東雲とばりは諦める

 その日も、朝からずっと雨が続いていた。
 もう六月なのだから当然の天気。かといって季節の移ろいをしみじみと味わうほどの感受性を俺は持ち合わせていない。というか雨は嫌いな方だ。服は濡れるし空気は重いし、何より空が曇っている。
「はあ……」
 放課後になっても全く変化のない空模様にため息をつきながら、南校舎四階の一番奥――地学準備室まで移動する。廊下に響くのは俺の足音を除いて他にない。生徒のいる教室から最も離れたこの立地のおかげで放課後の喧騒は遠く、他から切り離されたみたいな感覚。それが好きだった。
 入口のドアには手書きで『天文部』の貼り紙。
 職員室から借りてきた鍵で扉を開く。中はいつもどおり埃っぽい。かといってこの雨の中窓を開けるわけにもいかない。
 地学準備室――もとい天文部の部室は教室の半分ほどの広さで、東西の壁にはそれぞれ空きスペースの多い本棚と水屋がある。そして部屋の真ん中には余りものの学習机とパイプ椅子がいくつかあるだけで、なんというかまあ、かなり殺風景だ。
 本当は、もっと設備を充実させたいところではあるけど、そんなことに充てる部費は天文部にはない。
 カバンを適当に置いてから、俺はここ数日続けているルーチンワークにとりかかった。
 天体望遠鏡のメンテナンスだ。
 本棚の一番下の段にある大きめの箱から、レンズのついたパーツを取り出す。レンズキャップを外して、鏡体の中に貼り付けてある防カビ剤をはがして新品と交換。メンテナンスといっても大層なものじゃない。早い話が、湿気対策だ。
「…………」
 雨粒が窓に、地面に、木々に打ち付ける音をBGMにしながら、黙々と手を動かす。時折窓の外に目をやっても、ガラスの向こうにあるのは、灰色の絵の具を溶かした水をぶち撒けたみたいな景色。
「早く晴れないかな」
 ぼんやりと考えていたことが思わず口をついて出た。と、その直後、
「もう来てたのね」
 声がして、入口の方を向く。が、目に映るのが見知った顔で俺は小さく肩を落とした。
「なんだ、部長ですか」
「なによ、私じゃ不満?」
「そうですね、てっきり入部希望の人でも来たのかと思ったので」
「もう入学式から二か月以上経ってるのよ? そんなの来ないわよ」
 ありえないとばかりに、彼女は鼻で息を吐く。
「そんなのわかんないじゃないですか」
「わかるわよ。そもそもここが天文部だってことを知ってる人、私たち以外にいると思う?」
 彼女の言ってることは間違っちゃいない、事実だ。ゆえに俺はそれを言い負かすだけの反論を用意できない。かといって何も言わないわけにもいかなかった。
「でも俺は……諦めませんから」
「……そう」
 小さく応答すると、話はおしまいとばかりに、天文部部長――東雲とばりは窓際のパイプ椅子に腰かけた。首元まで伸びた少しくせのある黒髪と、その毛先を覆うように巻かれている青いチェックのストール。トレードマークとも言えるそれを細い指先で巻きなおし「よいしょっと」自身のカバンから文庫本を取り出した。
「……部長こそ、たまには手伝ってくれませんか。まがりなりにもこの部の長なんですから」
「遠慮しておくわ。だって私、天体望遠鏡の扱い方なんてわからないし」
「はいはい、そうですか」
 俺は投げやりに返して、それ以上は何も言わないことにする。
 なぜって、このやりとりは今回が初めてというわけじゃないから。
 四月に入部してから二か月あまり経ったが、天文部としてまともに部活動に勤しんでいるのは俺だけだ。俺が入部した時点で、この部屋は先輩部員である彼女の私物と化していた。今メンテナンスしている天体望遠鏡だってずっとほったらかしにされていたようで、初めて触った時はそれはもうひどかった。
 そんなわけで悲しいかな、この部屋は天文部と呼ぶには程遠い状況だった。本棚だって彼女が持ち込んだ文庫本が数冊収納されているだけ。
 これじゃあ文芸部と言った方がまだマシじゃないだろうか。
「ねえ晴人くん」
「はい?」
「今日もやることはそれくらい?」
「まあ、雨ですしね」
 晴れていたら夕暮れ時の一番星でも見に行きたいところだったが、この空模様じゃあ到底不可能である。他にやることがあるとすれば、てるてる坊主を作るくらいか。
「じゃあ、何か温かい飲み物でもいれてくれない?」
「はい?」
 俺はさっきと同じ言葉で、しかし猜疑心を孕んだ声で聞き返す。何言ってるんだこの人は。
「だって、今日涼しいじゃない」
 しかし部長は気にする素振りもなく、それどころかわざとらしく両腕を抱いて寒そうなジェスチャーをしてくる。
「……部長、優雅な読書を満喫したかったら、それこそ家に帰るか喫茶店にでも行ったらどうですか」
 どう考えても天文部でやることじゃない。読んでるのも小説みたいだし。
「いいじゃない、ここが落ち着くんだもの。それに、晴人くんがいれてくれるココアが美味しいのが悪いんだと思うけどなあ」
「なんで俺のせいになるんですか。自分でやってくださいよ」
「ふーん?」
 と、部長の表情が悪戯っぽいそれに変わる。瞬時に感じる嫌な予感。この人がこの顔をするのは、だいたい俺をからかおうとするときだ。
「そういえば晴人くん、夏休みの天体観測に向けて新しい備品がほしいって言ってなかったっけ?」
「ええまあ、言いましたけど」
「今、部費を握ってるのは誰だったかしら……?」
 ストールからちらつく唇は、やわらかな弧を描いている。
 そこから先は言わずともわかるだろう、とでも言うように。
「……わかりました、わかりましたよ」
 俺は渋々立ち上がると、マグカップにココアの粉を入れ、電気ケトルのスイッチを入れる。これなら誰が作っても同じに思うのだが、部長に言わせればそうではないらしい。ちなみにココアの粉も電気ケトルも、部長の私物だ。
「できましたよ」
 ものの数分で出来上がったそれを机に置くと、部長は文庫本を閉じ、細い指をマグカップの取っ手に通す。いつもながら部長の指はマグカップと比較しても劣らない白さで、まるで作りものみたいに見えた。
「うん、美味しい」
 一口すすって満足そうに言ってから、タイツをまとった足を組み直す。かと思えば、再び小説の世界へと帰っていった。
 もう少し感謝があってもいいんじゃないかこの人は。内心ぼやきながら、俺はついでにいれた自分のマグカップに口をつける。やわらかい甘さが口の中に広がる。けれど頭の中の苦悩までは溶かしてはくれなかった。
 こんなのでいいのか……。
 とてもじゃないが、こんな状態で天文部としてきちんとした活動をしているとは言えない。
 苦悩は溶け残ったココアの粉みたいにずっと前から頭の隅にこびりついている。
 しかし実際のところ、それはまだ些末な問題なのだ。一番の問題というか、最も俺を悩ませる原因は、他にある。
 それは部長が、東雲とばりが行っている『ある活動』で――
「やっほー! ハルー、遊びに来たよー!」
 ガラララ! と勢いよくドアが開いたと同時、雨模様とは真逆の快活な声が響いた。かと思えば声の主であるひとりの女子生徒はずかずかと我が物顔で部室内へと入ってくる。
「いやー、こうも毎日雨だとジメジメして敵わないよねー」
「……何しに来たんだよ、夕月(ゆづき)」
 そんな彼女に、俺は半眼を向けて言った。
「ひっどー。最初に言うセリフがそんなだと、モテないよー?」
「ほっとけ。それより陸上部の練習はいいのか」
「今日は雨だから部活は中止ですー」
 どこに得意げになる要素があったのかはよくわからないが、夕月は胸を張る。そんな動きに合わせて、着崩した制服の青いリボンと後頭部のポニーテールがぴょこぴょこと揺れた。
「いらっしゃい星宮(ほしみや)さん。せっかく来てくれたんだし、ゆっくりしていってね」
 いつの間にか文庫本から顔を上げていた部長が、にっこりほほ笑む。
「やったー、ありがとうございますとばり先輩。いやー、部長にもなると心が広くて優しいなー、誰かさんと違って」
「悪かったな、器の小さい人間で」
「晴人くんももっと優しくしてあげればいいじゃない。幼なじみなんでしょ?」
「腐れ縁ですよ、腐れ縁」
 星宮夕月。家が近所なせいで小学校からずっと付き合いが続いている。高校まで同じとか、最早腐れ縁以外の何だと言うのだ。
 そしてどういうわけか、夕月はこうしてヒマつぶしのように時々部室にやってきてはちょっかいをかけてきている。陸上部というバリバリの運動部で俺とは正反対の人間なのに。
「部活ないなら、さっさと帰ればいいだろ?」
「なによー、私が来るのがそんなに嫌なのー?」
「部外者なんだからあんまり入り浸るなってことだよ」
 天文部に入部すると言うなら話は別だけど、なんて言いかけてやめる。夕月が天体観測なんて好んでするはずないしな。途中で飽きて寝てしまいそうだし。
 と、夕月は近づいて、長いまつ毛と薄茶色の瞳でじっと俺の顔を見つめてくる。
「なんだよ」
「残念でしたー、今日の私は部外者じゃありませんよーだ」
「はあ?」
 俺は首を傾げる。と同時に夕月は半開きになった部室のドアに顔を向けた。
「せんぱーい」
 その言葉がまるでスイッチであったかのように、ドアのすりガラスに一つの影が映し出される。その影はゆっくりと、いや、おっかなびっくりといった様子で動き、直後、ドアの端から一人の女子生徒が顔を覗かせてきた。
 ……ああ。
 瞬間、俺は夕月の言葉の意味を理解した。
 俺は黙って天体望遠鏡を箱にしまう。まだメンテナンスは途中だったが、どうせ作業にならない。不本意ではあるが、ここからは部長の――東雲とばりの、天文部とは別の活動が始まるから。
「それじゃーとばり先輩、後はよろしくです」
 そう部長に言うと、きゅっきゅ、と上履きを床に擦らせ、夕月は部室を出る。
 その間際、部室の外の女子生徒とすれ違いざま、小さく言葉をかけたのが聞こえた。
「ファイトです、せんぱい」
「う、うん」
 言い残された、というか取り残されたみたいな女子生徒は、夕月と入れ替わるようにして部室内へと足を踏み入れてくる。
「え、えっと。その……」
 彼女は目線をあっちへこっちへ移動していた。こうして訪れる人は何回か見たけど、みんな最初は同じように迷いと困惑を帯びていた。
 そんな彼女を見て、部長は文庫本をカバンにしまう。そして、まるで瞼の裏の景色を眺めるみたいに数秒間、目を閉じた。
 それからゆっくりと瞼を開き、じっと女子生徒の方を見つめる。
 必要なのは、自分の意思を示すこと。ここに来た目的を告げること。部長がこうしてやってきた人たちに求めているのは、ただそれだけ。
 再び女子生徒を見ると、すうはあと複数回の深呼吸をしている。そして、覚悟を決めた様子の彼女は、一つの言葉を――自身の意思を、ここに来た目的を、口にした。
「……諦めさせてください」