東雲とばりは諦める

 夏の日差しが、容赦なく降り注いでいた。
 目を細め、手をかざす。世界の果てまでこの晴れ空が続いているんじゃないか、なんて幻想を抱きながら――
 俺は、屋上に立っていた。
「あっつ……」
 まさにうだるような暑さ。コンクリートの床が太陽光を反射するせいもあるけど、それだけではないような気がするのは、きっとここが町で最も太陽に近い場所だからだろう。
 屋上に来るのは、あの夜以来だった。あの時は暗くて気がつかなかったけど、こんなにも広かったのか、なんてのっぺりとした灰色の床を見て思う。
 あの夜と違うところがあるとすれば、この場に立っているのが俺だけだということだろう。目線の先に、かつて見た女の子の姿はない。
「ハルー」
 屋上の扉が開いて、ひょっこりと女の子が顔を覗かせた。夕月だ。
「ゴミ袋もらってきたよー」
「ああ、悪いな」
「うわっ、暑っ! ハルってばよくこんなところにずっといれたね」
 俺にゴミ袋を渡すや否や、すぐさま影になっている扉の近くに身体を引っ込めた。
「日焼け止め塗ってきて正解だよー」
 ちょっとでも暑さを和らげようとしているのだろう、制服はいつもにも増して着崩していて、首元の肌色面積が大きい。少しだけ目のやり場に困る。
「にしても、天文部って意外と大変なんだねー。屋上の掃除しなくちゃだなんて」
「他に使う部がないからな」
 俺はついさっきまで使っていた竹ほうきを床に置いた。
 屋上を使えるのは天文部が天体観測をする時だけ。となれば水泳部がプールを掃除するように、運動部がグラウンドを整備するように、天文部が屋上の掃除を行うのが通例になっている――そう七海先生から聞き、俺たちはこうして掃除に勤しんでいる。
「でも、いいよねこの場所。この季節はちょっとアレだけど、いい感じに風も吹くし、なにより眺めが最高だよ」
 俺が集めた落ち葉やゴミを袋に詰めながら、夕月は言う。
「こんなにいい眺めなら、他の生徒にも使わせてくれてもいいのになー」
「危ないからじゃないのか。ほら、柵だって古くて背も低いし」
 屋上と空とを隔てる境界線はいかにも脆そうだった。それ以前に、立ち入り禁止だと思ってる生徒がほとんどだろう。
「それに、お前はもう『他の生徒』じゃないだろ?」
 数日前に出した入部届をもって、彼女は晴れて天文部員となった。もう「部外者」ではないのだ。だからこうして、屋上の掃除を手伝ってもらっているだが。
「あはは、そうだったね」
「今日は陸上部いいのか? いや手伝ってもらっておいて今さらなんだけど」
「いいのいいのー。今日の練習は午後からだから」
「ならいいんだけどさ」
 今日は終業式と簡単なホームルームだけだったので、まだ午前中だがすでに放課後だ。
「後は片付けくらいだけだし、俺がやっとくぞ」
「いやいや、あとちょっとなら私もやるよ」
「馬鹿、お前は昼も外で練習なんだろ?」
 これからがっつり部活だというのなら、こんな炎天下の中、これ以上手伝わせて体力を消耗させるわけにもいくまい。
「バカはそっちだよ」
 ゴミ袋を一度床に置いて、こちらへと歩いてきた。……拗ねてる?
 夕月は俺の真ん前で止まり、顔を覗き込んでくる。真上からの太陽光でできた二人の影が繋がり、ひょうたんみたいな形になった。
「前にも言ったでしょ? なんで私が天文部に入ったのか」
「そりゃ、まあ」
『私はがんばることを諦めない。私はハルと一緒にいたいって思うの』
 入部届と一緒にもらった言葉。夕月の気持ち。忘れるはずもない。
「天文部に入ったのも、ここでこうしてるのも、私がやりたいからやってるの。そりゃー陸上だって好きだけど……好きな人といる時間も、大事にしたいの」
 なんて言うと、夕月は勝ち気に笑って、
「諦めないって、決めたしね」
「あ、ああ」
 あまりに臆面もなく、ストレートに言ってくるので、俺は詰まった返事しかできない。ずっと見てきた幼なじみの顔のはずなのに、あの日以来、少し違って見えてしまう。派手すぎない化粧。大きな目。赤みを帯びた頬。
「ちょ、ちょっと、照れないでよ。私も恥ずかしいじゃん」
「言い出したのはそっちだろ」
 俺は右を向いて目線を逸らす。
 こんな風に面と向かって好意を向けられるのは初めてなのだ。どうするのが正解なのか、よくわからない。
「むー」
 何に納得がいかないのか、唸る夕月。かと思えば、
「あっち向いてほい」
「え?」
 瞬間、彼女の指先と、俺が向く方向が重なった。
「はーい、ハルの負けー。ジュースおごりねー」
「ちょ、おい! そんなのナシだろ」
「もうダメでーす。私、先にゴミ片付けに行ってるからー」
 くるんとターンしてゴミ袋を掴むと、扉から校舎内の影へと身体を滑り込ませる。
「オレンジジュースよろしくね。はー喉渇いたー」
 たんたんたん。聞こえてくるのはリズムのよい階段を駆け下りる音だけだったが、彼女が上機嫌であることを悟らせるには十分だ。
「……ったく」
 とんでもない新入部員がきたもんだ。
 俺は汗で濡れた頭を掻くと、掃除道具を片付けて屋上を後にした。


 ゴミ袋を集積所に持っていった後、俺たちは部室へと戻った。
「屋上もだけど、ここもかなり暑いな」
 言葉にしてしまえば同じ『暑い』だが、中身は全く別物のように思えた。屋上は刺さるような太陽光が、ここは滞留した熱気が、それぞれ襲いかかってくる。俺は自分用に買ったお茶を飲みながら、部室の窓を全開にする。
「そういえば、天体観測はいつやるの?」
 夕月も窓際――俺の隣までやってきて訊いてくる。
「そうだなあ」
 俺は要領を得ない答えしか返せなかった。言うまでもなく、ここ最近は『諦め屋』の方ばかりに注力してしまっていたので、天体観測の計画は全然練り上がっていない。
「とりあえず、日付だけでも先に決めておくか。夕月はいつならいいんだ?」
「んー、いつでもいいよ?」
「いやいや、部活とか友だちとの約束とかあるだろ」
「だいじょうぶだもん。それより優先するような用事、ないから」
「まあお前がそう言うなら……」
 後で陸上部の先輩とか友だちに怒られても俺は知らないぞ?
「てか、お前そんなに天体観測したかったのか?」
「いや別にそこまでじゃないんだけどー」
「けど?」
「夜の学校って、なんかテンション上がるから?」
「あのなあ……」
 俺の呆れ声をかわすかのように、夕月は窓に身体を預け、外を向く。
「でもさ」
「ん?」
「せっかくハルと同じ部活に入ったんだもん。ハルが好きなもののこと、知りたいって思うじゃん? 好きな人が見てるものを自分も見たいって……思うんだよ」
「お、おう」
 外を向いたまま言うものから、表情はわからない。だけど、耳が真っ赤になってるのは俺の位置からでも見えた。つられて、俺も顔が上気するのがわかる。
「なあ夕月」
「なあに?」
「前から聞きたかったんだけど……なんで俺、なんだ?」
 どうして夕月が俺なんかを好きになってくれたのか。一見すると思い上がりも甚だしい質問かもしれないが、その理由が俺にはわからなかった。
「俺って別に運動も勉強もできる方じゃないだろ? それにその……イケメンってわけでもないし」
 たしかに幼なじみで付き合いが長いということはあるが、それだけだ。
「ぷっ」
「な、なんだよ」
 一応、まじめな話をしてるつもりなのに。
「イ、イケメンなんて言うから。くふふ……ハルがイケメンなわけないじゃん」
「お前な」
 言い出したのはたしかに俺だが、笑われるとなんか腹立つな。
「イケメンとか、頭いいとか……そんなんじゃないよ」
 そして聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで、ぽつりと言った。
「陸上の……大会」
「え?」
「ハル、いつも来てくれてたじゃん、陸上の大会に。それで、いつも応援、してくれてたじゃん」
「あ、ああ」
 中学から陸上を始めた夕月。たしかに大会は見に行っていた。夕月が『ちゃんと見にこい』なんて言ってくるのもあったけど、それだけじゃなかった。俺のリレーの件があって以降、まるで俺の分までと言わんばかりに走ることを始めた夕月を応援したい。そんな気持ちが心のどこかにあった。
「……それで?」
「うん」
「……それだけ、か?」
「な、なによ……悪い?」
「い、いや悪いってことはないけど」
「わ、わかってるもん。ちっぽけなことだってくらい……でも」
 ぐいっ!
「好きになっちゃったものはしょーがないじゃん!」
 夕月が勢いよくこちらを向いた。
 瞬間、お互いの顔が至近距離で向かい合う。
「あ……」
「え……っと」
 呼吸を、鼓動すらも感じ取れそうなほどの距離。俺の視界には夕月しか映っていない。つまりは、彼女にも俺しか見えていない。
 言葉がなくなる。喉がつっかえて、何も出てこない。お互い汗をかいているはずなのに、感じるのは夕月の、女の子の甘い香り。
「ハル」
 宝石みたいに潤んでいる瞳。紅潮した頬。……柔らかな唇。
 目が離せない。吸い寄せられそうになる、その先に、
「あ、あのー」
「!」
 扉の外から、申し訳なさそうな声。覗き込むように立っていたのは、背の低い女子生徒だった。赤い縁の眼鏡に、三つ編みのおさげ。首元のリボンが青いから、俺たちと同じ一年生。だけど、知らない顔だった。
 女子生徒はやや硬直した状態のまま、言葉を濁している。
「えっと、その……」
「あっ! すみません! なんでもないですよ!」
「そ、そうそう! 私たちなにもしてないから!」
 何に対する弁明かもよくわからないまま、慌てふためく俺と夕月。
「いっ、いえこちらこそごめんなさい。突然やって来て」
 伝染したみたいに相手もあたふたし始めたので、俺は少し冷静さを取り戻すことができた。
「ええと、それで……何か用ですか?」
「あの……ここって『諦め屋』で合ってますか?」
「あ……」
 瞬間、俺の心は冷静さを通り越して、冷える。額に氷を直接当てられたみたいに。
 何と答えるべきか、瞬時にいろんなことが頭の中を駆け巡る。でもそのどれもが、しっくりこなかった。
 だから、純粋な事実だけをただ、告げた。
「すみません。『諦め屋』はもう、やってないんです」
「そうなんですか?」
「はい。だからせっかく来てもらって申し訳ないけど……」
 そこまで言うと、女子生徒は残念そうに眉を下げて、
「わ、わかりました。突然来て、すみません」
 お辞儀をして、去っていく。遠のいていく足音。
「ハル」
 隣に立つ幼なじみが俺を呼ぶ。
「私、今日はもう行くね」
「そう、だな。陸上部、がんばれよ」
「うん……ありがと」
 夕月が部室から出ていく。残されたのは、俺ただひとり。
 視界に映るのは、空きスペースの目立つ本棚。つい数日前までは、文庫本で埋め尽くされていたその場所には、今は何もない。
『諦め屋』は、もうない。これこそ、俺の望んだ天文部のあるべき姿。
「……これで、いいんだよな」
 問いかける。けれど俺の問いは熱のこもった空気に溶けて、周囲にべったりとまとわりついたままだった。