早速、という言葉通り、展覧会に行くのは週末の土曜にしようと部長から連絡があった。その情熱を天文部本来の活動に向けてくれればいいのに。心底そう思ったが、言ったら言ったでロクなことにならないのは目に見えている。まあ、依頼の期限が一週間で、手がかりもない状態なので悠長に構えてられないというのもあるのだろうけど。
かくして土曜日、午後二時。駅前のロータリーで俺は一人立っている。
「あっつ……」
夏本番が到来と言わんばかりに、太陽からは無数の光の矢が地面に絶えず降り注ぎ乱反射している。あらゆるものが光源になったみたいに白く輝き、世界の色を薄めている。
額にじんわりと浮かんだ汗を拭っていると、小さい足音が一つ、俺の前で止まった。
「驚いたわ。晴人くんが先に来てるなんて」
「会って一番に言うセリフがそれですか」
部長の装いは、薄手の白いシャツに藍色のロングスカート。シンプルな組み合わせでも着こなせているのは、素材たる部長本人が美人だからだろう。中身は置いといて。
そして目を引いたのは、いつも見ているトレードマークたる首のストールだった。
「部長、今日もそのストール巻いてるんですね」
普段学校でも巻いているし、大事なものなんだろうか。とはいえこの状況では見てるこっちが暑くなる。
「なんだっていいじゃない。私、肌が弱いもの」
部長はストールをいじって首の肌が露出しないよう気を遣う。だけどやっぱり暑いのか、頬は汗でしっとりとしていた。
「紫外線対策は万全よ。ちゃんと日焼け止めも塗ってきてるわ」
たしかに白いシャツからのぞく白い肌は、日焼け止めでツヤを放っている。
「梅雨も明けて夏本番ですからね」
「ほんと、この季節は嫌よね。早く行きましょ」
言うや否や、俺を置いて改札の方へ向かっていく。先に来てたのは俺の方なんですけど。
いいタイミングでやってきた電車に乗り込むと、運よく二人分の席が空いていたので並んで座る。背中を預け、まるで冷蔵庫の中にいるみたいに空調から放たれる冷気に身を任せた。
電車内は休日ということもあって、座席はほぼ埋まっていた。家族連れ、老夫婦、制服姿の学生に身を寄せ合うカップル。傍から見れば、俺たちもカップルに見えたりするのだろうか。
けれどカップル以前に、俺は部長のこと知らなさすぎる。私服姿なんて初めて見たし、肌が弱いことだって知らなかった。
「…………」
もっと知りたい――わけではないけど、なんとなく目線だけ隣に移す。ピンとのびた長いまつ毛。電車が揺れるたびに髪が撫でる頬は、ほんのりと赤みを帯びている。もしかしたら、少し化粧しているのかもしれない。
……きれいだな。
ぷかり、とそんな感情が出てきた自分に驚く。これじゃあ本当に美人の先輩とデートしているみたいじゃないか。
「晴人君、さっきからこっち見てるけど、私の顔に何かついてる?」
「えっ? ああいや、別に」
「まさか、私に見とれてたとか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
声が大きくなりそうなのを慌てて抑えて否定する。俺の反応がよほど面白く見えたのか、部長はうれしそうに笑って、
「いいのよ? 諦めて私の美しさの虜になっても」
「なりませんし、諦めません」
というか自分で自分のことを美しいってよく言えるな。
このままだと部長に茶化されっぱなしになりそうな未来しか見えないので、話を本題に――今日の目的に戻す。
「それにしても、絵を見たからって、天川先輩が退部する理由の手がかりとかつかめるんですかね」
「さあ、どうかしら」
「さあって……」
早速行こうって息巻いてたのは部長じゃないですか。
「意外と本人と話をするよりも伝わってくるものはあるかもしれないじゃない? ほら、絵に込められたメッセージとか言うもの」
「それはわかりますけど」
仮にメッセージが込められていたとしても、絵心がない俺には読み取れる自信なんてない。美術の授業もあまり得意ではないし。
けれど、部長ならできるのかもしれない。
この人はたぶん、俺なんかよりもずっと感受性に長けている。なんとなく、そう思った。
十数分後。駅のすぐそばにある市民ホールの一室――展覧会の会場に俺たちは到着した。
入口で簡単な受付を済ませ、中に入る。電車以上にがんがんに効いた空調の風が汗の引いた首に当たって少し肌寒い。
「美術部の展示は、奥の方みたいですね」
受付近くにあった地図を見てから、俺と部長は歩く。
高座の言っていた通り、壁には様々な作品が飾られていた。小学生が授業で描いたのだろうか、クレヨンで描かれた色鮮やかな家族の絵。対照的に、白と黒だけで表現された水墨画。上手い下手とか、そういう二択では計り知れない思いが、それぞれの絵には込められている気がした。
パーテーションで区切られ、ちょっとだけ迷路みたいになった会場内を進んでいく。
「そういえば、高座はコンクールで天川先輩の絵を見たから美術部に入部したんでしたっけ」
今日のは展覧会だから、厳密にはコンクールとは違うのだろうけど。
「そう言っていたわね。きっと彼にとって心を打たれた絵だったんでしょうね」
心を打つ絵、か。いったいどんな絵なんだろう。
そんなことを考えていると、隣で部長がにんまりと笑った。
「晴人君が天文部に入部したのは、屋上で星を見たかったからよね。夜の学校に忍び込んじゃうほど」
「あれはまあ、若気の至りといいますか」
今になって考えたら、入学前によくあんなことをやったものだ。最悪の場合、格取り消しになったりしていたかもしれないのに。若さゆえの過ちというやつかもしれない。たった数か月前のことだけど。
「そういう部長だって、星を見るのが好きだから天文部に入ったんじゃないんですか?」
あの夜、同じように屋上にいたんだし。
「私は、そうね……」
すう、と部長の目が細くなるのが見えた。
かと思えば、こんなことを言った。
「待つため、かしら」
「待つため?」
予想外の答えだった。というか意味がよくわからない。
「待つって何を」
「晴人君」
訊こうとしたところで、部長がパーテーションの迷路の奥を指さした。
「あれじゃないかしら? 二人の絵」
「え?」
白い指の先には、俺たちの高校名が表示されていた。その横に二枚の風景画が並んでいる。
足早に展示場所まで近づいて、少しだけ見上げるように、二枚の絵を視界に捉える。
瞬間。
「「これって……」」
異口同音。つまり、俺と部長が持った印象は、きっと同じものだろう。
二枚の絵は、並べることでその違いを如実にあらわす。
言ってしまえば簡単なことだった。
片方の絵は、圧倒的だったのだ。およそ高校生が描いたとは思えないほどに。
この絵は、あらゆる要素において他の追随を許していない。少なくとも、こんな町の展覧会で飾っておくような絵じゃない。素人の俺でもそれだけはわかった。
「……」
「……」
まるで絵が俺たちから言葉を奪い去ったみたいに、二人とも無言になる。
絵の作者は、天川先輩だった。
「すごかった、ですね」
「ええ」
帰り道。行きとは違って空席の目立つ電車に揺られながら、俺たちは小学生並の感想を口にすることしかできなかった。
まぶたを閉じれば、絵を前にした時の記憶が鮮明によみがえる。
まるで絵の風景が視神経を通して頭の中に流れ込んでくるような感覚。天川先輩があの風景を見たのか、それともイメージで描いたのかはわからないけど、まるで殴られたみたいな衝撃を、俺も部長も感じ取っていた。
才能。その一言で片づけることしかできないほどのすごさ。
それが、天川先輩の絵だった。
「でも……美術部、辞めるんですよね」
ただ、腑に落ちないのはそこだった。夕月とクレープを食べていたときの疑問が再燃する。
あれだけの絵を描けるのに、美術部を辞める必要などあるのだろうか。
「もう絵を描くつもりはないってことなんですかね」
「どうなのかしら」
本人に訊けば一目瞭然なんだろうけど、会った時の様子じゃ無理だろうなあ。天川先輩、俺たちと話すことすら嫌そうな顔してたし。
「やっぱり高座と何かあったんですかね。高座ともう一度話します?」
自分で提案してみたものの、大して得られるものはないだろう。彼とは依頼を受けた時にさんざん訊いた。
「そうね……」
あごに手を当てて、部長は考える。
「こうなったら、アレを使うしかないわね」
「アレ?」
不安極まりないセリフ。理解が追い付かない俺をよそに、部長はいつもどおりの自信満々な様子で、言った。
「まあ見てなさい。こういう時にあらゆる手を尽くすのが『諦め屋』よ」
部長の言葉の真意を理解したのは週明けの放課後。いつもどおり天文部の部室に到着した時だった。
「えっと……」
何気なく扉を開き、部室の敷居をまたぐ途中で俺の足は止まった。俺に背を向ける形で、誰かが依頼人用のパイプ椅子に腰かけていたからだ。
「七海先生……?」
「あっ、宵山君」
珍しい。この人が部室に来るなんて、春に顧問の挨拶で来たとき以来だ。
「あら、遅かったわね」
「日直だったんですよ。そんなことより、どうして七海先生が部室に?」
まさか、天文部の様子を見に来たとかじゃあ……ないよな?
「先生には、お願いがあって来てもらったのよ」
「お願い?」
「ちょっと東雲さん、それには答えられないってさっきも言いましたよ?」
なんのことかはわからないが、七海先生の言葉と、彼女に向かいあうように部長が座っている状況からして、話はもう始まっているらしい。
いつもと変わらない、かっちりとしたスーツ姿と、生徒たちの模範であらんとするかのように、ぴんと伸びた背すじ。対して部長はゆったりとイスに腰かけている。スーツと制服じゃなったらどっちが先生の立場かわからない。
「でも、私たちは知りたいんです。天川渚さんが美術部を退部する理由を」
そういうことか。土曜に言ってたアレって、七海先生に訊くことだったのか。
「先生、美術部の顧問もされているから、もちろんご存知ですよね?」
「それはそうですけど。さっきも言いましたよね? 生徒のプライバシーに関わることですから。東雲さんに教えることはできません」
ぴしゃり、と答える七海先生。俺が来るまでの間にも何度かやりとりがあったのか、先生の言葉と表情は固かった。社会人というよりは面接待ちの就活生のようにも見えた。
ともあれ、七海先生の言うことは正論だった。何も間違っていない。教師に、それも真面目であらんとする七海先生に訊こうとするなんて、ある意味天川先輩本人に訊くよりもハードルが高いんじゃないだろうか。
部長はそのことを考慮したうえで、七海先生から情報を得ようとしているってことなのか。
「そうですか……」
が、断念するように部長はうつむく。まさか、ここまできて諦めるのか? こんな中途半端なところで終わったら、七海先生に怪しまれるだけなんじゃあ――
なんて思った瞬間。
「ねえ晴人くん。そこの段ボール、こっちに持ってきてもらえないかしら?」
「段ボール? っていつの間に」
部長に言われて目を向ければ、部室の隅には先週まではなかった茶色い四角の物体。驚くべきはその大きさ、小柄な人ならすっぽり入りそうなほどだった。部長、また私物を増やしたのか。
訝しみつつも、部長と七海先生の座っているところまで運ぶ。予想に反して軽かったので、楽々持ち上げることができた。中には何が入っているんだろう。七海先生もまた俺と同様、不審そうな表情をしている。
「あの、東雲さん?」
「そういえば先生、お好きなんでしたよね?」
そう言って、部長は段ボールのフタを開けて中身を勢いよく取り出した。
「そっ、それは!」
中身の全容が明らかになると同時、七海先生が驚愕の声を上げてイスから立ち上がる。
出てきたのは、巨大なサメの抱き枕だった。
一メートルはあろうかという大きさに水色と白でカラーリングされたボディ。黒い眼帯とギザギザの歯が印象的だ。
あれってたしか……。
「先生がつけてるストラップを同じキャラ――」
「限定発売品の『抱腹絶倒しゃーく君』の抱き枕じゃない!? ど、どうして東雲さんがそれを……」
俺の声をかき消さんばかりに、トーンを一段階上げる七海先生。彼女の言う『しゃーく君』は、俺がこの間見た先生のストラップを同じ、ちょっとばかりブサイクに見える表情のサメのキャラクターだった。
「これ、そんなにレアものなんですか?」
「宵山君知らないのっ? これは数ある『しゃーく君』グッズの中でも超レアの逸品で、もう手に入れるのは不可能と言われてているほどのお宝なのよ」
「は、はあ……」
七海先生の目はキラキラと輝いていて、ほしいおもちゃを目の前にした子どもみたいだ。先生相手にこの感想は失礼だけど、そう見えてしまったものは仕方ない。
「これ、知り合いからいただいたものなんですけど……私が持っているよりも、もっと価値のわかる方にお譲りした方がいいかと思いまして」
「えっ、それって」
「ええ。先生がよければぜひ」
「ほっ、ほんとう? じゃあ――」
七海先生の顔が一層喜びに満ちる。と、それに待ったをかけるように、
「けれど、仮にも先生が生徒からこんなものを受け取ったとなると……他の先生や生徒はあまりいい印象を抱かないかもしれませんね」
「うっ……」
言葉に詰まり、七海先生はその場に立ったまま固まる。
同時に、俺は察してしまった。
まさか部長……。
「七海先生がちょっとだけ、私たちの知りたいことを教えてくださるなら、そんな心配もないと思うんですけど」
「うう、……」
これを狙ってたのか。
この超レア抱き枕がほしければ、自分たちに情報を提供しろ。部長はそんな交渉を教師相手に持ちかけているわけだ。この人、本当に手段を選ばないな。
「わっ、私は生徒の模範たる先生です。こんな生徒と取引するようなことは……」
「そうですか、残念です。ではこれはネットオークションにでも出して大事にしてくれる人にもらっていただきましょうか」
「ちょっ、それは!」
がたっ! 条件反射のように、七海先生は机に手をついて前のめりになる。
「……それは?」
オウム返しに、部長が訊ねる。困った表情の七海先生の顔を、吸い込むように黒い瞳で覗き込む。
「ええと……その」
たじろぐ七海先生。部長と、隣の抱き枕を交互に眺めてはうんうん唸り始める。まるで究極の選択を迫られているみたいに。見ていてなんだか不憫に思えてきた。
「私は先生で、でも……~~~~っ」
人生最大の葛藤と直面したかのように、苦悩が顔に浮かぶ。
そして数十秒、頭を抱えた後、
「……わかりました」
消え入りそうな七海先生の声。
まさか高校入学後の数か月で、教師が生徒に屈する場面を目の当たりにするとは思いもしなかった。
「ありがとうございます、七海先生。ではどうぞ。これはお譲りします」
「……やったー! しゃーく君!」
もふっ! と抱き枕に向かってダイブした。「えへへ~」普段教壇に立つ人とは思えないくらいニヤけ顔で、満足そうに顔をうずめている。なんだか、こういう表情の方が似合う気がする。
「……それで、七海先生」
「えっ? あっ、そ、そうね」
抱き枕から一旦身体を離し、ごほん、と咳払いをする。
「ええと、天川さんがどうして美術部を退部するのか、だったわよね? ……言っておきますけど、他の生徒には言っちゃだめですよ?」
「もちろん、しゃーく君に誓って、秘密にします」
笑みを向ける部長。七海先生はやってしまったとばかりに自省の色を漂わせながら、息を大きく吐いて、言った。
「天川さん、来月からフランスへ留学に行くのよ」
かくして土曜日、午後二時。駅前のロータリーで俺は一人立っている。
「あっつ……」
夏本番が到来と言わんばかりに、太陽からは無数の光の矢が地面に絶えず降り注ぎ乱反射している。あらゆるものが光源になったみたいに白く輝き、世界の色を薄めている。
額にじんわりと浮かんだ汗を拭っていると、小さい足音が一つ、俺の前で止まった。
「驚いたわ。晴人くんが先に来てるなんて」
「会って一番に言うセリフがそれですか」
部長の装いは、薄手の白いシャツに藍色のロングスカート。シンプルな組み合わせでも着こなせているのは、素材たる部長本人が美人だからだろう。中身は置いといて。
そして目を引いたのは、いつも見ているトレードマークたる首のストールだった。
「部長、今日もそのストール巻いてるんですね」
普段学校でも巻いているし、大事なものなんだろうか。とはいえこの状況では見てるこっちが暑くなる。
「なんだっていいじゃない。私、肌が弱いもの」
部長はストールをいじって首の肌が露出しないよう気を遣う。だけどやっぱり暑いのか、頬は汗でしっとりとしていた。
「紫外線対策は万全よ。ちゃんと日焼け止めも塗ってきてるわ」
たしかに白いシャツからのぞく白い肌は、日焼け止めでツヤを放っている。
「梅雨も明けて夏本番ですからね」
「ほんと、この季節は嫌よね。早く行きましょ」
言うや否や、俺を置いて改札の方へ向かっていく。先に来てたのは俺の方なんですけど。
いいタイミングでやってきた電車に乗り込むと、運よく二人分の席が空いていたので並んで座る。背中を預け、まるで冷蔵庫の中にいるみたいに空調から放たれる冷気に身を任せた。
電車内は休日ということもあって、座席はほぼ埋まっていた。家族連れ、老夫婦、制服姿の学生に身を寄せ合うカップル。傍から見れば、俺たちもカップルに見えたりするのだろうか。
けれどカップル以前に、俺は部長のこと知らなさすぎる。私服姿なんて初めて見たし、肌が弱いことだって知らなかった。
「…………」
もっと知りたい――わけではないけど、なんとなく目線だけ隣に移す。ピンとのびた長いまつ毛。電車が揺れるたびに髪が撫でる頬は、ほんのりと赤みを帯びている。もしかしたら、少し化粧しているのかもしれない。
……きれいだな。
ぷかり、とそんな感情が出てきた自分に驚く。これじゃあ本当に美人の先輩とデートしているみたいじゃないか。
「晴人君、さっきからこっち見てるけど、私の顔に何かついてる?」
「えっ? ああいや、別に」
「まさか、私に見とれてたとか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
声が大きくなりそうなのを慌てて抑えて否定する。俺の反応がよほど面白く見えたのか、部長はうれしそうに笑って、
「いいのよ? 諦めて私の美しさの虜になっても」
「なりませんし、諦めません」
というか自分で自分のことを美しいってよく言えるな。
このままだと部長に茶化されっぱなしになりそうな未来しか見えないので、話を本題に――今日の目的に戻す。
「それにしても、絵を見たからって、天川先輩が退部する理由の手がかりとかつかめるんですかね」
「さあ、どうかしら」
「さあって……」
早速行こうって息巻いてたのは部長じゃないですか。
「意外と本人と話をするよりも伝わってくるものはあるかもしれないじゃない? ほら、絵に込められたメッセージとか言うもの」
「それはわかりますけど」
仮にメッセージが込められていたとしても、絵心がない俺には読み取れる自信なんてない。美術の授業もあまり得意ではないし。
けれど、部長ならできるのかもしれない。
この人はたぶん、俺なんかよりもずっと感受性に長けている。なんとなく、そう思った。
十数分後。駅のすぐそばにある市民ホールの一室――展覧会の会場に俺たちは到着した。
入口で簡単な受付を済ませ、中に入る。電車以上にがんがんに効いた空調の風が汗の引いた首に当たって少し肌寒い。
「美術部の展示は、奥の方みたいですね」
受付近くにあった地図を見てから、俺と部長は歩く。
高座の言っていた通り、壁には様々な作品が飾られていた。小学生が授業で描いたのだろうか、クレヨンで描かれた色鮮やかな家族の絵。対照的に、白と黒だけで表現された水墨画。上手い下手とか、そういう二択では計り知れない思いが、それぞれの絵には込められている気がした。
パーテーションで区切られ、ちょっとだけ迷路みたいになった会場内を進んでいく。
「そういえば、高座はコンクールで天川先輩の絵を見たから美術部に入部したんでしたっけ」
今日のは展覧会だから、厳密にはコンクールとは違うのだろうけど。
「そう言っていたわね。きっと彼にとって心を打たれた絵だったんでしょうね」
心を打つ絵、か。いったいどんな絵なんだろう。
そんなことを考えていると、隣で部長がにんまりと笑った。
「晴人君が天文部に入部したのは、屋上で星を見たかったからよね。夜の学校に忍び込んじゃうほど」
「あれはまあ、若気の至りといいますか」
今になって考えたら、入学前によくあんなことをやったものだ。最悪の場合、格取り消しになったりしていたかもしれないのに。若さゆえの過ちというやつかもしれない。たった数か月前のことだけど。
「そういう部長だって、星を見るのが好きだから天文部に入ったんじゃないんですか?」
あの夜、同じように屋上にいたんだし。
「私は、そうね……」
すう、と部長の目が細くなるのが見えた。
かと思えば、こんなことを言った。
「待つため、かしら」
「待つため?」
予想外の答えだった。というか意味がよくわからない。
「待つって何を」
「晴人君」
訊こうとしたところで、部長がパーテーションの迷路の奥を指さした。
「あれじゃないかしら? 二人の絵」
「え?」
白い指の先には、俺たちの高校名が表示されていた。その横に二枚の風景画が並んでいる。
足早に展示場所まで近づいて、少しだけ見上げるように、二枚の絵を視界に捉える。
瞬間。
「「これって……」」
異口同音。つまり、俺と部長が持った印象は、きっと同じものだろう。
二枚の絵は、並べることでその違いを如実にあらわす。
言ってしまえば簡単なことだった。
片方の絵は、圧倒的だったのだ。およそ高校生が描いたとは思えないほどに。
この絵は、あらゆる要素において他の追随を許していない。少なくとも、こんな町の展覧会で飾っておくような絵じゃない。素人の俺でもそれだけはわかった。
「……」
「……」
まるで絵が俺たちから言葉を奪い去ったみたいに、二人とも無言になる。
絵の作者は、天川先輩だった。
「すごかった、ですね」
「ええ」
帰り道。行きとは違って空席の目立つ電車に揺られながら、俺たちは小学生並の感想を口にすることしかできなかった。
まぶたを閉じれば、絵を前にした時の記憶が鮮明によみがえる。
まるで絵の風景が視神経を通して頭の中に流れ込んでくるような感覚。天川先輩があの風景を見たのか、それともイメージで描いたのかはわからないけど、まるで殴られたみたいな衝撃を、俺も部長も感じ取っていた。
才能。その一言で片づけることしかできないほどのすごさ。
それが、天川先輩の絵だった。
「でも……美術部、辞めるんですよね」
ただ、腑に落ちないのはそこだった。夕月とクレープを食べていたときの疑問が再燃する。
あれだけの絵を描けるのに、美術部を辞める必要などあるのだろうか。
「もう絵を描くつもりはないってことなんですかね」
「どうなのかしら」
本人に訊けば一目瞭然なんだろうけど、会った時の様子じゃ無理だろうなあ。天川先輩、俺たちと話すことすら嫌そうな顔してたし。
「やっぱり高座と何かあったんですかね。高座ともう一度話します?」
自分で提案してみたものの、大して得られるものはないだろう。彼とは依頼を受けた時にさんざん訊いた。
「そうね……」
あごに手を当てて、部長は考える。
「こうなったら、アレを使うしかないわね」
「アレ?」
不安極まりないセリフ。理解が追い付かない俺をよそに、部長はいつもどおりの自信満々な様子で、言った。
「まあ見てなさい。こういう時にあらゆる手を尽くすのが『諦め屋』よ」
部長の言葉の真意を理解したのは週明けの放課後。いつもどおり天文部の部室に到着した時だった。
「えっと……」
何気なく扉を開き、部室の敷居をまたぐ途中で俺の足は止まった。俺に背を向ける形で、誰かが依頼人用のパイプ椅子に腰かけていたからだ。
「七海先生……?」
「あっ、宵山君」
珍しい。この人が部室に来るなんて、春に顧問の挨拶で来たとき以来だ。
「あら、遅かったわね」
「日直だったんですよ。そんなことより、どうして七海先生が部室に?」
まさか、天文部の様子を見に来たとかじゃあ……ないよな?
「先生には、お願いがあって来てもらったのよ」
「お願い?」
「ちょっと東雲さん、それには答えられないってさっきも言いましたよ?」
なんのことかはわからないが、七海先生の言葉と、彼女に向かいあうように部長が座っている状況からして、話はもう始まっているらしい。
いつもと変わらない、かっちりとしたスーツ姿と、生徒たちの模範であらんとするかのように、ぴんと伸びた背すじ。対して部長はゆったりとイスに腰かけている。スーツと制服じゃなったらどっちが先生の立場かわからない。
「でも、私たちは知りたいんです。天川渚さんが美術部を退部する理由を」
そういうことか。土曜に言ってたアレって、七海先生に訊くことだったのか。
「先生、美術部の顧問もされているから、もちろんご存知ですよね?」
「それはそうですけど。さっきも言いましたよね? 生徒のプライバシーに関わることですから。東雲さんに教えることはできません」
ぴしゃり、と答える七海先生。俺が来るまでの間にも何度かやりとりがあったのか、先生の言葉と表情は固かった。社会人というよりは面接待ちの就活生のようにも見えた。
ともあれ、七海先生の言うことは正論だった。何も間違っていない。教師に、それも真面目であらんとする七海先生に訊こうとするなんて、ある意味天川先輩本人に訊くよりもハードルが高いんじゃないだろうか。
部長はそのことを考慮したうえで、七海先生から情報を得ようとしているってことなのか。
「そうですか……」
が、断念するように部長はうつむく。まさか、ここまできて諦めるのか? こんな中途半端なところで終わったら、七海先生に怪しまれるだけなんじゃあ――
なんて思った瞬間。
「ねえ晴人くん。そこの段ボール、こっちに持ってきてもらえないかしら?」
「段ボール? っていつの間に」
部長に言われて目を向ければ、部室の隅には先週まではなかった茶色い四角の物体。驚くべきはその大きさ、小柄な人ならすっぽり入りそうなほどだった。部長、また私物を増やしたのか。
訝しみつつも、部長と七海先生の座っているところまで運ぶ。予想に反して軽かったので、楽々持ち上げることができた。中には何が入っているんだろう。七海先生もまた俺と同様、不審そうな表情をしている。
「あの、東雲さん?」
「そういえば先生、お好きなんでしたよね?」
そう言って、部長は段ボールのフタを開けて中身を勢いよく取り出した。
「そっ、それは!」
中身の全容が明らかになると同時、七海先生が驚愕の声を上げてイスから立ち上がる。
出てきたのは、巨大なサメの抱き枕だった。
一メートルはあろうかという大きさに水色と白でカラーリングされたボディ。黒い眼帯とギザギザの歯が印象的だ。
あれってたしか……。
「先生がつけてるストラップを同じキャラ――」
「限定発売品の『抱腹絶倒しゃーく君』の抱き枕じゃない!? ど、どうして東雲さんがそれを……」
俺の声をかき消さんばかりに、トーンを一段階上げる七海先生。彼女の言う『しゃーく君』は、俺がこの間見た先生のストラップを同じ、ちょっとばかりブサイクに見える表情のサメのキャラクターだった。
「これ、そんなにレアものなんですか?」
「宵山君知らないのっ? これは数ある『しゃーく君』グッズの中でも超レアの逸品で、もう手に入れるのは不可能と言われてているほどのお宝なのよ」
「は、はあ……」
七海先生の目はキラキラと輝いていて、ほしいおもちゃを目の前にした子どもみたいだ。先生相手にこの感想は失礼だけど、そう見えてしまったものは仕方ない。
「これ、知り合いからいただいたものなんですけど……私が持っているよりも、もっと価値のわかる方にお譲りした方がいいかと思いまして」
「えっ、それって」
「ええ。先生がよければぜひ」
「ほっ、ほんとう? じゃあ――」
七海先生の顔が一層喜びに満ちる。と、それに待ったをかけるように、
「けれど、仮にも先生が生徒からこんなものを受け取ったとなると……他の先生や生徒はあまりいい印象を抱かないかもしれませんね」
「うっ……」
言葉に詰まり、七海先生はその場に立ったまま固まる。
同時に、俺は察してしまった。
まさか部長……。
「七海先生がちょっとだけ、私たちの知りたいことを教えてくださるなら、そんな心配もないと思うんですけど」
「うう、……」
これを狙ってたのか。
この超レア抱き枕がほしければ、自分たちに情報を提供しろ。部長はそんな交渉を教師相手に持ちかけているわけだ。この人、本当に手段を選ばないな。
「わっ、私は生徒の模範たる先生です。こんな生徒と取引するようなことは……」
「そうですか、残念です。ではこれはネットオークションにでも出して大事にしてくれる人にもらっていただきましょうか」
「ちょっ、それは!」
がたっ! 条件反射のように、七海先生は机に手をついて前のめりになる。
「……それは?」
オウム返しに、部長が訊ねる。困った表情の七海先生の顔を、吸い込むように黒い瞳で覗き込む。
「ええと……その」
たじろぐ七海先生。部長と、隣の抱き枕を交互に眺めてはうんうん唸り始める。まるで究極の選択を迫られているみたいに。見ていてなんだか不憫に思えてきた。
「私は先生で、でも……~~~~っ」
人生最大の葛藤と直面したかのように、苦悩が顔に浮かぶ。
そして数十秒、頭を抱えた後、
「……わかりました」
消え入りそうな七海先生の声。
まさか高校入学後の数か月で、教師が生徒に屈する場面を目の当たりにするとは思いもしなかった。
「ありがとうございます、七海先生。ではどうぞ。これはお譲りします」
「……やったー! しゃーく君!」
もふっ! と抱き枕に向かってダイブした。「えへへ~」普段教壇に立つ人とは思えないくらいニヤけ顔で、満足そうに顔をうずめている。なんだか、こういう表情の方が似合う気がする。
「……それで、七海先生」
「えっ? あっ、そ、そうね」
抱き枕から一旦身体を離し、ごほん、と咳払いをする。
「ええと、天川さんがどうして美術部を退部するのか、だったわよね? ……言っておきますけど、他の生徒には言っちゃだめですよ?」
「もちろん、しゃーく君に誓って、秘密にします」
笑みを向ける部長。七海先生はやってしまったとばかりに自省の色を漂わせながら、息を大きく吐いて、言った。
「天川さん、来月からフランスへ留学に行くのよ」
