東雲とばりは諦める

「ハルー、これなんだけどさー」
「……」
「ねーハルー」
「……」
「ねえってばー!」
「うおっ!」
 耳元で叫ばれた声で、俺は思わずイスから落ちそうになった。
「いきなり大声出すなよ」
「何言ってんの。ハルが全然反応しないからじゃん」
 夕月は不満そうに、腕組みをしてこちらを見下ろす。
「悪かったよ。で、どうかしたのか?」
 夏休みになって三日目。来週に天体観測(夕月が夏の大三角を見たいと言ってきたので)をすることになった俺たち天文部は、その準備のために朝から部室へと来ていた。夕月も陸上部が休みらしく、こうして暑苦しい部室へと来てくれているわけだが。
「どうしたもこうしたも、ハル、今朝からずっと変だよ?」
「変?」
「なんかぼーっとしてるっていうか、心ここにあらずっていうか」
「そりゃーこれだけ部屋が暑けりゃな」
 熱中症になると危ないし、少し休憩でもした方がいいかもしれない。
「そうじゃなくて」
 俺の言葉をかぶせるように否定して、じっと俺の目をのぞきこんでくる。
「なにかあったんじゃないの?」
「なんだよ、なにかって」
「とばり先輩に会いに行ったんじゃないの?」
「なんで知って」
「まっひー先輩と話した後、行ったんでしょ」
 なるほど、桜庭先輩から聞いて推測したわけか。
「それで、どうだったの?」
「……ああ」
 言われてよみがえるのは、数日前の記憶。
 連絡のとれない部長に会うために、彼女の家に行った。俺との『約束』に敗れただけで、天文部を去ることはないと、伝えるために。俺自身が彼女の退部を、諦めないために。 
 けれど、それは俺の勝手なエゴに過ぎなくて。
 痛感したのだ。俺の浅はかさを。
 知ってしまったのだ。彼女の過去を。
 大事な家族との、決別を。
「とばり先輩には会えた?」
「いや……」
「じゃあ、今日も行ったらいいじゃん」
「いや、部活あるだろ」
 誰のための準備だと、
「会わなくていいの?」
「……」
 おそらくその気になれば部長に会うことはできるだろう。そして、天文部に戻ってくるよう言うことも、簡単だろう。けど彼女にとって天文部に戻ってくるということは。俺たちと一緒にいるということは。
 突きつけることになるのだ。一番大事なものを「諦めた」彼女に、「諦めない」俺たちの存在というものを。
 それはあまりにも、残酷すぎるのではないか。
「たぶん、俺はもう会うべきじゃないんだよ」
『あの子のこと、よろしくね』
 茜さんはそんな風に言ってくれたけど、そんなことを言われる資格は、俺にはない。
「ハル……」
 泣き叫びたくなるような悲しみの中で諦めた彼女に、無責任に諦めることはよくないと主張し続けてきた俺が、今さらどの面下げて会えるというのだ。
 戻ってきてくださいと、言えるというのだ。
 俺が諦るなと言うことは、彼女にとって心臓に刃物を突き立てられることにも等しい。俺の独りよがりなエゴが、彼女を傷つけていたのだとしたら。それは無意識だったとしても、あってはならない。
「ハルは……それでいいの?」
 夕月は問うてくる。
「仕方ない、だろ」
 自分の答えに力がこもっていないのはわかる。だが、今の俺にはこう答えるしかない。
「……ばか」
 聞こえたのは、そんなつぶやき。
「夕月?」
「私、今日は帰る」
「おい」
「それじゃ」
 短く言って、そそくさと荷物をまとめると、幼なじみは部室を後にする。
「なんだよ……」
 俺に、どうしろっていうんだよ……。
 吐露することもできない気持ちは、熱気のこもった空気中に漂うこともなく。
 ただ、腹の底で溜まっているだけだった。


 翌朝、俺はスマホの着信音でたたき起こされた。
「誰だよ……」
 寝返りをうち、手探りで枕もとにあるスマホをつかみとる。ほとんど閉じきった目に映った画面には、見知った名前が表示されていた。
『ハルってば、出るの遅すぎ』
「お前が朝早すぎなんだよ。どうしたんだよこんな時間に」
 まだ朝の七時、まだ夏休みは始まったばかりだぞ。新学期には早すぎる。
『今から来て』
「どこへ?」
『部室。天文部の』
「はあ? なんで?」
『いいから』
「いや、だから――」
 ぶつり。一方的に切られた。画面には無機質な「通話終了」の文字。
「なんなんだよ……」
 かけ直して説明を求めてもいいのだが、電話口のあの調子じゃ意味がないことは容易に想像できた。仕方なく、俺は手早く制服に着替えて準備をする。
 そして自転車を飛ばすこと十五分。部室に到着したのは午前八時前といったところだった。
 扉を開けると、まだ朝だというのに昨日と変わらない熱気が俺を迎える。そして部屋の中には、腕組みをした夕月の姿。
「遅い」
「お前なあ……」
 これでも全速力で来たんだぞ、と文句の一つでも投げつけてやろうと思った瞬間、
「よっ、晴人」
「昴?」
 そこにいたのは陸上部にして俺や夕月の友人の姿だった。
 どうして昴がここに?
「悪いな朝早くから。実は用があるのは俺なんだよ」
 あははと笑って言う。なら直接連絡してくれたらいいのに。
 昴は部屋の中をぐるりと見まわして、
「ここが『諦め屋』なんだな」
「いやいや、天文部だから……って知ってたのか」
 まあ、この間夕月の依頼にこっそり協力していたし、昴が知っていても不思議ではない。
「実はな」
 いつの間にか俺の方を向いている昴。だが、先ほどまで顔に浮かんでいた笑みはなかった。
「依頼したいことがあるんだ」
「依頼?」
 昴が何か諦めたいことがある、というのか。だが。
「来てくれたところ悪いんだけど、『諦め屋』はもうやってないんだよ」
「東雲先輩がいないから、か?」
「それは……そうだけど」
 なんで部長がもう天文部にいないことを知っているんだ、という疑問を考える間もなく、昴は言葉を続ける。
「それなら問題ないぜ。俺が依頼したいのは……お前のことだからな」
「俺?」
 いまひとつ言葉の意味がわからない。
「俺に何を諦めてほしいっていうんだよ」
 訊くと、昴は表情を変えないまま、言った。
「晴人には、東雲先輩のことを諦めてほしいんだよ」


 それから、俺はわけもわからないままグラウンドに連れ出されていた。
 陸上部がいつも練習しているスペース。いつもならかけ声や砂埃が舞っていであろうその場所は、静けさに満ちていた。
「気を遣わなくていいぞ。部活は午後からだからさ」
「いや、俺が気にしてるのはそこじゃなくて」
 訊きたいことは他にある。しかし俺の言葉を無視するように、
「それで、晴人は東雲先輩に、戻ってきてほしくないのか?」
 なんて問うてくる。
 さっき部室で言った依頼内容――俺に部長のことを諦めてほしい。そのための問いであることはわかる。だからといって、いきなりすぎる。
「その前に説明して――」
「いいから答えて」
 遮るは夕月。誤魔化すことは許さない、とでも言うように。
 だが、俺の答えは変わらない。
「……部活をやめるのは個人の自由だ。俺がどうこう言うことじゃないよ」
 こんなのは建前の正論でしかないことは、わかっていた。だが、今の俺――部長の事情を知ってしまった俺は、やっぱり彼女に会う意味も、かける言葉を見いだせない。
「そうか……」
 俺の答えに、昴は小さくつぶやく。今ので理解してくれたはずだ。だからこれ以上、不毛なことはやめよう、そう言おうとしたとき、
「それでも晴人にはきっぱり諦めてもらうぜ」
 こちらをまっすぐ見据えて、言う。
「なんで」
「でないと、俺も想いを伝えられないからな」
「昴……?」
「俺は、東雲先輩のことが好きなんだ」
 少しの澱みもなく、告げてくる。己の気持ちを。
 知らなかった。まさか昴が、部長に恋心を抱いていたなんて。
「本当、なのか?」
「わざわざ呼び出しておいて、嘘なんか言うわけないって」
「……いつから?」
「はっきり自覚したのは、この間の遊園地かな。そこで俺は気づいたんだ。あの人が……好きだってな」
 少し照れ臭そうに言う。
「東雲先輩がどうして天文部をやめたのかは知らないけど、俺は向き合う。どんな理由だとしても、東雲先輩がどんな人だとしてもな」
 声は決して大きくないが、決意がこもっている。誰にも曲げさせはしないという、信念を感じた。
「だから、晴人にはちゃんと諦めてもらわないと、俺が困るんだよ」
 ようやく、昴が言いたいことが理解できた。
 自分が気持ちを伝えるためにも、俺には完全に部長のことを諦めてほしいのだ、と。
「……どうやって?」
「勝負をしようぜ」
 言って、顔を横に向ける。
 そこには、石灰で引かれた直線――普段陸上部が短距離走を練習していると思しきレーンがあった。
「今から百メートル走をする。それで……負けた方が東雲先輩のことを諦める」
 俺は気づいた。昴が勝負の方法として、陸上部が断然有利な短距離走を選んだ理由を。
 俺に、どうあっても諦めさせたいのだ。そして、俺が負けても仕方ないと思える方法を、選択したのだ。
「もういいって思ってるなら、別に断る理由もないだろ?」
 有無を言わさない真剣な表情で、訊いてくる。
 ここまで決意を固めた友人に、今さら上っ面の言葉や理屈は必要ない。それは、『諦め屋』としての依頼かどうかなんて、関係ない。
 だから、俺は静かに首肯する。
「……わかった」


 スタートラインに、俺と昴、二人が並ぶ。ゴールである百メートル先には、夕月の姿。手には白い旗が握られている。俺も昴も制服のまま。グラウンドに制服でいるのは、なんだか不思議な感覚だった。
「星宮が旗を振り上げたらスタートだ」
「わかった」
「それと、勝負は一回。いいよな?」
「ああ」
 昴のルール説明に、俺は頷く。
「言っとくけど、手は抜くなよ」
「わかってるよ」
 いくら勝ち目のない勝負とわかっていても、手を抜くわけにはいかない。それは、真剣に部長への想いを抱いている昴への、侮辱となる。
「いつでもオッケーだぞー」
 夕月の方に向かって、昴が手を振って返す。それから、俺たちはスタートの姿勢をとる。その姿を確認した夕月が、旗を足元まで下げるのが見えた。
 あと一分と経たないうちに、勝負は決まる。揺れていた俺の心を、決心させてくれる。諦めさせてくれる。そう思うと、鼓動は早鐘を打ち、舌はみるみるうちに乾いていった。
 いや、難しく考える必要なんかなにもない。陸上部の昴相手の勝負なんだ。いくら俺が小学生の頃にクラスのリレー代表に選ばれるくらい足が速かったとはいえ、やる前から結果は決している。
 俺はただ、全力で走ればいいだけ。
 一つひとつ、頭の中を整理する。
「よーい……」
 夕月の声が聞こえてくる。身体を包む空気が、ゆっくりと流れていく。
 時間が引き延ばされてしまったかのような錯覚。
 そして。

 旗が――振りあがった。
 同時に、走り出す。地面を勢いよく蹴る音が聞こえる。無論、隣を見ている余裕などあるはずもない。
 が、すぐに昴の身体が視界に映る。それはつまり、いきなり身体一つ分の差を開けられたということだ。
 離されまいと、必死に地面を蹴り、足を前に出す。だが、その差は一向に縮まらない。
『生きることは、諦めることの連続よ』
 ずっと前に聞いた部長の言葉が、蘇る。あの時は否定したけど、今ならその言葉の意味が、真意が、わかるかもしれない。
 これは俺への罰だ。
 調子よく、なにも考えずに、部長のことを考えずに、諦めるのはよくないと言い続けてきた、俺への。
 だったら、甘んじて受け入れるしかない。
 ――諦めるしか、ない。

「バッカヤロ―――ッ!」

 目が覚めるような声で、思考はかき消された。顔を上げる。そこで俺は、自分がうつむきながら走っていることに気がついた。
「諦めないんじゃなかったのかよ!」
 力の限り叫ぶ夕月の姿が、目に映る。胸をぎゅっと抱きしめ、想いを吐き出している。
 そしてもう一度、彼女は叫んだ。

「そんなハルが私は……好きなんだ―――っ!」
 瞬間、あふれ出してくる。
 東雲とばりのいろんな表情が。
 話した言葉が。過ごした時間が。

 俺は。
 俺は……。
 やっぱり……諦めきれない!
 走る。走る。走る。地面を蹴って。腕を大きく振って。筋肉の限界なんて疾うに迎えているはずなのに、そんなのは知るかと神経を通じて命令を下す。
 走れ。追いつけ。走れ。追いつけ。
 俺が土壇場で息を吹き返して追い上げてきたことに焦ったのか、昴との差は徐々に縮まっていく。
 だが同時に、ゴールまでの距離もあとわずか。追いつくのが先か。昴にゴールされてしまうのが先か。
 ゴールまで……あと五メートル……一メートル、五十センチ……。
 あと少し。あと少しなんだ。
 諦められない。諦めたくない。
 念じるように、頭の中はその気持ちでいっぱいになる。目の前がチカチカ光る。
 そして視界から昴の身体が消えた瞬間。
 俺は、ゴールラインを越えた。

 ゴールしたまではよかったが、直後俺は転んで地面に倒れこんでいた。
「はあっ……はあっ……」
 呼吸がおかしい。まるで水中にいるみたいに、空気を肺に取り入れられない。身体もうまく動かせない。
 勝負は――どうなった?
 最後の方は一心不乱に前しか見ていなかった。
 考えようとするけど、酸素不足で脳まで行き渡らない。
 意識が遠くのいていきそうだ。なんて思っていると、
「俺の負けだよ」
 太陽を隠すように昴が俺の前に立ち、手を差し伸べてきた。多少息は上がっているものの、呼吸の乱れ具合は俺とはまるで違う。
「昴。お前……」
 手加減したのか、と訊こうとしたところで、
「全力だったよ」
 考えを読んだみたいに答えてくる。
「嘘じゃない。全力で走ったよ」
「そうは言ったって……」
 俺みたいなやつが陸上部に走って勝てるわけない。文化部で体育の授業くらいしかまともに運動していない俺が、手加減でもされなきゃ勝てる道理はない。
「そっか、晴人には言ってなかったっけ」
 昴は頬をかきながら、
「俺、専門は走り高跳びなんだよ」
「え?」
「だから速く走るのは専門外……っていうか正直そんなに得意じゃないな」
「なんだよそれ」
 ってことは、最初から勘違いしていたのか。まったく勝ち目のない勝負を俺にさせることで潔く諦めさせようとしているわけじゃなかったのか。
「あ、言っとくけど、東雲先輩が気になるっていうのも本当だからな?」
 念押しする昴の頬が少しだけ赤いのを見れば、それも嘘ではないことはわかる。
「そうかよ」
 言って俺は昴の手を取り、立ち上がる。身体が軋んだままだが、呼吸はだいぶ落ち着いた。
「ばーか」
「夕月」
 いつの間にか近くに立っている幼なじみ。
「ばーか」
 投げ捨てるようにもう一度、言う。たった一言、だけど、そこにはたくさんの意味が込められているような気がした。
「ごめん」
 だから、俺はこんな返し方しかできなかった。
「いいよ別に」
「でも、ごめん」
 俺を昴と勝負させたこと。その結果がどうなるのか、夕月はわかっていたはずだ。自分にとって現実であることも。
「いいってば」
「私は、諦めないだけだもん」
 そう言ってくれる彼女に、俺は救われた気がした。
「それで、どうなの?」
 夕月は訊いてくる。「何が」というのは訊くまでもない。
「ああ」
 俺が気づいたもの。俺の、本当の気持ち。
「俺は、あの人のことが――」