“運命の赤い糸”なんて小洒落た言い方をするのはあまり好きではないのだが、これ以外にアレを表現する方法が見つからないので、便宜上そう呼ばせてもらうことにする。
おれが赤い糸を初めて認識したのは、確か小学校に入学する直前だった。母親の小指に毛糸のような糸が絡まっていたから教えてあげたのだけど、母親はひどく怪訝な目をして「嘘をつくのはやめなさい」とおれを叱ったのだった。
おれの視力は高校生になっても2.0と良好だ。だから視力の問題ではない。だというのに、赤い糸は母親から消えることはなかった。何度か母親に叱られたことで、この糸はおれ以外には見えないものだと理解した。そして、それを口にするのは良くないということも。
小学生になればテレビで得るもの以外にも様々な話を同級生から聞くことになる。それはためになる話だったり、親を困らせるようなイタズラの話だったり、信憑性や根も葉もない噂話だったり、本当に様々だ。
その中で、特に女子の間で人気だったのは恋の話だ。ケースを外した消しゴムに好きな人の名前を書けば両思いになれるとか、枕の下に写真を入れるとその人の夢が見られるとか──運命の相手とは赤い糸で結ばれている、とか。
母親の小指に結えられている赤い糸はどこにも繋がっていない。ただ長く垂れていて、玄関を通り、どこか遠いところに伸びている。だからおれは休日に母親の赤い糸を辿ってみることにした。一体どこの誰に繋がっているのか、そもそもこの糸は何なのか、強く興味を引いたからだ。
だから──糸の先にいたのが、母親が働く飲食店の常連客だった時、肩透かしを食らった気分になった。
でも、それもそうだ。もし赤い糸が運命の相手とやらに繋がっているのであればそれは父親のはずだ。でもそうではない。だからこの糸は“運命の赤い糸”なんて可愛らしいものではないのだ。
そうやって母親を見る度に視界にちらつく赤い糸を見て見ぬふりをしていた時、おれは親戚の集まりで久しぶりに古いアルバムを見せてもらった。そこに映っていたのは父方の祖父母で、手を取りあっている白黒の記念写真だった。
フォーマルな衣装に身を包み、堅い表情をしていた若い祖父母に「少しくらい笑えばいいのに」なんて笑っていた親戚を他所に、おれは全く別のところで衝撃を受けていた。
なぜなら、祖父母の小指は母親と同じ赤い糸で繋がっていたのである。
祖母はおれが中学生の時に老衰で亡くなった。その後を追うように祖父も天国へ旅立っていったのだが、おれの記憶にある祖父母は本当にいつも仲睦まじかった。特に祖父は認知症で祖母のことをうまく思い出せなくなってしまった時、記憶が昔に戻ってしまったのか、祖母に会う度に結婚の申し付けをしていたくらいだ。祖母はそれを最期の日までにこにこと聞いて、穏やかに旅立って行ったのだ。
お見合いで出会ったとは思えないくらいお互いを思い合っていた祖父母のことは、おれよりも父方の親戚の方が詳しく知っている。誰に聞いても祖父母の惚気話しか出てこないのだから、本当に仲が良かったのだろう。それこそ運命と呼ぶくらいには。
ならば、母親と──新たに見えるようになった父親の赤い糸は、何故お互いに繋がっていないのだろう。
その答えは、祖父が旅立って少し経った中学生のある日、離婚という形でおれに告げられたのだった。
それからというもの、おれの目には頻繁に赤い糸が見えるようになった。中学の同級生、先生、親戚、友達の親など──その発生には規則性がなく、おれにしか見えないという点だけが共通していた。
ただよく話を聞いてみれば、赤い糸で結ばれていない恋人は、期間の差はあれど必ず破局している。逆に赤い糸で結ばれている恋人は対立も少なく、長続きしているのだ。
だからこれは、やはり“運命の赤い糸”と呼ぶべきなのだろう。
でも、おれのように運命の相手が視覚化されていない人は、関係の無い人と付き合ってしまうこともあるだろう。破局するのは当然の結果といえば当然である。
だから運命の相手ではない人に愛を囁いている人を見ると、どうしても違和感を感じてしまう。結局は別れてしまうのに、本当の相手ではないのに、一体何に焦がれて何を愛しているのか、おれにはさっぱり分からない。
不確かな恋愛なんてまっぴらごめんだ。
運命の相手が分かるのなら、どんなに陳腐だとしてもそれを利用しない手はない。
残念ながらおれの小指には現れたことはないけれど、自分の小指が誰かと結ばれた時、おれは必ずその人と未来を共にすると決めていた。
ただ──おれの運命の相手があんな予測不能な男だとは、予想していなかったのだけど。
おれが赤い糸を初めて認識したのは、確か小学校に入学する直前だった。母親の小指に毛糸のような糸が絡まっていたから教えてあげたのだけど、母親はひどく怪訝な目をして「嘘をつくのはやめなさい」とおれを叱ったのだった。
おれの視力は高校生になっても2.0と良好だ。だから視力の問題ではない。だというのに、赤い糸は母親から消えることはなかった。何度か母親に叱られたことで、この糸はおれ以外には見えないものだと理解した。そして、それを口にするのは良くないということも。
小学生になればテレビで得るもの以外にも様々な話を同級生から聞くことになる。それはためになる話だったり、親を困らせるようなイタズラの話だったり、信憑性や根も葉もない噂話だったり、本当に様々だ。
その中で、特に女子の間で人気だったのは恋の話だ。ケースを外した消しゴムに好きな人の名前を書けば両思いになれるとか、枕の下に写真を入れるとその人の夢が見られるとか──運命の相手とは赤い糸で結ばれている、とか。
母親の小指に結えられている赤い糸はどこにも繋がっていない。ただ長く垂れていて、玄関を通り、どこか遠いところに伸びている。だからおれは休日に母親の赤い糸を辿ってみることにした。一体どこの誰に繋がっているのか、そもそもこの糸は何なのか、強く興味を引いたからだ。
だから──糸の先にいたのが、母親が働く飲食店の常連客だった時、肩透かしを食らった気分になった。
でも、それもそうだ。もし赤い糸が運命の相手とやらに繋がっているのであればそれは父親のはずだ。でもそうではない。だからこの糸は“運命の赤い糸”なんて可愛らしいものではないのだ。
そうやって母親を見る度に視界にちらつく赤い糸を見て見ぬふりをしていた時、おれは親戚の集まりで久しぶりに古いアルバムを見せてもらった。そこに映っていたのは父方の祖父母で、手を取りあっている白黒の記念写真だった。
フォーマルな衣装に身を包み、堅い表情をしていた若い祖父母に「少しくらい笑えばいいのに」なんて笑っていた親戚を他所に、おれは全く別のところで衝撃を受けていた。
なぜなら、祖父母の小指は母親と同じ赤い糸で繋がっていたのである。
祖母はおれが中学生の時に老衰で亡くなった。その後を追うように祖父も天国へ旅立っていったのだが、おれの記憶にある祖父母は本当にいつも仲睦まじかった。特に祖父は認知症で祖母のことをうまく思い出せなくなってしまった時、記憶が昔に戻ってしまったのか、祖母に会う度に結婚の申し付けをしていたくらいだ。祖母はそれを最期の日までにこにこと聞いて、穏やかに旅立って行ったのだ。
お見合いで出会ったとは思えないくらいお互いを思い合っていた祖父母のことは、おれよりも父方の親戚の方が詳しく知っている。誰に聞いても祖父母の惚気話しか出てこないのだから、本当に仲が良かったのだろう。それこそ運命と呼ぶくらいには。
ならば、母親と──新たに見えるようになった父親の赤い糸は、何故お互いに繋がっていないのだろう。
その答えは、祖父が旅立って少し経った中学生のある日、離婚という形でおれに告げられたのだった。
それからというもの、おれの目には頻繁に赤い糸が見えるようになった。中学の同級生、先生、親戚、友達の親など──その発生には規則性がなく、おれにしか見えないという点だけが共通していた。
ただよく話を聞いてみれば、赤い糸で結ばれていない恋人は、期間の差はあれど必ず破局している。逆に赤い糸で結ばれている恋人は対立も少なく、長続きしているのだ。
だからこれは、やはり“運命の赤い糸”と呼ぶべきなのだろう。
でも、おれのように運命の相手が視覚化されていない人は、関係の無い人と付き合ってしまうこともあるだろう。破局するのは当然の結果といえば当然である。
だから運命の相手ではない人に愛を囁いている人を見ると、どうしても違和感を感じてしまう。結局は別れてしまうのに、本当の相手ではないのに、一体何に焦がれて何を愛しているのか、おれにはさっぱり分からない。
不確かな恋愛なんてまっぴらごめんだ。
運命の相手が分かるのなら、どんなに陳腐だとしてもそれを利用しない手はない。
残念ながらおれの小指には現れたことはないけれど、自分の小指が誰かと結ばれた時、おれは必ずその人と未来を共にすると決めていた。
ただ──おれの運命の相手があんな予測不能な男だとは、予想していなかったのだけど。
