはどうすることもできなくて……ハルたちのとこ連れてったら、何か変わるんじゃないかって。そう思って」
 小さくなった夕月の身体と表情からは、いくつもの感情が読み取れた。東雲とばりのもとに連れていったことが正解だったのか、という迷い。自分では先輩の力になれなかった、という悔しさ。
 もしかしたら、夕月たち陸上部の人間も過去に猫探しを手伝ったのかもしれない。
 だとすれば、それこそ俺の行動は徒労と言うべきなのだろう。他人からすれば滑稽に見えるのだろう。
「でもやっぱり、俺には諦める手伝いなんて、できない」
「ハル……」
 ガキじゃあるまいし「諦めなければ叶う」なんて夢物語を言うつもりはない。世の中は諦めないといけないことであふれている。
 かつて俺がそうだったように。
 それは小学校の運動会のことだった。当時はクラスで足が速い方だった俺はリレーのメンバーに抜擢された。うれしかった。誰かに選ばれることが誇らしかった。
 だけど同時に浮かれてもいたんだろう。あるいは、選ばれたからには最高の結果を出さなければならないと。使命感を抱いていたのかもしれない。
 その結果かどうかはわからないけど、俺は練習中に勢い余って転んで、足の骨を折ってしまった。
 全治一か月。どう足掻いても、リレーへの出場は諦めるほかなかった。クラスメイトはみんないいやつで『しょうがない』と慰めてくれた。
 そして運動会当日、俺はただグラウンドを眺めていることしかできなかった。
 その時の悔しさ、もどかしさ、申し訳なさといったら。言葉にしようがなかった。
「俺が、諦めたくないんだ」
 こぼすように言う。苦い経験から得られたあらゆる感情を、短いそのひと言に凝縮するように。だからこそ、俺は思うのだ。能動的に諦める必要なんてないんじゃないか、と。
「……そっか」
 夕月の言葉も短かった。彼女も知っているから。幼なじみゆえに、俺が経験したことを、俺がどれだけ落ち込んでいたかを。
 と、夕月が思い出したように言う。
「それ後のことだったっけ。ハルが星を見るようになったの」
「ああ、そうだな。落ち込んでる俺を元気づけようと、親が連れていってくれたんだ」
 地域の子ども向けの天体観測。夜の公園で開かれたそのイベントで、俺は初めて天体望遠鏡を通して星を見た。
 目に映った星粒はどれも輝いていて、綺麗だった。気が遠くなるような離れた場所にあるはずなのに、その輝きは俺の心の中まで入りこんできて、いろんな感情をぜんぶ洗い流してくれた。
 以来、俺は星を見ることにすっかりはまってしまったというわけだ。
「にしてもハルも一途だよねー。それで高校も選んじゃうくらいだし」
「悪かったな、不純な志望動機で」
 そう。何を隠そうそのイベントの主催が、うちの高校の天文部だった。そのことがきっかけで、俺はこの高校を志したのだ。
 まあ、晴れて入学して扉をたたいた天文部がこの有り様だったことには衝撃を受けたけど。
 だからこそ、俺は天文部をちゃんとした活動ができる場所にしたい。そのために部長と『約束』も交わした。
「俺は諦めないよ。天文部をただ諦めるだけの場所にはしたくないからな」
 俺は言い聞かせるように、決意を表明するように言う。
 たとえ依頼人がどんなに『諦めたい』という思いを抱いて訪れたとしても。
「……よかった」
「何がだ?」
「きっとハルならそう言ってくれると思ってたから」
 夕月は小さく笑う。どこか安堵したように。それから勢いよく起き上がった。
「やっぱハルの言うとおりだよね。諦めない方がいいもんね!」
 拳を握って、言う。夕月なりに俺を励ましてくれているのかもしれない。
「あっ、もし私に手伝えることがあったら言ってね! 明日、一緒に探しに行く?」
「……いや」
 だから彼女の厚意を無駄にしてしまうのは、惜しかった。けれど、俺にはどうすることもできない。
「今日までなんだ。依頼解決までの期間」
「えっ」
 桜庭先輩が、依頼人が訪れてから、一週間。
 その間に、依頼を解決する。
 それが東雲とばりの決めた、『諦め屋』のもう一つのルールだった。