所々塗装が剥げている階段を登る。このアパートの築年数は忘れてしまったが、相当古かったように思う。足を上げて段差を踏みしめるだけの行為にひどく消耗してしまう。子供のブランコを漕いであげただけなのに。
「やっと帰って来た! こんな時間まで何してたの! 電話にも出ないで……!」
軋んだドアを開ければ、食卓テーブルで突っ伏していた母親が勢いよく顔を上げる。おれによく似た顔をくしゃくしゃにして、涙で目を腫らしていた。乱暴に引いた椅子がいやな音を立てる。
「ずっと帰ってこないからお母さん寂しかったのよ。今日はお仕事休みだから早く帰ってきて欲しかったのに……メッセージも返してくれないし、電話にも出てくれないし!」
「ごめんね。メッセージにも書いたんだけど、友達の頼みで写真部に仮入部することになって……2週間もすれば落ち着くし、夜ご飯もちゃんと作れる時間に帰ってくるよ。今日もほら──」
「そうじゃないでしょ!! 相談もなく部活に入るなんてお母さんいつ許したの!? いつも良い子にお母さんの言うこと聞いてって言ってるよね!? そんな勝手なことしていいと思ったの!?」
「……ごめんなさい」
間違えた。そう思った時には母親の投げたティッシュケースが当たって落ちた。床にはリモコンやコップが転がっている。零れた水や散らばった書類を踏みつけ、母親はおれのワイシャツを鷲掴みにした。
「どうせお母さんなんてずっと仕事に行ってればいいんでしょ。帰ってこなきゃ誠くんは自由だもんね。だから部活に入るなんて言うんでしょ」
「そんなことないよ。母さんが働いてくれてるおかげで暮らせてるんだから、母さんには感謝してる」
「……本当?」
「本当だよ。心配かけてごめんなさい。ご飯、作ってもいいかな?」
「良かった。誠くんたら、本当にかわいいわ。お母さんにそっくり。あんな人に似なくて良かった。誠くんもそう思うわよね?」
「……うん。母さんは綺麗だよ」
母親は顔を歪めて涙を流していたが、何が引き金になったのかコロリと機嫌を直し、腰に手を回して胸に頬ずりをする。おれは不自然にならないように母親の手をそっと外して床に散らばったものを元の位置に戻した。
「和さんにも誠くんのご飯食べてほしいんだけど、なかなか時間が取れないんだって。残念よねえ。あっそうだ、今度3人で旅行に行きましょう。きっと楽しいわ」
スマートフォンを弄りながら母親は上機嫌でおれに話しかける。おれはそれに興味があるような返事をしながら夕飯の準備を始めた。朝から洗われていない食器を片付けながらお湯を沸かし、炊飯器をセットする。野菜の繊維を断ち切るように包丁を入れれば、小気味良い音を立てて切断される。
和さんというのは母親の彼氏だ。母親が働いている飲食店の常連で──母親と赤い糸で結ばれている。
父親と離婚してからというもの、母親はすぐに彼氏と正式にお付き合いを始めた。だが色々と事情があるとか何とかで、入籍には至っていない。一緒に暮らしてもいないし生活費を入れてくれているわけでもない。言うなれば学生のお付き合いのようなもので、ただ好きな時に会い、好きな時に好きなことをするだけの関係だ。母親の週数回のパートと、父親からの養育費、市からの手当てで生活費をなんとかまかなっている状態である。
「あーあ、和さんたら全然電話出てくれない! 今話したいのに! 仕事が忙しいからって私のこと放っておいていいと思ってるのよ! 意味わかんない!」
「和さんもきっと旅行のこと話したら喜んでくれるよ。母さん、ご飯ができるまでシャワー浴びてきたらどう?」
「ん-……そうね。そうしよっかな。誠くん、おいしいご飯よろしくねー」
今度は正解だったらしい。母親は鼻歌を歌いながら脱衣所に向かった。シャワーの音が聞こえたことで、ようやく溜まっていた何かを深い息と共に吐き出す。
母親の情緒が不安定なのは離婚前からであったが、離婚後はさらに悪化した。会話の何が引き金になるのか分からず、おれは常に安全な回答ができるように気を張る必要があった。それでも、父親のように暴力に訴えることはないから随分と良い環境になったと思う。
刻まれた野菜がまな板の上に転がっている。猫の手にしていた左手の小指には毛糸のような細い糸が絡みついていた。その糸を目掛けて包丁を振り下ろしてみるが、揺れたまな板のせで野菜が床に落ちただけで、糸にはなんら変化は見られなかった。
この糸は見えるだけで干渉できない。見慣れて知っているのに、自分に結わえられているだけで雁字搦めにされているような圧迫感を感じる。
赤い糸で結ばれている人は運命の人である。
ろくに生活費を渡さずとも、連絡をとらずとも、自分の好きな時に会いに来る関係だとしても。それを受け入れているのなら運命の相手なのだ。
現に、母親は情緒が不安定とはいっても、彼氏と別れる気はさらさらない。一般的な家庭とはかけ離れていても当事者同士がそれで良いのなら、外野がどうこう言っても無駄だ。それが息子であっても、母親の人生の主役は母親なのだから。母親がこの状態を幸せだと思っているなら、なおさら。彼氏に会えない寂しさで息子に八つ当たりしたとしても、それは仕方のない話なのだ。
父親が母親の運命の相手であったらと何度も思った。しかし、恐怖で家族を支配し、暴力で意思を押し付けていた父親と、不安になりがちな母親が仲良く暮らし続けるなんて夢物語もいいところだ。だからお互いにお互いを見なくなり、よそ見をした結果離婚という形でお別れをしたのだ。
「はースッキリした。誠くん、ご飯できた?」
「あと少しだからゆっくりしてて」
「はーい。あ、洗濯物も溜まってたよ」
母親は冷蔵庫を漁って発泡酒を取り出す。プルタブを開け、喉を鳴らして飲酒する母親を背に、お湯に味噌を溶かす。
夕飯を食べ、シャワーを浴び、母親がくつろいでいるのを横目にダイニングテーブルで勉強する。そして横並びになって就寝する。これがおれのルーティンだ。
「和さん、明日には連絡くれるかな」
「今日は疲れてたのかもしれないね。和さん、あまりメッセージ見ない人だから」
「旅行に行けるといいんだけど。誠くんも行きたいもんね。お母さん海が見に行きたい」
母親はおれの腕に自分の手を絡ませ、甘えるような声色でぽつりぽつりと話しかける。しばらくするとそれが寝息に変わり、おれはそっと母親の手を外した。
母親が真っ暗だと寝られないからと、おれの家では常夜灯を付けたまま眠る。すっかり慣れてしまった目で電灯のヒモを引っ張り、完全に光を落とした。
ようやく体の緊張が解けて薄い布団に体が沈みこんでいく。眠気が思考を奪い去るまでの時間はいつも一瞬で、次に目を開けた時には日が昇っているだろう。
そうすればまた朝食を作り、ゴミをまとめ、母親と自分の弁当を作って──代わり映えのしない日々が始まる。
母親は変化が嫌いだ。特に、おれだけが変化することを極端に嫌う。写真部に仮入部したと伝えれば帰宅時間が遅れても公的な言い訳になると思ったのだけれど、母親の中ではそれは裏切りに値するらしい。
今の生活が最適で最善でないとしても、変化することでそこから転げ落ちていくことが耐えられないのだ。そんなリスクを犯すくらいならぬるま湯に浸かっている方がマシだと思えるくらいに、母親はおれの変化に敏感だった。
同じ視点で、同じように、何にも気づかないで過ごす。隣が青い芝であることに気付かなければ、心は波立たずに平穏に暮らせる。
普通の視点ではつまらない。そう言い切った八重橋にとっておれの生活はさぞかしつまらないものだろう。途中まで読み進めてしおりを挟まない本、やろうと思っていた放置しているゲーム。そうやって風景に溶け込んでしまう普通に甘んじている。
人が求める態度と言葉をあげて、その場に合った表情を作ればなんとでもなった。
そうやって今まで過ごしてきたのに。公園で撮った写真が自然に笑顔になっていたのか。答えを探す前に微睡みに包まれてしまった。
「やっと帰って来た! こんな時間まで何してたの! 電話にも出ないで……!」
軋んだドアを開ければ、食卓テーブルで突っ伏していた母親が勢いよく顔を上げる。おれによく似た顔をくしゃくしゃにして、涙で目を腫らしていた。乱暴に引いた椅子がいやな音を立てる。
「ずっと帰ってこないからお母さん寂しかったのよ。今日はお仕事休みだから早く帰ってきて欲しかったのに……メッセージも返してくれないし、電話にも出てくれないし!」
「ごめんね。メッセージにも書いたんだけど、友達の頼みで写真部に仮入部することになって……2週間もすれば落ち着くし、夜ご飯もちゃんと作れる時間に帰ってくるよ。今日もほら──」
「そうじゃないでしょ!! 相談もなく部活に入るなんてお母さんいつ許したの!? いつも良い子にお母さんの言うこと聞いてって言ってるよね!? そんな勝手なことしていいと思ったの!?」
「……ごめんなさい」
間違えた。そう思った時には母親の投げたティッシュケースが当たって落ちた。床にはリモコンやコップが転がっている。零れた水や散らばった書類を踏みつけ、母親はおれのワイシャツを鷲掴みにした。
「どうせお母さんなんてずっと仕事に行ってればいいんでしょ。帰ってこなきゃ誠くんは自由だもんね。だから部活に入るなんて言うんでしょ」
「そんなことないよ。母さんが働いてくれてるおかげで暮らせてるんだから、母さんには感謝してる」
「……本当?」
「本当だよ。心配かけてごめんなさい。ご飯、作ってもいいかな?」
「良かった。誠くんたら、本当にかわいいわ。お母さんにそっくり。あんな人に似なくて良かった。誠くんもそう思うわよね?」
「……うん。母さんは綺麗だよ」
母親は顔を歪めて涙を流していたが、何が引き金になったのかコロリと機嫌を直し、腰に手を回して胸に頬ずりをする。おれは不自然にならないように母親の手をそっと外して床に散らばったものを元の位置に戻した。
「和さんにも誠くんのご飯食べてほしいんだけど、なかなか時間が取れないんだって。残念よねえ。あっそうだ、今度3人で旅行に行きましょう。きっと楽しいわ」
スマートフォンを弄りながら母親は上機嫌でおれに話しかける。おれはそれに興味があるような返事をしながら夕飯の準備を始めた。朝から洗われていない食器を片付けながらお湯を沸かし、炊飯器をセットする。野菜の繊維を断ち切るように包丁を入れれば、小気味良い音を立てて切断される。
和さんというのは母親の彼氏だ。母親が働いている飲食店の常連で──母親と赤い糸で結ばれている。
父親と離婚してからというもの、母親はすぐに彼氏と正式にお付き合いを始めた。だが色々と事情があるとか何とかで、入籍には至っていない。一緒に暮らしてもいないし生活費を入れてくれているわけでもない。言うなれば学生のお付き合いのようなもので、ただ好きな時に会い、好きな時に好きなことをするだけの関係だ。母親の週数回のパートと、父親からの養育費、市からの手当てで生活費をなんとかまかなっている状態である。
「あーあ、和さんたら全然電話出てくれない! 今話したいのに! 仕事が忙しいからって私のこと放っておいていいと思ってるのよ! 意味わかんない!」
「和さんもきっと旅行のこと話したら喜んでくれるよ。母さん、ご飯ができるまでシャワー浴びてきたらどう?」
「ん-……そうね。そうしよっかな。誠くん、おいしいご飯よろしくねー」
今度は正解だったらしい。母親は鼻歌を歌いながら脱衣所に向かった。シャワーの音が聞こえたことで、ようやく溜まっていた何かを深い息と共に吐き出す。
母親の情緒が不安定なのは離婚前からであったが、離婚後はさらに悪化した。会話の何が引き金になるのか分からず、おれは常に安全な回答ができるように気を張る必要があった。それでも、父親のように暴力に訴えることはないから随分と良い環境になったと思う。
刻まれた野菜がまな板の上に転がっている。猫の手にしていた左手の小指には毛糸のような細い糸が絡みついていた。その糸を目掛けて包丁を振り下ろしてみるが、揺れたまな板のせで野菜が床に落ちただけで、糸にはなんら変化は見られなかった。
この糸は見えるだけで干渉できない。見慣れて知っているのに、自分に結わえられているだけで雁字搦めにされているような圧迫感を感じる。
赤い糸で結ばれている人は運命の人である。
ろくに生活費を渡さずとも、連絡をとらずとも、自分の好きな時に会いに来る関係だとしても。それを受け入れているのなら運命の相手なのだ。
現に、母親は情緒が不安定とはいっても、彼氏と別れる気はさらさらない。一般的な家庭とはかけ離れていても当事者同士がそれで良いのなら、外野がどうこう言っても無駄だ。それが息子であっても、母親の人生の主役は母親なのだから。母親がこの状態を幸せだと思っているなら、なおさら。彼氏に会えない寂しさで息子に八つ当たりしたとしても、それは仕方のない話なのだ。
父親が母親の運命の相手であったらと何度も思った。しかし、恐怖で家族を支配し、暴力で意思を押し付けていた父親と、不安になりがちな母親が仲良く暮らし続けるなんて夢物語もいいところだ。だからお互いにお互いを見なくなり、よそ見をした結果離婚という形でお別れをしたのだ。
「はースッキリした。誠くん、ご飯できた?」
「あと少しだからゆっくりしてて」
「はーい。あ、洗濯物も溜まってたよ」
母親は冷蔵庫を漁って発泡酒を取り出す。プルタブを開け、喉を鳴らして飲酒する母親を背に、お湯に味噌を溶かす。
夕飯を食べ、シャワーを浴び、母親がくつろいでいるのを横目にダイニングテーブルで勉強する。そして横並びになって就寝する。これがおれのルーティンだ。
「和さん、明日には連絡くれるかな」
「今日は疲れてたのかもしれないね。和さん、あまりメッセージ見ない人だから」
「旅行に行けるといいんだけど。誠くんも行きたいもんね。お母さん海が見に行きたい」
母親はおれの腕に自分の手を絡ませ、甘えるような声色でぽつりぽつりと話しかける。しばらくするとそれが寝息に変わり、おれはそっと母親の手を外した。
母親が真っ暗だと寝られないからと、おれの家では常夜灯を付けたまま眠る。すっかり慣れてしまった目で電灯のヒモを引っ張り、完全に光を落とした。
ようやく体の緊張が解けて薄い布団に体が沈みこんでいく。眠気が思考を奪い去るまでの時間はいつも一瞬で、次に目を開けた時には日が昇っているだろう。
そうすればまた朝食を作り、ゴミをまとめ、母親と自分の弁当を作って──代わり映えのしない日々が始まる。
母親は変化が嫌いだ。特に、おれだけが変化することを極端に嫌う。写真部に仮入部したと伝えれば帰宅時間が遅れても公的な言い訳になると思ったのだけれど、母親の中ではそれは裏切りに値するらしい。
今の生活が最適で最善でないとしても、変化することでそこから転げ落ちていくことが耐えられないのだ。そんなリスクを犯すくらいならぬるま湯に浸かっている方がマシだと思えるくらいに、母親はおれの変化に敏感だった。
同じ視点で、同じように、何にも気づかないで過ごす。隣が青い芝であることに気付かなければ、心は波立たずに平穏に暮らせる。
普通の視点ではつまらない。そう言い切った八重橋にとっておれの生活はさぞかしつまらないものだろう。途中まで読み進めてしおりを挟まない本、やろうと思っていた放置しているゲーム。そうやって風景に溶け込んでしまう普通に甘んじている。
人が求める態度と言葉をあげて、その場に合った表情を作ればなんとでもなった。
そうやって今まで過ごしてきたのに。公園で撮った写真が自然に笑顔になっていたのか。答えを探す前に微睡みに包まれてしまった。
