ガタン、ガタンと電車の走る音が響く。通勤ラッシュの時間は過ぎたというのに、車内がほどほどに混んでいるのは今日が祝日だからだろう。通り過ぎた電車の余韻を感じていると、じゃり、と小石を踏む音が近づいてきた。
「うん。このくらいだな」
「大分撮ったねぇ。同じ構図と場所で物足りなくない?」
「撮って終わりじゃないからな。同じ構図を数百枚撮って至高の1枚を選ぶのだ。ひとつとして同じものはない」
「記念写真とは随分違うんだ」
河川敷の柵に肘を置いて流れる川を眺めた。今日は祝日。1日八重橋の写真撮影に付き合うため朝早くから集まり、通勤ラッシュの時間を軽く超えてようやく休憩となったわけだ。
平日は母親の目があるので、母親が仕事の日しか満足に活動することができなくなってしまった。その代わりに土日はできる限り都合をつけることで話がまとまったのだ。というわけで、今は河川敷と電車をバックに撮影されていたのだが。
「次はどこに行く? せっかく時間があるし遠出してもいいよ」
撮影したばかりの写真をじいと見ていた八重橋は集中しているようで、うーんと気の抜けた返事が帰ってくる。こうなってしまうとしばらく話にならない。仕方ないと待っていると、河川敷から一段上がったところにある土手道を走っている男女が見えた。
「早く早く! 走れば電車間に合うから!」
「アンタが寝坊したのが悪いんでしょ!? あたしはちゃんと待ち合わせに着いてたのにっ……! ああもう横っ腹痛い!」
「ごめんて! でも次の電車に乗らないと映画に間に合わないから……!」
男性が先を走り、その後を女性が追いかけている。やがて男性が女性の手を掴み、手を引きながら走り去っていく。おれはそれをぼんやりと見送っていた。八重橋はまだ写真を熱心に確認していた。
「デートかな。いいねぇ、映画デート」
「映画?」
八重橋は映画という単語に興味を示し、こちらにやっと顔を向けた。
「映画は良い。映画というより全ての作品に触れるのは刺激になる」
そうして、何も言わないまま急に土手を登り始めた。おれは慌てて追いかける。先日までのおれなら突然どうしたのかと問い詰めるところだが、数日八重橋と一緒に過ごして、少しではあるが彼の行動パターンが読めてきた。
「……映画行くの?」
「ああ。インプットは欠かせない」
「オッケー。じゃあおれも観に行こうかな。着く時間に丁度良く何か上映されてるといいんだけど」
「もちろんだ。お前が行かなくてどうする。被写体の視野を広げることも重要だ」
何を言っているんだ、とでも言いたげな口調で八重橋はスタスタと駅に向かって歩き続ける。勝手に行動を決めたくせに、おれがついてくることが当たり前だと思っているようだ。
この一週間、八重橋との写真撮影を通して分かったことといえば、やはりよく分からない、ということだった。考え込ことも多いけど、さっきのように即断即決で行動することもある。彼にしかない思考回路に沿って動いているようでなかなか予想ができない。
何をするにしても自分が中心であり、そのせいで周囲の人の顰蹙を買うこともある。このあたりが”変人”と呼ばれてしまう所以なのだろうけど、おれはそこまで嫌な気持ちにならない。もちろん迷惑をかけるのは良くないし、その時は八重橋に代わって謝罪する必要があるから気が抜けない、という点では困っているけれども。
それを除けば、自分のしたいことを真っ直ぐに伝え、実行する八重橋の姿はおれとはまるで正反対だった。
「映画なんて久しぶりだな。最後に見たのはいつだっけ……確か小学生の時……だったかなぁ。八重橋は最近何か観た?」
「できるならこの世に公開されている作品を全て観たいが、時間も金も全く足りない。インプットに制限があるのは悲しいことだ」
「はは、八重橋らしいね」
「それに、一般的な逢瀬では映画に行くとあった。良いタイミングだ」
逢瀬、逢引き、デート。
土手を登り切ったところでおれは思わずつんのめってしまいそうになる。八重橋から出る言葉としてあまりにイメージとかけ離れていて、脳の処理が追いつかず足までもつれてしまったようだ。
「あ、あー……そうね、デートね。確かに映画館デートは定番だよね」
「だが、時期によって放映されている映画は異なる。一体どれを見ればいいのか結論を出すことはできなかった」
「お互い興味のあるものを見ればいいんじゃない? 今だと恋愛もの、バトルアクション、ミステリー、子供向け、ホラー……結構選び放題みたいだよ」
「それを全て見るためにはどう動けばいい?」
「朝イチから観ても厳しいんじゃないかなぁ」
「それじゃあ意味がないのでは? 放映されている全ての映画が観れないデートなど」
「そうだね、多分映画デートってそういうものじゃないからね」
なおも納得がいかないとばかりにぶつぶつと呟いている。こういうふとしたところの異常な拘りは、まだ完全に予測できない。おそらくは一生かけても理解が及ばないのだろうけど。
「それより……デート、について調べてたんだ?」
「交際をする者達は定期的な逢瀬をするらしい。ぼく達は交際しているからな」
まるで隠し事が露呈してしまったかのような居心地の悪さに心臓がそわそわする。対して八重橋は涼しい顔をして駅を目指していた。
驚いた。まさか、八重橋におれと付き合っている自覚があったとは。
本当に、色んな意味でおれが言えたことではないのだが、八重橋はおれの付き合おうという言葉に肯定の返事をしただけで、真の意味では付き合っていない。という可能性がかなり高かった。一般的な女の子と付き合うとなればお付き合いをしていくための順序は自ずと導き出される。だが行動や思考の予測ができない八重橋相手ではその限りではない。
おれと繋がる”運命の赤い糸”の相手が見つかった。それだけで勢い余って告白をしてしまったけれど、八重橋との関係をどうしていけばいいのか全く分からなかった。
それに恋愛のれの字もない八重橋と赤い糸が繋がってしまったことも不可解だ。だから、八重橋が提示した条件「おれがコンテストの被写体になる」ことに逃げて、今までなあなあにしてきたというわけだった。
「そうだね、間違いない」
どうしておれと付き合うことにしたの?
喉元まで言葉が出かかったが、改札口に着いたおれ達の目の前を電車が通り過ぎ、一時的な突風が襲う。それにかき消されておれは言いかけた言葉をごくりと飲み込んだ。
おれの小指に結えられている赤い糸は風に揺れない。触れることもできない、ただおれに見えるだけの摩訶不思議な存在。それを信じて告白したおれと、違う視点を得るという理由だけで告白を受けた八重橋。
というか、そもそも。
“運命の相手”を見つけたところで、一体何をどうすれば良しとされるのだろう。
お付き合いをしたら?
結婚したら?
はたまた子供が産まれたら?
ならば男同士で赤い糸が結ばれて、既にお付き合いをしたおれ達はどこに向かえばいいのだろう。
「……今、丁度いい時間に上映してるのは恋愛ものしかないみたいだね。結構CMとかやってて話題になってたな。見てみる?」
「なんでも見よう。インプットにならないものなどない」
映画館に着いて上映スケジュールを確認してみれば、言った通り恋愛ものの映画がこれから上映されるらしい。注目していないおれでも広告が目に入るくらいだから、猛プッシュされているのだろう。
劇場の予告時間ギリギリに滑り込み、スクリーンをやや斜めに見るかたちで座席に落ち着く。
映画の内容は一言で言うと、余命宣告された恋人とその周囲の人々が織り成す切ないラブストーリー、というやつだった。恋人役である主演の2人の感情がこもった演技は目を引くものがあったが、おれは今ひとつ乗り切れず、一歩引いて冷静にそれを見ていた。
大切な恋人が失われるという喪失感は想像するだけで悲痛な気持ちになるものだが、出会い、恋をして、結ばれて──というところで思考が躓いてしまう。好きな気持ちが分からない、とまでは言わないけれど、どうしてそこから一歩足を進められるのか、おれには分からない。
おれのように赤い糸が見えているわけでもあるまいに、何故人々は博打のように恋に身を投じることができるのか、おれには分からない。おれだって赤い糸という大義名分がなければ、八重橋と隣合って映画を観るなんてことはしなかっただろう。
いつか終わってしまう恋なんて脆いものにしがみつきたくはない。
「勉強になる。インプットはいいものだ」
「お気に召したなら何よりだよ。少し息抜きが出来たかな」
「ぼくにとって写真を撮ることは苦痛ではない。息抜きが必要になる行為とは異なる」
「ふうん……八重橋はさ、どうして写真を撮ってるの?」
上映後、劇場から帰るお客さんと一緒に歩きながら、おれは尋ねてみる。しかし口にした直後、踏み込みすぎた質問をしたかもしれないと少し後悔した。
相手のことを知るということは、自分のことを知られるリスクを伴うということだからだ。
「家が焼け出されたことがある」
それを天秤にかけてまで知りたいか、と問われれば、おれは首を横に振る。ただ、どうしてそこまで写真に拘るのか気になってしまった。
返ってきた答えにおれは言葉を失う。
「中学生に上がって、1年……経つか経たないかだったか。下の住人による火の不始末だった。木造建てだったので火の回りが早くてな、後には何も残らなかった。本当に、何も」
八重橋の口調は平坦で変わらない。映画館のカーペットが柔らかい足音を立てた。
「記録に残す理由は、記憶以外に残せるからだ。写真はその最たる方法だ」
細い髪が揺れて八重橋の横顔が覗く。眠そうにしている目がどこか遠くを見ているような気がした。
「忘れたくないものがあるなら、お前も写真に残しておくと良い。失ってから得ることはできないからな」
「……良かったの? その話、おれにして」
「良かったも何も、聞いてきたのはお前だろう」
「それは……そうなんだけど。ごめん、辛い話をさせたかったわけじゃないんだ」
「話せるから話した。話せないなら話していない。お前は何に謝っている?」
「思い出したくないのかと思ったからだよ。おれには家を焼け出される気持ちは分からないけれど」
「むしろ忘れてはならないと思っている。自分がどうやって作られたのかを忘れてしまっては、自分でなくなってしまう」
「それじゃあ……おれは、もう、おれじゃないのかもしれないね」
自分が何を見てどう感じたかを残し、自分の軌跡をなぞるのはそれを覚えていたいから。そう言い切る八重橋との距離を感じざるを得なかった。
おれには忘れたいことが多すぎる。両親の離婚、母親の彼氏、言い寄ってくる人達──それすらもおれを形成したものなのだとすれば、おれがおれである必要などどこにあるのか。
「八重橋はさ、どうしておれの告白を受けてくれたの」
「お前がぼくに告白をしたから……で納得するような顔ではない。それ以上の理由が必要なんだろう」
外へ出ると冷えた空気が頬を撫でる。
「なら、お前がぼくに告白した理由をちゃんと考えるべきだな」
映画館が入っているショッピングモール、その駐車場を横断し、八重橋は目的地を告げずに歩き始めた。おれもそれに着いていく。
「おれは……惚れた腫れた、みたいな恋愛ごとを信用してない。どれだけ愛を囁いても、次の日には別れたりするだろ。だから信用ならない」
喉が不自然に乾く。誰にも言ったことがない胸中に罪悪感が芽生えるが──その芽が成長する前に引き抜いた。
「おれの母親は浮気してたんだ。父親は育児に協力的じゃなかったし、母親自身も育児に向いてなかったんだと思う。だから早々に父親を見限ったんだろう。世間一般的には許されることじゃないけどね」
幼い頃、初めて赤い糸が見えた時。母親を追って行った先にいたのは、母親が働いている飲食店の常連客だった。あの時は赤い糸の先が父親じゃなかった、という事実だけでそれ以上を考えることができなかった。小学生になったばかりの子供に、母親が父親と別に親しい男がいるなんて考え付くはずもない。
父親が母親の浮気に長い間気づくことはなかった。それは母親の隠し事が上手かったのではなくて、単に父親が母親、そして家庭のことに何も興味がなかったというだけの話だった。結局、父親は父親で家庭や育児の責任から逃れるために浮気をしていたのだけど、こうなってはもう同じ穴の狢だ。2人はかつて夫婦だったことも忘れ、一体どちらがより悪いのかを競うようになった。それが1年ほど続き……両親は離婚することになったのだった。
「ま、おれからしてみれば当然の結果だったと思うよ。おれが覚えてる父親の姿なんて、滅多に帰ってこない人みたいなもんだったからさ。父親らしいことなんてしてもらったこともない。夫婦ってそういう、冷めた関係なのかと思ってた」
かつては惹かれ合い、お付き合いをして、結婚した人同士のはずなのに。病める時も健やかなる時も、と誓い合ったはずなのに。蓋を開けてみればそこにいたのは自己中心的で子供のままの男女だけ。子供を持つ責任も覚悟もないのに、ただ浮かれて欲望をぶつけ合った結果がこれだ。
だから、恋愛なんて不確定なギャンブルは絶対にしたくないと思った。いつか終わりが来るものに対してご機嫌を取る必要も、先の見えない不安に怯える必要もない。でも、赤い糸が見えているのなら話は別だ。祖父母のようになれるのなら、人のことは信じられなくても、赤い糸だけは信じられる。だからおれは、接点もなかった八重橋に柄でもない告白をした。それだけだ。それ以外に理由はない。
「高校生の恋愛に未来なんてない。そうだろ? 学生のカップルが長続きして結婚するなんて漫画の中だけの純愛ごっこさ」
「では、なぜぼくに告白をした?」
理由はこれ以上ないくらいはっきりしているけれど、しかし、この理由だけは伝えることが難しい。
「……おれに告白してくる人はさ、おれに期待してるんだ。優しいとか王子様みたいとか、守ってくれそうだとか。大層なイメージが付いてる。本当にどこかの国の王子様とでも思ってるみたいにね
。どこにでもいるただの高校生だっていうのにさ」
胸の中から取り出すように言葉や感情を選びながら話していると、思ったよりも時間がかかる。気がつくとおれ達は朝にもいた河川敷に帰ってきていた。どちらともなく足を止め、寒々しい川を眺める。
「だから、そういう……なんのしがらみもない人が良かったんだ。おれに期待もしない、何にも縛られてない、そういう人が。八重橋には失礼な話だよね」
嘘ではなかった。もっと根本には”運命の赤い糸がおれと結ばれていた”という理由があるけれども、それを抜きにしても、恋人の相手としては理想であった。八重橋はおれ、というより周りの人間に興味がさほどないように見えた。被写体としての関心はあるようだが、その無機質な関心がおれにはとても都合が良かった。それは無礼な好意よりよっぽど心地が良いものだった。
けれど、それではなんの意味もないことは薄々感じていた。赤い糸同士でお付き合いをしたことで博打の恋愛からは逃れられたが、これでは名ばかりの恋人であるからだ。でも、明らかな好意を向けられて、拒絶反応が出ないかと言われれば、自信を持ってイエスとは言えなかった。
結局のところ、運命の相手が現れたところで、おれ自身が変わらなければ何も進まないのだと、お付き合いをしてようやく気づく。運命の相手と結ばれれば万事解決、順風満帆、それこそ漫画のように、黙っていても王子様が自分に気づいてくれる、などということはあり得ないのだと。ならばやはり、不安定な恋愛感情に身を任せるしかないのだろうか。
「そうだろうとは思っていた。お前からは上っ面の好意しか見て取れなかったからな。それこそ惚れた腫れた、でぼくに声をかけたわけでないことは分かっていた、最初からな」
「はは、そこまでバレバレだと恥ずかしいね。最初からお見通しだったってわけ。でも、それなら尚更、どうしておれの告白を受けたりしたのさ」
「お前に興味があった。いや、好きでもないぼくに告白をするお前に関心を惹かれた、と言った方が正しいか」
八重橋は転落防止用の柵に腰をかけ、じっとおれの目を見る。
「それに、コンテストの被写体になってくれるという条件つきだ。ぼくにとって告白を受けないという選択肢はなかった」
そうして、彼の薄い唇が言葉を発声するために開閉される。
「淀川誠志郎。人は惚れた腫れた以外でも人と繋がるものだ。それが、お前の言うところの低俗な恋愛感情よりも崇高なものであると、一体誰が決めた?」
すぐに答えることはできなかった。喉元で言葉が渋滞する。
「人の感情は季節のように移ろいやすい。愚かで正しくなくとも、その有り様はひどく美しい。感情と理性の狭間で踏みとどまれるのか、足を踏み外すのか……一体どんな生き様を見せるのか、ぼくはそれに惹かれている」
「低俗、だなんて。ただおれは将来性がない恋愛に縛られたくないってだけで。そんな風に思ってるわけじゃ」
「さて、どうかな。ぼくにはそう聞こえたけど。それに、それほどまで嫌っている恋愛に自ら近づいたのはお前だろ」
違う、とは言えなかった。
恋愛は嫌いだ。口癖のように愛を囁く人に反吐が出る。どうせその場限りのくせに、自分に酔って自分は正しいと正論を振りかざしているのを見ると、どうしようもない嫌悪感に襲われる。
「ああ、違ったな。お前はぼくが好きで近づいたのではなかった。とにかく」
八重橋はひょいと柵から降りる。
「ぼくは、お前がぼくに近づいた理由がなんでも構わない。お前が納得のいく答えを出せているといいんだけど」
「八重橋がおれの告白を受けた理由、ね。うん、おれにとってはこれ以上ないくらいだよ」
「そう。それならいい。ぼくも通常の恋愛で満足させることはできそうにないからな」
では、と言って八重橋は首に掛けていたカメラを構える。
「河川敷は撮り終えたんじゃなかったっけ?」
「そんなことを言った覚えはない。撮りたい時に撮りたいだけ撮る。そうでなくてはここにいる意味がない」
「そ。お好きにどうぞ、そういう話で付き合ってもらっているからね」
「言われなくとも」
そう言って、八重橋は合図もせずにシャッターを切る。これも慣れたものだ。彼は風景をバックに記念写真を撮りたいのではなく「その瞬間」を切り取ることを目的としているのだ。彼の過去を聞いた後では珍妙だと思っていた行動にも説得力が出てくる。
そうして、何枚か撮り終えたあと、八重橋はカメラから目を離してこちらを覗いてきた。
「やはりお前は被写体に向いている。お前ほど変化に富んでいる奴もそういない」
「どう言うこと?」
「百聞は一見にしかず、だ」
そう言って、カメラを渡される。教えてもらった操作をしてみると、川を背にした
おれが異常な枚数保存されていた。いくら厳選するといっても、これだけの自分の写真があるのはなんだか変な気分である。
大量にある写真を適当に開く。そこにいたのは、薄くはにかんんでいる自分だった。どことなく清々しい表情をしている自分に驚いて、思わず撮った本人を見る。
「初めは辛気臭い顔をしていたが、見違えるようだな?」
「辛気臭いってなにさ。別に、変わっていないと思うけど……」
嘘だ。そして、自分がどうしてこんな顔をして写真に映ったのかを、おれは分かっている。
人の恋愛感情よりもおれの気持ちが格上だと、無意識に思っていたことを看破された。それは隠していた宝物を暴かれたような、顔を覆いたくなるような恥ずかしさだった。だが逆に、なぜだか清々しくも感じている。言い訳のしようもなく論破された。否定しなければ、おれは母親と同じに成り果てるというのに。
しかし、彼は恋愛こそが至高である、とは言っていない。上も下もない、ただそこにあるだけの感情であり、競い合うことなど不毛であると言ってのけたのだ。馬鹿馬鹿しい、そんな風に割り切れていれば、おれは八重橋に告白などしなかった。けれど、彼の言い分をおれの価値観にアップデートするかは別として。一旦は受け入れる、という試みができる自分に、おれ自身が驚いている。
恋愛は嫌いだ。でも、自分の考えに苦言を呈されたことがなかったから、自分の意見を言ったことすらなかったから。それはあまりにも大きな衝撃だった。どじこもっていた殻にヒビが入ったような、固く閉じていた扉に亀裂が入ったような。だがそれに恐れは感じなかった。きっと八重橋だから、なのだろう。
ファインダーから目を外した八重橋は得意げに笑みを浮かべている。こんなに表情豊かなやつだったろうか、とおれは首を捻った。
一瞬だけ狂った心拍は何かを知らせる合図か、それとも。
「うん。このくらいだな」
「大分撮ったねぇ。同じ構図と場所で物足りなくない?」
「撮って終わりじゃないからな。同じ構図を数百枚撮って至高の1枚を選ぶのだ。ひとつとして同じものはない」
「記念写真とは随分違うんだ」
河川敷の柵に肘を置いて流れる川を眺めた。今日は祝日。1日八重橋の写真撮影に付き合うため朝早くから集まり、通勤ラッシュの時間を軽く超えてようやく休憩となったわけだ。
平日は母親の目があるので、母親が仕事の日しか満足に活動することができなくなってしまった。その代わりに土日はできる限り都合をつけることで話がまとまったのだ。というわけで、今は河川敷と電車をバックに撮影されていたのだが。
「次はどこに行く? せっかく時間があるし遠出してもいいよ」
撮影したばかりの写真をじいと見ていた八重橋は集中しているようで、うーんと気の抜けた返事が帰ってくる。こうなってしまうとしばらく話にならない。仕方ないと待っていると、河川敷から一段上がったところにある土手道を走っている男女が見えた。
「早く早く! 走れば電車間に合うから!」
「アンタが寝坊したのが悪いんでしょ!? あたしはちゃんと待ち合わせに着いてたのにっ……! ああもう横っ腹痛い!」
「ごめんて! でも次の電車に乗らないと映画に間に合わないから……!」
男性が先を走り、その後を女性が追いかけている。やがて男性が女性の手を掴み、手を引きながら走り去っていく。おれはそれをぼんやりと見送っていた。八重橋はまだ写真を熱心に確認していた。
「デートかな。いいねぇ、映画デート」
「映画?」
八重橋は映画という単語に興味を示し、こちらにやっと顔を向けた。
「映画は良い。映画というより全ての作品に触れるのは刺激になる」
そうして、何も言わないまま急に土手を登り始めた。おれは慌てて追いかける。先日までのおれなら突然どうしたのかと問い詰めるところだが、数日八重橋と一緒に過ごして、少しではあるが彼の行動パターンが読めてきた。
「……映画行くの?」
「ああ。インプットは欠かせない」
「オッケー。じゃあおれも観に行こうかな。着く時間に丁度良く何か上映されてるといいんだけど」
「もちろんだ。お前が行かなくてどうする。被写体の視野を広げることも重要だ」
何を言っているんだ、とでも言いたげな口調で八重橋はスタスタと駅に向かって歩き続ける。勝手に行動を決めたくせに、おれがついてくることが当たり前だと思っているようだ。
この一週間、八重橋との写真撮影を通して分かったことといえば、やはりよく分からない、ということだった。考え込ことも多いけど、さっきのように即断即決で行動することもある。彼にしかない思考回路に沿って動いているようでなかなか予想ができない。
何をするにしても自分が中心であり、そのせいで周囲の人の顰蹙を買うこともある。このあたりが”変人”と呼ばれてしまう所以なのだろうけど、おれはそこまで嫌な気持ちにならない。もちろん迷惑をかけるのは良くないし、その時は八重橋に代わって謝罪する必要があるから気が抜けない、という点では困っているけれども。
それを除けば、自分のしたいことを真っ直ぐに伝え、実行する八重橋の姿はおれとはまるで正反対だった。
「映画なんて久しぶりだな。最後に見たのはいつだっけ……確か小学生の時……だったかなぁ。八重橋は最近何か観た?」
「できるならこの世に公開されている作品を全て観たいが、時間も金も全く足りない。インプットに制限があるのは悲しいことだ」
「はは、八重橋らしいね」
「それに、一般的な逢瀬では映画に行くとあった。良いタイミングだ」
逢瀬、逢引き、デート。
土手を登り切ったところでおれは思わずつんのめってしまいそうになる。八重橋から出る言葉としてあまりにイメージとかけ離れていて、脳の処理が追いつかず足までもつれてしまったようだ。
「あ、あー……そうね、デートね。確かに映画館デートは定番だよね」
「だが、時期によって放映されている映画は異なる。一体どれを見ればいいのか結論を出すことはできなかった」
「お互い興味のあるものを見ればいいんじゃない? 今だと恋愛もの、バトルアクション、ミステリー、子供向け、ホラー……結構選び放題みたいだよ」
「それを全て見るためにはどう動けばいい?」
「朝イチから観ても厳しいんじゃないかなぁ」
「それじゃあ意味がないのでは? 放映されている全ての映画が観れないデートなど」
「そうだね、多分映画デートってそういうものじゃないからね」
なおも納得がいかないとばかりにぶつぶつと呟いている。こういうふとしたところの異常な拘りは、まだ完全に予測できない。おそらくは一生かけても理解が及ばないのだろうけど。
「それより……デート、について調べてたんだ?」
「交際をする者達は定期的な逢瀬をするらしい。ぼく達は交際しているからな」
まるで隠し事が露呈してしまったかのような居心地の悪さに心臓がそわそわする。対して八重橋は涼しい顔をして駅を目指していた。
驚いた。まさか、八重橋におれと付き合っている自覚があったとは。
本当に、色んな意味でおれが言えたことではないのだが、八重橋はおれの付き合おうという言葉に肯定の返事をしただけで、真の意味では付き合っていない。という可能性がかなり高かった。一般的な女の子と付き合うとなればお付き合いをしていくための順序は自ずと導き出される。だが行動や思考の予測ができない八重橋相手ではその限りではない。
おれと繋がる”運命の赤い糸”の相手が見つかった。それだけで勢い余って告白をしてしまったけれど、八重橋との関係をどうしていけばいいのか全く分からなかった。
それに恋愛のれの字もない八重橋と赤い糸が繋がってしまったことも不可解だ。だから、八重橋が提示した条件「おれがコンテストの被写体になる」ことに逃げて、今までなあなあにしてきたというわけだった。
「そうだね、間違いない」
どうしておれと付き合うことにしたの?
喉元まで言葉が出かかったが、改札口に着いたおれ達の目の前を電車が通り過ぎ、一時的な突風が襲う。それにかき消されておれは言いかけた言葉をごくりと飲み込んだ。
おれの小指に結えられている赤い糸は風に揺れない。触れることもできない、ただおれに見えるだけの摩訶不思議な存在。それを信じて告白したおれと、違う視点を得るという理由だけで告白を受けた八重橋。
というか、そもそも。
“運命の相手”を見つけたところで、一体何をどうすれば良しとされるのだろう。
お付き合いをしたら?
結婚したら?
はたまた子供が産まれたら?
ならば男同士で赤い糸が結ばれて、既にお付き合いをしたおれ達はどこに向かえばいいのだろう。
「……今、丁度いい時間に上映してるのは恋愛ものしかないみたいだね。結構CMとかやってて話題になってたな。見てみる?」
「なんでも見よう。インプットにならないものなどない」
映画館に着いて上映スケジュールを確認してみれば、言った通り恋愛ものの映画がこれから上映されるらしい。注目していないおれでも広告が目に入るくらいだから、猛プッシュされているのだろう。
劇場の予告時間ギリギリに滑り込み、スクリーンをやや斜めに見るかたちで座席に落ち着く。
映画の内容は一言で言うと、余命宣告された恋人とその周囲の人々が織り成す切ないラブストーリー、というやつだった。恋人役である主演の2人の感情がこもった演技は目を引くものがあったが、おれは今ひとつ乗り切れず、一歩引いて冷静にそれを見ていた。
大切な恋人が失われるという喪失感は想像するだけで悲痛な気持ちになるものだが、出会い、恋をして、結ばれて──というところで思考が躓いてしまう。好きな気持ちが分からない、とまでは言わないけれど、どうしてそこから一歩足を進められるのか、おれには分からない。
おれのように赤い糸が見えているわけでもあるまいに、何故人々は博打のように恋に身を投じることができるのか、おれには分からない。おれだって赤い糸という大義名分がなければ、八重橋と隣合って映画を観るなんてことはしなかっただろう。
いつか終わってしまう恋なんて脆いものにしがみつきたくはない。
「勉強になる。インプットはいいものだ」
「お気に召したなら何よりだよ。少し息抜きが出来たかな」
「ぼくにとって写真を撮ることは苦痛ではない。息抜きが必要になる行為とは異なる」
「ふうん……八重橋はさ、どうして写真を撮ってるの?」
上映後、劇場から帰るお客さんと一緒に歩きながら、おれは尋ねてみる。しかし口にした直後、踏み込みすぎた質問をしたかもしれないと少し後悔した。
相手のことを知るということは、自分のことを知られるリスクを伴うということだからだ。
「家が焼け出されたことがある」
それを天秤にかけてまで知りたいか、と問われれば、おれは首を横に振る。ただ、どうしてそこまで写真に拘るのか気になってしまった。
返ってきた答えにおれは言葉を失う。
「中学生に上がって、1年……経つか経たないかだったか。下の住人による火の不始末だった。木造建てだったので火の回りが早くてな、後には何も残らなかった。本当に、何も」
八重橋の口調は平坦で変わらない。映画館のカーペットが柔らかい足音を立てた。
「記録に残す理由は、記憶以外に残せるからだ。写真はその最たる方法だ」
細い髪が揺れて八重橋の横顔が覗く。眠そうにしている目がどこか遠くを見ているような気がした。
「忘れたくないものがあるなら、お前も写真に残しておくと良い。失ってから得ることはできないからな」
「……良かったの? その話、おれにして」
「良かったも何も、聞いてきたのはお前だろう」
「それは……そうなんだけど。ごめん、辛い話をさせたかったわけじゃないんだ」
「話せるから話した。話せないなら話していない。お前は何に謝っている?」
「思い出したくないのかと思ったからだよ。おれには家を焼け出される気持ちは分からないけれど」
「むしろ忘れてはならないと思っている。自分がどうやって作られたのかを忘れてしまっては、自分でなくなってしまう」
「それじゃあ……おれは、もう、おれじゃないのかもしれないね」
自分が何を見てどう感じたかを残し、自分の軌跡をなぞるのはそれを覚えていたいから。そう言い切る八重橋との距離を感じざるを得なかった。
おれには忘れたいことが多すぎる。両親の離婚、母親の彼氏、言い寄ってくる人達──それすらもおれを形成したものなのだとすれば、おれがおれである必要などどこにあるのか。
「八重橋はさ、どうしておれの告白を受けてくれたの」
「お前がぼくに告白をしたから……で納得するような顔ではない。それ以上の理由が必要なんだろう」
外へ出ると冷えた空気が頬を撫でる。
「なら、お前がぼくに告白した理由をちゃんと考えるべきだな」
映画館が入っているショッピングモール、その駐車場を横断し、八重橋は目的地を告げずに歩き始めた。おれもそれに着いていく。
「おれは……惚れた腫れた、みたいな恋愛ごとを信用してない。どれだけ愛を囁いても、次の日には別れたりするだろ。だから信用ならない」
喉が不自然に乾く。誰にも言ったことがない胸中に罪悪感が芽生えるが──その芽が成長する前に引き抜いた。
「おれの母親は浮気してたんだ。父親は育児に協力的じゃなかったし、母親自身も育児に向いてなかったんだと思う。だから早々に父親を見限ったんだろう。世間一般的には許されることじゃないけどね」
幼い頃、初めて赤い糸が見えた時。母親を追って行った先にいたのは、母親が働いている飲食店の常連客だった。あの時は赤い糸の先が父親じゃなかった、という事実だけでそれ以上を考えることができなかった。小学生になったばかりの子供に、母親が父親と別に親しい男がいるなんて考え付くはずもない。
父親が母親の浮気に長い間気づくことはなかった。それは母親の隠し事が上手かったのではなくて、単に父親が母親、そして家庭のことに何も興味がなかったというだけの話だった。結局、父親は父親で家庭や育児の責任から逃れるために浮気をしていたのだけど、こうなってはもう同じ穴の狢だ。2人はかつて夫婦だったことも忘れ、一体どちらがより悪いのかを競うようになった。それが1年ほど続き……両親は離婚することになったのだった。
「ま、おれからしてみれば当然の結果だったと思うよ。おれが覚えてる父親の姿なんて、滅多に帰ってこない人みたいなもんだったからさ。父親らしいことなんてしてもらったこともない。夫婦ってそういう、冷めた関係なのかと思ってた」
かつては惹かれ合い、お付き合いをして、結婚した人同士のはずなのに。病める時も健やかなる時も、と誓い合ったはずなのに。蓋を開けてみればそこにいたのは自己中心的で子供のままの男女だけ。子供を持つ責任も覚悟もないのに、ただ浮かれて欲望をぶつけ合った結果がこれだ。
だから、恋愛なんて不確定なギャンブルは絶対にしたくないと思った。いつか終わりが来るものに対してご機嫌を取る必要も、先の見えない不安に怯える必要もない。でも、赤い糸が見えているのなら話は別だ。祖父母のようになれるのなら、人のことは信じられなくても、赤い糸だけは信じられる。だからおれは、接点もなかった八重橋に柄でもない告白をした。それだけだ。それ以外に理由はない。
「高校生の恋愛に未来なんてない。そうだろ? 学生のカップルが長続きして結婚するなんて漫画の中だけの純愛ごっこさ」
「では、なぜぼくに告白をした?」
理由はこれ以上ないくらいはっきりしているけれど、しかし、この理由だけは伝えることが難しい。
「……おれに告白してくる人はさ、おれに期待してるんだ。優しいとか王子様みたいとか、守ってくれそうだとか。大層なイメージが付いてる。本当にどこかの国の王子様とでも思ってるみたいにね
。どこにでもいるただの高校生だっていうのにさ」
胸の中から取り出すように言葉や感情を選びながら話していると、思ったよりも時間がかかる。気がつくとおれ達は朝にもいた河川敷に帰ってきていた。どちらともなく足を止め、寒々しい川を眺める。
「だから、そういう……なんのしがらみもない人が良かったんだ。おれに期待もしない、何にも縛られてない、そういう人が。八重橋には失礼な話だよね」
嘘ではなかった。もっと根本には”運命の赤い糸がおれと結ばれていた”という理由があるけれども、それを抜きにしても、恋人の相手としては理想であった。八重橋はおれ、というより周りの人間に興味がさほどないように見えた。被写体としての関心はあるようだが、その無機質な関心がおれにはとても都合が良かった。それは無礼な好意よりよっぽど心地が良いものだった。
けれど、それではなんの意味もないことは薄々感じていた。赤い糸同士でお付き合いをしたことで博打の恋愛からは逃れられたが、これでは名ばかりの恋人であるからだ。でも、明らかな好意を向けられて、拒絶反応が出ないかと言われれば、自信を持ってイエスとは言えなかった。
結局のところ、運命の相手が現れたところで、おれ自身が変わらなければ何も進まないのだと、お付き合いをしてようやく気づく。運命の相手と結ばれれば万事解決、順風満帆、それこそ漫画のように、黙っていても王子様が自分に気づいてくれる、などということはあり得ないのだと。ならばやはり、不安定な恋愛感情に身を任せるしかないのだろうか。
「そうだろうとは思っていた。お前からは上っ面の好意しか見て取れなかったからな。それこそ惚れた腫れた、でぼくに声をかけたわけでないことは分かっていた、最初からな」
「はは、そこまでバレバレだと恥ずかしいね。最初からお見通しだったってわけ。でも、それなら尚更、どうしておれの告白を受けたりしたのさ」
「お前に興味があった。いや、好きでもないぼくに告白をするお前に関心を惹かれた、と言った方が正しいか」
八重橋は転落防止用の柵に腰をかけ、じっとおれの目を見る。
「それに、コンテストの被写体になってくれるという条件つきだ。ぼくにとって告白を受けないという選択肢はなかった」
そうして、彼の薄い唇が言葉を発声するために開閉される。
「淀川誠志郎。人は惚れた腫れた以外でも人と繋がるものだ。それが、お前の言うところの低俗な恋愛感情よりも崇高なものであると、一体誰が決めた?」
すぐに答えることはできなかった。喉元で言葉が渋滞する。
「人の感情は季節のように移ろいやすい。愚かで正しくなくとも、その有り様はひどく美しい。感情と理性の狭間で踏みとどまれるのか、足を踏み外すのか……一体どんな生き様を見せるのか、ぼくはそれに惹かれている」
「低俗、だなんて。ただおれは将来性がない恋愛に縛られたくないってだけで。そんな風に思ってるわけじゃ」
「さて、どうかな。ぼくにはそう聞こえたけど。それに、それほどまで嫌っている恋愛に自ら近づいたのはお前だろ」
違う、とは言えなかった。
恋愛は嫌いだ。口癖のように愛を囁く人に反吐が出る。どうせその場限りのくせに、自分に酔って自分は正しいと正論を振りかざしているのを見ると、どうしようもない嫌悪感に襲われる。
「ああ、違ったな。お前はぼくが好きで近づいたのではなかった。とにかく」
八重橋はひょいと柵から降りる。
「ぼくは、お前がぼくに近づいた理由がなんでも構わない。お前が納得のいく答えを出せているといいんだけど」
「八重橋がおれの告白を受けた理由、ね。うん、おれにとってはこれ以上ないくらいだよ」
「そう。それならいい。ぼくも通常の恋愛で満足させることはできそうにないからな」
では、と言って八重橋は首に掛けていたカメラを構える。
「河川敷は撮り終えたんじゃなかったっけ?」
「そんなことを言った覚えはない。撮りたい時に撮りたいだけ撮る。そうでなくてはここにいる意味がない」
「そ。お好きにどうぞ、そういう話で付き合ってもらっているからね」
「言われなくとも」
そう言って、八重橋は合図もせずにシャッターを切る。これも慣れたものだ。彼は風景をバックに記念写真を撮りたいのではなく「その瞬間」を切り取ることを目的としているのだ。彼の過去を聞いた後では珍妙だと思っていた行動にも説得力が出てくる。
そうして、何枚か撮り終えたあと、八重橋はカメラから目を離してこちらを覗いてきた。
「やはりお前は被写体に向いている。お前ほど変化に富んでいる奴もそういない」
「どう言うこと?」
「百聞は一見にしかず、だ」
そう言って、カメラを渡される。教えてもらった操作をしてみると、川を背にした
おれが異常な枚数保存されていた。いくら厳選するといっても、これだけの自分の写真があるのはなんだか変な気分である。
大量にある写真を適当に開く。そこにいたのは、薄くはにかんんでいる自分だった。どことなく清々しい表情をしている自分に驚いて、思わず撮った本人を見る。
「初めは辛気臭い顔をしていたが、見違えるようだな?」
「辛気臭いってなにさ。別に、変わっていないと思うけど……」
嘘だ。そして、自分がどうしてこんな顔をして写真に映ったのかを、おれは分かっている。
人の恋愛感情よりもおれの気持ちが格上だと、無意識に思っていたことを看破された。それは隠していた宝物を暴かれたような、顔を覆いたくなるような恥ずかしさだった。だが逆に、なぜだか清々しくも感じている。言い訳のしようもなく論破された。否定しなければ、おれは母親と同じに成り果てるというのに。
しかし、彼は恋愛こそが至高である、とは言っていない。上も下もない、ただそこにあるだけの感情であり、競い合うことなど不毛であると言ってのけたのだ。馬鹿馬鹿しい、そんな風に割り切れていれば、おれは八重橋に告白などしなかった。けれど、彼の言い分をおれの価値観にアップデートするかは別として。一旦は受け入れる、という試みができる自分に、おれ自身が驚いている。
恋愛は嫌いだ。でも、自分の考えに苦言を呈されたことがなかったから、自分の意見を言ったことすらなかったから。それはあまりにも大きな衝撃だった。どじこもっていた殻にヒビが入ったような、固く閉じていた扉に亀裂が入ったような。だがそれに恐れは感じなかった。きっと八重橋だから、なのだろう。
ファインダーから目を外した八重橋は得意げに笑みを浮かべている。こんなに表情豊かなやつだったろうか、とおれは首を捻った。
一瞬だけ狂った心拍は何かを知らせる合図か、それとも。
