運命の相手はお前かよ!?

 八重橋と映画に行ってから2日が経った。彼がコンテストのために写真を提出するまであと一週間、おれの放課後は、母親の休日を除いて彼との写真撮影の時間となっていた。
 もはやカメラを向けられることになんら違和感を感じなくなり、撮られていることすら忘れるようになってしまった頃、おれのスマートフォンに一通の通知が届く。撮影を中断してもらって確認したメッセージには「緊急」という文字が見えた。差出人は海老名渉、おれのクラスメイトである。

『緊急招集。今すぐ駅前のアウトレットに来てくれ』
『どうしたの? 今日は部活……は休みか。にしてもアウトレットって』
『理由は後。頼むから早く来て』
『あ』
『まz』

 と、ここでメッセージは途切れている。推理小説であればこのダイイングメッセージは大事な証拠になる。これを使って捜査をすれば、渉を襲った犯人が炙り出されるだろう。と、冗談はここまでにしよう。なぜなら追加のメッセージが届いたからだ。

『海老名渉は預かった。駅前のアウトレットに来るように。  豊永深織』

 豊永深織は渉の彼女の名前だ。深織、だからオリちゃん。
 渉は彼女ととても仲が良い。それは完全に外野であるおれからしても折り紙付きの評価で、赤い糸がお互いを結んでいるのも頷ける。おれが赤い糸を深く信じているのは祖父母と渉のおかげだと思う。それくらい仲の良いカップルだが、かといって諍いがないわけではない。諍いのない恋人の3ヶ月生音律は絶望的とされていることからも分かるように、喧嘩とは恋人の仲を引き裂く呪いではなく、互いをわかりあうための通過儀礼というところだ。
 つまるところ、今彼らは喧嘩をしているのだろう。そしておれにその仲裁をして欲しいということだ。実はこういう連絡は、渉と友達になってから初めてのことではない。他でもない彼の頼みだ。それに渉と彼女が平穏であるということは、赤い糸が運命の相手と結ばれている証拠でもある。彼らの恋の行方はおれとしてもきちんと把握しておきたい。

「八重橋、悪いんだけど少し急用ができた。今日はここまでにしてもいいかな」
「帰宅するのか?」
「いや、ちょっと友達が緊急事態みたいで。行ってあげたいんだ」
「そこにぼくがいるのは不自然か?」
「不自然……と言われれば不自然? いやどうかな……あ、もしかして一緒に来たいってこと? うん、断る人は誰もいないと思うよ」
「では」
 
 八重橋は細い髪を耳にかけ、鞄を手におれを目だけで促す。コンテストまでは日がない。彼としては限られた時間を使っておれという被写体をカメラに残したいと思うのは当然である。おれと連れ立って渉と彼女の前に現れるのも不自然じゃない──いや、どうだろう。とおれは目的地に向かいながら改めて考え直す。
 そういえば今、おれと八重橋は一応お付き合いをしているという関係性だ。おれも彼も周りに明かしていないから、まさかおれ達が恋人同士なんて誰が思うだろう。もちろん渉にも。
 けれど、正式に恋人同士である渉と彼女の前に八重橋を連れて行くのは、なんというか、妙な緊張感を覚える。状況だけを見れば、まるで両親に恋人を紹介するようだ。いやそんなものじゃないけれど。喧嘩を仲裁に行くだけだけど。
 波立つ心を落ち着かせるように渉にメッセージを送る。八重橋も同席するという旨だったが「了解」という簡素な返事が帰ってきだだけだった。彼女からの犯行予告──失敬、伝言を見るに、彼と彼のスマートフォン、および彼の発言権はすべて彼女、豊永深織に支配権が移っていると考えられる。

「ついOKを出したけれど、着いてから写真を撮るのは控えるようにね。多分、渉と彼女が喧嘩してるだろうから。……ああ、渉っていうのがおれの友達なんだけど」
「構わない。このまま帰るより得るものがあると思って同行するだけだ」
「八重橋って喧嘩見るの好きだよねー……」
「人の感情が丸裸になっている様は興味深い。大抵間に入ると平手打ちか拳が飛んで来るのだが」

 そりゃそうだろう。喧嘩でヒートアップしている人が、八重橋の遠回しなセリフを噛み砕けるとは思えない。シラフでも難しいと思うのに。煽られていると勘違いして手が出てしまうそうになる人に同情せざるを得ない。
 だが、それを押してでも彼を修羅場に連れて行こうと思ったのは、その空気の読めなさが逆に喧嘩の潤滑油になるのではないかと思ったからだ。随分な荒療治かもしれないが、渉と彼女、そして八重橋本人が了承しているのだし、後はなるようになれの精神で流れに身を任せよう。

「着いたよ。えーっと2人は……1階のフードコートにいるみたいだ」
「ところで、なぜお前を呼ぶ? 友人というだけで仲裁に呼ばれるものなのか?」
「あー……話せば長くなるんだけど。簡単にいうと、一度仲裁を成功させちゃったから、かな。全部の喧嘩に呼ばれるわけじゃないよ。客観的意見が必要な時に、たまにね」

 つまり、今回の喧嘩は第三者の介入が必要だと判断されているわけだ。目の前に迫っている争いを予想して、気が重くなる。いや、渉の恋路の助けになれるのなら大手を振って彼らの元に現れてやろう。それに赤い糸が彼らを結んでいるというとこは、おれがこうやって助太刀をすることだって計算の内なのだろうから。おれが多少憂鬱な気分になろうが関係はない。

 平日の夕方とあって、フードコートはやや混雑していた。人でごった返している休日と比べれば大したことない賑わいだが、今やあの喧騒すら懐かしい。子供の騒ぎ声とそれを諌める親の声、それさえあれば喧嘩騒ぎなど可愛いものだろう。

「……で、一体どういうことなの?」
「ああ、ようやく来た? いつもごめんなさいね。でも2人で話しても埒が明かないの。この借りは必ず返すから、どうか私たちに知恵を貸してくれる?」
「それはもちろん。渉には世話になってるからこれくらいは恩返ししないと割に会わないからね」
「義理堅いのね。あなたのような友人がいてくれて渉も幸せ者だわ」

 フードコートのとある一角、4人席に件の2人は座っていた。体格のいい坊主頭は遠くから見ても目立つもので、すぐに見つけることが出来た。
 渉の向かいに座っているのは、おれ達の学校とは別の制服を着ている女子生徒で、綺麗で艶のある長い黒髪が特徴的な女性である。彼女こそが渉の恋人、オリちゃんこと豊永深織その人であった。額を出したヘアスタイルは彼女の切れ長で鋭い目をより強調しており、ピンと伸ばした背筋も相まって少なくない威圧感を放っていた。

「それで、あなたが淀川君の?」
「八重橋大和。ぼくは野次馬をしにきただけだから、お構いなく」
「あらそう。こんなに堂々とした野次馬は初めてだわ。何かあったらご自由に発言してね」
「そうさせてもらう」

 おれは渉の隣、八重橋は豊永の隣に座る。テーブルにはシェア前提で購入したフライドポテトと2つのドリンクが鎮座していたが、フライドポテトはまだかなりの量が残っていた。みるからに萎びているそれを見て彼らが喧嘩している時間と、口をつけることすら許されない雰囲気を察したのだった。

「さて、これで役者は揃ったわね。ことの顛末を説明させていただくわ」

 豊永は朗々とした声でその場を仕切り始める。隣の渉は大きな図体を少し縮こませ、居心地が悪そうに手をもじもじと弄っていた。
 喧嘩の内容はこうだ。2人は家が近所でいわゆる幼馴染であり、様々な経緯を経て中学生の時にお付き合いを始めたのだが、高校ではお互い別々の進路に進んだため、顔を合わせる頻度がめっきり減ってしまったという。家が近いといっても渉は野球部でほぼ毎日帰りが遅く、豊永は勉強に力を入れているから塾に通っていて、2人がゆっくり会えるのは週一回、お互い部活と塾が休みの日だけ。あとはメッセージや電話でやりとりをしているのだとか。
 そして今日、週一回の貴重なデートの日に事件は起きた。デートと言っても高校生の放課後だ、やれることは限られている。このショッピングモールで待ち合わせをすることが定番になっていたのだが、渉が結構な時間遅刻をしてしまったのだという。
 なるほど、喧嘩としては随分ありきたりな題材である。これだけを聞けば原因は渉にあるようにも思えるが。そんな簡単に終わってしまう喧嘩ならおれが呼ばれることはない。

「ふうん、なるほどね。遅刻の理由は?」
「帰りがけに先輩に話しかけられて、なかなか抜け出すタイミングがなくて……それで気が付いたら1時間以上遅刻してしまいました。ごめん、オレが悪かった」
「……ということだけど、これで終わって無いってことは、豊永さん的には遅刻したこと以上に許せない理由があるのかな」
「話が早くて助かるわ。まず1つは、この遅刻が何も初めてではないということ。ひとつひとつの遅刻の理由は、今回のように仕方がないことが多いんだけど、そのたびに謝って、こちらが許して、その繰り返し。そろそろ改善されてもいいころかと思うんだけど、謝るだけで何も進まないのよね」
「待たせてるのは本当にごめん。でも先輩とか顧問の先生に話しかけられたら、それを無視して帰るなんてことできねーし……」
「誰も無視をしろなんて言っていないでしょ。もう少し話を早く切り上げられないかってことを言っているの。あなた、これからも遅刻して私を無駄に待たせる気?」
「いや、悪いとは思ってる。ごめん」
「だから改善点を出して欲しいんだけど?」

 豊永が腕を組む。苛立ちを押さえようとしているのは伝わるが、指をトントンと叩く様子から、かなり怒っているということが見て取れる。渉もそれが分かっているからこそ、余計なことを言わず謝罪に徹しているのだろうが、もうそれで収まるレベルではない、ということだろう。

「意見は許されているか?」
「どうぞ、八重橋君」

 じっと黙って話を聞いていた八重橋が高く挙手をする。豊永は険しい表情のまま発言を促した。

「つまり、お前……名前は?」
「海老名だ。海老名渉」
「そうか、海老名渉。お前は豊永深織に対する優先順位が下がっている」
「そ、そんなことあるわけねーだろ! オレはこのデートより友達を優先したことなんてないし、毎日電話も欠かさずしてんだぞ!」
「それは知らない。ただ、話を聞きかじっただけのぼくにこう言われるほど、先の対応は恋人に対する優先順位の低下だと言わざるを得ない」

 淡々と話す八重橋に3人の目が集中する。

「海老名渉、お前は部活には遅刻したことがあるか?」
「無い。時間厳守だからな。遅刻したやつにはペナルティもある。そもそも、時間も碌に守れないやつは野球をする資格がない……ってのが顧問の口癖だな」
「スポーツマンシップというやつか。ぼくには縁がないし、遅刻するから野球ができないという因果関係も分からないが。責任問題ということか。豊永深織、お前は遅刻の際にペナルティを課すか?」
「いいえ。多少の文句は言うけれど、そこまではしないわ」
「なるほどな。つまり海老名渉、お前は自分にデメリットがある場合には決して遅刻はしないのに、豊永深織という恋人に対してだけ遅刻が許されると思っている。恋人だから、仕方がないから、ペナルティがないからと甘えているのではないか」
「そ……そんなことは……」
「ない、というのなら謝ろう。考えてみると良い、そもそも、先輩との会話も切り上げたら部活でのポジションが危うくなるとでもいうのか? そうだとしたら、ぼくはそちらのスポーツマンシップの方こそ疑うね。結局、豊永深織が許しくれるから甘んじているだけに聞こえるね」

 渉は言い返せなくなりぱくぱくと口を開閉し、大きな手で覆う。そしてしばらく黙ると、しおらしく話し出した。

「……そうかも。オリちゃんはちゃんとオレのことを叱ってくれるけど、最終的にはオレのことを許してくれるから、これぐらいなら大丈夫……って無意識に思ってた。部活の先輩なら仕方ないって」
「仕方ないことは分かるけど、そこで止まって欲しくないの。八重橋君が言語化してくれた通りよ、私がモヤモヤしていたのは。ちょっとイライラして何を言ったら良いのか分からなくて、ただ怒るだけになったのはごめんなさい。そこは私に非があるわ」
「いや! オレが胡坐をかいてたから、オレが全面的に悪い!」

 渉はがばっと頭を下げる。

「オレ、オリちゃんの優しさに甘えないで、ちゃんと意識を変えるよ。だからその、別れるとかは、その……」
「そんなことひとことも言って無いでしょ。まあ、あのままの状態がずっと続くならそれも視野だったと思うけど」
「オ、オリちゃ~ん……」
「だからありがとうね、八重橋君。それに淀川君も」
「2人が仲直りしてくれたらおれも嬉しいよ。まあ、おれは今回何も役には立ってないけど」
「こちらとしては、第三者がいるだけでも有難いもの。2人だけでいたら、折り合いがつかなくて最悪別れることになっていたかもしれないしね」

 渉はその最悪を想像したのか、明らかに表情を引き攣らせている。人と人が交際するというのはつまり、そういうことだ。すれ違いや誤解、相手への尊重など、様々な問題をクリアしてお付き合いを続けるのだ。それが出来なかった時、人は往々にして「価値観の違い」のひとことてお別れをする。それだけが問題だったと。

「それにしても八重橋君、女心が分かるわよね。君が彼氏になるのだとしたら、彼女としては安心だと思うわ。付き合っている人はいるの?」
「ああ」
「へえ! 八重橋と付き合ってる人は気になるな。誰?」

 喧嘩を仲裁する立場で、完全に第三者の気分であったおれは、渉の何気ない質問に全身が硬直してしまった。そろそろ10月ということもあって店内は暖房が効いていたが、明らかにそのせいではない嫌な汗が背中を伝う。
 八重橋は渉の質問にひとつ、瞬きをする。指を唇に添え、特に慌てる様子もないまま彼は告げた。

「それは言わない」

 薄く細められた目は悪戯っぽさが含まれ、彼の雰囲気も相まったミステリアスな返答は渉の肩を透かしたようだった。

「広めて欲しくないと思うし、ぼく達は他人の評価を必要としない」
「そう言われると気になるが……そういうことなら仕方ねーか」
「じゃあ、彼女さんのどこが好き?」

 気が気じゃない話題ばかりが続き、おれは目が不自然に泳がないように、顔が強張らないように、努めて自然な振りをする。お互いに共通の友人がいないから、こういう話題の時にどう対応するか、という対策を練られていなかったのは迂闊であった。

「ああ、質問だけしてこちらが情報を開示しないのはフェアじゃないわね。私は、渉の抜けてるけど真面目で素直なところが好きよ」
「えっ……ありがとう。照れるな」
「どういたしまして。それで……八重橋君の好きな人がどんな人なのか、とても気になるわ。私はあなた達とは別の高校だし、特徴を言われても誰なのか分からない。つまりこれはあなたへの興味ということになるのかしらね」

 豊永は冷めたポテトフライを摘まみ、ぱくりと口に含む。八重橋は合点が言ったように頷いた。

「ぼくに告白をしてくるという時点で興味深い。それに尽きる」
「確かに、言い得て妙ね。好きな人には興味があるし、興味のある人を好きになる。結局はそういうことなのよね。好きの反対は無関心ともいうし」

 ねえ、と豊永の大きな目がおれを捉える。

「そういえば、淀川君のそういう話は聞いたことがないわね。渉から学校で一番モテてるって聞いたのだけど」
「買いかぶり過ぎだよ。噂に尾ひれがついてるだけだと思うな」
「んなわけねーだろ。知らねーと思うけど、お前の連絡先を知りたいって人からめちゃくちゃ声かけられてるんだぞ? 断ってるけど! 謙虚にも程があるっての」
「うーん、告白してくれるのは嬉しいよ。応えられないことは申し訳ないけど」
「正直、淀川に告白する奴の大半なんて見た目で寄ってきてるやつらばっかりだろ。興味があるやつを好きになるっていっても、アイドルみたいに理想を押し付けられたらたまったもんじゃねーよ。なあ?」
「うーん。だとしても、みんながおれのことを知るっていうのも難しいからね。ある程度は仕方ないと思っているよ」

 おれの顔を見て、親切にしたその出来事だけを見て告白してきた人は数え切れない。もちろん、赤い糸で結ばれていない相手と付き合うなんてことはあり得ない。そういう人は大抵おれの表面しか見ておらず、おれを恋人にするというステータスが目標であるからだ。
 一番身近にいた母親ですらおれのことを理解していないのに、ちょっとすれ違っただけのおれをどう理解するというのだろう。

 だが、同時に思い出す。
 おれが初対面で八重橋に告白した時、おれは彼のことを何も知らなかったはずだ。それだけで告白に踏み切ったおれは、おれに一目惚れをして告白してきた人達と何ら変わりがない。お互いの小指に赤い糸が結ばれていたことはおれしか知らないことで、八重橋がおれの告白を受ける材料にはならない。

「恋は盲目とはよく言ったものよね。きっかけはなんであれ、その子達も淀川君のことが好きで仕方がなかったのよ。中身を知る前に告白してしまうほどにね」

 おれは恋愛が嫌いだ。将来性のない感情に振り回されるなんて時間の無駄でしかない。だから赤い糸が結ばれている相手以外は眼中になかった。だから八重橋を見失わないようにと繋ぎ留めたけれど、こんなの、一目惚れで暴走している人と何が違うというのだろう。告白した相手からの好意がないという点を鑑みれば、おれはただ片思いをしているに過ぎないというのに。
 そう思うと、顔から火が出るほどの羞恥心が込み上げてきた。

「顔?」

 ふっと影がかかる。何が起きたのか理解する前に、顎を持ち上げられ八重橋と目が合った。綺麗な睫毛が添えられた細い目はじいとおれを観察する。顔を固定されているおれもそれは同じで、主張し過ぎない鼻筋や、薄い唇、耳の形まではっきりと網膜に焼き付けられる。
 一体どれくらいそうしていたのか、一秒が永遠に感じるほどの時間を経て、八重橋は何事もなかったかのように自分の席に座り直す。

「よく分からないな。目と耳が二つ、鼻と口が一つあれば同じだろう」
「妖怪と人間を見比べてんじゃねーんだわ」
「その場合、人型の妖怪は人間と区別がつかないけれど、どうするの?」
「脈を測れば良い。大抵の妖怪は死んでいる」

 そう言って八重橋はおれの左手、親指の付け根辺りの手首を掴む。血管を押さえる八重橋の指が微かにおれの心臓と同時に脈打っていた。彼の手はさほど暖かいという温度ではなかったが、自分と別の体温が触れている感覚に多少なりとも体が強張る。

「生きているな」

 そう言って薄く笑い、八重橋は手を離す。

「お前の顔の美醜は分からないが、ぼくは気に入っている」
「そ……そう? ありがとう」

 普段ならもう少し気の利いた言葉を思いつく。そう思っているかいないか、真偽のほどは別として、相手が喜びそうな言葉をかけ、表情を作ることはできる。幼い頃から母親を心配させないようにしていたおかげで自然と身に付いたスキルだ。だが、今はそのどれも上手く使えている自信がない。手をすぐに離されなければ、普段より早い脈拍の異常に気付かれてしまっていただろう。それを言及されれば今のおれには言い訳が思いつかない。

「さて、時間を取らせてしまったわね。何かお礼をしたいところだけど……」
「構わない。当たり前のことを言ったまで」
「その当たり前のことに気付けない人もいるのよ。それで別れてしまう人達もいるくらいにね」
「そうか。なら、お前達の写真を撮らせてもらえれば、それを謝礼として受け取ろう」
「うん? 別に構わないわ。それでお礼になるのなら」

 八重橋は慣れた手つきでカメラを構える。豊永は虚を突かれたものの快く承諾し、手櫛で前髪を整え始めた。そしてシャッターを切る前、ふとした考えが頭に浮かぶ。

「八重橋もこっちで映りなよ。タイマー機能はあるでしょ?」
「ぼくも?」

 きょとんとした八重橋を他所に豊永と渉もそれがいいと同意する。あれよあれよと席を移動してポジションを整えるが、三脚がないのでどうしても高さが足りない。仕方ないのでカメラをテーブルの上に置き、おれ達はテーブルに顔が隠れないギリギリのところでしゃがみ、なんとか画角に収まることに成功した。
 タイマー機能で映したので中心はズレているし、なんとか収まろうとおしくらまんじゅうのように押し付け合っているし、写真としてはあまり良い出来ではないだろう。でも八重橋はそれをしばらく見つめ、何ともいえない表情をしていた。

「自分を映すなんていつぶりだろう」

 八重橋を誘ったのはおれのためだ。今の状態で、自分がどういう風に写真に映るか全く分からなかったから、それならいっそ八重橋も巻き込んで上手く誤魔化せたら……と思ったのだった。

「存外、良いものだな」

 大切なものを愛でるような眼差しで写真を見つめる。おれはそれを見て、何故だか自分のことのように心が温かくなったような──そんな気がした。