東雲とばりは諦める

 夏の夜。俺は一人、自転車をこいでいた。
 明滅する街灯。真空みたいな静けさ。昼間よりも澄んだ空気。そして季節のわりには涼しげな夜風。そのどれもが『あの時』を再現しているみたいに、よく似ている。
 だからだろう。もしかすると来ないんじゃないか、なんて不安は湧き出てこなかった。きっと彼女は、あの場所にいる。初めて会ったときみたいに。
 次第に重くなるペダルを踏みしめて、坂を駆け上がる。上りきって視界に飛び込んでくるのは、真っ黒に染まった校舎。入学してからずっと見てきたけれど、やっぱり夜だと別の建物に見えた。
 自転車を道路脇に停めてから、フェンスの穴をくぐる。そして前と同じ窓から校舎内へと入った。
 部室に寄って天体望遠鏡を持っていくことも考えたけど、やめた。今夜星を見るのに、道具は必要ない。ただ自分たちの目で、浮かぶ星々を眺められれば、それでいい。
 階段をのぼりきる。初めて来たときは時間がかかったように思ったけど、あっという間に到着した。
 眼前には、古びた金属の扉。
「……ふう」
 一度、深呼吸。緊張している……んだろうか。扉の向こうにいるであろう相手は、一学期の間ずっと一緒にいた人間だっていうのに。
 ドアノブを握る。昼間と違ってひんやりとしたそれは、冷静になれといわんばかりに指先を通じて冷たさを伝えてきた。
 そして、開く。
 視界に広がる星の海。輝く砂粒。ちりばめられた宝石。
 その奥に――
 東雲とばりはいた。


 空から降る光が、ぼんやりと彼女の姿を照らす。浮き上がらせるシルエット。目が慣れて徐々に輪郭が鮮明に映る。あの日と同じようにストールを首に巻き、あの日と変わらない真っ黒な髪と瞳。
 だけど、あの日とは違う。彼女の制服は半袖の夏服に、俺の服装もまた、制服。それだけ、月日が経過したのだ。
「遅かったわね」
 背の低い柵に腰かけながら、口を開く。
「まったく晴人君てば、女の子を待たせるのはよくないわよ?」
 その口調は、部室で会話しているかのように、いつもと変わらない。
 まるで、退部したことや、何日も会っていなかったことがなかったことみたいに。
「驚いたわ。まさか晴人君から天体観測のお誘いがくるなんて」
「あの」
「てっきり私のことなんてすっかり忘れたんだと思ってたわ」
「部長」
「新しい天文部はどう? 星宮さんと二人だけなんだし、楽しいんじゃないかしら――」
「聞いてください」
 一歩、近づきながら、言う。
「俺の話を、聞いてください」
 もう一度。今度はしっかりと届けるように。
「……」
 彼女は無言のまま、柵から身体を離してこちらを向く。黒い瞳から送られる視線は、宵闇に紛れることなく俺の眼球に飛び込んでくる。
 さあ、君の話したいことを聞かせて、と。
 語りかけてくる。
「……ずっと、考えてました」
 言葉と同時に、夜風が止んだ。世界から音が消える。
「部長のことを。部長と過ごした日々のことを」
 同じ天文部員として。『諦め屋』で依頼を受ける者として。
『約束』をした相手として。
「戻ってきてくれませんか。天文部に」
 多くの時間をかけて気づいたこと。
 たった一言に過ぎない言葉だけど。
 これだけでいい。これだけなんだ。
「……どうして?」
 少しの静寂を経て返ってきたのは、抑揚のない声。
「どうして晴人君はそう思うの? だって今の天文部は、晴人君と星宮さんのふたりでも活動ができるじゃない。それも、ちゃんとした本来の活動が」
 だったら、私は戻らない方がいいんじゃないのかしら。
「それに」
 俺の言葉を待つ前に、彼女は続ける。
「戻ってきてほしいって、晴人君が望むのなら……『約束』はどうなるのかしら?」
『約束』。勝った方が天文部を好きなように使う。
「私が戻るってことは、晴人君が望む天文部の活動を邪魔することになるわよ? それとも」
 小さく、彼女は首を傾げて、
「晴人君は、私の言っていたことを認める、ということかしら?」
 私の言っていたこと。思い起こされるのは春の日の会話。
『諦めないと、私たちは生きていけないのよ』
 彼女の信条。生きることと、諦めることは同義だと。そして、あの時俺はそれを否定した。その結果、俺たちは天文部を賭けて『約束』をした。
 今、あらためて彼女は問うている。自分と一緒にいるということを望むのであれば、それを――諦めることを受け入れることだ、と。
「正直に言って……まだ、よくわかりません」
 たしかに『諦め屋』では、何人もの人が諦めるところを見てきた。その結果笑顔を取り戻した人だっていた。
 一方で、諦めない方がいいという思いも、俺の中にはある。諦めようとしていたけれど、諦めずに自分の気持ちと向き合った人も、たしかにいたのだ。
 だけどそれを、部長に今までと同じように主張することもできないと思っている。
『あの子には、弟がいたの』
 ――あんな話を、聞いてしまったから。
「そう」
 部長は短く言って、
「だったら」
「でも、たしかに言えることが、ひとつだけあります」
 わからないことだらけの俺でも、自信をもって言えること。
「……なにかしら?」
 訊き返してくるその声を引き金に、俺は大きく、息を吸い込む。冷たい空気が、身体中に広がる。
 そして、空気を空に向かって吐き出すのと同時、
「俺が部長のことを、好きだってことです」
 言った。
 瞬間、夜よりも黒い瞳が、開かれる。それを、俺はじっと見つめて、
「あなたのことが、好きです」
 重ねるように、もう一度。
「だから、部長には天文部に戻ってきてほしいんです」
 わずかに震える身体は、寒さのせいではない。異様に渇く口の中は、暑いからじゃない。これは、俺の想いを外に出した証。
 自分の気持ちを伝えるって、こんなにも怖くて、勇気がいることだったんだな。
 この場を離れたくなるような不安が押し寄せる。思わず逃げ出したくなるような怖さを受け止めて、告白をしていたんだ。高座も、夕月も。容易ではない覚悟を胸に抱いたうえで、想いを伝えていたのだ。
 そしてそれは、間違いなく相手に届いていた。結果はどうあれ、相手の心に刺さった。
 俺の場合は……どうだろうか。
 届く、だろうか。
 祈りながら、前を向く。目を閉じたい気持ちに駆られながらも必死に我慢して、想いを伝えた相手を――一つ年上の女の子を見る。
 少しだけ驚いたような顔。その表情が、変わる。緊張の一瞬。
 すると、
「――――」
 笑った。
 笑ったのだ。
 そして、こう言った。

「待っていたわ。君のその言葉を」