東雲とばりは諦める

 いつだって、昨日のことのように思い出せる。

「それじゃあ、いってきます」
 制服姿の弟は、いつもより早く玄関に立っている。
「爽也、気をつけるのよ?」
「わかってるよ。姉さんこそ、今日実力テストなんでしょ? 大丈夫なの、ぼくなんかの見送りしてて」
「心配はいらないわよ。今回もばっちりだから」
「おおー。さすが、昨日も諦め悪く、夜遅くまでがんばってたもんね」
「こら、そっちこそ修学旅行の前日に遅くまで起きてるんじゃないわよ」
 まさか見られていたなんて。
「あはは、ごめんて」
  私の小言が続くと思ったのか、弟はドアを開ける。
「そういえばそのストール、ちゃんと使ってくれてるんだ」
「ええ。夜の肌寒い時間にはちょうどいいのよ」
「よかったー。なけなしのお小遣いで誕生日プレゼント買った甲斐があったよ」
「はいはい、ありがとう。助かってるわ」
 私は首元に巻いた青いチェック模様のそれを撫でる。
「あ、そうだ姉さん」
「なに?」
「姉さんの学校、屋上に上がって星を見てもいいんでしょ? 今度連れてってよ」
「らしいけど、天文部じゃないから入れないわよ?」
「そこはまあ、生徒の権限とかでさ。お願い、一度でいいからさー」
「もう、そんなことして怒られるのは私なのよ?」
「ストールのお返しってことでさ、ダメかな?」
 言いながらこっちを拝んでくる。こうなったときのこの子は頑固だ。
「……はいはい、わかったわよ。帰ってくるまでには考えとくわ」
「よっしゃー。約束だよ?」
「わかったから、電車遅れるわよ?」
「やべ。それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 玄関の扉が、閉じられる。
 どこにでもあるような、姉弟のなんてことのないやりとり。
 これが、あの子と交わした最期の会話になるとも知らずに。

 夜空に身を投げたこの瞬間でも、記憶は鮮明によみがえってきた。
 あんまりお姉ちゃんらしいことしてあげられなくて、ごめんね。
 お願い、叶えてあげられなくて、ごめんね。
 さみしい思いをさせて、ごめんね。
 今、私も行くからね。