今日初めて着る制服のズボンとシャツ。新調したピンクのカーディガンに袖を通した。少し大きいくらいで丈の長さは完璧。部屋の姿見を確認する。
前髪の長さもセットもOK。おそらく化粧は校則で禁止されているだろうから、日焼け止めとバレない程度の血色感の出るリップをしている。窓から差し込む朝の光が唇を艶やかに照らした。太陽の下での馴染み具合も大丈夫だ。
「優ー、準備まだー? 遅れるよー」
一階から急かすようなお母さんの声が聞こえてくる。
「今行くー」
鏡の中の自分をもう一度見て小さくうん、と頷いてから通学鞄を背負った。
通学鞄の中はまだ軽いが、これから増えていくんだろうな、と期待で胸を膨らませた。
自室を飛び出て階段を駆け降りると、玄関でお母さんとお父さんが準備していた。
「もう準備できたの? 忘れ物ない?」
「たぶん……大丈夫!」
必要なものは特に無いだろうと、入学式に向けてのプリントを思い出すことなく答えた。
玄関を開けると春の陽気が降りかかる。気温も程よく暖かい。まるで僕ら新入生の入学を祝っているようだった。
私立○○学園高校は、名門ではないけれど名の知れた男子校だ。自由が尊重されており制服の自由度が高いという理由で志望した。
両親と共に早めに着いた僕は、大きな校舎を見上げる。
拳にぎゅっと力を入れた。
——僕はこの学校で一番可愛い、を目指す。
早めに着いたので少しはのんびりできるのかと思っていると、入学式と書かれた立て看板の前に慌ただしく立たされた。
「はい、優。ほらこっち見て」
お母さんがカメラをこちらに向けた。真面目そうな文字で書かれた看板を前にピースをした。そして、口角をこれまでの練習通りに上げる。
「撮るよー」
パシャリとスマホのシャッター音が聞こえた。
「どう? 上手く撮れた?」
お母さんに駆け寄って、スマホを見させてもらう。
「よく撮れてんじゃない?」
「うーん……そうかなぁ……」
スマホの中の自分はまだぎこちない笑顔に見えた。まだまだだ。これじゃあまだ一番にはなれそうもない。
「ちょっともう一枚だけ撮って」
「えーもう十分じゃないの?」
「ダメ! もう一枚!」
「はいはい」
お母さんに呆れられながら撮ってもらった一枚は渾身の出来で、なかなか上手く笑えていた。
周りにいる新しい制服を着た人たちを見て、僕が一番可愛いことを確認してから掲示板のある場所へと向かった。
学校の入り口まで歩いていくと、大きい掲示板があった。そこにクラスが書かれている。
自分の名前を両親と共に探す。先に僕の名前を見つけたのはお母さんだった。
「優、あったよ」
「ほんとだ。1-Bか。じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい! また後でね」
「頑張れよ」
「はーい」
手を振ってくれた両親に別れを告げて自分の教室へと向かった。
確かクラスは1-B……ここだ。
ふぅと深呼吸をしてから、満を持して教室のドアを開けた。
少し早めに着いたからか、クラスメイトはまだちらほらといるだけだった。黒板の前に貼られた席表で自分の席を探した。
ドア側から二列目の最後列。
軽くスキップしながら自分の机に鞄を置いた。
今日からここが僕の席になる。早速、席に座ってみた。
なかなか良い眺めだ。クラス全体を見渡すことが出来る。
もう既に前の席は爽やかな青年が座っていた。
緊張をほぐすために声をかけてみることにした。少し声の調子を整えてから、肩を軽く叩いた。顔の角度は軽く斜めにして上目遣いになるように調整する。
「あの……はじめまして」
「あ、はじめまして」
「えーっと、僕、来部優って言います」
「俺は柿崎智弥です。よろしくお願いします」
彼は短髪で体つきはしっかりとしていた。清潔感もあって女子にもモテそうな雰囲気だった。
「智弥くん……! よろしくお願いします。あと……良かったら敬語使わないで話さない?」
会話の中でタイミング良く微笑みを浮かべる。大丈夫。ちゃんと可愛く笑えているはず。
「分かった。よろしく」
彼もつられるように爽やかに歯を見せて笑った。
「入学式緊張するよなぁ」
「うん。そうだねー。でも、智弥くんが前の席で良かった! なんか安心した」
「マジ? 嬉しいなー!」
智弥くんとにこやかに楽しく話していたが、会話は途中で中断された。
ふと逸らした目線の先、机と机の間を颯爽と歩いてこちらに向かってくるクラスメイトに僕は目を奪われてしまった。
水色の可愛いベストにふわふわに揺れる髪。バランス良く整った顔立ち。常に少し上がっている口角は天使のようで。
極め付けは、きゅるきゅるに潤んだつぶらな瞳。
可愛い、を体現したかのような彼に目が離せなかった。
心の中に建っていた自信の城がガラガラと崩れていく音が聞こえた。
可愛い系男子がクラスに二人もいるなんて……
ジロジロと値踏みするように見ている僕に気付いて、彼は軽く首を傾げてにこっと笑った。周りに花のエフェクトが見えた気がする。
あまりの衝撃で息をするのを忘れていた。
そんなことを知る由もなく、彼は僕の斜め前の席にストンと座った。
荷物を机の上に置いたかと思えば、パッとこちらを振り返った。少し離れているのにふんわりといい香りが漂ってきた。
「二人とも、もう友達なの? 僕は江宮雫!」
うるうると光の入った目は大きく開かれていて、吸い込まれそうになる。はっきりとしていて聞きやすい声は身体を貫通した。
何も答えられずにいると、智弥くんが先に答えた。
「俺は柿崎智弥って言います」
「僕はっ! 来部、優っ!」
乗り遅れないように慌てて答えた。
「うん。二人ともよろしくね」
また満面の笑みをこちらに向けてくる。
智弥くんは僕と雫くんを交互に見ながらぼそっと呟いた。
「なんか二人とも可愛い感じだよね」
智弥くんが放った一言で心の炎が一気に燃え上がった。
「ぼ、僕の方が可愛いけどねっ!」
ついムキになって言ってしまった。ちらっと雫くんの方を見ると、頬をぷくっと膨らませている。
「いーや、僕の方が可愛いもん!」
お互いにむーっと口を尖らせ、目からパチパチと電気が流れるくらい睨み合った。
「あ、え、ごめん。あの二人とも可愛いよ……」
挟まれていた智弥くんが耐えきれず僕らを仲裁してくれた。それがかえって僕らに更なる火をつけた。
「「じゃあ、智弥くんがジャッジしてよ!」」
心のままに叫ぶと雫くんと声が揃った。智弥くんは目をぱっと開きながら、僕と雫くんをキョロキョロと見比べる。
「え! 俺⁉︎」
「僕らのどっちがより可愛いか」
「智弥くんが」
「「決めて」」
また揃った。腕を組んで雫くんに対抗の目線を送ると、彼も同じように腕を組んで目線を送ってきた。
こうなったら絶対負けたくない!
智弥くんに苦笑いされつつも、雫くんと睨み合っていると先生が入ってきた。二人の喧嘩は中断され、ふんっと互いに言い合ってから席についた。
入ってきた先生がえー、と前置きをしてから話し始めた。
「入学おめでとうございます。まず出席を取ります。その後は体育館に移動しますからね」
名前の順で呼ばれていき、出席を取った。雫くんはハキハキとしていてなおかつ透き通るような声だ。返事という短い単語でもそれが発揮されていた。
僕はというと変に力が入りすぎて上手く言えなかった。こういう細かい部分でも雫くんは余裕で、僕を焦らせる。
「はい。ではこれから体育館に向かいますのでみなさん立ち上がってください。廊下に並んでから移動します」
クラスの全員が椅子をガタガタと引いて、立ち上がった。
智弥くんは僕より身長が高かった。僕は百六十八センチあるので、彼は百七十センチは超えていると思う。
そして、雫くんはというと僕よりも小さかった。ほとんど変わらないくらいだけど、並んだら分かるくらいには小さい。そんなところも可愛い。悔しい。
むむむと悔しさを堪えながら廊下に並んだ後は、ぞろぞろと体育館へと向かった。
入学式は思っていたよりも早く終わった。学生生活がついに始まるぞ、というワクワクと不安で胸を躍らせた。
入学式を終えた僕たちは、満開の桜の下でクラスごとに写真撮影をした。
気付くと頭の中は雫くんでいっぱいで撮影の時は無理やり笑顔を作った。上手く笑えなかった気がする。全員いる時では笑顔が不恰好でも撮り直せない。
肩を落としながら教室に戻り、明日からの学校生活の説明を聞いた。粛々と担任の先生がプリントを配り始める。
「明日もこのプリント使うので名前書いてくださいねー」
まずい。入学式だから、と思って何も持ってきていない。説明会の時に貰ったプリントには書いてあったかもしれないが、朝は自分の準備に必死で読んでこなかった。
なんでちゃんと朝に見直さなかったかなぁ、と頭を抱えた。
……いや、むしろこれはチャンスかもしれない。
智弥くんの肩をツンツンと突くと、ん?と振り返ってくれた。智弥くんにだけ聞こえるよう、耳元に囁く。
「智弥くん……ペン持ってる……? 僕忘れちゃって……」
「あーあるよ……ちょっと待って」
智弥くんが筆箱をガサゴソと探していると、斜め前から刺客がやってきた。刺客は周りに聞こえないようにこっそりと囁いた。
「ゆうくんペンないの? 僕、ペンたくさん持ってるから貸してあげる」
彼の手に持たれていたのは目がまん丸な可愛らしいシロクマのペンだった。
「……ありがと」
そのペンを渋々受け取った。
智弥くんはこちらを見ながら「良かったな」とだけ言って、また前を向いてしまった。
僕の可愛さを智弥くんにアピールするところだったのに、完全に雫くんに一本取られた。
ペンもめちゃくちゃ可愛いし、それに雫くんの動きもいちいち……
ペンに付いたシロクマくんにむぅーと睨みつけてみる。なんだかこのシロクマくん、雫くんに似てるような……
見比べるためにちらっと雫くんを見ると、あっちもこちらを見ていたらしく、目が合った。途端に彼の口角がきゅっと上がった。
心臓がドクンと跳ね、慌てて目を逸らした。
そんな可愛い仕草、僕はまだ出来ない。
入学式も説明の授業も終わると、今日はもうこれで終わりとなる。
クラスメイトのそれぞれが帰路へとついていく。
智弥くんはリュックを片側に背負い僕ら二人に手をあげて、じゃあな、と言って教室を去った。
雫くんも荷物を持ってぴょこんと立ち上がった。
「ゆうくんっ! また明日ね!」
「うん。また明日!」
雫くんは手をブンブンと振って教室を出て行った。
教室を去るその時までなんだか可愛い雰囲気に包まれていた。
*
校舎を出て、両親と合流した。あとはもう帰るだけだ。ビル群の中を通って駅まで向かう。
「ふぅん……」
入学早々、立ちはだかる壁に思わず猫背になった。下がってしまう口角も無理やりあげてみては、気付くと下がっている。
「優、さっきから何してるの?」
校門を通り過ぎてから駅に向かうまでに口角を上げ下げしている姿を見られて、お母さんに心配されてしまった。
「なんでもない……」
「大丈夫? 友達できそう?」
「友達……」
智弥くんが始めにぽわっと浮かんできた。彼とはなんだか仲良くなれそうな気がする。
そして、今自分の心を大きくかき乱している雫くんがずばんっと脳内に現れる。頭の中で彼が上目遣いで微笑んだ。
とっても可愛い。だからこそ悔しい。
「友達できるか、わかんない……」
「まだ一日目だからねぇ。友達できるといいね」
「うん……」
お母さんは優しい言葉をかけてくれた。
仲の良い友達よりも先に敵が出てきてしまいそうだとは言えなかった。
電車に乗ってから暇を潰すためにスマホを開いた。ホーム画面には中学の時の彼と一緒に撮った写真を設定している。
思い出の中で、彼は爽やかな笑顔で目尻をギュッと細めた。僕よりも体格はしっかりしていて頼もしい。思い出すだけで心臓が速くなる。
写真を見て思い直し、これまでの揺れ動いていた自分に喝を入れる。
やっぱり、負けていられない。全ては中学時代の彼のため。
まだまだ僕は可愛くなれるんだ。
家に帰ってご飯を食べたあと、すぐに特訓に入った。割り箸を咥えて鏡を見ながら口角を上げる練習。指で顔を押さえて筋肉をほぐしたりしてみる。他にも動画サイトで出来そうなことを調べては試してみた。
夜更かしはお肌の敵なので、いつもよりも早めにベッドに入った。
*
ちゅんちゅんと小さく鳴く鳥の囀りで目を覚ました。目覚まし時計よりも少し早く起きられたことで気分が良い。
今日はなんだか良い気がする。
日課である軽いストレッチをしたり、水を飲んだりして体調を整えた。
出かける前に鏡を見て、今日も自分が一番可愛いぞ、と唱えてから学校へと向かった。
登校すると既に智弥くんも雫くんも席に座っていた。なんだか楽しそうに喋っている。
「何話してるの?」
可愛く聞いてみる。
「優くんのお話! 可愛いねって話してたんだよ」
「えへへ! ほんと? ありがとう!」
「でもー、僕の方が可愛いけどね」
常に上目遣いな雫くんと笑顔で睨み合った。
完全なる宣戦布告だ。
「まぁまぁ二人とも。今日から授業始まるし、喧嘩はせず……」
「「喧嘩じゃないもん!」」
たびたび声が揃う。喧嘩じゃない。これは真剣勝負だ。
先生が入ってきたので、大人しく席に座った。
教科書を貰いに行ったり、校内の設備の使い方の説明であっという間に一日が終わりを迎えようとしていた。
智弥くんに可愛さアピールをしようとすると、その都度雫くんに邪魔をされて上手くいかなかった。
終礼も終わりもう帰るだけになってしまった。
「ねぇ! 智弥くんと優くん! 一緒に帰ろうよ!」
雫くんは智弥くんの腕と僕の腕をちょこんと掴んできた。
「おぉ。いいよ」
「僕も……いいけど」
僕が先に話しかけようと思ったのに先を越されてしまった。
*
学校から駅までの少しの時間。
真ん中に智弥くん。端っこに雫くんと僕が陣取った。
「智弥くん。今日は僕たちのどっちが可愛かった?」
雫くんが先行して声をかけた。あざとく首を傾げている。
「えー! 昨日のマジだったの?」
「マジだよぅー」
雫くんが口を尖らした。僕は智弥くんの袖をちまっと掴み、呟いた。
「僕だよね?」
「いやいや、僕の方が可愛かったよね?」
反対側で雫くんが同じように袖を掴んでいる。
「えー……どうだろう。まぁ、江宮くんかなぁ」
「やったぁ!」
名前を呼ばれたのは雫くんだった。雫くんは小さく飛び跳ねた。
「なんでー!」
僕は口を尖らせて智弥くんを揺らす。
「んーまぁ、なんか可愛かった?かな。いや、俺も男に可愛いって感情よく分かんないんだけど」
得意げな顔をしていた雫くんをキッと見る。
「絶対に明日は負けないんだからね」
「何度でも僕が勝つから挑んでみなよ」
お互いにうぅーと威嚇し合った。真ん中で挟まれている智弥くんは猫背になった。
「えぇー……明日もやんの?」
ここでおしまいにされたら負けになってしまう。
「智弥くんにしか頼めないことだから、やって欲しいな。嫌だったら良いけど……」
目を伏せてわざとらしくしょんぼりしてみる。
「いやいや、まぁ良いけど!」
「明日もしてくれる?」
「あーうん。いいよ」
「やった! ありがとっ!」
どうにか智弥くんを丸め込むことに成功した。
明日こそは絶対に負けない、とは意気込んだものの、家に帰ってからベッドに倒れ込んでジタバタした。
「悔しいっ!」
どうやっても雫くんの方が上手であと一歩追いつかない。もしかしたら一歩どころじゃないかもしれない。
何が足りてないのか、それすら分からない状態で途方に暮れていた。ただ何かが足りないことだけ分かっているからこそ、悔しかった。
今日一日だけでこんなにも格の違いを痛感することになるとは思わなかった。
うぅーと枕に顔を埋めて息を吐き出した。
*
登校してからぼーっとして頬杖をついていると、肩をトントンと叩かれた。振り返ると、ほっぺたに人差し指がむにっと突き刺さった。
「ふふふっ、ゆうくんひっかかったー!」
「もうー! やめてよー!」
まんまと雫くんの罠に引っかかってしまった。ちょっぴり悪戯なところもあるのが、また可愛いから、悔しい。
「なんでそんな浮かない顔してんのー? まさか僕と戦うのが怖くなった?」
図星だ。怖いというよりも戦意喪失に近い。
きゅるきゅるの丸い瞳で見つめられて、目を勢いよく逸らした。ずっと見ていたらもっと自信がなくなりそうだった。
「別に! そんなんじゃないし!」
「えーそうかなぁー? それなら良いけど! 僕のライバルにはもっと強くいてもらわないとねっ!」
最後にそう言い残してから、雫くんは自分の席に戻っていった。
僕のライバル……
雫くんが発したその言葉に、不覚にも自信を付けられてしまった。
ライバルとして認めてくれている。
雫くんは智弥くんにだけではなく、他の人にも可愛いを発揮できるほど余裕がある。それなのに、僕をライバルだと言ってくれている。
僕は……雫くんの隣に堂々と立ち、戦えるようになりたい。
智弥くんが前の扉から入ってこちらに歩いてきた。
「おはよっ、智弥くん!」
これまでの暗い気分を投げ捨てて、とびきり笑顔で可愛く挨拶をした。
なんだか一皮剥けたような気分だった。
今日もまた三人で帰ることになった。昨日と同じように智弥くんを真ん中にサンドイッチする形だ。
「今日はどうだった、智弥くん?」
首を傾げて覗き込むようにして智弥くんに聞いてみる。
「んーまぁ今日は来部かなぁ」
智弥くんが僕の名前を呼んでくれた。
「やったぁ! 嬉しい!」
思わずガッツポーズをして飛び跳ねた。
「えー今日も勝てると思ったのにー! でも、今日のゆうくん一段と可愛かったから仕方ないかぁ」
雫くんは納得したように笑った。
「だな。なんかこう憑き物が取れたみたいな感じ」
「憑き物? なにそれひどーい!」
「あっ、いや別にその変な意味じゃなくて」
焦る智弥くんを尻目に雫くんと僕でケラケラと笑った。対決なのにちょっと楽しいなって思ってしまった。
──明日も絶対に雫くんには負けない。
そう誓って二人を見つめた。
前髪の長さもセットもOK。おそらく化粧は校則で禁止されているだろうから、日焼け止めとバレない程度の血色感の出るリップをしている。窓から差し込む朝の光が唇を艶やかに照らした。太陽の下での馴染み具合も大丈夫だ。
「優ー、準備まだー? 遅れるよー」
一階から急かすようなお母さんの声が聞こえてくる。
「今行くー」
鏡の中の自分をもう一度見て小さくうん、と頷いてから通学鞄を背負った。
通学鞄の中はまだ軽いが、これから増えていくんだろうな、と期待で胸を膨らませた。
自室を飛び出て階段を駆け降りると、玄関でお母さんとお父さんが準備していた。
「もう準備できたの? 忘れ物ない?」
「たぶん……大丈夫!」
必要なものは特に無いだろうと、入学式に向けてのプリントを思い出すことなく答えた。
玄関を開けると春の陽気が降りかかる。気温も程よく暖かい。まるで僕ら新入生の入学を祝っているようだった。
私立○○学園高校は、名門ではないけれど名の知れた男子校だ。自由が尊重されており制服の自由度が高いという理由で志望した。
両親と共に早めに着いた僕は、大きな校舎を見上げる。
拳にぎゅっと力を入れた。
——僕はこの学校で一番可愛い、を目指す。
早めに着いたので少しはのんびりできるのかと思っていると、入学式と書かれた立て看板の前に慌ただしく立たされた。
「はい、優。ほらこっち見て」
お母さんがカメラをこちらに向けた。真面目そうな文字で書かれた看板を前にピースをした。そして、口角をこれまでの練習通りに上げる。
「撮るよー」
パシャリとスマホのシャッター音が聞こえた。
「どう? 上手く撮れた?」
お母さんに駆け寄って、スマホを見させてもらう。
「よく撮れてんじゃない?」
「うーん……そうかなぁ……」
スマホの中の自分はまだぎこちない笑顔に見えた。まだまだだ。これじゃあまだ一番にはなれそうもない。
「ちょっともう一枚だけ撮って」
「えーもう十分じゃないの?」
「ダメ! もう一枚!」
「はいはい」
お母さんに呆れられながら撮ってもらった一枚は渾身の出来で、なかなか上手く笑えていた。
周りにいる新しい制服を着た人たちを見て、僕が一番可愛いことを確認してから掲示板のある場所へと向かった。
学校の入り口まで歩いていくと、大きい掲示板があった。そこにクラスが書かれている。
自分の名前を両親と共に探す。先に僕の名前を見つけたのはお母さんだった。
「優、あったよ」
「ほんとだ。1-Bか。じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい! また後でね」
「頑張れよ」
「はーい」
手を振ってくれた両親に別れを告げて自分の教室へと向かった。
確かクラスは1-B……ここだ。
ふぅと深呼吸をしてから、満を持して教室のドアを開けた。
少し早めに着いたからか、クラスメイトはまだちらほらといるだけだった。黒板の前に貼られた席表で自分の席を探した。
ドア側から二列目の最後列。
軽くスキップしながら自分の机に鞄を置いた。
今日からここが僕の席になる。早速、席に座ってみた。
なかなか良い眺めだ。クラス全体を見渡すことが出来る。
もう既に前の席は爽やかな青年が座っていた。
緊張をほぐすために声をかけてみることにした。少し声の調子を整えてから、肩を軽く叩いた。顔の角度は軽く斜めにして上目遣いになるように調整する。
「あの……はじめまして」
「あ、はじめまして」
「えーっと、僕、来部優って言います」
「俺は柿崎智弥です。よろしくお願いします」
彼は短髪で体つきはしっかりとしていた。清潔感もあって女子にもモテそうな雰囲気だった。
「智弥くん……! よろしくお願いします。あと……良かったら敬語使わないで話さない?」
会話の中でタイミング良く微笑みを浮かべる。大丈夫。ちゃんと可愛く笑えているはず。
「分かった。よろしく」
彼もつられるように爽やかに歯を見せて笑った。
「入学式緊張するよなぁ」
「うん。そうだねー。でも、智弥くんが前の席で良かった! なんか安心した」
「マジ? 嬉しいなー!」
智弥くんとにこやかに楽しく話していたが、会話は途中で中断された。
ふと逸らした目線の先、机と机の間を颯爽と歩いてこちらに向かってくるクラスメイトに僕は目を奪われてしまった。
水色の可愛いベストにふわふわに揺れる髪。バランス良く整った顔立ち。常に少し上がっている口角は天使のようで。
極め付けは、きゅるきゅるに潤んだつぶらな瞳。
可愛い、を体現したかのような彼に目が離せなかった。
心の中に建っていた自信の城がガラガラと崩れていく音が聞こえた。
可愛い系男子がクラスに二人もいるなんて……
ジロジロと値踏みするように見ている僕に気付いて、彼は軽く首を傾げてにこっと笑った。周りに花のエフェクトが見えた気がする。
あまりの衝撃で息をするのを忘れていた。
そんなことを知る由もなく、彼は僕の斜め前の席にストンと座った。
荷物を机の上に置いたかと思えば、パッとこちらを振り返った。少し離れているのにふんわりといい香りが漂ってきた。
「二人とも、もう友達なの? 僕は江宮雫!」
うるうると光の入った目は大きく開かれていて、吸い込まれそうになる。はっきりとしていて聞きやすい声は身体を貫通した。
何も答えられずにいると、智弥くんが先に答えた。
「俺は柿崎智弥って言います」
「僕はっ! 来部、優っ!」
乗り遅れないように慌てて答えた。
「うん。二人ともよろしくね」
また満面の笑みをこちらに向けてくる。
智弥くんは僕と雫くんを交互に見ながらぼそっと呟いた。
「なんか二人とも可愛い感じだよね」
智弥くんが放った一言で心の炎が一気に燃え上がった。
「ぼ、僕の方が可愛いけどねっ!」
ついムキになって言ってしまった。ちらっと雫くんの方を見ると、頬をぷくっと膨らませている。
「いーや、僕の方が可愛いもん!」
お互いにむーっと口を尖らせ、目からパチパチと電気が流れるくらい睨み合った。
「あ、え、ごめん。あの二人とも可愛いよ……」
挟まれていた智弥くんが耐えきれず僕らを仲裁してくれた。それがかえって僕らに更なる火をつけた。
「「じゃあ、智弥くんがジャッジしてよ!」」
心のままに叫ぶと雫くんと声が揃った。智弥くんは目をぱっと開きながら、僕と雫くんをキョロキョロと見比べる。
「え! 俺⁉︎」
「僕らのどっちがより可愛いか」
「智弥くんが」
「「決めて」」
また揃った。腕を組んで雫くんに対抗の目線を送ると、彼も同じように腕を組んで目線を送ってきた。
こうなったら絶対負けたくない!
智弥くんに苦笑いされつつも、雫くんと睨み合っていると先生が入ってきた。二人の喧嘩は中断され、ふんっと互いに言い合ってから席についた。
入ってきた先生がえー、と前置きをしてから話し始めた。
「入学おめでとうございます。まず出席を取ります。その後は体育館に移動しますからね」
名前の順で呼ばれていき、出席を取った。雫くんはハキハキとしていてなおかつ透き通るような声だ。返事という短い単語でもそれが発揮されていた。
僕はというと変に力が入りすぎて上手く言えなかった。こういう細かい部分でも雫くんは余裕で、僕を焦らせる。
「はい。ではこれから体育館に向かいますのでみなさん立ち上がってください。廊下に並んでから移動します」
クラスの全員が椅子をガタガタと引いて、立ち上がった。
智弥くんは僕より身長が高かった。僕は百六十八センチあるので、彼は百七十センチは超えていると思う。
そして、雫くんはというと僕よりも小さかった。ほとんど変わらないくらいだけど、並んだら分かるくらいには小さい。そんなところも可愛い。悔しい。
むむむと悔しさを堪えながら廊下に並んだ後は、ぞろぞろと体育館へと向かった。
入学式は思っていたよりも早く終わった。学生生活がついに始まるぞ、というワクワクと不安で胸を躍らせた。
入学式を終えた僕たちは、満開の桜の下でクラスごとに写真撮影をした。
気付くと頭の中は雫くんでいっぱいで撮影の時は無理やり笑顔を作った。上手く笑えなかった気がする。全員いる時では笑顔が不恰好でも撮り直せない。
肩を落としながら教室に戻り、明日からの学校生活の説明を聞いた。粛々と担任の先生がプリントを配り始める。
「明日もこのプリント使うので名前書いてくださいねー」
まずい。入学式だから、と思って何も持ってきていない。説明会の時に貰ったプリントには書いてあったかもしれないが、朝は自分の準備に必死で読んでこなかった。
なんでちゃんと朝に見直さなかったかなぁ、と頭を抱えた。
……いや、むしろこれはチャンスかもしれない。
智弥くんの肩をツンツンと突くと、ん?と振り返ってくれた。智弥くんにだけ聞こえるよう、耳元に囁く。
「智弥くん……ペン持ってる……? 僕忘れちゃって……」
「あーあるよ……ちょっと待って」
智弥くんが筆箱をガサゴソと探していると、斜め前から刺客がやってきた。刺客は周りに聞こえないようにこっそりと囁いた。
「ゆうくんペンないの? 僕、ペンたくさん持ってるから貸してあげる」
彼の手に持たれていたのは目がまん丸な可愛らしいシロクマのペンだった。
「……ありがと」
そのペンを渋々受け取った。
智弥くんはこちらを見ながら「良かったな」とだけ言って、また前を向いてしまった。
僕の可愛さを智弥くんにアピールするところだったのに、完全に雫くんに一本取られた。
ペンもめちゃくちゃ可愛いし、それに雫くんの動きもいちいち……
ペンに付いたシロクマくんにむぅーと睨みつけてみる。なんだかこのシロクマくん、雫くんに似てるような……
見比べるためにちらっと雫くんを見ると、あっちもこちらを見ていたらしく、目が合った。途端に彼の口角がきゅっと上がった。
心臓がドクンと跳ね、慌てて目を逸らした。
そんな可愛い仕草、僕はまだ出来ない。
入学式も説明の授業も終わると、今日はもうこれで終わりとなる。
クラスメイトのそれぞれが帰路へとついていく。
智弥くんはリュックを片側に背負い僕ら二人に手をあげて、じゃあな、と言って教室を去った。
雫くんも荷物を持ってぴょこんと立ち上がった。
「ゆうくんっ! また明日ね!」
「うん。また明日!」
雫くんは手をブンブンと振って教室を出て行った。
教室を去るその時までなんだか可愛い雰囲気に包まれていた。
*
校舎を出て、両親と合流した。あとはもう帰るだけだ。ビル群の中を通って駅まで向かう。
「ふぅん……」
入学早々、立ちはだかる壁に思わず猫背になった。下がってしまう口角も無理やりあげてみては、気付くと下がっている。
「優、さっきから何してるの?」
校門を通り過ぎてから駅に向かうまでに口角を上げ下げしている姿を見られて、お母さんに心配されてしまった。
「なんでもない……」
「大丈夫? 友達できそう?」
「友達……」
智弥くんが始めにぽわっと浮かんできた。彼とはなんだか仲良くなれそうな気がする。
そして、今自分の心を大きくかき乱している雫くんがずばんっと脳内に現れる。頭の中で彼が上目遣いで微笑んだ。
とっても可愛い。だからこそ悔しい。
「友達できるか、わかんない……」
「まだ一日目だからねぇ。友達できるといいね」
「うん……」
お母さんは優しい言葉をかけてくれた。
仲の良い友達よりも先に敵が出てきてしまいそうだとは言えなかった。
電車に乗ってから暇を潰すためにスマホを開いた。ホーム画面には中学の時の彼と一緒に撮った写真を設定している。
思い出の中で、彼は爽やかな笑顔で目尻をギュッと細めた。僕よりも体格はしっかりしていて頼もしい。思い出すだけで心臓が速くなる。
写真を見て思い直し、これまでの揺れ動いていた自分に喝を入れる。
やっぱり、負けていられない。全ては中学時代の彼のため。
まだまだ僕は可愛くなれるんだ。
家に帰ってご飯を食べたあと、すぐに特訓に入った。割り箸を咥えて鏡を見ながら口角を上げる練習。指で顔を押さえて筋肉をほぐしたりしてみる。他にも動画サイトで出来そうなことを調べては試してみた。
夜更かしはお肌の敵なので、いつもよりも早めにベッドに入った。
*
ちゅんちゅんと小さく鳴く鳥の囀りで目を覚ました。目覚まし時計よりも少し早く起きられたことで気分が良い。
今日はなんだか良い気がする。
日課である軽いストレッチをしたり、水を飲んだりして体調を整えた。
出かける前に鏡を見て、今日も自分が一番可愛いぞ、と唱えてから学校へと向かった。
登校すると既に智弥くんも雫くんも席に座っていた。なんだか楽しそうに喋っている。
「何話してるの?」
可愛く聞いてみる。
「優くんのお話! 可愛いねって話してたんだよ」
「えへへ! ほんと? ありがとう!」
「でもー、僕の方が可愛いけどね」
常に上目遣いな雫くんと笑顔で睨み合った。
完全なる宣戦布告だ。
「まぁまぁ二人とも。今日から授業始まるし、喧嘩はせず……」
「「喧嘩じゃないもん!」」
たびたび声が揃う。喧嘩じゃない。これは真剣勝負だ。
先生が入ってきたので、大人しく席に座った。
教科書を貰いに行ったり、校内の設備の使い方の説明であっという間に一日が終わりを迎えようとしていた。
智弥くんに可愛さアピールをしようとすると、その都度雫くんに邪魔をされて上手くいかなかった。
終礼も終わりもう帰るだけになってしまった。
「ねぇ! 智弥くんと優くん! 一緒に帰ろうよ!」
雫くんは智弥くんの腕と僕の腕をちょこんと掴んできた。
「おぉ。いいよ」
「僕も……いいけど」
僕が先に話しかけようと思ったのに先を越されてしまった。
*
学校から駅までの少しの時間。
真ん中に智弥くん。端っこに雫くんと僕が陣取った。
「智弥くん。今日は僕たちのどっちが可愛かった?」
雫くんが先行して声をかけた。あざとく首を傾げている。
「えー! 昨日のマジだったの?」
「マジだよぅー」
雫くんが口を尖らした。僕は智弥くんの袖をちまっと掴み、呟いた。
「僕だよね?」
「いやいや、僕の方が可愛かったよね?」
反対側で雫くんが同じように袖を掴んでいる。
「えー……どうだろう。まぁ、江宮くんかなぁ」
「やったぁ!」
名前を呼ばれたのは雫くんだった。雫くんは小さく飛び跳ねた。
「なんでー!」
僕は口を尖らせて智弥くんを揺らす。
「んーまぁ、なんか可愛かった?かな。いや、俺も男に可愛いって感情よく分かんないんだけど」
得意げな顔をしていた雫くんをキッと見る。
「絶対に明日は負けないんだからね」
「何度でも僕が勝つから挑んでみなよ」
お互いにうぅーと威嚇し合った。真ん中で挟まれている智弥くんは猫背になった。
「えぇー……明日もやんの?」
ここでおしまいにされたら負けになってしまう。
「智弥くんにしか頼めないことだから、やって欲しいな。嫌だったら良いけど……」
目を伏せてわざとらしくしょんぼりしてみる。
「いやいや、まぁ良いけど!」
「明日もしてくれる?」
「あーうん。いいよ」
「やった! ありがとっ!」
どうにか智弥くんを丸め込むことに成功した。
明日こそは絶対に負けない、とは意気込んだものの、家に帰ってからベッドに倒れ込んでジタバタした。
「悔しいっ!」
どうやっても雫くんの方が上手であと一歩追いつかない。もしかしたら一歩どころじゃないかもしれない。
何が足りてないのか、それすら分からない状態で途方に暮れていた。ただ何かが足りないことだけ分かっているからこそ、悔しかった。
今日一日だけでこんなにも格の違いを痛感することになるとは思わなかった。
うぅーと枕に顔を埋めて息を吐き出した。
*
登校してからぼーっとして頬杖をついていると、肩をトントンと叩かれた。振り返ると、ほっぺたに人差し指がむにっと突き刺さった。
「ふふふっ、ゆうくんひっかかったー!」
「もうー! やめてよー!」
まんまと雫くんの罠に引っかかってしまった。ちょっぴり悪戯なところもあるのが、また可愛いから、悔しい。
「なんでそんな浮かない顔してんのー? まさか僕と戦うのが怖くなった?」
図星だ。怖いというよりも戦意喪失に近い。
きゅるきゅるの丸い瞳で見つめられて、目を勢いよく逸らした。ずっと見ていたらもっと自信がなくなりそうだった。
「別に! そんなんじゃないし!」
「えーそうかなぁー? それなら良いけど! 僕のライバルにはもっと強くいてもらわないとねっ!」
最後にそう言い残してから、雫くんは自分の席に戻っていった。
僕のライバル……
雫くんが発したその言葉に、不覚にも自信を付けられてしまった。
ライバルとして認めてくれている。
雫くんは智弥くんにだけではなく、他の人にも可愛いを発揮できるほど余裕がある。それなのに、僕をライバルだと言ってくれている。
僕は……雫くんの隣に堂々と立ち、戦えるようになりたい。
智弥くんが前の扉から入ってこちらに歩いてきた。
「おはよっ、智弥くん!」
これまでの暗い気分を投げ捨てて、とびきり笑顔で可愛く挨拶をした。
なんだか一皮剥けたような気分だった。
今日もまた三人で帰ることになった。昨日と同じように智弥くんを真ん中にサンドイッチする形だ。
「今日はどうだった、智弥くん?」
首を傾げて覗き込むようにして智弥くんに聞いてみる。
「んーまぁ今日は来部かなぁ」
智弥くんが僕の名前を呼んでくれた。
「やったぁ! 嬉しい!」
思わずガッツポーズをして飛び跳ねた。
「えー今日も勝てると思ったのにー! でも、今日のゆうくん一段と可愛かったから仕方ないかぁ」
雫くんは納得したように笑った。
「だな。なんかこう憑き物が取れたみたいな感じ」
「憑き物? なにそれひどーい!」
「あっ、いや別にその変な意味じゃなくて」
焦る智弥くんを尻目に雫くんと僕でケラケラと笑った。対決なのにちょっと楽しいなって思ってしまった。
──明日も絶対に雫くんには負けない。
そう誓って二人を見つめた。
