東雲とばりは諦める

 東雲とばりの家は、学校とは駅を挟んで反対側にあるアパートの一室だった。
 一度家に帰って簡単に昼食をすませたので、時刻は午後一時を少し過ぎたころ。太陽は南の空の中心に鎮座し、街中を燦々と照らしている。
「ここ、か……」
 駅から南下すること十五分、大通りから少し離れたところに、そのアパートはあった。
 築年数が浅いのだろう、外観を見る限り汚れのようなものはほとんど見当たらず、ちょっとした高級感を漂わせていた。少しだけ緊張しながら、敷地内に足を踏み入れる。
 金属製の階段をスニーカーでカンカンと踏みながら、三階――最上階の一番奥の部屋へ。三〇三号室のプレートの下には無機質なゴシック体で「東雲」と書かれていた。
 勢いでここまで来たけど、冷静になって考えたら女の子の家に突然押しかけるなんて、一歩間違えば通報ものだ。
 だけど、ここまできたんだ。部長と、ちゃんと会って話をしないと。
 深呼吸を大きく一度する。それから、インターホンを押した。
『……はい?』
 女性の声が、スピーカーから聞こえてくる――が、それは部長のものとは少し違って大人びたものだった。てっきり部長が出ると勝手に思っていたので、俺は面食らう。
「えっと、その、宵山っていいます。部ちょ……とばりさんとは同じ学校の部活で」
『あら、とばりの? ちょっと待っててね』
 たどたどしい自己紹介を聞くや否や、スピーカーの声のトーンが上がる。かと思えば、扉の向こうから控えめな足音が聞こえてきて、ドアが開かれた。
「こんにちは」
 そう言って迎えてくれたのは、部長によく似た女性だった。おそらく母親、だろう。部長よりも少し長い黒髪、年相応の苦労を感じさせる皺。それ以外に部長と違うところがあるとすれば、部長よりも物腰が柔らかそうなところだった。
「すみません突然」
「いいのいいの、気にしないで」
「えっと……とばりさん、今日学校を休んでるみたいなので、その、お見舞いに、来たんですけど……」
 俺はあらかじめ用意していた台詞を口にする。なんだか高校に入ってから嘘をつくのがうまくなったような気がした。間違いなく彼女の影響だろう。
 すると、不思議そうに目を丸くして、
「お見舞い? 変ねえ、あの子、今日も普通に学校に行ったわよ?」
「え?」
 どういうことだ? つまりは、サボりってことだろうか。
 いまいち状況が理解できない俺とは対照的に、部長の母親は合点がいったようで、
「そう、『また』なのね……」
「え?」
「宵山くんっていったかしら? せっかくきてくれたんだもの、よかったら上がっていってちょうだい。あの子の学校での話、聞かせてもらえないかしら」
「えっと……はい」
 誘われるがままに、俺は東雲家の敷居をまたいだ。瞬間、鼻の奥がくすぐったくなる。嗅いだことのない香り――よその家の香り。
 脇に和室がのぞかせる廊下を通り、奥のリビングへと足を踏み入れる。照明をぼんやりと反射する白い壁に、フローリングの床はきれいに磨かれている。整理されている、というより物自体が少ないように思えた。
 促され、リビング中央のソファに腰を下ろす。スプリングが、俺の体重をゆっくりと反発させてくる。
「はい、どうぞ」
 言って、お茶の入ったグラスをテーブルに置いてくれる。「ありがとうございます」と会釈している間に、部長の母親はテーブルを挟んで対面にあるソファに腰掛けた。
「あの子、部活なんかしてたのね」
 最初、つぶやくように漏らしたのはそんな言葉だった。それはつまり、この人は部長が天文部に――部活をやっていたことを知らなかったことを意味する。
「あらためまして、私は東雲茜(あかね)。あの子の母親よ」
「宵山晴人、です。部長とは同じ部活……部活っていうのは天文部で。あと、ひとつ下の一年生です」
「そう、天文部……」
 頷く部長の母親――茜さんはどこかうれしそうに、寂しそうに、口元を緩めた。
「部長、って呼んでるってことは」
「はい。と言っても今の部員は部長と俺ともう一人の三人だけなんですけど」
 つい先日退部届を出してきたばかりです、というのは言わないでおく。
「あの子、ちゃんと部活動はやれてるかしら? けっこう頑固なところあるから」
「それはまあ……はい」
 天文に関する知識とかは皆無ですけど。なんてことは言わないでおく。
「でも一生懸命だと思います」
 天文部の活動ではなく『諦め屋』のことを思い出しながら答えた。部長が『諦め屋』の活動に対して真剣で、正面から向き合っているというのはたぶん、嘘ではない。
「……」
 俺の答えがよほど予想外だったのか、茜さんは再び目を丸くした。その様子につられて、俺も硬直してしまう。
「あ、あの?」
 じっと見つめられて、しかも部長に似ていることもあって、少しドキッとしてしまう。しかし、俺の動揺にはまったく気づいていない様子のまま、茜さんはまるで内緒話でもするかのような小さな声で、
「ねえ。間違ってたら悪いんだけど……宵山くんって、あの子の彼氏、とか?」
「えっ……は、はい!?」
 思わず持っていたグラスを取り落としそうになりながら、俺はのけ反る。が、背中に当たったソファがそうはさせまいと、力を跳ね返してきた。
「いや、俺と部長はそんなんじゃなくて、ただの先輩後輩ですから!」
 思わず声が大きくなる。と、茜さんはくすくす笑った。
「ごめんなさい、あの子の友だち、それも男の子が家に来るなんて今までなかったから、ちょっとうれしくて」
「は、はあ」
「そうよね。彼女の両親にあいさつなんて、ハードルが高いものね」
「ぶっ」
 今度はお茶を吹きそうになる。この人をからかう感じ、母娘なんだなと実感させられる。
「ま、まあ部長はあんまり友だちとか家に呼んで遊ぶかんじには見えませんしね」
「でも以前のあの子は、時々友だちを家に連れてきたりしてたのよ?」
「え?」
 俺の知らない部長の一面を聞かされて、戸惑う。茜さんがグラスに口をつけると、氷が軽快な音を立てた。
「いろんなことに積極的で、勉強も運動も力の限り取り組む……そんな子だったわ。どんなにきつくても、諦めたり投げ出したりはしなかった」
 知らない、というより真逆に近かった。普段の姿からは想像もつかない。
 それよりも引っかかったのは、茜さんの語尾だった。
 先ほどから部長を語る言葉が、すべて過去形だなのだ。
「もう一年も前のことになるわね」
 俺が訊こうとする前に、茜さんは語り始める。その目線は、俺ではなく俺の背中の先に注がれていた。振り返らずとも、俺には彼女が何を見ているのか、察することができた。
 リビングに通されて、座る前に目に入ったもの。和室の奥。
 仏壇。
「あの子には、弟がいたの」
 ぽつぽつと、茜さんが語り始める。俺はそれを、黙って聞く。
 口をはさむ余地などない。はさめるはずなどない。視線の先にある仏壇。「いた」という言い回し。どんなバカでもここから先は想像がつく。
 茜さんの話を要約すれば、こうだった。

 部長には一つ年下の弟がいて。
 名は、東雲爽也(そうや)といって。
 喧嘩することもあったけど仲の良い姉弟で。
 部長と同じ高校を目指して受験勉強をがんばっていて。
 約一年前、中学三年修学旅行の時に――バス事故の犠牲になった。

 茜さんはありのままの事実だとして、滔々と語る。
「正確には今でも『行方不明者扱い』なのよ」
 ニュースでも大きく報じられていたし、当時は受験勉強の一環で新聞をよく読んだりしていたので、俺も記憶している。たしか行方不明者は、中学生二人だったはず。そのうちの一人が、部長の弟ということになる。
「捜索も、もう打ち切られてしまったけれど」
 山間部で起こったバス転落事故として大々的に捜索活動が行われていたことは、連日報道されていたので知っている。が、月日が経過するにつれてニュースに取り上げられる機会は減っていった。なので、捜索が打ち切られていたのも初耳だ。
「警察も地元の人も、全力で捜してくれた。その結果だもの……私も、夫も、受け入れるしかなかった。……けど、あの子は違ったわ」
 茜さんは目を細める。視線の先に、当時の部長の姿を見ているようだった。
「弟はまだ生きてるはずだって、捜せばきっと見つかるのにどうしてって、家に説明に来た警察の人に食ってかかってた。警察が捜さないのなら私が行くってきかなかったのを、なんとかして止めて」
 想像もできなかった。少なくとも、俺の知る部長は何かに対して取り乱したりするような人物ではなかった。
「あの子に何度も言われたわ。……どうして諦めるんだって。家族が諦めたら弟はどうすればいいんだって。
 でも、もう受け入れるしかなかった。私も夫も、もう大人だもの。どんなに辛くても、駄々をこね続けるわけにはいかない。大勢で捜してどうにもならかったことを、私や家族数人でどうにかできるわけがない。そう言い聞かせてきたわ」
 そこまで言って、茜さんはグラスのお茶を飲み干した。残った氷と、グラスにはりついた水滴がいやに輝いて見えた。
「それから、あの子とはほとんど話さないようになったわ。以前と違って、勉強とか、いろんなことをがんばる様子も、なくなった。……今日みたいに黙って学校に行かないようになったり」
「…………」
 俺はただ、黙ってそれを聞いていた。聞くしかなかった。行き場をなくした両手は、ずっとグラスを握りしめていた。
 グラスに入った氷は、すっかり溶けきっていた。


 東雲家での滞在時間は一時間半ほどだった。玄関先へと出ると、来たときとは違って日影になっている。けれど、むせ返るような暑さは相変わらずだった。
「いいの? もうちょっとしたらたぶんあの子も帰ってくると思うけど」
「いえ、大丈夫です。突然うかがったのに、そんなに遅くまでお邪魔するわけにはいきませんから」
 それに、これ以上俺がここにいても仕方ない。さっきの話を聞いて、俺はそう結論づけていた。
「あの……ひとつだけ、いいですか?」
「なにかしら?」
「どうしてその……弟さんの話を、俺に?」
 いくら部長と同じ部活だと言ったところで、茜さんとは初対面。どこの馬の骨ともわからない俺にこんな話をする理由は見当たらない。
「そうね……」
 茜さんはあごに指を当てて、考える仕草をする。その姿は、部長によく似ていた。
「あなたが、あの子のことを大切に思ってくれているから、かしら?」
「俺が、ですか?」
「ええ」
 柔らかい笑みが向けられる。
 大切に思ってる? 俺が? 部長を?
「えっと、茜さん」
「どうしてそう言えるのかって顔ね。そんなの、あなたを見ていればわかるもの。それに、あの子のことも」
 そこまで言うと、茜さんの笑みが少しだけ変わる。少しだけ、寂しいものに。
「こんなこと言ったら母親失格かもしれないけど……あの子のこと、よろしくね」
「え?」
「きっと今、あの子に言葉が届くとしたら、あなたの言葉だと思うの。私や、他の誰でもなくて」
「俺の……」
 言葉が、届く。
「ちゃんとあの子と話せたら、またいらっしゃい。今度はちゃんとおもてなしできるようにするから」
「……がんばって、みます」
 そう答えることしかできずに、東雲家を後にした。
 気がつけば夕立が来ようとしているのか、空は灰色に染まっていて。分厚い雲が世界中を覆っているみたいだった。