今夜は晴れる、との予報だったので、俺は自宅のベランダに出て星を見ることにした。
予報どおり頭上には満天の星空が広がっている。近所の家の明かりがあるので、春休みに学校の屋上で見たほどではないが、有名どころの星々は肉眼でも確認できた。
真っ先に目につくのはやはり、デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角。
そういえばもうすぐ七夕だったっけ。アルタイルの彦星と、ベガの織姫が、年に一度だけ逢うことを許される日。
離れた場所にいる二人は、逢うこともままならない。そこまで考えてふと、美術部の二人――高座北斗と天川渚のことが頭に浮かんだ。
『天川さん、来月からフランスへ留学に行くのよ』
昼間に聞いた七海先生の言葉がよみがえる。もうじき二人の距離は、海を越えてしまう。天の川で隔たれている織姫と彦星のように。
聞けば、留学は留学でも美術留学らしい。向こうの美術専門の学校からぜひ来ないかと。あれだけの絵を描く才能があるのだ。そういう話になってもおかしくはない。
「部長は、どうするつもりなんだろ」
依頼完遂期限の一週間まであと二日しかない。おそらく七海先生から聞いた事実を、高座に伝えて、受け入れさせる。依頼した時、高座は天川先輩の意思を尊重したいと言っていた。なのできっと、彼は受け入れるだろう。だけど、それでいいのだろうか。
その時点で高座は、諦める。天川先輩の退部を。美術部の廃部を。
俺は、それでいいのか。高座が諦めるのを、部長が諦めさせるのを、ただ黙って隣で見ているだけでいいのか。桜庭先輩の時みたいに。
俺にできること。確かめなければいけないこと。
再び、空を見上げる。
こと座で一際明るく輝く星が、瞬いた。
俺にできること。それを実行するために、俺は以前の行動をなぞるように、昼休みの時間に草むらをかき分けて進んでいた。降り注ぐ陽光とセミの声はそれこそ初めてここに来たときをリフレインしているみたいな錯覚に陥らせる。
草むらを抜ける。額から頬にかけて一筋の汗が伝い、それを拭う。数日ぶりに目にする悠然とそびえる桜の木。その陰には、果たして天川先輩が座り、ひとりスケッチをしていた。
相変わらず絵画みたいに風景と一体化しているせいで話しかけるのが憚られる。
「また来たの?」
逡巡していると、ありがたいことに向こうから声をかけてきてくれた。
「今日は一緒じゃないのね」
鉛筆を動かす手を止め、一瞬だけこちらに目を向けるが、やっぱり興味はないようで、すぐさま目線はスケッチブックに落とされる。もし部長がいたら前みたいにこの場から離れようとしたのだろうか。
「今日は、その……個人的に来たので」
「個人的?」
天文部としてではなく。『諦め屋』としてではなく。
宵山晴人という、一人の人間として。
俺は天川渚に会いにきた。
「じゃあ何の用?」
俺と天川先輩の間を、さああ、とわずかに熱を帯びた風が吹き抜けていく。絵画を閉じ込める額縁が消え、隔たりを見せていた境界が、曖昧になる。
「高座に言ってないんですね。……美術部を辞める理由」
ぴたり。再び鉛筆が止まった。天川先輩はそれから小さく息を吐いて、
「誰から聞いた、なんて不毛なことを訊くのはやめておくわ。あなたが知った事実は変えられないし」
ぱたん、とスケッチブックを閉じる。一瞬、前みたいにこの場から立ち去ろうとしたのかと危惧したが、天川先輩は座ったまま俺の方に身体を向けた。どうやら、俺と話をする気になってくれたらしい。
「彼には言ったの?」
彼、とは高座のことだろう。
「いえ、先輩が言ってないのに俺が言うわけにもいきませんから」
「そう……」
俺の答えを聞いた天川先輩は、どこかほっとしたように肩の力を抜く。
「二人の絵、見ました。展覧会で」
「展覧会? ああ、そういえばあったわね。それで?」
「先輩の絵からも、高座の絵からも、伝わってきました。絵が好きな気持ち」
絵の技術とか、うまさとかはよくわからない。だけど、素人の俺にも二人の純粋な気持ちだけはちゃんと理解できた。
「前にも言ったかもしれませんけど、うちも二人だけの部活動なんですよね。でも、部長はロクに活動してくれないから実質一人みたいなもので」
俺は苦笑しながら言う。
「一人だけでやるって、寂しいと思うんですよね」
それが今まで二人でやってきたものなら、なおさらだ。
「……言わなくていいんですか?」
訊くと、天川先輩は眉をぴくりと動かし、初めて俺の方に顔を向けた。瑠璃色の瞳が、俺のずべてを飲み込む。俺も自分をさらけ出すように見つめ返す。
やがて、天川先輩はゆっくりと一度まばたきをする。俺が興味本位で質問をしているわけではないと理解したのか、小さく口を開いて答えた。
「あなた、私たちの絵を見たって言ったわよね?」
「は、はい」
「見比べてみて、どう思った?」
「それは、ええと……天川先輩の方が断然すごかったです」
どう答えようか迷ったが、言い繕っても仕方ないので正直に答えた。
「そうよ。素人のあなたが見てもわかるくらいの差」
自慢でもなんでもなく、ただそこにある事実として、天川先輩は言う。
「その差を、彼がわからないはずがない」
高倉は、知っている。彼我の絶対的な差を。同じ高校生だというのに、越えられない、いや、越えようとすること自体がおこがましい実力差を。
「彼、少なからずそのことで悩んでたのよ。本人は秘密にしてるみたいだけど、私にはすぐにわかった」
「もしかしてそれが理由、ですか?」
自分が美術で海外留学することを、高座に告げない理由。
「だって、話したらきっと落ち込むもの」
「先輩との差をもっと実感して、ですか」
「それだけならまだいいわ。最悪、絵を描くことをやめてしまうかもしれない」
ただでさえ圧倒的な実力差がある上に、留学してしまったら、きっと周りは一層才能の有無を高座に突きつけるだろう。無遠慮に、容赦なく。天川先輩は、そう言いたいのだ。
スケッチブックを握る手に力が込められる。
「……私ね。彼の絵、好きなのよ」
そう告白する天川先輩の表情は、今まで一番柔らかいそれに思えた。
「上手いとか下手とかそういう二元論じゃなくて、純粋に彼の描く作品が好きなの」
大切なものを抱きかかえるような口ぶりで、言う。
「彼には絵を描き続けてほしい。たとえ私のことを嫌いになったとしても」
「だから、理由も告げずに出ていくんですか?」
「ええ」
天川先輩は頷く。
「伝えないんですか? 高座の絵が好きだって気持ちも」
「そんなの、無理よ」
続けざまに否定する。
「私、口下手だもの。うまく伝える自信なんてない。今までの部活の時だって、ちゃんと会話できたことなかったし……。それに、彼はきっと私のことなんて、悩みの種くらいにしか思ってないわ。いつも比べられて、自分が惨めになる原因くらいにしか……」
「そんなことないです」
「え?」
「そんなこと、ないです」
高座が、本当に天川先輩のことをなんとも思っていないのなら。比較されるせいで自分の絵に納得がいかないなんて悩みを抱えているだけなら。
覚悟を決めて俺たちのところに来るはずがない。天川先輩の意思を尊重して、美術部の廃部を諦めたいなんて、依頼をしてくるはずがない。
高座はきっと、大事に思っている。
「だから、ちゃんと気持ち、伝えてみませんか」
俺があまりにもきっぱりと否定したこともあって、天川先輩は目を丸くしている。が、すぐに表情を曇らせて、
「で、でも今さらなんて言ったらいいかなんてわからないわよ。言ったでしょ? 口下手だって」
「伝える方法なんて、いくらでもありますよ」
俺は今一度、天川先輩の方を見つめる。伝えたい気持ちがあるのに、伝えないなんて、悲しすぎる。伝えることを諦めるなんて、見過ごせない。
「そのスケッチブック、見せてもらっていいですか」
「……いいけど」
あまり気は進まないといった様子だが、天川先輩は一旦それを閉じてから渡してくれる。
ぱらぱらとめくって、中を見る。そしてその中でも、一番最初のページに描かれていたものを見て、俺の手は止まった。
「これって……」
「な、なによ」
「いえ」
短く返事して、スケッチブックを返した。これで伝わらないはずがない。だって、俺にだってわかるくらいなんだから。
だから、俺は天川先輩にこう告げる。
「大丈夫です。先輩の気持ちは、きっと伝わりますから」
予報どおり頭上には満天の星空が広がっている。近所の家の明かりがあるので、春休みに学校の屋上で見たほどではないが、有名どころの星々は肉眼でも確認できた。
真っ先に目につくのはやはり、デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角。
そういえばもうすぐ七夕だったっけ。アルタイルの彦星と、ベガの織姫が、年に一度だけ逢うことを許される日。
離れた場所にいる二人は、逢うこともままならない。そこまで考えてふと、美術部の二人――高座北斗と天川渚のことが頭に浮かんだ。
『天川さん、来月からフランスへ留学に行くのよ』
昼間に聞いた七海先生の言葉がよみがえる。もうじき二人の距離は、海を越えてしまう。天の川で隔たれている織姫と彦星のように。
聞けば、留学は留学でも美術留学らしい。向こうの美術専門の学校からぜひ来ないかと。あれだけの絵を描く才能があるのだ。そういう話になってもおかしくはない。
「部長は、どうするつもりなんだろ」
依頼完遂期限の一週間まであと二日しかない。おそらく七海先生から聞いた事実を、高座に伝えて、受け入れさせる。依頼した時、高座は天川先輩の意思を尊重したいと言っていた。なのできっと、彼は受け入れるだろう。だけど、それでいいのだろうか。
その時点で高座は、諦める。天川先輩の退部を。美術部の廃部を。
俺は、それでいいのか。高座が諦めるのを、部長が諦めさせるのを、ただ黙って隣で見ているだけでいいのか。桜庭先輩の時みたいに。
俺にできること。確かめなければいけないこと。
再び、空を見上げる。
こと座で一際明るく輝く星が、瞬いた。
俺にできること。それを実行するために、俺は以前の行動をなぞるように、昼休みの時間に草むらをかき分けて進んでいた。降り注ぐ陽光とセミの声はそれこそ初めてここに来たときをリフレインしているみたいな錯覚に陥らせる。
草むらを抜ける。額から頬にかけて一筋の汗が伝い、それを拭う。数日ぶりに目にする悠然とそびえる桜の木。その陰には、果たして天川先輩が座り、ひとりスケッチをしていた。
相変わらず絵画みたいに風景と一体化しているせいで話しかけるのが憚られる。
「また来たの?」
逡巡していると、ありがたいことに向こうから声をかけてきてくれた。
「今日は一緒じゃないのね」
鉛筆を動かす手を止め、一瞬だけこちらに目を向けるが、やっぱり興味はないようで、すぐさま目線はスケッチブックに落とされる。もし部長がいたら前みたいにこの場から離れようとしたのだろうか。
「今日は、その……個人的に来たので」
「個人的?」
天文部としてではなく。『諦め屋』としてではなく。
宵山晴人という、一人の人間として。
俺は天川渚に会いにきた。
「じゃあ何の用?」
俺と天川先輩の間を、さああ、とわずかに熱を帯びた風が吹き抜けていく。絵画を閉じ込める額縁が消え、隔たりを見せていた境界が、曖昧になる。
「高座に言ってないんですね。……美術部を辞める理由」
ぴたり。再び鉛筆が止まった。天川先輩はそれから小さく息を吐いて、
「誰から聞いた、なんて不毛なことを訊くのはやめておくわ。あなたが知った事実は変えられないし」
ぱたん、とスケッチブックを閉じる。一瞬、前みたいにこの場から立ち去ろうとしたのかと危惧したが、天川先輩は座ったまま俺の方に身体を向けた。どうやら、俺と話をする気になってくれたらしい。
「彼には言ったの?」
彼、とは高座のことだろう。
「いえ、先輩が言ってないのに俺が言うわけにもいきませんから」
「そう……」
俺の答えを聞いた天川先輩は、どこかほっとしたように肩の力を抜く。
「二人の絵、見ました。展覧会で」
「展覧会? ああ、そういえばあったわね。それで?」
「先輩の絵からも、高座の絵からも、伝わってきました。絵が好きな気持ち」
絵の技術とか、うまさとかはよくわからない。だけど、素人の俺にも二人の純粋な気持ちだけはちゃんと理解できた。
「前にも言ったかもしれませんけど、うちも二人だけの部活動なんですよね。でも、部長はロクに活動してくれないから実質一人みたいなもので」
俺は苦笑しながら言う。
「一人だけでやるって、寂しいと思うんですよね」
それが今まで二人でやってきたものなら、なおさらだ。
「……言わなくていいんですか?」
訊くと、天川先輩は眉をぴくりと動かし、初めて俺の方に顔を向けた。瑠璃色の瞳が、俺のずべてを飲み込む。俺も自分をさらけ出すように見つめ返す。
やがて、天川先輩はゆっくりと一度まばたきをする。俺が興味本位で質問をしているわけではないと理解したのか、小さく口を開いて答えた。
「あなた、私たちの絵を見たって言ったわよね?」
「は、はい」
「見比べてみて、どう思った?」
「それは、ええと……天川先輩の方が断然すごかったです」
どう答えようか迷ったが、言い繕っても仕方ないので正直に答えた。
「そうよ。素人のあなたが見てもわかるくらいの差」
自慢でもなんでもなく、ただそこにある事実として、天川先輩は言う。
「その差を、彼がわからないはずがない」
高倉は、知っている。彼我の絶対的な差を。同じ高校生だというのに、越えられない、いや、越えようとすること自体がおこがましい実力差を。
「彼、少なからずそのことで悩んでたのよ。本人は秘密にしてるみたいだけど、私にはすぐにわかった」
「もしかしてそれが理由、ですか?」
自分が美術で海外留学することを、高座に告げない理由。
「だって、話したらきっと落ち込むもの」
「先輩との差をもっと実感して、ですか」
「それだけならまだいいわ。最悪、絵を描くことをやめてしまうかもしれない」
ただでさえ圧倒的な実力差がある上に、留学してしまったら、きっと周りは一層才能の有無を高座に突きつけるだろう。無遠慮に、容赦なく。天川先輩は、そう言いたいのだ。
スケッチブックを握る手に力が込められる。
「……私ね。彼の絵、好きなのよ」
そう告白する天川先輩の表情は、今まで一番柔らかいそれに思えた。
「上手いとか下手とかそういう二元論じゃなくて、純粋に彼の描く作品が好きなの」
大切なものを抱きかかえるような口ぶりで、言う。
「彼には絵を描き続けてほしい。たとえ私のことを嫌いになったとしても」
「だから、理由も告げずに出ていくんですか?」
「ええ」
天川先輩は頷く。
「伝えないんですか? 高座の絵が好きだって気持ちも」
「そんなの、無理よ」
続けざまに否定する。
「私、口下手だもの。うまく伝える自信なんてない。今までの部活の時だって、ちゃんと会話できたことなかったし……。それに、彼はきっと私のことなんて、悩みの種くらいにしか思ってないわ。いつも比べられて、自分が惨めになる原因くらいにしか……」
「そんなことないです」
「え?」
「そんなこと、ないです」
高座が、本当に天川先輩のことをなんとも思っていないのなら。比較されるせいで自分の絵に納得がいかないなんて悩みを抱えているだけなら。
覚悟を決めて俺たちのところに来るはずがない。天川先輩の意思を尊重して、美術部の廃部を諦めたいなんて、依頼をしてくるはずがない。
高座はきっと、大事に思っている。
「だから、ちゃんと気持ち、伝えてみませんか」
俺があまりにもきっぱりと否定したこともあって、天川先輩は目を丸くしている。が、すぐに表情を曇らせて、
「で、でも今さらなんて言ったらいいかなんてわからないわよ。言ったでしょ? 口下手だって」
「伝える方法なんて、いくらでもありますよ」
俺は今一度、天川先輩の方を見つめる。伝えたい気持ちがあるのに、伝えないなんて、悲しすぎる。伝えることを諦めるなんて、見過ごせない。
「そのスケッチブック、見せてもらっていいですか」
「……いいけど」
あまり気は進まないといった様子だが、天川先輩は一旦それを閉じてから渡してくれる。
ぱらぱらとめくって、中を見る。そしてその中でも、一番最初のページに描かれていたものを見て、俺の手は止まった。
「これって……」
「な、なによ」
「いえ」
短く返事して、スケッチブックを返した。これで伝わらないはずがない。だって、俺にだってわかるくらいなんだから。
だから、俺は天川先輩にこう告げる。
「大丈夫です。先輩の気持ちは、きっと伝わりますから」
