八重橋がコンテストに写真を提出するまであと3日。その日はどんよりとした曇り空だった。放課後になると教室にひょっこり現れる八重橋にも随分慣れた。
今日は母親の仕事の日。コンテスト前の大詰めとなる日であった。
「結局、コンテスト用の写真は撮れてるの? どういう写真が良いのかおれにはよく分からないけど」
「特に指定されているシチュエーションはない。自由だ。テーマを決めて撮っている人もいるし、そうでない人もいる」
「それだけ自由だと逆に迷っちゃいそうだ。何を撮ったら正解なのか分からないのは大変だね」
「正解はない。技術は必要だが、確実に金賞を取れる、という写真はない」
学校内の人気が少ない廊下、窓を背におれは写真を撮られていた。風景に指定があれば分かりやすいのに、テーマが自由なんて逆に不自由にも思える。完全に自分の感性とセンスで勝負しなくてはならないから、言い訳のしようがない。
こんな見慣れた景色でも八重橋にとってはカメラを構える理由があるのだろう。2週間近く八重橋と過ごしてきたが、ついぞ写真のことは分からなかった。
「少し左に移動してくれ」
「はいはい」
「行き過ぎだ。もう少し戻って」
「ここ?」
「いや、こっちだ。ここ、そう。そこでじっとしているように」
細かな指示に狼狽えていると、八重橋が俺の肩を掴んでぐいと押す。その際に鼻をくすぐったのは仄かに甘く、冬の部屋のような暖かい香りだった。
「あ、吹奏楽部」
廊下の窓から、向かいの校舎が見える。空き教室には数名の女子生徒が金管楽器を抱えて練習をしていた。耳を澄ませてみると、パー、とよく通る音が聞こえる。この楽器は何だったか。
「みんなよく頑張ってるね。八重橋も。部活に打ち込むのは良いことだ」
「入ったらいい。何も入学した直後を逃したからといって、入れないわけでもない。何かに興味があるのか?」
「いやぁ、そういうわけじゃないよ。おれスポーツは得意じゃないし、芸術にも明るくないし……あんまり趣味とかもないんだよね。中学でも部活に入ってなかった」
「未経験に限る、というわけでもないだろう。入れば経験になる」
「そうだね、全く興味がないわけじゃないけど……まあ、多分入らないだろうね。だから部活に打ち込んでる人はすごいと思う」
それに、羨ましくも思う。
中学校、いや小学校からずっと、学校帰りに友達と遊んだり部活をしたりという時間を過ごしたことはなかった。
家庭に参加しない父親に、どんどんヒステリックになっていく母親。そして父親が家庭から離れていく……という悪循環の結果、早々に家事を放棄した母親の代わりはおれしかいなかった。今となっては家事にも慣れたものだが、小学生の時は失敗ばかりだったな、と、想いを馳せる。
だからクラブや部活、塾に使う時間はなく、俺の放課後は家事と勉強が全て占めていた。それが普通だったし駄々をこねることはなかった。
「人生は短い。やりたいことをやらなければ後悔する。ぼくは後悔したくない」
そうはっきりと告げる八重橋を直接見られるほど、おれの人生は褒められたものではなかった。
重く、暗い雲が空を覆っている。今日は確か雨の予報だった。夕飯の準備の前には家に帰らなければならない。母親は仕事で20時以降の帰宅になるから、放課後に写真部の手伝いをしていることはバレないだろう。そう思いながらも、時間は気になってしまう。スマートフォンのスリープモードを解除して、そこに映った通知に心臓が跳ねる。
『シフト調整の関係で今日は早引けになりました。代わりに、別日に出勤することになったのでカレンダーに書いておくから、ちゃんと確認してね』
その通知が来たのは授業が終わり、帰りのホームルーム直後だ。すぐに八重橋が教室に迎えに来たから通知を見ていなかった。
『もう学校は終わってるよね。まだ帰ってこないの?』
『買い物に行ってるならお酒も買ってきて』
『何してるの? まだ?』
『無視すんな!』
おれからの連絡が返ってこないと、こうやって連続でメッセージを送り続けるのは母親の癖だ。休み時間でも確認しないと通知が溜まっている時がある。授業中は連絡できないと言っても彼女に関係はなく、自分の好きな時間に連絡が返ってこないと機嫌が悪くなってしまうのだ。
時計はそろそろ5時を指し示す。八重橋の手伝いをしていない時であれば、もうとっくに帰宅している時間だ。連絡もせずに帰っていないとあれば、母親の機嫌は火を見るよりも明らか。おれは母親からのメッセージをぼんやりと眺めている間も、時計の針は無情にも進んでいく。
「淀川誠士郎」
カメラを下ろし、八重橋はおれの名前を呼ぶ。
『誠ちゃん』
『お母さん何か悪いことした?』
『きっとそうなんだ。お母さんが悪いんでしょ』
『お母さんは誠ちゃんのこと愛してるわ。誠ちゃんもお母さんのこと愛してるわよね』
『誠ちゃん早く帰ってきて』
産まれてから15年だ。母親がおれを呼んできた回数の方が遥かに多い。けれど静かに、諭すように、宥める声がおれの名前を呼ぶ。他に何を言うでもないその声で、どうしてか泣きそうになってしまう。ささくれだった思考が撫ぜられていく。
「ああ……うん、ありがとう」
「礼を言われることはしていない」
八重橋にとっては何でもないことだろう。だが、おれにとっても、ただひとこと名前を呼ばれるということがこれだけ気持ちを落ち着けるとは思ってもみなかった。
今日なら母親と冷静に話ができる。そんな気がした。
「度々ごめん。母親が今日、急遽仕事が無くなったみたいで、もう家に帰らないと。コンテスト直前なのにごめんね」
「そうか、無理強いはしない。写真とは巡り合わせだ。撮れない時は撮れない。誰のせいでもない」
「……うん。うん、ありがとう」
スマートフォンのバイブレーション機能をオンにし、ポケットに入れようとして、ふと尋ねてみる。
「八重橋君は人を否定するようなことを言わないよね。今日のことだって……というか、コンテストを手伝う約束で付き合ってるのに、あとから母親の仕事がある日だけ、なんて条件を付けたりしてさ。どう考えてもおれのせいなのに」
「否定をしたところで事態は好転しない。言った側の気分が晴れるだけだろう。なら事実のみを言った方が良い」
それに、と続ける。
「お前も同じだろう。ぼくと意味は違うようだが」
八重橋はカメラを構えて窓の外を覗き込んだ。どうやら興味がそちらに映ったらしい。おれ達は一言、二言だけ会話をして解散する。八重橋はまだ、ここで撮影を続けるようだ。おれは一足先に家へ帰ることとなる。
自宅への道のりが憂鬱でなかったことなどない。一歩一歩近づくにつれて空気が重くなり、言いしれないものが肺に詰まっていく。家の中では意識しなければ上手く呼吸することができない。家にいるより学校にいる方がよっぽど楽に呼吸ができる。おれにとって家は安らげる場所ではない。
いつもなら帰宅する前にご機嫌取りのように連絡をしておくのだけれど、今日はそういう気にはなれなかった。連絡をしたところで母親の機嫌はすでに損ねられているから、何を言ったところで彼女の気の済むまでストレスを発散させなければならない。いつものことだ。母親の機嫌のスイッチはいつも突然入る。それを宥めるのは父親ではなくいつもおれだった。
がちゃん、と家の鍵を開ける。玄関を開けると、顔面目掛けて何かが飛んできた。
「帰ってくるのが遅い! 家のこと何もしないで、どこでほっつき歩いてたの!?」
そこそこ厚みがある雑誌が玄関に落ちる。おれはそれを拾って砂を落とした。母親は顔を赤くしてダイニングテーブルに手を叩きつける。テーブルの上には缶チューハイが2本置いてあった。1つは飲み干していて、もう1つは飲みかけだ。母親が好んで買ってくるこの缶チューハイは安い割に酔いの周りが早い酒だった。
「寄り道しないでさっさと帰ってくるって約束してるよね。どうしてお母さんとの約束を破るの? 本当に生意気だよ、お母さんが働いてるおかげで学校に行けてるって自覚あるの? ないよね、ないからこんなに酷いことができるんだよあんたは」
缶チューハイを傾け、喉を鳴らして飲む。
「ねえ、ねえ誠ちゃん。お母さん頑張ってるよね。一生懸命仕事してるんだから、誠ちゃんのことを愛してるから頑張ってるの。だから誠ちゃんもお母さんとの約束守ってよ。そうじゃないとお母さん、もう何もかも嫌になっちゃう」
2本目も飲み干したのか、机に打ちつける缶からは乾いた音が鳴る。母親は冷蔵庫に向かうと、さらに缶チューハイを取り出した。
「お母さん、もうやめておいた方がいいよ。あんまり飲むと具合悪くするよ」
「はあ!? なんで!? なんでお母さんが我慢しなくちゃいけないの!? やりたくない仕事して、散々我慢してるよね!? ブランド物だって買えないし、外食にも行けないのに、こんな安い酒で我慢してるの! 誠ちゃんまでそんなこと言わないでよ!」
「ごめん、我慢してって言ってるんじゃないよ。お母さんは頑張ってるよね、いつもありがとう。でも体のことが心配だよ」
「同情するくらいならお金が欲しいっての。言っておくけどお母さん、保険になんて入ってないからね。ちゃんと労わってくれないとあんたも道連れだよ」
プルタブを指に引っ掛けてカシュ、と音を立てて缶チューハイを開ける。母親は結構酔っているのか、シンクの縁に体重をかけて据わった目でおれをじろりと睨みつける。
「……ご飯、作るね。今日はお母さんの好きな酢豚だよ」
「お腹すいたから早くしてね」
手を洗うためにシンクの蛇口を捻る。母親は片手で缶チューハイを傾けながら、おれをしたから覗き込む。酒に潤んだ目からは怒りが消えていたが、代わりに甘えたような視線になっていた。
「ねえ、ねえ誠ちゃん怒ってる? 許してくれるよね、誠ちゃんは優しいもん。お母さん今日大変だったの。お母さんの都合を無視していきなりシフト変更押し付けられて……小さい子供がいる人だったんだけど、子供が小さかったらなんでも許されてずるいよね。その人だってお母さんにお礼のひとつも言わないし……」
機嫌が良くなったのか、缶チューハイを持っていない手をおれの腰に回しながら仕事の愚痴を話し出す。おれは水道から流れる水がシンクに打ち付けられるのをただ見ていた。ゼロに近い距離の母親からは酒特有のツンとする匂いが漂う。
これもいつものことだ。些細なことで機嫌を損ない、勝手に直っては上機嫌におれに話しかけてくる。おれに放った言葉などまるでなかったかのように、仲良し家族を装っている。
いつもの、ことだ。
母親の機嫌に振り回されるなんて。
だから、できるだけ刺激しないような立ち回りを覚えた。いつどこで踏むかわからない地雷原を回避し、踏んだ後の事後処理も、離婚する前の父親も、離婚した後の母親の彼氏も何もしてくれなかったから、おれが覚えるしかなかった。母親にとって耳障りのいい言葉を与え、家事をしてくれる便利な息子として母親に貢献してきた。
「誠ちゃん、誠志郎。大好きよ、愛してるわ。お母さんのことも愛してね」
母親は愛に飢えている。父親が家庭を顧みなかったから新しい男に愛を求め、彼氏が自分を構ってくれなければ、気の向くままに息子に愛を囁く。母親はおれを守るべき息子として見たことは一度もない。愛を求め、愛が得られなければ暴言を吐き、かと思えば甘えた声を出して自分の都合の良いように人を振り回す。
でも、おれは。
「おれは、お母さんのことを愛したいと思ってたよ」
確かに思っていた。母親が浮気に走ったのは誰が何を言おうと母親のせいだけれども、その原因の一端を作ったのは間違いなく父親だから、同情の余地はあった。父親が家庭の心配をせず仕事にかまけ、育児からも逃げた。最低な父親だった。結局、タイミングは違えど父親も浮気をしていたからおれの家庭はもう、一切合切、なんのフォローのしようもなく、終わりではあった。
誰のせいとか誰の責任とか、そんなことを明らかにしたところでどうでもいい。何が変わるわけでもない。ただ確かなことは、どんなことがあっても、おれだけは母親の味方でいよう、と思っていたのだ。祖父母は他界し、親戚とは疎遠になり、父親とも離婚し、近所づきあいも上手くできなかった母親の味方は、名実ともにおれしかいないのだと。
「でもお母さんはそうじゃない。愛したい時に愛するなんて都合が良すぎる。おれは、おれは……お母さんのオモチャじゃない」
「……何言ってるの、今まで誠ちゃんを育ててきたのは誰? お母さんがいっぱい我慢したからよね!? どうして分かってくれないの?」
「そうだね、お母さんはいつも自分は我慢してるって言う。でも、それを言われるおれの気持ちを考えたことはないよね」
「ど、どうしたの誠ちゃん。怒らないで──」
「触らないでよ!!」
腰に回していた手が二の腕をなぞる。母親の手の冷たさに、自分とは別の生き物が這っているような感覚がして寒気がした。それと同時に手を弾く。自分でも驚く声の大きさで母親を怒鳴りつけてしまった。
「今まで働いて、学校に通わせてくれたことには感謝してる。おれが生きてるのは確かにお母さんのおかげだよ。でも、おれは──お母さんの彼氏じゃない」
声が震えた。いつもこうやって感謝の言葉を伝えれば、母親は安心したように微笑みを浮かべる。けれど今は目を見開いて顔を引きつらせていた。当然だ。いつもならば、母親に耳障りの良い言葉しか与えてこなかった。そうしなければ小さなおれは居場所を見つけられなかったから。だからおれは、母親に反抗した記憶というものがない。
「お母さんはおれのことを愛してなんかないよ」
八重橋がおれの名前を呼んでくれた時、どうして泣きそうになったのか、今ならはっきりと分かる。
「お母さんが愛してるのは、お母さんに優しいおれだよ。彼氏と上手くいってない時だけ優しくて……おれがそれに気付いてないとでも思ってた?」
そこにはなんの打算も都合もなかった。恣意的ではあるものの、彼は言葉や態度でおれをコントロールしようとはしなかった。それがどれだけ嬉しいことだったか、きっと誰にも分からない。おれにしか。
母親が手を振り上げる。それが頬を叩くまでおれは微動だにしなかった。一瞬の痛みと、じわりと広がる痺れ。それは確実におれの身体に起きていることだったけど、どこか他人事のように思えた。
「お母さんだって頑張ってる! なのになんでそんなことを言うの!? 誠ちゃんが味方じゃなくなったらお母さんどうしたらいいのよ! 今までしてきたこと、全部無駄だったね! 良かったね! これで誠ちゃんの気が済むんでしょ!?」
母親は髪を振り乱しながら喚き散らす。母親はおれの16年よりも、自分がどれだけ傷ついたのか、それにしか興味がないのだ。それがよく分かった。心の奥底が急激に冷えていくのを感じながら、おれは、おれを叩いた母親の左手を見る。
そこにはあるはずだった。自然からの干渉を受けない、全く摩訶不思議な赤い糸が。母親の運命の相手が父親ではないと嫌でも知ってしまったものが。
「……なんで」
思わず母親の左手を取る。水仕事が多いせいで乾燥し、ひび割れている小指には何もなかった。いつも目障りなくらい漂っていたはずなのに、あれだけ目立つ赤い糸が、ない。何度瞬きをしても、目を擦ってみても、そこには何もなかった。
恐る恐る、自分の左手に視線を落とす。おれと八重橋を繋いでいた唯一の赤い糸が、綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
ぞわ、と全身が総毛立つ。鬱陶しいと思っていた赤い糸がなくなった。本当なら両手を挙げて喜ぶべきだ。でもおれの手は奮えていた。
「なんで、今更……」
赤い糸で結ばれている相手は運命の相手だ。祖父母がおれに照明し、渉と豊永だって、あんなに仲睦まじい恋人は見たことがないくらいだった。だから、赤い糸で結ばれた人と絶対に付き合うのだと息を撒いていた。
そうすれば、そうすれば──
きっと幸せになれると思っていたからだ。
裏切られたり裏切ったり、嘘をついたり騙したり、興味を失ったり、飽きて雑に扱ったり。そんな恋愛は絶対にごめんだからだ。だってそれは、おれの母親そのものだったから。絶対に、母親のようにはなりたくなかった。
でも、赤い糸はもう見えない。誰と誰が繋がっているのか、もうおれには分からない。おれだって、八重橋とまだ繋がっているのか──分からなくなってしまった。
赤い糸が全く別の人に繋がり直す、なんてケースは見たことがない。だが、赤い糸そのものが消滅してしまった場合は? そんなこと考えもしなかった。
「……ごめん。今日のご飯、作れない。ごめんね」
「誠ちゃん!? どこに行くの! 待ちなさい!」
後ろから怒声が追いかけてくるが、それを振り切って家から飛び出す。階段を降り、通りに出たところで自分がスマートフォンしか持っていない事に気づいたが、さしたる問題ではなかった。ただ、とにかく、今は家から少しでも離れたかった。
今日は母親の仕事の日。コンテスト前の大詰めとなる日であった。
「結局、コンテスト用の写真は撮れてるの? どういう写真が良いのかおれにはよく分からないけど」
「特に指定されているシチュエーションはない。自由だ。テーマを決めて撮っている人もいるし、そうでない人もいる」
「それだけ自由だと逆に迷っちゃいそうだ。何を撮ったら正解なのか分からないのは大変だね」
「正解はない。技術は必要だが、確実に金賞を取れる、という写真はない」
学校内の人気が少ない廊下、窓を背におれは写真を撮られていた。風景に指定があれば分かりやすいのに、テーマが自由なんて逆に不自由にも思える。完全に自分の感性とセンスで勝負しなくてはならないから、言い訳のしようがない。
こんな見慣れた景色でも八重橋にとってはカメラを構える理由があるのだろう。2週間近く八重橋と過ごしてきたが、ついぞ写真のことは分からなかった。
「少し左に移動してくれ」
「はいはい」
「行き過ぎだ。もう少し戻って」
「ここ?」
「いや、こっちだ。ここ、そう。そこでじっとしているように」
細かな指示に狼狽えていると、八重橋が俺の肩を掴んでぐいと押す。その際に鼻をくすぐったのは仄かに甘く、冬の部屋のような暖かい香りだった。
「あ、吹奏楽部」
廊下の窓から、向かいの校舎が見える。空き教室には数名の女子生徒が金管楽器を抱えて練習をしていた。耳を澄ませてみると、パー、とよく通る音が聞こえる。この楽器は何だったか。
「みんなよく頑張ってるね。八重橋も。部活に打ち込むのは良いことだ」
「入ったらいい。何も入学した直後を逃したからといって、入れないわけでもない。何かに興味があるのか?」
「いやぁ、そういうわけじゃないよ。おれスポーツは得意じゃないし、芸術にも明るくないし……あんまり趣味とかもないんだよね。中学でも部活に入ってなかった」
「未経験に限る、というわけでもないだろう。入れば経験になる」
「そうだね、全く興味がないわけじゃないけど……まあ、多分入らないだろうね。だから部活に打ち込んでる人はすごいと思う」
それに、羨ましくも思う。
中学校、いや小学校からずっと、学校帰りに友達と遊んだり部活をしたりという時間を過ごしたことはなかった。
家庭に参加しない父親に、どんどんヒステリックになっていく母親。そして父親が家庭から離れていく……という悪循環の結果、早々に家事を放棄した母親の代わりはおれしかいなかった。今となっては家事にも慣れたものだが、小学生の時は失敗ばかりだったな、と、想いを馳せる。
だからクラブや部活、塾に使う時間はなく、俺の放課後は家事と勉強が全て占めていた。それが普通だったし駄々をこねることはなかった。
「人生は短い。やりたいことをやらなければ後悔する。ぼくは後悔したくない」
そうはっきりと告げる八重橋を直接見られるほど、おれの人生は褒められたものではなかった。
重く、暗い雲が空を覆っている。今日は確か雨の予報だった。夕飯の準備の前には家に帰らなければならない。母親は仕事で20時以降の帰宅になるから、放課後に写真部の手伝いをしていることはバレないだろう。そう思いながらも、時間は気になってしまう。スマートフォンのスリープモードを解除して、そこに映った通知に心臓が跳ねる。
『シフト調整の関係で今日は早引けになりました。代わりに、別日に出勤することになったのでカレンダーに書いておくから、ちゃんと確認してね』
その通知が来たのは授業が終わり、帰りのホームルーム直後だ。すぐに八重橋が教室に迎えに来たから通知を見ていなかった。
『もう学校は終わってるよね。まだ帰ってこないの?』
『買い物に行ってるならお酒も買ってきて』
『何してるの? まだ?』
『無視すんな!』
おれからの連絡が返ってこないと、こうやって連続でメッセージを送り続けるのは母親の癖だ。休み時間でも確認しないと通知が溜まっている時がある。授業中は連絡できないと言っても彼女に関係はなく、自分の好きな時間に連絡が返ってこないと機嫌が悪くなってしまうのだ。
時計はそろそろ5時を指し示す。八重橋の手伝いをしていない時であれば、もうとっくに帰宅している時間だ。連絡もせずに帰っていないとあれば、母親の機嫌は火を見るよりも明らか。おれは母親からのメッセージをぼんやりと眺めている間も、時計の針は無情にも進んでいく。
「淀川誠士郎」
カメラを下ろし、八重橋はおれの名前を呼ぶ。
『誠ちゃん』
『お母さん何か悪いことした?』
『きっとそうなんだ。お母さんが悪いんでしょ』
『お母さんは誠ちゃんのこと愛してるわ。誠ちゃんもお母さんのこと愛してるわよね』
『誠ちゃん早く帰ってきて』
産まれてから15年だ。母親がおれを呼んできた回数の方が遥かに多い。けれど静かに、諭すように、宥める声がおれの名前を呼ぶ。他に何を言うでもないその声で、どうしてか泣きそうになってしまう。ささくれだった思考が撫ぜられていく。
「ああ……うん、ありがとう」
「礼を言われることはしていない」
八重橋にとっては何でもないことだろう。だが、おれにとっても、ただひとこと名前を呼ばれるということがこれだけ気持ちを落ち着けるとは思ってもみなかった。
今日なら母親と冷静に話ができる。そんな気がした。
「度々ごめん。母親が今日、急遽仕事が無くなったみたいで、もう家に帰らないと。コンテスト直前なのにごめんね」
「そうか、無理強いはしない。写真とは巡り合わせだ。撮れない時は撮れない。誰のせいでもない」
「……うん。うん、ありがとう」
スマートフォンのバイブレーション機能をオンにし、ポケットに入れようとして、ふと尋ねてみる。
「八重橋君は人を否定するようなことを言わないよね。今日のことだって……というか、コンテストを手伝う約束で付き合ってるのに、あとから母親の仕事がある日だけ、なんて条件を付けたりしてさ。どう考えてもおれのせいなのに」
「否定をしたところで事態は好転しない。言った側の気分が晴れるだけだろう。なら事実のみを言った方が良い」
それに、と続ける。
「お前も同じだろう。ぼくと意味は違うようだが」
八重橋はカメラを構えて窓の外を覗き込んだ。どうやら興味がそちらに映ったらしい。おれ達は一言、二言だけ会話をして解散する。八重橋はまだ、ここで撮影を続けるようだ。おれは一足先に家へ帰ることとなる。
自宅への道のりが憂鬱でなかったことなどない。一歩一歩近づくにつれて空気が重くなり、言いしれないものが肺に詰まっていく。家の中では意識しなければ上手く呼吸することができない。家にいるより学校にいる方がよっぽど楽に呼吸ができる。おれにとって家は安らげる場所ではない。
いつもなら帰宅する前にご機嫌取りのように連絡をしておくのだけれど、今日はそういう気にはなれなかった。連絡をしたところで母親の機嫌はすでに損ねられているから、何を言ったところで彼女の気の済むまでストレスを発散させなければならない。いつものことだ。母親の機嫌のスイッチはいつも突然入る。それを宥めるのは父親ではなくいつもおれだった。
がちゃん、と家の鍵を開ける。玄関を開けると、顔面目掛けて何かが飛んできた。
「帰ってくるのが遅い! 家のこと何もしないで、どこでほっつき歩いてたの!?」
そこそこ厚みがある雑誌が玄関に落ちる。おれはそれを拾って砂を落とした。母親は顔を赤くしてダイニングテーブルに手を叩きつける。テーブルの上には缶チューハイが2本置いてあった。1つは飲み干していて、もう1つは飲みかけだ。母親が好んで買ってくるこの缶チューハイは安い割に酔いの周りが早い酒だった。
「寄り道しないでさっさと帰ってくるって約束してるよね。どうしてお母さんとの約束を破るの? 本当に生意気だよ、お母さんが働いてるおかげで学校に行けてるって自覚あるの? ないよね、ないからこんなに酷いことができるんだよあんたは」
缶チューハイを傾け、喉を鳴らして飲む。
「ねえ、ねえ誠ちゃん。お母さん頑張ってるよね。一生懸命仕事してるんだから、誠ちゃんのことを愛してるから頑張ってるの。だから誠ちゃんもお母さんとの約束守ってよ。そうじゃないとお母さん、もう何もかも嫌になっちゃう」
2本目も飲み干したのか、机に打ちつける缶からは乾いた音が鳴る。母親は冷蔵庫に向かうと、さらに缶チューハイを取り出した。
「お母さん、もうやめておいた方がいいよ。あんまり飲むと具合悪くするよ」
「はあ!? なんで!? なんでお母さんが我慢しなくちゃいけないの!? やりたくない仕事して、散々我慢してるよね!? ブランド物だって買えないし、外食にも行けないのに、こんな安い酒で我慢してるの! 誠ちゃんまでそんなこと言わないでよ!」
「ごめん、我慢してって言ってるんじゃないよ。お母さんは頑張ってるよね、いつもありがとう。でも体のことが心配だよ」
「同情するくらいならお金が欲しいっての。言っておくけどお母さん、保険になんて入ってないからね。ちゃんと労わってくれないとあんたも道連れだよ」
プルタブを指に引っ掛けてカシュ、と音を立てて缶チューハイを開ける。母親は結構酔っているのか、シンクの縁に体重をかけて据わった目でおれをじろりと睨みつける。
「……ご飯、作るね。今日はお母さんの好きな酢豚だよ」
「お腹すいたから早くしてね」
手を洗うためにシンクの蛇口を捻る。母親は片手で缶チューハイを傾けながら、おれをしたから覗き込む。酒に潤んだ目からは怒りが消えていたが、代わりに甘えたような視線になっていた。
「ねえ、ねえ誠ちゃん怒ってる? 許してくれるよね、誠ちゃんは優しいもん。お母さん今日大変だったの。お母さんの都合を無視していきなりシフト変更押し付けられて……小さい子供がいる人だったんだけど、子供が小さかったらなんでも許されてずるいよね。その人だってお母さんにお礼のひとつも言わないし……」
機嫌が良くなったのか、缶チューハイを持っていない手をおれの腰に回しながら仕事の愚痴を話し出す。おれは水道から流れる水がシンクに打ち付けられるのをただ見ていた。ゼロに近い距離の母親からは酒特有のツンとする匂いが漂う。
これもいつものことだ。些細なことで機嫌を損ない、勝手に直っては上機嫌におれに話しかけてくる。おれに放った言葉などまるでなかったかのように、仲良し家族を装っている。
いつもの、ことだ。
母親の機嫌に振り回されるなんて。
だから、できるだけ刺激しないような立ち回りを覚えた。いつどこで踏むかわからない地雷原を回避し、踏んだ後の事後処理も、離婚する前の父親も、離婚した後の母親の彼氏も何もしてくれなかったから、おれが覚えるしかなかった。母親にとって耳障りのいい言葉を与え、家事をしてくれる便利な息子として母親に貢献してきた。
「誠ちゃん、誠志郎。大好きよ、愛してるわ。お母さんのことも愛してね」
母親は愛に飢えている。父親が家庭を顧みなかったから新しい男に愛を求め、彼氏が自分を構ってくれなければ、気の向くままに息子に愛を囁く。母親はおれを守るべき息子として見たことは一度もない。愛を求め、愛が得られなければ暴言を吐き、かと思えば甘えた声を出して自分の都合の良いように人を振り回す。
でも、おれは。
「おれは、お母さんのことを愛したいと思ってたよ」
確かに思っていた。母親が浮気に走ったのは誰が何を言おうと母親のせいだけれども、その原因の一端を作ったのは間違いなく父親だから、同情の余地はあった。父親が家庭の心配をせず仕事にかまけ、育児からも逃げた。最低な父親だった。結局、タイミングは違えど父親も浮気をしていたからおれの家庭はもう、一切合切、なんのフォローのしようもなく、終わりではあった。
誰のせいとか誰の責任とか、そんなことを明らかにしたところでどうでもいい。何が変わるわけでもない。ただ確かなことは、どんなことがあっても、おれだけは母親の味方でいよう、と思っていたのだ。祖父母は他界し、親戚とは疎遠になり、父親とも離婚し、近所づきあいも上手くできなかった母親の味方は、名実ともにおれしかいないのだと。
「でもお母さんはそうじゃない。愛したい時に愛するなんて都合が良すぎる。おれは、おれは……お母さんのオモチャじゃない」
「……何言ってるの、今まで誠ちゃんを育ててきたのは誰? お母さんがいっぱい我慢したからよね!? どうして分かってくれないの?」
「そうだね、お母さんはいつも自分は我慢してるって言う。でも、それを言われるおれの気持ちを考えたことはないよね」
「ど、どうしたの誠ちゃん。怒らないで──」
「触らないでよ!!」
腰に回していた手が二の腕をなぞる。母親の手の冷たさに、自分とは別の生き物が這っているような感覚がして寒気がした。それと同時に手を弾く。自分でも驚く声の大きさで母親を怒鳴りつけてしまった。
「今まで働いて、学校に通わせてくれたことには感謝してる。おれが生きてるのは確かにお母さんのおかげだよ。でも、おれは──お母さんの彼氏じゃない」
声が震えた。いつもこうやって感謝の言葉を伝えれば、母親は安心したように微笑みを浮かべる。けれど今は目を見開いて顔を引きつらせていた。当然だ。いつもならば、母親に耳障りの良い言葉しか与えてこなかった。そうしなければ小さなおれは居場所を見つけられなかったから。だからおれは、母親に反抗した記憶というものがない。
「お母さんはおれのことを愛してなんかないよ」
八重橋がおれの名前を呼んでくれた時、どうして泣きそうになったのか、今ならはっきりと分かる。
「お母さんが愛してるのは、お母さんに優しいおれだよ。彼氏と上手くいってない時だけ優しくて……おれがそれに気付いてないとでも思ってた?」
そこにはなんの打算も都合もなかった。恣意的ではあるものの、彼は言葉や態度でおれをコントロールしようとはしなかった。それがどれだけ嬉しいことだったか、きっと誰にも分からない。おれにしか。
母親が手を振り上げる。それが頬を叩くまでおれは微動だにしなかった。一瞬の痛みと、じわりと広がる痺れ。それは確実におれの身体に起きていることだったけど、どこか他人事のように思えた。
「お母さんだって頑張ってる! なのになんでそんなことを言うの!? 誠ちゃんが味方じゃなくなったらお母さんどうしたらいいのよ! 今までしてきたこと、全部無駄だったね! 良かったね! これで誠ちゃんの気が済むんでしょ!?」
母親は髪を振り乱しながら喚き散らす。母親はおれの16年よりも、自分がどれだけ傷ついたのか、それにしか興味がないのだ。それがよく分かった。心の奥底が急激に冷えていくのを感じながら、おれは、おれを叩いた母親の左手を見る。
そこにはあるはずだった。自然からの干渉を受けない、全く摩訶不思議な赤い糸が。母親の運命の相手が父親ではないと嫌でも知ってしまったものが。
「……なんで」
思わず母親の左手を取る。水仕事が多いせいで乾燥し、ひび割れている小指には何もなかった。いつも目障りなくらい漂っていたはずなのに、あれだけ目立つ赤い糸が、ない。何度瞬きをしても、目を擦ってみても、そこには何もなかった。
恐る恐る、自分の左手に視線を落とす。おれと八重橋を繋いでいた唯一の赤い糸が、綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
ぞわ、と全身が総毛立つ。鬱陶しいと思っていた赤い糸がなくなった。本当なら両手を挙げて喜ぶべきだ。でもおれの手は奮えていた。
「なんで、今更……」
赤い糸で結ばれている相手は運命の相手だ。祖父母がおれに照明し、渉と豊永だって、あんなに仲睦まじい恋人は見たことがないくらいだった。だから、赤い糸で結ばれた人と絶対に付き合うのだと息を撒いていた。
そうすれば、そうすれば──
きっと幸せになれると思っていたからだ。
裏切られたり裏切ったり、嘘をついたり騙したり、興味を失ったり、飽きて雑に扱ったり。そんな恋愛は絶対にごめんだからだ。だってそれは、おれの母親そのものだったから。絶対に、母親のようにはなりたくなかった。
でも、赤い糸はもう見えない。誰と誰が繋がっているのか、もうおれには分からない。おれだって、八重橋とまだ繋がっているのか──分からなくなってしまった。
赤い糸が全く別の人に繋がり直す、なんてケースは見たことがない。だが、赤い糸そのものが消滅してしまった場合は? そんなこと考えもしなかった。
「……ごめん。今日のご飯、作れない。ごめんね」
「誠ちゃん!? どこに行くの! 待ちなさい!」
後ろから怒声が追いかけてくるが、それを振り切って家から飛び出す。階段を降り、通りに出たところで自分がスマートフォンしか持っていない事に気づいたが、さしたる問題ではなかった。ただ、とにかく、今は家から少しでも離れたかった。
