東雲とばりは諦める

 依頼人への結果報告を行う場所は、決まって部室。けれど、今日は違った。
「悪いな。こんなとこまで来てもらって」
 放課後の遅めの時間。俺と部長、そして高座が向かっているのは、学校敷地の隅――桜の木の下。俺にとっては三度訪れることとなった場所。
「それはいいんだけど……この先に何かあるの?」
「ま、着いてからのお楽しみってことで」
 どうやら、天川先輩がいつもの場所でスケッチをしていることを高座は知らないらしい。
「それ、私も楽しみにしていいのかしら?」
 後ろを歩く部長が、小声で訊いてくる。
「……いいですよ。それはそうと、ありがとうございます、俺に任せてくれて」
「気にしなくていいわ。晴人くんがどうやって諦めさせるのか、私も気になるところだから」
 部長には、今回の結果報告を俺に一任してくれとだけ言ってある。
「言っておきますけど」
 部長はきっと、俺が高座にきれいさっぱり諦めさせるのを期待しているのだろう。だけど。
「俺はただ諦めるだけの結末なんて、させませんから」
「……そう」
 ほどなくして俺たちは草むらを抜ける。桜の木が一本だけ立つその場所に。空も、地面も、木の葉も、辺りのものすべてがまるで自分の色を忘れたみたいにオレンジ一色だった。今まで来た時とは全く異なる姿を見せていた。
「こんなところ、あったんだ」
 目を丸くする高座。俺の隣に立った部長も、静かにこの景色を眺めている。
「高座。結果報告の前に、会ってほしい人がいるんだ。そのために、ここに来てもらった」
「宵山君……?」
 首を傾げる高座。そして眉を寄せた部長が俺の方を向こうとしたその途中、その動きは停止した。
 桜の木の下。俺たちの方に向かって伸びる大きな影の中を見て。
 そこには、ひとりの女の子が立っていた。
「せ、先輩……?」
 天川先輩は黒髪をなびかせ、ゆっくりと踏みしめるように歩き、やがて影の中から出てくる。
「久しぶり」
「は、はい……」
 高座は驚きを隠せない表情のまま。おそらく言葉を交わすのも、会うのも久しぶりなのだろう。向かい合う二人はどこかぎこちない。
「高座君」
「は、はい」
「私……美術部を辞めるって言ったけど、その理由をまだ言ってなかったと思って」
 高座が不安げに、ちらりと俺の方を見る。俺が黙って頷くと、覚悟を決めたように表情に力を込めた。
「わかりました。聞かせて、ください」
「うん」
 天川先輩は、ぎゅっと目を力強く瞑ってから、高座の顔を見る。そして、一気に息を吐き出すように言う。
「フランスに行くの。有名な絵の先生から誘われて、こっちで絵の勉強してみないかって」
「え……?」
「どうしようか迷って、考えた。……それで、行くことにしたの」
「…………」
「だから学校も、美術部も辞める。……ごめんなさい」
 言い終わったときには、天川先輩はうつむいていた。高座にどんな反応をされるか、そんなことを考えているからだろう。俺も、こればかりは予想できない。
 天川先輩の言葉を噛みしめているのか、高座は黙ったまま。かと思えば、いつもより大きめのトーンで、
「すごいじゃないですか」
「え」
 それから少し大げさなくらいに手を広げる。
「ほんとすごいですよ、海外へ留学だなんて。そりゃ先輩の才能を考えたら、そんな話がないほうがおかしいくらいですよ。おめでとうございます」
「う、うん」
「というか、先輩が謝ることなんてないですよ。むしろ僕の方こそすみません。気を遣ってくれたんですよね、僕に。だから、理由を言わずに出ていこうとしたんですよね」
「それは、その」
 まるで決壊したダムのように、高座は言葉を紡ぐ。尊敬する先輩の門出を祝って、笑う。けれど、その笑みはどこか渇いているようにも見えて。
 自分の本心に、薄い膜を貼っているようにも見えて。
「がんばってください。僕のことは気にしなくていいんで。やっぱり美術部も、先輩みたいなすごい人がいてこそですし。僕みたいなのがひとりいたって、しょうがないですもんね」
「そんなことは……」
「美術部が廃部とか、小さいことで悩んでた僕がバカみたいですね。僕みたいな平凡な絵しか描けない人のことなんて、ほんと気にしないでください。だから、向こうでがんばって――」
「違う!」
 ぶつりと、高座の言葉は遮られた。初めて聞いた、天川先輩の大きな声によって。
「先輩……?」
「自分の絵を……そんな風に言わないで」
 まだうつむいたまま、言う。
「気持ちを込めた絵を、自分で否定しないで」
「で、でも僕のなんて、先輩のに比べたら」
「君の絵を好きだって言ってくれる人だって、絶対にいる」
「そんな人……」
 そこまで言ったところで、天川先輩は小脇に抱えていたものを高座に差し出した。いつも持っていた、スケッチブックだ。
「これ……あげる」
「え、でも」
「いいから」
 ぐい、と押し付けられる形で、高座は受け取った。その真意を理解できないまま彼はそれを開いて、
「……!」
 その目はスケッチブックの中に吸い込まれていた。声を失ったように、口は開いているものの言葉が出てこないようだった。
「先輩、これ……」
 そう言葉を漏らす高座の手元のスケッチブック。そこに描かれているものを、俺は知っている。
 そこにあるのは、鉛筆で描かれた高座の姿。
 普段からは想像できない、真剣な眼差し。まだ真っ白なキャンバスに向かって、大海原に漕ぎ出そうと筆を伸ばす姿。彼の癖なのだろう、左腕の肘が太ももに置かれている。高座のことをよく見ていなければ描くことのできない姿だ。
 一目見たとき、俺は悟った。
 天川先輩が、高座の絵が好きな気持ち。絵を描こうとする高座が、好きな気持ち。
 この絵には彼女のそんな感情すべてが込められている。眩しいほどに、あふれ出さんばかりに。
 俺でさえわかるのだ。同じ美術部として絵を描いてきた彼に、わからないはずがない。
「…………」
 高座はじっと、その絵を見つめていた。それこそ何時間とも錯覚しそうなほどに。
 やがてスケッチブックをゆっくりと閉じ、それからぼつりと、つぶやく。
「僕、先輩の絵が好きです」
「え……」
 その言葉で、天川先輩はようやく顔を上げた。二人の目と目が合う。
「先輩と美術部で過ごした時間も好きです。だから先輩から美術部を辞めるって聞いた時、もしかしたら絵を、やめちゃうんじゃないかって……」
「そんな、私は」
「でもよかった、渚先輩が、絵をやめるとかじゃなくて」
「高座、君……」
 名前をつぶやき、天川先輩は高座の手を取った。
「私も……楽しかった。だから、言えなくて……ごめんなさい」
「いいですよ。先輩の絵で、先輩の気持ち、ぜんぶ伝わってきましたから」
 再び、高座は笑う。そこにはもう渇きは見えない。
「絶対、もっとうまくなって帰ってくるから。だから……待ってて、ほしい」
「待ってます。僕も絵を描いて。だって」
 そう言って、手に持ったスケッチブックを大事そうに抱える。
「先輩の絵と、先輩が、好きですから」