東雲とばりは諦める

 時間が止まったように感じた。
 心臓も、風も、星の瞬きでさえも。
「え……?」
 息を吐きながらなんとかしぼり出せたのは、声にならない声。
 待って……いた?
 どういう意図で放たれたのかはわからない。だけど。
 俺はその言葉に、聞き覚えがあった。
『私は、そうね……待つため、かしら』
 脳裏によみがえるのは、いつだったか。そうだ、絵の展覧会に行ったときに聞いた。
「その言葉って……部長が天文部に入部した理由と、関係ありますか?」
 半信半疑。確証はない。俺の思い上がりかもしれない。だが、
「あら、そんな前のことを憶えていてくれてるなんて、うれしいわね」
「そりゃあ、初めて一緒に出かけたときのことですから」
 思えばあの時から、俺はこの人に惹かれていたのかもしれない。
「正解よ」
 短く、俺の問いに対して答えると、悠然と歩きだした。両手を広げて、柵に沿って。その姿はまるで、星空という名の海の、その波打ち際を歩いているみたいだった。
 潮騒が聞こえてくる。彼女の足元に、さざ波が打ち寄せているような錯覚に陥る。
 そのまま彼女をさらってしまいような波が。
「私が天文部に入ったのは……晴人君、君と出会ったから」
 止んでいた夜風が再び吹き始め、艶やかな黒髪とストールと揺らしていく。
「君と出会って、君が天文部に入るって知ったから、私も入部することにしたの」
「――じゃあ、あの夜の部長は」
「そう。あの時の私は天文部員じゃなくて、天体観測のやり方もまったく知らない、ただの東雲とばりよ」
 つまり、この人は俺と出会った日から、俺が入学し天文部にやってくるまでの間に、天文部に入部したということになる。俺の先回りをする形で。
「感謝してね? 天文部、本来なら廃部になるはずだったのに、新入生で入部する人がいるからって、私が七海先生にかけあったんだから」
 思えば、天体望遠鏡のメンテナンスなどを手伝うよう言ったとき、彼女は「扱い方がわからないから」とすべて断っていた。当たり前だ。天体観測の方法も知らなくて、しかも入部して間もない人間がそんなこと、知るはずもないのだ。
「どうして、ですか?」
 あの夜、俺たちは初めて出会った。なのに、何故この人はそんな初対面の俺を理由に、縁もゆかりもない天文部に入部することにしたのか。
 どうして、そんな場所で『諦め屋』なんてものを始めたのか。
 そして何より。
 どうしてあの夜、この場所にいたのか。
「……」
 彼女は俺の言葉が聞こえていないのか、聞いていないのか、黙ったまま。言葉を発しない代わりに、腰のあたりまでしかない柵を乗り越えて向こう側へと――屋上の縁へと身体を移す。フェンスがまるで壁のように、俺と彼女の間に隔たりを作っているようだった。
 そうして背中をこちらに向けたまま、
「今の私ってね、余白なのよ」
「余白……?」
「そう。晴人君と出会ってからの私は……なにもなくて、真っ白」
 壁の向こうから聞こえてくる独白は、またしても俺の理解を追いつかせない。
「それって――」
 どういう意味ですか。そう訊こうとする前に、彼女は振り返って。
 こう言った。

「あの日はね……私の命日になるはずだったの」

「え……」
 今この人はなんて言った?
 命日?
 一瞬、胸がざわついた。暑さによるものとはまた違う、じんわりと汗が浮かぶのを感じる。
「自分の命を、諦める日だったのよ」
 独白は続く。
「だから、今の私はただの余白。あるはずのない時間なの」
 俺から見える彼女の表情には、わずかな感情も浮かんでいない。幕は下り、観客も演者も誰一人として見ていない、演劇のエピローグ。
 その存在の残滓だけが、そこには佇んでいた。
「晴人君、聞いたんでしょう? あの人から」
「……はい」
 あの人、とはきっと、茜さんのことだろう。そして話の内容は、確認するまでもない。
 部長の弟が修学旅行でバス事故に遭い、行方不明――亡くなったこと。
「君と初めて出会った日はね――あの子の命日なの。……正確に言えば、捜索が打ち切られた日だけど」
 それでも、この世界の全員が、あの子の命を諦めた日には違いないわ、と。
「じゃあ」
 もしかしてこの人は。
 弟の捜索が打ち切られた――この世を去ったことを受けて、自らの命を終わらせに来ていたということなのか。あの日、あの夜、この場所へ。
「晴人君の考えているとおりよ」
 話し続けるその表情は、変わらない。
「私はあの夜、死ぬためにこの場所に来たの。晴人君は、私が天文部員で天体観測に来ていたって勘違いしていたみたいだけど」
 こちらを向く彼女には、笑み。しかし次の瞬間、それは消え去った。
「でもね、死ねなかった」
 それが証拠に、今もこうして生きている。
「理由は、言うまでもないわよね」
 俺と出会ってしまったから。俺が、この場所に来てしまったから。だから。
 東雲とばりは、命を絶つ機会を失ってしまった。
「私は自分の命を諦めることを、阻まれたのよ。晴人君のせいで」
 まるで水滴が落ちたみたいな小さな吐露。
「あなたの、せいで」
 だけど、それは波を起こし、俺に届くころには大きな波紋となっていた。
「憶えてる? あの時、君はなんて言ったか」
「……はい」
 諦めなくてよかった。合格し、高校に入学できたことに対して、俺はそう言った。
「些細なことかもしれないけど、私には我慢できなかった。諦めて死のうとしていた私に、『諦めなくてよかった』なんて、嬉しそうに言われて」
「……」
「だから、天文部に入ることにしたの。あなたと同じ、天文部に」
 そこまで言うと、彼女はゆっくり、すう、と息を吸った。
「最初はね、君の諦める顔が見られればそれでいいって、思ってたの。
 だから『諦め屋』を君がいる場所で始めた。君と『約束』をした。いろんな人が諦めるところを君に見せて……君自身が何かを諦める瞬間を見たかった。
 最後の心残りってわけじゃないけど、それを見てから死のうと思ってたの。

 でも……君は諦めなかった。どんな依頼でも。親しい人が依頼に来ても。泥臭く足掻いて、諦めずに済む方法を探して。
 途中から思ったわ。君はきっと、諦めないんだって。

 だから考えたの。
 私のことを、諦めさせればいいって。

 これでも頑張ったのよ? どうすれば君の気を引けるか考えたり、普段着ないタイプの服を着てみたり、君にさりげなくアピールしてみたり。
 でもその甲斐あって、君は私のことを……好きになってくれた。

 ありがとうね。全部、私の思い通りになったわ」

 浮かべている表情は、満ち足りている。長い小説を書き終えたみたいに。ようやく探し求めいたパズルのピースが見つかったみたいに。
「この時を……ずうっと待っていた」
 その満足感は、俺に好意を抱かせることができたことによるもの。俺のこの気持ちは、彼女によって誘導されたものなのだ、と。
 すべて私の手のひらの上なのだ、と。
「晴人君は、諦めて私が死ぬのを、そこで見ていればいいのよ」
 俺に、そんな宣告をしてくる。
「…………」
 声を出そうとしても、出なかった。この人がそんな風に考えていたなんて、知りもしなかった。東雲とばりは、死ぬために、出会ってから今日まで、俺と一緒にいたのだ。
 そして今夜を最期に、俺の目の前で。
 ここから飛び降りて、死ぬつもりなのだ。
 だけど……だけど。
「待って、ください」
 一歩、近づく。まだ距離は遠い。背の低い柵が、俺たちを隔てる。
 彼女が死ぬことに対して強い意志を持っているのはわかる。出会って数か月、ずっと心の一部として「死」がいたのだ。死ぬことは、彼女の望み。望みを叶えることが、幸せなのかもしれない。
 でも。
 俺は。
 死なせたくない。
 好きな人を見殺しになんて、できるはずがない。
 たとえこの気持ちが、彼女自身によって誘導されて、抱かされたものであったとしても。
「……ごめん、なさい」
 口を開いて、言葉を投げかける。慎重に、慎重に発するべき言葉を選ぶ。俺の想いをまっすぐ届けられるように。
「部長が辛い思いをしていたのに、俺が無神経だったのは……すみません。
 でも、
 あなたに死んでほしいって思ってる人なんて、誰もいないと思います。
 夕月も、茜さんも……俺も。
 それに……たぶん弟さんだって。
 きっと部長が後を追って死ぬことなんて、望んでいませんよ。
 だから。だから……
 生きることを、選んでくれませんか?」
 
 稚拙な単語の羅列。よくある言い回し。映画やドラマのように、劇的なセリフは言えない。
 だけど、これが俺の精一杯。
 届けたい、想いなのだ。
「……」
 無言のまま、目を伏せる。
 届いた、のだろうか。
「晴人君」
 彼女が、俺を呼ぶ。
 そして、
「どう思ったと、思う?」
「え……」
 問いかけながら、東雲とばりはこちらを向いていた。
 その表情は、ひびの入ったガラスのように見えた。割れてしまう寸前のような。
「私が、どう思ったか。弟の捜索打ち切りが告げられて……弟が死んだことになったとき」
「それは……」

「”ほっと”しちゃったのよ!」

 刹那、堰を切ったように、彼女は言う。いや、叫ぶ。
「あれだけ生きているはずだって信じて、やれることを全部やり尽くして! 希望を捨てずに待ち続けていたのに……!」
 痛い。
「私は、楽になっちゃったのよ!」
 痛い。
「結局私は! 弟を心配するフリをして、重荷にしか思っていなかったのよ!」
 痛い。
 悲痛。身体が裂かれるような。心がおかしくなりそうな。
 痛みの原因は、きっと彼女自身。
 自らの手で、刃物を突き立てて。刺している。身体も心も血まみれになりながらも。
 何度も。何度も。
 今まで、ずっと――
「はあっ……、はあっ……」
 肩で息をする。その場に崩れ落ちそうに
「来ないで」
 近づこうとする俺を、拒絶する。
 悲しみと自責の念に満ちた表情。今まで見たことがなくて、見ている俺まで辛く、痛い。
 動けずにいる俺に、小さな声で、
「晴人君は、星が好き?」
 彼女は、俺の答えを聞く前に、
「私はね、大嫌い」
 放たれた言葉は、ぞっとするほど冷たく感じた。
「あの子があの場所に、遠くにいて、私のことを見ているんだとしたら」
 名前のない、俺たちの目に光すら届かないような、小さい星。それが彼女の心を見ているのだとしたら、
「星なんて、大嫌い」
 言葉が、黒い空気に消えていく。
「私はもう、死ぬしかないのよ」
 生きていても仕方ないのよ、と。
「諦めて、私の死を受け入れてちょうだい」
 一歩、後ろへ下がる。すでに身体の半分は真っ黒な空間に投げ出されていた。
「最期に会えたのが君で、よかったわ」
 一瞬、俺に柔らかな笑みを見せて、
「じゃあね、晴人君」
「待ってくださ――」

「ばいばい」

 彼女の身体は闇に溶けた。