「美術部の廃部を諦めたい、ね」
依頼人――高座北斗の言葉を、俺はリピートして口に出した。
「はい」
高座は依頼人用のパイプ椅子に座って答える。ちなみに夕月の怒りはまだ収まっていなかったが、依頼人が来たということでしぶしぶ帰っていった。去り際「あとで覚えてろ……?」なんて不穏なセリフが漂ってきたが、聞こえないフリをした。
「廃部だなんて、何か問題でも起こしたのかしら?」
「い、いえ! 何もしてないですよ。単純に、部員不足だから、です」
高座が慌てながら答える。彼も俺と同じ一年生とのことだが、クラスが違うせいで初対面だった。
「てことは、今現在の美術部の部員は二人ってことか?」
「はい。僕ともう一人、二年の天川渚先輩です」
なんだかウチと境遇が似ているな。
この学校での部活動が存続するためには、最低でも部員が二人いる。誰かが退部して一人きりになったり、先輩が引退して一人になって新入生に入部してもらわなかったりすると廃部になってしまう。つまり例えばの話だが、部長がこの瞬間、何かの気まぐれで天文部を去った場合、即廃部になってしまうのだ。
「美術も大変だな……」
だからなんとなく他人事には思えなくて、気づけば俺は積極的に会話に参加していた。
三人で囲まれた机には、いつもどおり三つのカップ。いつもと違うのは、中身がアイスココアなことだ。持ってきたばかりの冷蔵庫の機能を披露しようと、意気揚々と製氷機でつくった氷をカップにぶち込んだ結果だった。
「廃部になるってことは、その天川さんが退部するから……ということね」
「そう、です」
高座は猫背気味の背中をさらに丸めた。猫背でわかりにくいが、かなりがっしりした体型だった。短めの黒髪も相まって、見た目は完全に運動部だ。依頼と関係なしで美術部所属と言われても信じられないかもしれない。
「高座君は知っているの? 天川さんが退部する理由」
「いえ、それが……」
部長の問いに、言葉を濁す。
「先輩、三日前にいきなり辞めるとだけ言ってきただけで。それっきり、部活にも来なくなりましたから」
「天川先輩とはそれ以来話せてないのか?」
「はい、なんだか避けられてるみたいで」
この様子じゃ、高座本人が天川先輩に退部理由を聞きに行くのは難しいだろう。いや、高座でなくとも、いきなり辞めると言ってきた年上の人間をつかまえて理由を問うのはハードルが高い。
「退部の理由に、なにか心当たりはあるのかしら?」
高座は力なく首を振る。
「全然、です。そもそも先輩、話すのがそんなに好きじゃないみたいで……まあ僕も得意じゃないんですけど。部活中もあんまり会話はしなかったですから」
二人の仲が悪い、と断ずるにはいささか早計かもしれない。現に高座からは天川先輩を嫌っている様子はうかがえない。むしろ好意的な印象を持っているようだ。
「天川先輩も、きっと何か理由があって退部するんだと思うんです。僕に何も言わないのも、ちゃんとしたわけがあるって」
俺と部長は黙って聞く。彼なりに考えていることを。彼の思いを。
「わかってるつもりです、廃部になっちゃうのも仕方ないって。でも……」
「でも?」
「僕が美術部に入ったきっかけって、天川先輩なんです。中学の時に、コンクールで展示されていたいた絵を見て……。だから、どうしても踏ん切りがつかなくて……それでお願いにきたんです」
「そっ……か」
高座を思いとどまらせているのは、おそらく天川先輩への憧れと、美術部で彼女と過ごした日々があるからだろう。
つまりは、思い出との決着。高座自身ある程度、廃部の事実を受け止めている以上、依頼内容の本質はそこにあるような気がした。
「ダメ、でしょうか……?」
おっかなびっくりでこちらを向く高座。自分ではどうしようもないとはいえ、こんな依頼を知り合いですらなく噂で聞いたレベルの『諦め屋』にしようとしているのだ。不安になるのも頷ける。
「そんなことはないわ」
が、部長はそんなものは杞憂だとばかりに答える。いつもどおりに。
「私たちは『諦め屋』。依頼人の依頼には全霊を以て受けさせていただくもの」
にっこりと笑みを高座に向ける。俺には営業スマイルだとわかるが、初対面の依頼人からすれば心強いものに映ることだろう。
すう、と部長が息を吸い込む。そして、依頼受諾を告げた。
「それじゃあ、『美術部の廃部を諦める』お手伝い、『諦め屋』がさせていただきます」
『諦め屋』の行動開始は、依頼を受けた翌日の昼休みだった。
事前に待ち合わせ場所と時間を告げられた俺は早々に昼食を済ませ、部長と合流した。その後半ば強引に連れまわされ、今は彼女の後ろをついていく形で校舎裏を歩いている。
放置されているせいか、辺り一面木々や草が好き放題に成長してジャングルみたいになっている。
「……で、なんで俺も一緒に行かないといけないんですか」
俺の苦言を聞いた部長が立ち止まる。振り向きざまに見せる表情は、いつもの悪戯っぽいそれになっていて、
「あら、そんなこと言っていいのかしら」
「どういうことですか」
「昨日、女の子の着替えを覗いたのは誰だったかしら」
「いや、あれは部長が変なメッセージを送ってくるから」
「勝手に勘違いしたのは晴人くんじゃない。私は別に『約束』抜きであのメッセージを送ったつもりだったのに」
「ぐ……」
「本当なら覗き魔として先生に報告してもいいのだけど、それだと不祥事で天文部の存続も危うくなってしまうわね……責任をとって私が部を辞めてもいいけど、それだと部員が足りなくて廃部になってしまうものね」
「うぐ……」
ぐうの音も出ない、とはこのことかと痛感するくらい、何も反論できなかった。
要は覗いたんだから贖罪のために手伝え、ということだろう。
そんなに恥ずかしがってもいなかったくせに。その顔じゃあ、どうせ俺をうまく使うネタができたくらいにしか考えてないだろうに。
「……わかりました。今回だけですからね」
「うんうん、素直な後輩を持って私は幸せだわ」
嘘つけ。
本当は一緒に『諦め屋』として行動するのは嫌だったが、今回ばかりはしょうがないと自分に言い聞かせる。それに、高座の依頼内容は他人事とも思えないし。
「一応確認しておきたいんですけど」
「どうぞ?」
「方針としては天川先輩から退部理由を聞いて、それを高座に伝えるんですよね」
「ええ。どんな理由かは知らないけど、理由さえわかれば高座くんは納得し、廃部になるのを諦めるでしょうし」
「そう、ですね」
対応方針としてはいたってシンプル。だが、もしその理由が高座に伝えられないようなものだとしたら。そもそも天川先輩は高座に伝えるべきでないと判断したから、理由も告げずに退部したのではないんだろうか。
だとすれば、たとえ俺たちが退部理由を知ったところで何も変わらないのではないか。俺たちには、どうすることもできないのではないか。
……となると。
また、嘘で諦めさせるんだろうか。
目に映る後ろ姿に、目線で問いかける。けれども、迷いなく進むその背中には、何の答えも書いていない。
桜庭先輩の時のことが、脳裏をちらつく。あんな結末は、今度は避けたいと思う。たとえ嘘をつくことで、きれいさっぱり諦めることができるのだとしても。依頼人を笑顔にできたとしても。
そこまで考えたところで、草のツンとした匂いが鼻を刺し、俺は我に返った。
「というか、本当にこの先にいるんですかね?」
「そうね、ここまで来た私たちとしては、いてもらわないと困るわね」
まずは本人に会ってみよう。ということで、退部を表明している天川渚先輩のクラス――二年C組へと向かった……まではよかったが、残念なことに、教室に彼女はいなかった。
彼女のクラスメイトに聞いたところ、天川先輩はいつも昼休みをとある場所で過ごしているらしいとのことだったので、そこへ向かうためにこうして道なき道を進んでいるわけだ。
って言っても天川先輩、クラスの人ともそんなに仲がいいわけじゃなさそうだったし、実は見当違いだった、とかじゃないよな。
疑心暗鬼になりながら部長の背中を追って歩いていると、
「……誰かいるわね」
「え?」
鬱蒼とした草むらを抜けた先、俺たちがたどりついたのは学校敷地のちょうど角にあたる部分だった。そこにはまるでこの場所を守っているかのように、大きな桜の木が一本だけそびえ立っている。春に咲き誇っていたであろう花の面影はないが、太陽の光を存分に浴びた葉を四方八方に茂らせ、成長し、根元に大きな影を作っている。
その木陰に、一人の女子生徒が座り込んでいた。
三角座りをした膝の上にはスケッチブックが開かれていて、鉛筆を持つ彼女の視線はスケッチブックの中に注がれている。
遠目で顔まではっきりわからないが、二年生を示す緑のリボンが見える。おそらく彼女が、天川渚先輩。高座ともう一人の、美術部員だ。いや「だった」と言うのが正しいか。
「……」
声をかければいい。そう思うのに、俺は後ろから引っ張られているみたいに身動きが取れなかった。近づくことさえ、躊躇された。
彼女と、彼女がいる背景が、まるで一枚の絵画のようだったからだ。芸術作品に軽々しく触れることは許されない。そんな禁忌に触れるような厳かな空気が、そこにはあった。
「あなたが天川さんかしら?」
しかし、部長にとってはそうでないらしく、ずかずかと絵画の中に入り込み、声をかけた。この人には芸術作品に対する謙虚さとか諸々の感情はないのか。
その一声で絵画の世界は崩壊したので、俺も天川先輩のもとへと近づく。
「……そうだけど、あなたたちは?」
スケッチブックから移された視線。瑠璃色の瞳には、疑念の光が内包されている。明らかに嫌そうな顔してる。天川先輩にとって、ここは人と会う場所ではないことが一発でわかった。
「実は、あなたにアドバイスをもらいたくて」
そんな彼女に、部長はこう切り出した。
「……アドバイス?」
「あなたがいる美術部、部員が二人だけなんですって? 私たちは天文部なんだけど、同じように部員が二人だけなの。それで、部員が少ない部同士、部活動をやっていくうえでどうすればいいのか話したいなと思って」
なるほど、その方向から攻めるのか。高座のことを話すわけにはいかないだろうし、なんて話を切り出せばいいかわからなかったけど、これなら嘘はついていない。それに自然と部活動の話題に入っていける。意外とこの人も考えてるんだな。
……が。
「それ、私が答える必要ある?」
訝しい表情は変わらず、天川先輩は言った。
「天文部って言ったわよね。聞いた話じゃ、天文部ってロクに活動してないらしいじゃない。そんな相手にいちいち答える義理はないと思うんだけど」
ぐさぐさぐさ。バラの花束を抱きしめたみたいに棘が刺さりまくった。おっしゃるとおりだ。いい機会だから部長にもっと言ってやってくれないか。
「放課後なにしてるのかは知らないけど、どうせブラブラして遊んでるんでしょ。私に聞く前にまずは真面目に活動したらどうかしら」
正論をまくしたてる天川先輩。しかし部長はまったく動じず、微笑みを崩さない。
「……はあ」
わざとらしい大きなため息をついた天川先輩は、勢いよくスケッチブックを閉じる。邪魔が入ったせいで興が削がれたという主張が全面に押し出された仕草だった。
立ち上がると、肩甲骨あたりまで伸びた黒髪がふわりと揺れる。座っていたのでわからなかったが、天川先輩は思ったよりも小柄だった。
そして俺たちには目もくれず、草むらの方へと歩き出した。
「あら、スケッチはもういいの?」
「あなたたちが来なければまだ続けてたわ」
「それは悪いことをしたわね、ごめんなさい」
あんまり謝罪の気持ちがこもっていない言葉だと判断したのか、天川先輩は睨むように顔を半分だけ向けてくる。それから「はあ」とまた大きなため息をついて、
「ひとつ言っておくけど」
「なにかしら?」
「今後は私にそういう質問、してこないでくれる? 私、もう美術部を辞めてるから」
そう吐き捨てて、去っていく。ただでさえ小さな彼女の背中が、みるみるうちに小さくなっていった。
夏の訪れを感じさせる湿度と温度をのせた風が、残った俺と部長の間を抜けていく。
「……もしかして、嫌われちゃったかしら?」
「あれで好かれる方がおかしいと思います」
小首を傾げながら向けてくるほほ笑みに、俺は正直な感想を告げた。
依頼人――高座北斗の言葉を、俺はリピートして口に出した。
「はい」
高座は依頼人用のパイプ椅子に座って答える。ちなみに夕月の怒りはまだ収まっていなかったが、依頼人が来たということでしぶしぶ帰っていった。去り際「あとで覚えてろ……?」なんて不穏なセリフが漂ってきたが、聞こえないフリをした。
「廃部だなんて、何か問題でも起こしたのかしら?」
「い、いえ! 何もしてないですよ。単純に、部員不足だから、です」
高座が慌てながら答える。彼も俺と同じ一年生とのことだが、クラスが違うせいで初対面だった。
「てことは、今現在の美術部の部員は二人ってことか?」
「はい。僕ともう一人、二年の天川渚先輩です」
なんだかウチと境遇が似ているな。
この学校での部活動が存続するためには、最低でも部員が二人いる。誰かが退部して一人きりになったり、先輩が引退して一人になって新入生に入部してもらわなかったりすると廃部になってしまう。つまり例えばの話だが、部長がこの瞬間、何かの気まぐれで天文部を去った場合、即廃部になってしまうのだ。
「美術も大変だな……」
だからなんとなく他人事には思えなくて、気づけば俺は積極的に会話に参加していた。
三人で囲まれた机には、いつもどおり三つのカップ。いつもと違うのは、中身がアイスココアなことだ。持ってきたばかりの冷蔵庫の機能を披露しようと、意気揚々と製氷機でつくった氷をカップにぶち込んだ結果だった。
「廃部になるってことは、その天川さんが退部するから……ということね」
「そう、です」
高座は猫背気味の背中をさらに丸めた。猫背でわかりにくいが、かなりがっしりした体型だった。短めの黒髪も相まって、見た目は完全に運動部だ。依頼と関係なしで美術部所属と言われても信じられないかもしれない。
「高座君は知っているの? 天川さんが退部する理由」
「いえ、それが……」
部長の問いに、言葉を濁す。
「先輩、三日前にいきなり辞めるとだけ言ってきただけで。それっきり、部活にも来なくなりましたから」
「天川先輩とはそれ以来話せてないのか?」
「はい、なんだか避けられてるみたいで」
この様子じゃ、高座本人が天川先輩に退部理由を聞きに行くのは難しいだろう。いや、高座でなくとも、いきなり辞めると言ってきた年上の人間をつかまえて理由を問うのはハードルが高い。
「退部の理由に、なにか心当たりはあるのかしら?」
高座は力なく首を振る。
「全然、です。そもそも先輩、話すのがそんなに好きじゃないみたいで……まあ僕も得意じゃないんですけど。部活中もあんまり会話はしなかったですから」
二人の仲が悪い、と断ずるにはいささか早計かもしれない。現に高座からは天川先輩を嫌っている様子はうかがえない。むしろ好意的な印象を持っているようだ。
「天川先輩も、きっと何か理由があって退部するんだと思うんです。僕に何も言わないのも、ちゃんとしたわけがあるって」
俺と部長は黙って聞く。彼なりに考えていることを。彼の思いを。
「わかってるつもりです、廃部になっちゃうのも仕方ないって。でも……」
「でも?」
「僕が美術部に入ったきっかけって、天川先輩なんです。中学の時に、コンクールで展示されていたいた絵を見て……。だから、どうしても踏ん切りがつかなくて……それでお願いにきたんです」
「そっ……か」
高座を思いとどまらせているのは、おそらく天川先輩への憧れと、美術部で彼女と過ごした日々があるからだろう。
つまりは、思い出との決着。高座自身ある程度、廃部の事実を受け止めている以上、依頼内容の本質はそこにあるような気がした。
「ダメ、でしょうか……?」
おっかなびっくりでこちらを向く高座。自分ではどうしようもないとはいえ、こんな依頼を知り合いですらなく噂で聞いたレベルの『諦め屋』にしようとしているのだ。不安になるのも頷ける。
「そんなことはないわ」
が、部長はそんなものは杞憂だとばかりに答える。いつもどおりに。
「私たちは『諦め屋』。依頼人の依頼には全霊を以て受けさせていただくもの」
にっこりと笑みを高座に向ける。俺には営業スマイルだとわかるが、初対面の依頼人からすれば心強いものに映ることだろう。
すう、と部長が息を吸い込む。そして、依頼受諾を告げた。
「それじゃあ、『美術部の廃部を諦める』お手伝い、『諦め屋』がさせていただきます」
『諦め屋』の行動開始は、依頼を受けた翌日の昼休みだった。
事前に待ち合わせ場所と時間を告げられた俺は早々に昼食を済ませ、部長と合流した。その後半ば強引に連れまわされ、今は彼女の後ろをついていく形で校舎裏を歩いている。
放置されているせいか、辺り一面木々や草が好き放題に成長してジャングルみたいになっている。
「……で、なんで俺も一緒に行かないといけないんですか」
俺の苦言を聞いた部長が立ち止まる。振り向きざまに見せる表情は、いつもの悪戯っぽいそれになっていて、
「あら、そんなこと言っていいのかしら」
「どういうことですか」
「昨日、女の子の着替えを覗いたのは誰だったかしら」
「いや、あれは部長が変なメッセージを送ってくるから」
「勝手に勘違いしたのは晴人くんじゃない。私は別に『約束』抜きであのメッセージを送ったつもりだったのに」
「ぐ……」
「本当なら覗き魔として先生に報告してもいいのだけど、それだと不祥事で天文部の存続も危うくなってしまうわね……責任をとって私が部を辞めてもいいけど、それだと部員が足りなくて廃部になってしまうものね」
「うぐ……」
ぐうの音も出ない、とはこのことかと痛感するくらい、何も反論できなかった。
要は覗いたんだから贖罪のために手伝え、ということだろう。
そんなに恥ずかしがってもいなかったくせに。その顔じゃあ、どうせ俺をうまく使うネタができたくらいにしか考えてないだろうに。
「……わかりました。今回だけですからね」
「うんうん、素直な後輩を持って私は幸せだわ」
嘘つけ。
本当は一緒に『諦め屋』として行動するのは嫌だったが、今回ばかりはしょうがないと自分に言い聞かせる。それに、高座の依頼内容は他人事とも思えないし。
「一応確認しておきたいんですけど」
「どうぞ?」
「方針としては天川先輩から退部理由を聞いて、それを高座に伝えるんですよね」
「ええ。どんな理由かは知らないけど、理由さえわかれば高座くんは納得し、廃部になるのを諦めるでしょうし」
「そう、ですね」
対応方針としてはいたってシンプル。だが、もしその理由が高座に伝えられないようなものだとしたら。そもそも天川先輩は高座に伝えるべきでないと判断したから、理由も告げずに退部したのではないんだろうか。
だとすれば、たとえ俺たちが退部理由を知ったところで何も変わらないのではないか。俺たちには、どうすることもできないのではないか。
……となると。
また、嘘で諦めさせるんだろうか。
目に映る後ろ姿に、目線で問いかける。けれども、迷いなく進むその背中には、何の答えも書いていない。
桜庭先輩の時のことが、脳裏をちらつく。あんな結末は、今度は避けたいと思う。たとえ嘘をつくことで、きれいさっぱり諦めることができるのだとしても。依頼人を笑顔にできたとしても。
そこまで考えたところで、草のツンとした匂いが鼻を刺し、俺は我に返った。
「というか、本当にこの先にいるんですかね?」
「そうね、ここまで来た私たちとしては、いてもらわないと困るわね」
まずは本人に会ってみよう。ということで、退部を表明している天川渚先輩のクラス――二年C組へと向かった……まではよかったが、残念なことに、教室に彼女はいなかった。
彼女のクラスメイトに聞いたところ、天川先輩はいつも昼休みをとある場所で過ごしているらしいとのことだったので、そこへ向かうためにこうして道なき道を進んでいるわけだ。
って言っても天川先輩、クラスの人ともそんなに仲がいいわけじゃなさそうだったし、実は見当違いだった、とかじゃないよな。
疑心暗鬼になりながら部長の背中を追って歩いていると、
「……誰かいるわね」
「え?」
鬱蒼とした草むらを抜けた先、俺たちがたどりついたのは学校敷地のちょうど角にあたる部分だった。そこにはまるでこの場所を守っているかのように、大きな桜の木が一本だけそびえ立っている。春に咲き誇っていたであろう花の面影はないが、太陽の光を存分に浴びた葉を四方八方に茂らせ、成長し、根元に大きな影を作っている。
その木陰に、一人の女子生徒が座り込んでいた。
三角座りをした膝の上にはスケッチブックが開かれていて、鉛筆を持つ彼女の視線はスケッチブックの中に注がれている。
遠目で顔まではっきりわからないが、二年生を示す緑のリボンが見える。おそらく彼女が、天川渚先輩。高座ともう一人の、美術部員だ。いや「だった」と言うのが正しいか。
「……」
声をかければいい。そう思うのに、俺は後ろから引っ張られているみたいに身動きが取れなかった。近づくことさえ、躊躇された。
彼女と、彼女がいる背景が、まるで一枚の絵画のようだったからだ。芸術作品に軽々しく触れることは許されない。そんな禁忌に触れるような厳かな空気が、そこにはあった。
「あなたが天川さんかしら?」
しかし、部長にとってはそうでないらしく、ずかずかと絵画の中に入り込み、声をかけた。この人には芸術作品に対する謙虚さとか諸々の感情はないのか。
その一声で絵画の世界は崩壊したので、俺も天川先輩のもとへと近づく。
「……そうだけど、あなたたちは?」
スケッチブックから移された視線。瑠璃色の瞳には、疑念の光が内包されている。明らかに嫌そうな顔してる。天川先輩にとって、ここは人と会う場所ではないことが一発でわかった。
「実は、あなたにアドバイスをもらいたくて」
そんな彼女に、部長はこう切り出した。
「……アドバイス?」
「あなたがいる美術部、部員が二人だけなんですって? 私たちは天文部なんだけど、同じように部員が二人だけなの。それで、部員が少ない部同士、部活動をやっていくうえでどうすればいいのか話したいなと思って」
なるほど、その方向から攻めるのか。高座のことを話すわけにはいかないだろうし、なんて話を切り出せばいいかわからなかったけど、これなら嘘はついていない。それに自然と部活動の話題に入っていける。意外とこの人も考えてるんだな。
……が。
「それ、私が答える必要ある?」
訝しい表情は変わらず、天川先輩は言った。
「天文部って言ったわよね。聞いた話じゃ、天文部ってロクに活動してないらしいじゃない。そんな相手にいちいち答える義理はないと思うんだけど」
ぐさぐさぐさ。バラの花束を抱きしめたみたいに棘が刺さりまくった。おっしゃるとおりだ。いい機会だから部長にもっと言ってやってくれないか。
「放課後なにしてるのかは知らないけど、どうせブラブラして遊んでるんでしょ。私に聞く前にまずは真面目に活動したらどうかしら」
正論をまくしたてる天川先輩。しかし部長はまったく動じず、微笑みを崩さない。
「……はあ」
わざとらしい大きなため息をついた天川先輩は、勢いよくスケッチブックを閉じる。邪魔が入ったせいで興が削がれたという主張が全面に押し出された仕草だった。
立ち上がると、肩甲骨あたりまで伸びた黒髪がふわりと揺れる。座っていたのでわからなかったが、天川先輩は思ったよりも小柄だった。
そして俺たちには目もくれず、草むらの方へと歩き出した。
「あら、スケッチはもういいの?」
「あなたたちが来なければまだ続けてたわ」
「それは悪いことをしたわね、ごめんなさい」
あんまり謝罪の気持ちがこもっていない言葉だと判断したのか、天川先輩は睨むように顔を半分だけ向けてくる。それから「はあ」とまた大きなため息をついて、
「ひとつ言っておくけど」
「なにかしら?」
「今後は私にそういう質問、してこないでくれる? 私、もう美術部を辞めてるから」
そう吐き捨てて、去っていく。ただでさえ小さな彼女の背中が、みるみるうちに小さくなっていった。
夏の訪れを感じさせる湿度と温度をのせた風が、残った俺と部長の間を抜けていく。
「……もしかして、嫌われちゃったかしら?」
「あれで好かれる方がおかしいと思います」
小首を傾げながら向けてくるほほ笑みに、俺は正直な感想を告げた。
