東雲とばりは諦める

 珍しく、晴れていた。
 しとしと降り続いていた雨は昼過ぎには止み、雨続きだったのが嘘のように夕日が辺り一面をオレンジ一色に染めあげている。
 だけどあちこちに雨の余韻は残っていて、路面にはジュースを盛大にこぼしたみたいに大きなシミがいくつもできているし、空気は水分をたっぷり含んでじっとりとしている。
 ともあれ、久しぶりの晴天。それはつまり天文部員である俺にとって、絶好の活動日和。
 だというのに。
 俺は住宅街のど真ん中にいた。
 学校近くの、迷路にも似たその場所を歩き回っていると、人影を視界に捉える。ラフな格好にぎっしりと詰まったビニール袋。どうやら買い物帰りの主婦のようだ。
 俺はゆっくりと歩いている彼女に声をかける。
「あの、すみません」
「はい?」
 怪訝な表情を浮かべてくる主婦に、俺は手に持った一枚の写真を見せながらあることを訊いた。
 しかし、
「うーん、ごめんなさいね」
 そう言って申し訳なさそうな顔をして、主婦は首を横に数回振る。またしても空振りだったようだ。
「こちらこそ急にすみません。ありがとうございます」
 会釈をして主婦と別れ、再び歩き始める。制服はいつの間にか、路面に見えるシミと同じように汗ばんでいて、少し気持ち悪い。
 ふと空を見上げれば、西の空の雲間にぼんやりとした輝き。金星だ。もう少し日が沈めば、宵の明星と呼ばれるようになる。
 せっかく久しぶりに晴れたんだから、学校の屋上で金星の観測でもしたかったなあ。
 なんてことをぼんやりと考えていても、俺の身体は屋上じゃなくて住宅街にあるし、やっていることは天文部本来の活動とは一ミリもかすっていない。
「……なにやってるんだ、俺」
 ため息をついて、右手に握られた一枚の写真を見る。でかでかと写っているのは、むすっとした表情の、毛並みのいい猫。
 始まりは昨日の放課後。その時のことを頭の片隅で思い出しながら、俺は再び迷路の中を歩き始めた。


「諦めさせてください」
 夕月に連れられて天文部の部室にやってきた女子生徒は、控えめに、しかし確かな意思を持ってそう言った。
 が、その後の言葉が続かなかったようで、
「えっと、それで。その……」
「まあまあ。とりあえずそこの椅子にでも座ってちょうだい? 晴人くん」
「わかってますよ」
 俺は返事をしながら、さっき部長に作ったのと同じ要領で電気ケトルのスイッチを入れてお湯を沸かし、ココアを作る。『依頼人』が来たときに、いつもやっていることだ。
「熱いので気を付けてくださいね」
「あ、ありがとうございます」
 パイプ椅子に腰を下ろしつつも依然としてそわそわした様子。不安と緊張の孕んだ顔でぺこぺこと小さくお辞儀すると、二年生を示す緑のリボンが揺れる。
「じゃあ、その……いただきます」
 そう言うと、先輩の女子生徒はマグカップを両手で持ち上げ、一口。
 瞬間、彼女の表情は少しだけ柔らかいものになった。
「落ち着いた?」
 そう訊ねる部長はいつの間にか、さっきまでいた窓際から、机を挟んで女子生徒の対面にあたる席へと移動していた。
『まずは温かい飲み物を飲んでもらって落ち着いてもらいましょう。ここを訪れる人は皆、きっと心を硬くして緊張しているだろうから』
 部長はいつもそう言って、依頼人にココアを振舞っていた。とはいえ作っているのは専ら俺なのだが。なら自分でやればいいのに。
「は、はい。ありがとうございます」
 女子生徒は頷くと、マグカップへと目線を落とした。併せてボブヘアーに切りそろえられた茶髪が微かに揺れる。学年は上だが夕月が連れてきたってことは、陸上部の先輩ってとこだろうか。
「先に自己紹介をしておくわね。私は二年の東雲とばり。こっちは一年生の宵山晴人君よ」
 続けて俺は軽く頭を下げる。
「さて、まずはあなたの名前を――」
「あ、あの」
 すると、マグカップを持ったまま、女子生徒はまだ硬さの残る表情で言葉を遮った。
「その前にひとつ、いいですか……?」
「どうぞ」
 部長が微笑んで促すと、おそるおそる、口を開く。
「本当、なんですよね? ここに来ればその、諦められるって……」
 まだ半信半疑。それもそうだ、『この活動』は天文部の正式な活動でもなければ、学校内で大っぴらに宣伝して行っているわけでもない。言い換えれば、ここへやってくる人は、生徒の間でひっそりと囁かれる噂や誰かの紹介を頼りにして、訪れる。
 自分ではどうにもならないと思ったことを、本当になんとかしてくれるのだろうか。そんな不安を拭いきれずに。
「もちろん」
 だけど、そんな疑問や不安を寄せ付けずに部長は答える。明朗に、たった一言で。そして、こう付け加える。
「ただし、私たちはあくまであなたの手伝いをするだけ。最後に諦めるのは、あなた自身よ」
 通称『諦め屋』。それが生徒の間でひっそりと噂されている天文部のもう一つの名であり、東雲とばりが行っている『ある活動』の正体だった。目の前の女子生徒を含めると、俺がここに入部してから、つまりはこの一学期で三人目の依頼人となる。
 訪れる人たちは何かを『諦めたくて』この部屋のドアを開き、『諦めたい』という意思を明確に告げる。その手助けを、彼女は行う。
「ここはそういう場所だけど、それでもいい?」
 それはまるで最後通告のようだった。ここから先は後戻りができないと念押しするように。
「……はい」
 小さく、だけどもう覚悟は決まっていると主張するように、彼女は頷いた。
「それじゃあ、聞かせてもらおうかしら」
 部長がにっこり笑うと、緊張がさらにほぐれたのか、ゆっくりと話し始めた。
「私は桜庭(さくらば)まひる、といいます。ここのことは、同じ部活の夕月ちゃんから教えてもらって。……なんとかしてもらえるだろうって」
 やっぱり夕月と同じ陸上部だったのか。というか、あいつ勝手に『諦め屋』のことを広めてるのか。俺としては、依頼人が来ることをできるだけ避けたいから人に話さないようにしてるっていうのに。
 ともあれ、桜庭先輩は話し続ける。
「それにしても、本当にあったんですね。私てっきり夕月ちゃんが冗談で言ってるのかなって思ってたので」
「あら、そうなの? せっかく依頼を聞こうと思ってたのに」
「す、すみません。そんなつもりじゃ」
「ふふ、冗談よ」
 くすくす笑って桜庭先輩をからかう。部長はこうして話をするのが好きなのか、依頼人が来てはからかったりしている。俺もしょっちゅう標的にされているが。
「話が逸れちゃったわね。それで、桜庭さんはどんなことを『諦めたい』の?」
 今一度、訊く。
 すると、桜庭先輩はさっきまでの柔らかめの笑みから一転、表情に陰りを見せた。
 そして一瞬目を伏せた後、ポケットから一枚の写真を取り出して、机に置いた。俺は椅子から腰を上げて覗き込む。
「これは……猫、ですか?」
 野生なぞ忘れ去ったみたいに仏頂面をしてふんぞり返る姿が、そこにはあった。ふさふさした長い毛は、白と黒のツートンカラー。その間から少しだけ見える赤い首輪。猫には詳しくないので品種はさっぱりだけど。
「ラガマフィンね」
「え、部長わかるんですか。すごいですね」
「これくらい普通でしょ」
 むしろ何故知らないのだといった表情。俺が知らないだけで、猫の種類は必修科目にでもなっているとでもいうのか。
「はい、うちで飼ってる猫で、ソフィーっていうんです……愛想悪くて、あんまり懐いてくれてない感じなんですけどね。でもなんだかんだでかわいくって」
 言葉だけなら飼い主の親バカと笑ってしまっていたかもしれない。だけどそうならななかったのは、桜庭先輩の笑いが、どこか乾いていたから。
 そしてその乾きの正体は、続く言葉で明らかになった。
「だけど、いなくなっちゃったんです……一か月半くらい、前から」
 瞬間、俺は桜庭先輩の依頼内容をなんとなく悟る。
 その推測は、直後確信へと変わった。
「それからずっと……探してるんです。……でも、見つからなくて」
 桜庭先輩は写真をじっと見つめる。その紙の向こうにいる存在に思いを馳せるように。
「探しても、探しても……どこにもいないんです。……だから」
 言葉が止まる。まるで崖から飛び降りる最後の一歩を踏み出す前にためらうみたいに。
 だけど、もう後戻りはできない。そのことを桜庭先輩も承知しているようで、きゅっと唇を引き結んでから、言った。
「この子を探すことを、諦めさせてください」


 住宅街を散々歩き回った俺は、駅前のコーヒーチェーン店へと来ていた。そこが部長との待ち合わせ場所だったからだ。
「晴人くん、こっちこっち」
 先にカウンターで注文したアイスティーを持って店内をきょろきょろしていると、俺を呼ぶ声。そちらを向けば振られる白い手と、そしていつもどおり首に巻いているストール。それを目印に俺は奥のテーブル席へと向かう。
 店内は時間帯のせいか、何組もの高校生が楽しそうに話しているのが目立つ。俺とは違う生活を送る彼ら彼女らを一瞥し、通り過ぎた。
「遅かったわね」
 言いながら彼女は、東雲とばりは優雅にティーカップを傾ける。
「部長が早いだけですよ。こっちは歩き疲れて足がパンパンだっていうのに」
「あら、運動不足なんじゃない?」
「運動不足はお互い様でしょ」
 その細い腕や脚を見れば、普段から運動していないのは火を見るより明らかだ。
 ソファにゆったりと腰掛ける姿を横目に、対面の席に座る。すでに空は薄暗く、窓ガラスは鏡となって俺たちの姿を映し出していた。
 俺は一息つく前に、アイスティーを半分ほど一気にあおった。渇ききった喉に少し苦味のある液体が染みわたっていく。
「それで、どうだったの? 何か成果はあったかしら?」
「これがあったように見えますか」
 背もたれに身体を預ける。さっきまで身体中を包むように出ていた汗が、冷房の風でようやく引いてきた。
 俺が町中を歩き回ってやってきたのは、桜庭先輩のいなくなった飼い猫の目撃情報探し。
 結果は実に明瞭だった。つまり、収穫ゼロ。
「そう言う部長こそ、今日は何してたんですか?」
 お返しとばかりに、嫌味っぽく訊く。依頼を受けた張本人なんだから、当然何かしているはずだ。
「私は、ほら」
 言って、カバンから一冊の雑誌を取り出した。愛らしい猫が大きくプリントされた表紙。たしか猫に関する有名な月刊誌だ。
「なんですか、これ」
「図書館から借りてきたの」
 いや、そういうことじゃなくて。
「桜庭さんの猫の品種、ラガマフィンって言ってたでしょ? 私も名前しか知らないから、性格とか習性とか、いろいろ調べておこうと思ってね」
「はあ」
「苦労したのよー。たくさんあるバックナンバーから探すの。一人じゃ大変だったわ」
 ストール越しにわざとらしく肩を揉んで、左右に首を揺らす。
「すみませんね、手伝わなくて」
 俺は窓の外を見る。仕事帰りの時間帯になってきたのか、人通りは多くなっていた。
「部長」
「なにかしら?」
「……諦めさせるつもりなんですか、本当に」
 確かめるように、念押しをするように、俺は訊く。
 だけどこの人の答えはわかりきっている。今までの依頼の時にも同じ問いを投げかけて、同じ答えが返ってきているから。
「もちろんよ。そのための『諦め屋』よ」
 東雲とばりの言葉には、一切の澱みがない。
「桜庭さんは、諦めることを望んでいるのよ。それは私たちのところを訪れた時点で、明白じゃないかしら」
「それはまあ、そうですけど」
「だったらやるべきことはただ一つよ」
「やるべきこと……」
 桜庭先輩が諦められるよう、手伝うこと。
「晴人くんもわかってるでしょ? 桜庭さんが一か月以上探して見つからなかったのに、君が今さら探しても、躍起になっても、一人の力で見つけるのは難しいって」
「わかってますよ」
 今までもそうだったでしょ――部長のセリフには、暗にそんな意味が込められている気がした。
 諦める手伝いをする、そのことに納得がいかなかった俺は、今までの依頼の時も、部長のことを手伝わずに、依頼人が諦めないで済む方法はないかと孤軍奮闘していた。が、結果は一度も実らなかった。依頼人はみんな、依頼したことを諦めた。東雲とばりによって。
 俺の行動はすべてにおいて徒労だった。
 だけど。
「だからって、俺には桜庭先輩を諦めさせていいなんて……思えません」
 桜庭先輩が来た時のことを思い出す。飼い猫の写真を見つめる、桜庭先輩の表情。聞かなくてもわかる。桜庭先輩は、飼い猫をすごく大事にしていることが。思い出もたくさんあるに違いない。それを諦めさせていいなんて、思えない。
「それに、俺にはきれいさっぱり諦めさせる方法なんて、見当もつかないですし」
 無茶だと言われても、可能性がゼロなわけじゃない。やれることがあるなら、俺はそれをしたい。
「そう……やっぱり晴人くんは諦めが悪いわね」
「俺はただ、天文部としてちゃんと活動したいと思ってるだけです」
「それもそうだったわね」
 部長は薄く笑って、鼻を鳴らす。
「だって、そういう『約束』だものね」
「……」
 その言葉に、俺は答えることなく、グラスをあおる。
 しかし俺の体内に流れ落ちていくのは、ぬるくなった氷水だけだった。