東雲とばりは諦める

 テスト休みが明けると、授業は午前中だけになった。
 終業式までまだ日数はあるものの、気分はもう夏休みといった感じで、教室の雰囲気はどこか浮き足立っている。授業中も教師の言葉に真剣に耳を傾けたり、ノートをとったりしている人は少ない。かくいう俺も、授業にはまったく身が入っていなかった。
 その理由はまったく別のところにあったのだが。
 授業が終わればホームルームもそこそこに、何人かのクラスメイトは教室の外へと駆けだしていく。テスト休みの延長線というべきか、夏休みの前哨戦というべきか。彼らにとってはどちらでもいいんだろう。
 そんな人をよそに、俺は部室へと足を運んでいた。テスト期間、それにテスト休みも部活は休みだったので、久しぶりの部活動だ。
「ふう……」
 全開にした窓に腕を乗せ、少しだけ身を乗り出す。部室の中は熱気がこもっていて、外の空気にでも触れていないとあっという間に茹で上がってしまいそうなほどだ。
 扇風機をフル稼働させているものの、いかんせんオンボロで力がない。届けてくれるのは涼しさの欠片もない熱風。外の空気の方がよっぽど涼しい。欲を言えばクーラーを設置してほしいところだけど、うちみたいな廃部寸前の部にお金をかけるほど、学校に経済的余裕はないだろう。
 顔を外に出せば、微かな風が額を撫でる。そんな風に乗って、セミのけたたましい合唱が耳を打ち付ける。時折グラウンドから運動部のかけ声が聞こえてきた。
「何しようかな」
 することが思い浮かばなかった。本来なら夏休みの天体観測に向けていろいろと準備を進めるべきところなんだろうが、どうせまた依頼人がやってくる。そうなったら『諦め屋』の活動に付き合わされることになるんだ。
 依頼。
 そこまで考えて、数日前の出来事を思い浮かぶ。いや、本当はずっと、心の片隅にいた。
 遊園地でのダブルデート。……それから、夜のパレードでの、夕月の告白。
 記憶は鮮明に残っている。イルミネーションと花火の光で脳に焼き付けられたみたいに。震える唇。変に力の入った拳。うるんだ瞳。赤く染まった頬に、俺のことをまっすぐ見ていた、彼女の顔。
 だが俺は夕月の告白を、断った。
 あの場で、結果的に諦めさせることになった。俺自身が彼女の依頼を解決する形となった。
 依頼してきた時には、諦めてほしくないなんて考えていたくせに。
 なのに、どうして断ったのか。その理由を、俺はなんとなくわかっている。けれど、
「なんにせよ、もうここには来ないかもな」
 色々考えを巡らせても、推測を重ねても、それだけは確実だろう。振られた相手のいる部にのこのこやってくるほど、夕月も無神経ではあるまい。
 窓枠に背中を預けて部室の扉を向く。脳裏に浮かぶのは、今後見ることはないであろう、勢いよく扉が開かれる光景。同時に、元気いっぱいで声がするのだ。
「やっほー! ハル、いるー?」
 そう、こんな風に。
 って。
「え……?」
 目が点になる、とはこのことかと納得できるほど、俺は入口に立つ女の子に釘づけになっていた。健康的に日焼けした肌に、きれいにまとめられたポニーテール。そして着崩した制服。見間違えようがない。星宮夕月だ。数日前に告白してきて、俺が断った幼なじみ。
「お前……なんで」
「えへへー。きちゃった」
 なんて言って、はにかんだ笑顔を見せる。見慣れた表情。いや、いつもよりも頬が赤い。きっと気のせいではない。
「ごめんね」
 そんな笑顔のまま、目じりを下げて口にするのは、謝罪。
「この間は、ごめん」
「いや、お前が謝る必要なんて……」
「急にあんなこと言われても、困るよね。依頼したときに午塚のことが好きだって言ってたのに」
 少しだけ目を伏せると、夕月は続ける。
「実はね、とばり先輩には言ってたんだ。ほんとのこと」
「え?」
 本当のことって。
「私が午塚じゃなくてハルを好きで……それを諦める手伝いをしてほしいってことも」
「じゃあ依頼に来たときにはもう」
「うん……」
 夕月は首肯する。
「とばり先輩に話してたの。諦めるために、デートして、そのあと告白したいって。そしたら、ハルは勘がいいからうまくいかないかもしれないって……だったら、私が午塚を好きってことにして、それを手伝ってもらうことにしようって」
 すべては部長の仕組んだとおり、ってことか。だがその作戦には、もう一人の協力者が必要不可欠だ。
「昴にも、話したのか?」
「うん、私がハルに告白するから協力してほしい、って」
 となるとおそらく、お化け屋敷のペア決めも予定どおりだったのだろう。俺はまんまと部長たちの作戦にのっかかってしまったというわけだ。
「ごめんね」
「いや、夕月が謝ることはないだろ」
 やり方はどうあれ、最終的に夕月は告白をした。自分の気持ちを、きちんと俺にぶつけてきたのだ。
「俺のことを好きだって言ってくれたのは……素直にうれしかった」
 驚きもしたけど、やっぱりうれしかった
 だったら、俺も真正面から返さないといけない。
「けど、今の俺にとってお前は……幼なじみなんだ」
 大切な、幼なじみで、友だち。
 もちろん、これからのことはわからない。俺が夕月のことを好きになる未来が、あるのかもしれない。お互いをきちんと知るために、まずは彼女の気持ちを受け入れるという選択肢もあるのかもしれない。
 だけど、考えてしまう。受け入れる、ということは。
 ただ傷つけたくないからじゃいのか?
 ただの同情じゃないのか?
 諦めという結末にしたくない、からじゃないのか?
 そんな風に考えてしまう。
 しかし言ってしまえば、これは単なるエゴでしかない。
 結局のところ俺は夕月の気持ちを、夕月のことを、見れていないのだ。
「だから……ごめん」
 パレードのときと同じ答えを伝えて、俺は目線をそらす。目の前に立っている女の子のことを、見ることができないでいる。
「ばーか」
「は……え?」
 返ってきたのは、そんな言葉。思わず俺は夕月の方を向く。
「知ってるよ」
 笑っていた。得意げに、困ったように。少し、悲し気に。
「ハルが私のこと女の子として見てないことくらい、わかってるもん」
 何年近くにいると思ってるの、なんて言う。
 今気持ちを伝えたところで成功しないことなど理解している。そのうえで、
「それでも好きなの。好きっていう私の気持ちは……誤魔化せなかった」
 だったら今は、きちんと自分の気持ちを割り切るしかない。そう言って。
「だから諦めようと思ったの……ちゃんと告白して」
 だからとばり先輩のところに、『諦め屋』に来たの。と。
「夕月……」
 何も言えない。いや、何を言ったところで、俺からの言葉は慰めにもならない。どんな綺麗な言葉を並べたところで、チープな単語の羅列に成り下がる。
 窓から風が入り込み、俺の背中、そして夕月の頬を撫でる。ゆらゆらと髪が揺れる。
「あああー! もおー!」
「なっ」
 突然の叫びにも似た声に、俺は驚く。
「やっぱ無理!」
「む、無理?」
「諦めるなんて、やっぱ無理だよ!」
 宣言するようなその言葉は、とても力がこもっていた。
「だって好きだもん! ハルのこと、ずっと好きだったんだもん!」
 全力投球、ど真ん中ストレートのように、胸へと届いてくる。
「告白して……ハルに断られて、気づいたんだ。私のこの気持ちって、そんな簡単に抑えられるものじゃないんだって。諦めきれるものじゃないんだって」
 そこまで言うと、再び夕月は笑う。
「困ったねーほんと、あはは」
「夕月、俺は」
「わかってるって」
 俺の言葉を遮る。
「今のハルの気持ちはわかってる。だからこれは私の、私が、がんばることなの」
 夕月は一歩、また一歩と俺の方へ近づいてくる。
「ハル、前に言ったじゃん? 好きな人はいないって」
「あ、ああ」
「だったら、まだ私にもチャンスはあるってことでしょ?」
 にやりと笑う。その表情は、いつもの夕月のそれだ。
「私はがんばることを諦めない。私はハルと一緒にいたいって思うの。だからね」
 そこで区切って、夕月はポケットから折りたたんだ紙を取り出す。
「ちゃんと入部しようと思って。天文部に」
「これって……」
 開いて見せた紙には、入部届という見出しに、丸文字で書かれた夕月の名前。星宮夕月が天文部へと入部する。その意思を示したものだ。
「受け取って、もらえるかな」
 入部届を俺に差し出してくる。見れば、それを持つ小さな手はかすかに震えていた。緊張か、不安か。その両方か。
 好きな人とより一緒にいたいから、天文部に入部する。なんて俗っぽい理由だ。褒められたものじゃないのかもしれない。
 だけど、それは俺だって同じだった。俺が星を見るようになったのだって、あの時リレーを諦めなくちゃいけなくなって、言ってしまえば逃げ道だったのかもしれない。
 だからこれを拒否することなんて、俺にはできない。
「ああ、わかったよ」
 言って、俺は受け取った。彼女の震えが止まった気がした。
 夕月は満足そうに、にっこりと笑う。
「これで晴れて正式に私も天文部員だね」
「そうだな」
「じゃあ、依頼は解決ということかしら」
 会話に割って入る、澄んだ声。誰のものかは考えるまでもない。部長が、東雲とばりが入口に立っていた。
 彼女は、夕月を見ている。夕月もまた、彼女を見つめ返していた。
「いえ、少し違うわね。依頼を解決する必要がなくなった、というところかしら?」
「……はい」
 そして夕月は、小さく、それでいて力強く、言う。
「私、諦めないことにしました」


 午後から陸上部があるから、と夕月はその後すぐに部室を後にした。いわゆる兼部として、これからも陸上は続けるらしい。
「よかったわね、念願の新入部員がきてくれて」
 いつものように二人だけになった部室で、部長は窓際に立っている。俺もまた、部室の中央あたりに立っていた。
「そんなに他人事みたいに言わなくても」
 うだるような暑い空気が室内に立ち込めている――はずなのに、この人がいると不思議と暑さが和らいだような気分になる。むしろ、どこか涼しいくらいだった。
「部長にとってもよかったんじゃないですか? 『諦め屋』をやるなら人手はあった方がいいでしょ?」
 夕月なら喜んで手伝ってくれそうだ。
 だが部長は俺の問いには答えず、ただ俺の名前を呼ぶ。
「晴人君」
 外が明るいせいで、窓に背を向ける彼女の表情は薄暗い。
 まるで彼女の周りだけが、夜であるかのように。
「『約束』のこと、覚えてるわよね?」
「当たり前じゃないですか」
 四月にした約束。俺を諦めさせることができるかどうか。その結果で、天文部の行く末が決まる。
「勝負は……君の勝ちよ」
「え?」
 一瞬、放たれた言葉の意味を理解できなかった。
「でも、期限は一学期が終わるまでじゃあ」
 期限までは、終業式まではまだ日がある。勝ちを譲る気はないけれど、まだ時間があるのに自分から負けを認めるなんて。
「いいのよ」
 が、部長は首を横に振って、
「これを君に渡すわ」
 近づいて、俺に一枚の紙を渡してきた。
「なんですか……ってこれ」
 手渡された紙に書かれていたものを見て、俺は目を疑う。
 それは、さっき夕月から受け取ったものとは正反対のもの。
 つまりは、退部届だった。
「部長、」
「驚くことないでしょ。約束の結果だもの」
「いや、何も退部することないんじゃ」
 ないですか、と続けるはずの俺の言葉を、部長は遮る。
「だって、私がいてもこれからの天文部の活動には支障をきたすでしょう? 晴人君に星宮さん、二人とも諦めずにがんばれるじゃない」
 私と違って、と部長は言う。
「君も知ってるでしょう?」
 笑う。
「私、諦めるのが得意なのよ?」
 部長がそこまで言ったのを聞いて、俺は気づく。
 初めてなのだ。部長が『諦め屋』で依頼者を諦めさせることができなかったのが。
「それじゃ、今までありがとうね。晴人君」
 薄く笑って部屋を出る彼女を、俺は止めることができなかった。彼女の言葉と行動を、俺が遮り、覆すことなんて、今まで一度もできなかったのだ。
 俺はただ、立ち尽くすことしかできなかった。
 そして。
 その日を最後に、部長は部室に姿を見せなくなった。