東雲とばりは諦める

 痛いのは一瞬。
 一瞬だけ。
 それを過ぎれば、楽になれる。
 すべてから、解放される。
 そう思っていたのに――

「え…………?」
 痛むのは、私の腕だけだった。しかも、じんじんと、熱を帯びるような痛み。
 たしかに私の身体は夜に浮いている。足だって、ふわふわと黒い海を泳いでいる。
 それなのに。
 私は重力に引っ張られることなく、地面に落ちることなく。ここにいる。
 理由は、見るまでもなかった。
 彼だ。
「……っ」
 彼が、私の腕をつかんでいる。つかんで、離さない。
「……部長っ」
 苦悶の表情。当たり前だ。人ひとりの重さを、両腕で支えようとしているのだから。
「……どうして?」
 わからない。
「どうして助けるの?」
 わからない。
「今、君が抱いている好意は、私が仕組んだものなのよ?」
 わからない。
「私は家族のことを心配するフリをしていて、自分のことしか考えていない、最低な人間なのよ?」
 わからない。
「お願いだから、このまま死なせてよ!」
 どうして君がこの手をつかんで離さないのか。
「いい加減、諦めてよ!」
 わからない――
「とばり!」
「!」
 身体に電流が走った。
 いつぶりだろうか。こんなにも真剣に私を見て、名前を呼ばれたのは。
「諦められるわけ……ないだろっ」
 息も絶え絶えに、彼は訴えてくる。
「誰がなんと言おうと、俺のこの気持ちは……嘘なんかじゃないっ」
 身体が少しだけ、浮き上がるのを感じる。
「好きだ」
 息が止まりそうになる。それこそ、時間が止まってしまったみたいに。
「俺がそばにいます」
 言って、まっすぐこちらを向く。私の視線と、交錯する。
「俺のそばにいて……生きて、生きて、生きて……たくさん生きて。死ぬのは、それからにしてください」
 それまでずっと、俺が一緒にいますから。
「だから――」

「死ぬことを、諦めてください」

 嗚呼、そうだった。
 君は、誰よりも諦めが悪くて。
 どれだけ無様でも、最後まで足掻こうとする人なんだ。
 そんなこと、私が一番よくわかってるはずだったのに。
「……そうね」
 時間が再び動き出す。息を吸って、吐いて、私は言う。
「諦めるのは、私の得意なことだったものね」
 最初から、私の計算は間違っていた。
 君が好きになった時点で、こうなることは必然だったのだ。
「――諦めるわ」
 ふ、と息を吐いて。
「今日のところは、私の負けよ」
 そう言って、もう片方の手で、私は屋上の端をつかんだ。

 数分経って、私の身体は屋上へと戻った。宙に浮くことは、もうない。
 私をつかんで離さなかった彼は、私の横で脱力している。ふたり並んで、柵に背を預けている状態。すると、自然と私の顔は上を向く形となり、
「あ……」
 まぶしいほどの、満点の星空。春に彼と眺めたときとまったく変わらず、輝く星粒が広がっている。そういえば今日は一度も空を見上げていなかった。
 きゅ。
 左手に、温かな感触。手を握られていた。さっきまでみたいに力強いそれではなく、優しく、包み込むように。
「さっき、自分のことを最低だって言ってましたよね」
「晴人君?」
「でも、それは違うと思います」
 首を振って隣を見る。けれど、彼は空を見上げたままだ。
「俺は知ってます」
 彼は言う。
「『諦め屋』で、依頼人のためにがんばっていたこと。嘘をついてまで、きちんと諦められるようにしたこと」
 思い出すように。
「そんなことする人が、自分のことしか考えてないとか最低だとか、あるわけないじゃないですか」
 そして、私の方を向いて照れ臭そうに笑いながら、こう言うのだ。
「東雲とばりは、ちゃんと誰かのためを思える人間なんですよ」
「……そう、かしら」
「少なくとも俺は、そう思ってます」
 その言葉が引き金となり、頭の中で記憶がよみがえる。
 始まりの夜から――今日までの、時間。
 きっかけは歪だったけど。
 君を諦めさせることばかり考えていたけれど。
 それだけじゃなかった。
 この四か月、君といた時間の中には。
 紛れもなく、君と私だけの時間が、あったのだ。
 私が君のことを見ていたように。
 君は私のことを、見ていてくれたんだ。
「……」
「部長?」
「こっち見ないで」
 私が言うと、慌てたように視線を夜空に戻す。鏡に映したみたいに、私も顔を上げる。お互いの視線とは交錯しないけど、私たちは同じものを見ている。
 無数の星明りのせいで、やけに明るい。頬に一筋、温かいものが伝ってきたので、そっとストールで顔を覆った。
「やっぱり星なんて、嫌いよ」
 君にこんな顔を見られてしまうから。