運命の相手はお前かよ!?

 道行く人の左小指に、自然と目が向いてしまう。いつもなら数人に1人は赤い糸が絡みついているはずなのに、今は誰の手にもそれらしきものが見当たらない。それは違和感というような軽い代物ではなく、もはや不気味、と言ってしまう方がしっくりきた。鮮烈な赤が消えた世界はモノクロのように静まり返っている。

 それでも、人々はなんでもないような顔をして闊歩していた。それもそのはず、赤い糸なんて幼稚な夢物語を実際に感じていたのはおれだけなのだ。誰にも見えていない。誰も、運命の相手を知らない。それでも人は出会いと別れを繰り返し、終わりのない色恋に身を捧げている。
 おれには耐えられない。信じたところで、やっぱり違いました、なんて言って手を離されることが怖い。それなら一生恋愛をしないと心に決められれば良いのに、そうすることもできない。すり減った心に愛を注いで欲しい。それだけなのに、それだけが難しい。
 それなのに。赤い糸さえ見失ってしまった。

「……何が、運命の赤い糸……」

 あてもなくふらふらと歩いていると、頭の中がぐちゃぐちゃに支配される。それを振りほどくように早足になり、やがて強く地面を蹴っていた。人にぶつかっては文句をつけられるが、振り返っている余裕などない。どこに向かっているのかも分からない。人通りが段々と少なくなり、閑散とした河川敷にたどり着く。
 笑う膝を抑え、痛む喉で必死に呼吸をした。元々運動は得意ではない。顔が整っているとかで他のスペックまで期待されることが多いのだが、本当のおれはこんなものだ。誰もが経験するはずの無鉄砲な恋路が怖くて怖くてたまらない。いつか失うのなら手にすらしたくない。でも、見つけてしまったらもう手遅れだった。

 めちゃくちゃに走ったせいか、ポケットに入れていたスマートフォンが転がり落ちる。真っ暗な画面を照らすようにして光っている通知を見て、母親からのメッセージかと思い、かっと頭に血が上る。川にでも投げ捨ててやろうと引っ掴み──待ち受けが着信画面へと切り替わる。

『ぼくだ』

 着信画面に「八重橋大和」と出ていなければ、おれはこのままスマートフォンを川へ放り投げていただろう。かろうじて命を繋ぎ止めたスマートフォンのスピーカーから、のんびりとした声が聞こえる。

『コンテストの写真を選別した。お前にも見せてやろうと思ってな』
「……今?」
『今だ』
「明日、学校で見せてくれたらいいよ。ていうかカメラのデータなら今見れないじゃん」
『何の話だ? もう送っている』

 ちゃんと声色は整えられただろうか。嬉しそうな話し方が出来ていただろうか。八重橋の話し方はいつも一定で、喜怒哀楽が分かりにくい。だからどうすれば機嫌を損ねずにいられるのか、判断に困る。電話越しならなおさら、どう振る舞えばいいのか分からない。だからといって今、彼と顔を合わせたいとは思わない。お互いの小指に何も無いことを再確認して、自分が何を思うか、それを考えることすら煩わしい。

『見てみろ』

 スピーカーから耳を離して、通話からメッセージアプリへと画面を切り替える。先程の通知は母親ではなく八重橋だったようで、メッセージアプリには1件の未読通知があった。それをタップすると、1枚の写真が表示される。
 それは、おれがコンテストに協力すると言った日に、公園に行って撮ったものだった。見ず知らずの女の子の背中を押すおれは、何が楽しいのか分からないがよく笑っている。未だに写真の善し悪しが分からないおれの感想はそれくらいのものだった。

「これにしたんだ。良く撮れてるね」
『ああ、そうだろう。それに比べて──』

 八重橋の声が二重に聞こえる。スマートフォンの故障かと思い、もう一度耳から離してみれば、その声はより鮮明に聞こえた。今度は重なることなく、はっきりと。
 
「今のお前は、カメラに収めたことのない顔をしているな」
「……え、」

 振り向くと、そこにはスマートフォンを片手に佇んでいる八重橋がいた。眠そうな、それでいて鋭い目をこちらに向け、スマートフォンを耳に当てながら続ける。

「ぼくは諍いは嫌いではない。すました顔よりも余程感情的で、収め甲斐があるからだ」

 スピーカーと実際の声が同時に聞こえ、逃げ場を失ったような感覚に陥る。八重橋にそんな気はないのだろうけれど。逃げられるものならこの場から逃げたいが、それは、これ以上おれが取り繕えなくなったと答えているも同義だった。それは避けたいのに、表情を上手く作れている気もしない。

「だが、お前がそういう──険しい表情をしているのは、あまり好ましくないように感じる」
「険しい……ああ、ごめんね。久しぶりに全力疾走したからかな。そりゃ疲れた顔にもなるよね。うん、仕方ない」
「確かにお前は運動神経が良いわけではない。家からここまで走り続ければ、疲労困憊になることは用意に想像できる」
「その通りだけど、そうはっきり言われるとなんだかなぁ……」

 はは、と乾いた笑いが漏れる。

「でも、どうして……おれが家から走ってきたことを知ってるの」
「直接全てを見たわけではない。だが、商店街で走るお前とすれ違った時間と、帰宅した時間を考えれば、家から走ってきたことくらい分かる」
「それで追いかけてきたの?どうして?」
「今日はやけに質問が多いな、淀川誠士郎。普段のお前なら流すところなのに」
「それは……そんなの、言葉で聞かないと分からないからだよ」

 手持無沙汰になっている八重橋の左手には、絡みついていた赤い糸が消えていた。今おれ達を結ぶものは何も無い。クラスも違えば友達でもなかったおれ達が一緒にいたのは、赤い糸がおれ達を結んでいたからだ。そうでなければ関わろうなんて思わなかっただろう。
 赤い糸が消えてしまったおれ達に残ったのは、ただ「付き合っている」という事実だけ。中身のない殻は脆い。外からも、中からも簡単に壊すことができる。

「いや、言葉で聞いても……何も分からないか。結局はそこにあるものしか信じられないから。嘘を見抜くのも、振り回されるのも……もう、疲れたよ」

 嘘と建て前に塗れたこの世界で、唯一信じられるものが赤い糸だった。干渉ができない代わりに嘘もつかない、ただそこにあるだけの事実はおれにとって心地の良いものだった。人はすぐに嘘をつく。だから言葉なんて信用できない。

「ぼくが嘘をついていると思っているのか?」
「さあね。おれがどう思うかより……君が嘘をついてないって証明する手立てがないことの方が、おれにとっては重要かな。よく考えたらすごいよね、言葉だけで恋人になる人達は。嘘を付かれてもいいってことなのかな。おれには考えられないよ」

 婚姻届けを書くわけでもなく、口約束で恋人になることに何の意味がある。どうせいつかは価値観の違いとかで別れるだけなのに、一時の感情に任せて、自分の一番大事なところに踏み入らせる権利を渡せるのだ。

「お前は」

 八重橋は静かに話す。

「ぼくが嘘をついていると──本当に思っているのか?」

 しかし、一音ずつ明確に、怒りがこもっていた。

「ぼくがお前に嘘をついたのか。いつ、どんな場面で?」
「そんな揚げ足を取るような言い方をしないでよ。具体的にいつとかじゃなくて、嘘をついているか分からないって話で……」
「つまり、お前は根拠もないのにぼくが嘘をついている前提で、ぼくに当たり散らしたのか。随分と緩い大義名分だ」
「そ、そういうつもりじゃ、」
「そういうつもりではないのなら、簡単に答えられるはずだ。ぼくがお前に嘘をついたことがあったか?」
「……ない、けど」
「そうだ、ない。お前が疑心暗鬼になっているだけで、その責任を、嘘をつくかもしれないとぼくに擦り付けている。非常に不愉快だ」

 スマートフォンを耳に当てながら、八重橋は数歩おれに近付く。もう通話をしなくてもお互いの声が聞こえる距離だが、おれは直接言葉を交わすのがいたたまれなくて、終話ボタンを押すことができない。

「嘘発見器でもあるまいに。嘘か本当か、お前には正確に判別することができるのか?」
「……それは……」
「できないだろう。それは世界中の誰にもできないことだ。ましてやお前のような曇った目ではな」
「じゃあ、そんなの、本当かどうかだって分からないってことじゃん」
「そうだ。でも、相手を知っていればそれが嘘かどうかはすぐに分かるし、相手を信頼していれば嘘かどうか疑う必要すらない。お前は誰のことも知ろうとしないし、信頼していない。それだけのことだろう。問題をすり替えるな」

 必死に隠していた部分を丸裸にされ、糾弾される居心地の悪さに言葉がうまく出てこない。八重橋の言っていることが正しいと分かるからこそ、言い返しているおれが、ただの我儘な子供の癇癪に見えてしまう。自分がひねくれていることは重々承知している。けれども、どうしても、信頼なんていう不安定な代物に自身を預けたくはない。それが崩れた時、守ってくれる保証なんてないくせに。

「そうだよ。信頼して、散々裏切られてきたから、もう何も信じる気はない。おれが信じても、相手が嘘をついてたりしたら意味なんかないでしょ」
「なるほど。話が微妙に噛み合わないと思っていたのはそういうことか」

 八重橋はいつの間にか怒りを収め、考え込むように人差し指を唇に当てる。

「淀川誠士郎。人を信頼するということは、お前が決めることだ。他人の反応を前提に話をするからややこしくなるんだ」
「……どういうこと、おれが?」
「お前が、お前だけの意思で決めろ。逃げるな」

 無理だ。できっこない。
 八重橋に告白したのも、元はと言えば赤い糸が結ばれていたからだ。おれの意思は介在していない。そうでなければおれは誰のことも信頼できない。恋愛なんてもってのほかだ。

「じゃあ、さっきの質問に答えてよ」

 苦し紛れに、逆に尋ねてみる。

「どうしておれを追いかけてきたの?」

 小賢しい時間稼ぎだ。弱虫で臆病者で逃げ癖のあるおれの、最後のあがきだった。取り繕うことも笑顔で隠すこともできないならば、もうどれだけ無様になったとしても変わりはない。

「ぼくは、お前のことは数える程しか知らない。けど、信頼したいと思っている」
「……おれが言うのもなんだけど、こんなに嘘に塗れてるやつもいないと思うよ。おれのどこが信頼できるわけ?」
「ぼくは信頼できるとは言っていない。信頼“したい”と言ったんだ。お前はいつも本心を話しているようには見えないが、悪意は感じられなかった。少なくともぼくを害したり、騙そうとする類のものではないと。だからぼくは、お前の嘘ごと信頼してみることにした」

 そうして、八重橋は耳からスマートフォンを離した。

「そう決めた相手がとんでもなくひどい顔をしているのを見かけたから、追いかけた」
「ひどい顔って……言い方ってものがあるでしょ。つまりひどい顔のおれに興味があっただけ?」
「興味か。興味……それもあるが、そうだな。それとは別に、お前のことを案じていた。うん、これがしっくりくる」

 一度も目を逸らさず、八重橋はおれと真正面に向かい合う。回り道も寄り道もせず、いつもこうやって一直線に向かってくる。愚直で真摯、嘘なんてついたことがないような眼差し。

「友人、恋人、それらの境界線は曖昧だ。宣言すればいいというものでもない。ただお前は、ぼくにとって誰より興味の対象だ。今まで、誰が何をしていようと興味はなかったのに」

 八重橋はおれに嘘をついたことがない。形に残る証拠はないけれど、いくら言い訳をしたところで、そんなことは分かっていた。ただ、信じるというだけの行為が不安だっただけだ。

「お前がひどい顔をしていたら、写真を撮る前になんとかしてやりたいと思う」

 おれはなんだか力が抜けて、通話が繋がったままのスマートフォンを耳から離し、腕を降ろす。何を言われても何にも納得できなかったのに、八重橋のまっすぐな言葉になんだか拍子抜けしてしまった。

「それは……興味がある、というか……ううん。なんでもない」
「それ以外に表わす言葉があるのか。教えてくれ、淀川誠士郎」
「ええー……言わせるの? 違ってたら恥ずかしいんだけど」
「間違っていることはないだろう。お前はぼくのことを知っているはずだ。たとえ間違っていたとしても、ぼくのことを考えたという点で聞く価値はある」

 八重橋は得意気に笑っていた。あの無愛想で眠そうな顔ばかりしていた彼が、目尻を下げて微かに歯を見せて笑っている。その笑顔を見ていると、どうしてか下手に無下にはできないような気分になる。そんな強制力はないはずなのに。

「そうだな、ええとね……それは、興味というより、好意があるってことじゃないかな」
「なるほど。これがいわゆる『惚れた腫れた』というやつか」
「敢えてそれを避けたのに言っちゃうんだ……分かってたけどね、うん。ちなみにその惚れた腫れたはおれに対して、ってことだけど、合ってるの?」
「ここにはお前しかいないだろう。霊能力でもあるのか? ぼくは実際に見るまで幽霊は信じないと決めている」
「おれしかいないよ、おれしか……。ああそう、ふーん……そうなんだ」

 半ばやけくそになったおれに、適切なカウンターを決める八重橋。なんだか、彼が怒っていたことが遠い昔のように感じる。本当に怒っていたかも定かではないほど、彼はいつも通りに戻っていた。
 ただ、おれ達の小指には赤い糸が結ばれていない。おれにとって赤い糸の有無は天地を揺るがすほどに重大な事件なのだけれど、今となっては、何も無い小指にそこまで心が荒れていない。

「それで?」
「え?」
「世の人間は好意を伝える時、相手の意思を確認するそうだ。勉強した」
「勉強したんだ。そういえば八重橋ってこういうの、形から入るタイプだったっけね……」
「それで?」
「そ、そんなに急かさないでよ!」

 おれが八重橋と付き合ったのは、赤い糸が結ばれた相手だったから。それ以上でもそれ以下でもない。だったら、赤い糸が見えなくなったらお別れするべきなのだろう。運命の相手かどうか、もう確認することはできないのだから。

「……好きだよ。おれも」

 それでも。そんなものがなくても隣に居てほしいと思った。目に見える安心感に依存していたおれを連れ出してくれたのは、白馬の王子様でもなんでもない、学校一の変人と名高いただの同級生だった。それでも赤い糸の呪縛から救い出してくれたのは確かだった。

「…………何か言ってよ!? 恥ずかしいじゃん」
「ああ、すまない。お前の言葉を咀嚼していた。意思を確認したあとに何を言うかはどこにも書いていなかったからな」
「そりゃそうだろうね。ちなみに付き合ってから改めて告白するのは、多分メジャーじゃない、というかめちゃくちゃレアなケースだと思うよ」
「そうか。お前といると飽きないよ」
「それはおれもね」

 そうして、おれはスマートフォンの終話ボタンを押す。河川敷の坂の上に腰を下ろしたおれ達は、他愛のない話をした。日が暮れて、月が夜の海に顔を出すまで、おれ達はお互いだけを見ていたのだった。