清高はムシャクシャした気分で電車に飛び乗った。宮脇は追いかけてきていない。ホッとしたような、残念なような気分だった。
一駅戻って原田の店へと向かう。土曜日の昼下がり、工場町は人気もなく静かだ。空には、今にも雨が降りそうな雲が重く垂れ下がっている。不定休の店が開いているかどうかは賭けだったが、閉まっていればそのまま帰ればいいだけだ。
児童公園の角を曲がり、袋小路に入り込む。原田の店はトタン張りの倉庫を改装したもので、元の倉庫の半分が店、半分がガレージになっている。どちらのシャッターも半分だけ開いていた。腰を屈めて店の中を覗き込むと、カウンターの奥にだけ明かりが付いている。何度か叩いても応答はない。
中へ入ろうか迷っていると、ガレージ側のシャッターが勢いよく開いて、原田が姿を見せた。ひどく苛立った様子でスマホを耳に当て、外国語でまくし立てている。
原田は清高を認めた途端に通話を切り、
「どうした? 今日は呼んでないよ」
と薄い唇を笑みの形にした。声には明らかな苛立ちが含まれていて、切れ長の細い目は少しも笑っていない。清高がいつもと違う原田の様子に怯みつつ、
「呼ばれてなくても来て良いでしょ、オレはデリヘルじゃねーんだから」
と軽い調子で言うと、
「悪いが遊んでる暇はない。何の用だ?」
と冷たく答えられてしまう。
「別に遊んで欲しいわけじゃないよ。店の二階に泊めてもらえないかと思って。姉貴が帰ってきてて、家に居づらいんだ」
原田は蛇のような目で清高を上から下まで一瞥し、しばらく考えてから、
「それなら構わないよ」
と微笑んで、店のシャッターを上げた。清高が促されるまま中へ入ると何かが腐ったような臭いがした。原田は清高が顔をしかめたのに気づき、
「臭う? ごめんな、この間ゴミを出し忘れてさ。今から捨てに行くから、気になるなら換気扇を回してくれ」
と先回りして言い訳する。
「竜弥さん、ここで食事することあるんだ?」
原田はチラリと鋭い目を清高に投げかけたが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべ、
「しばらく仕事が立て込んでたから」
と階段を上った。
二階に上がると、腐臭はますます強くなった。清高はシャワーブースの換気扇を最大にし、エアコンのスイッチを入れる。原田は作業机の上にある香立てに香をセットして火をつけた。すぐに甘い香りが漂い始め、腐臭を覆い隠す。
「オレはしばらく戻らないけど、シャワー使うなら自由にどうぞ」
「ありがとう。でも今はイイや」
清高は服のまま仮眠用のベッドに潜り込む。原田はそれを無表情に見下ろし、
「おやすみ」
と声を掛けて階下へと戻っていった。
しばらくガレージで物音が続いた後、シャッターを上げ下げする音が聞こえ、車のエンジン音が遠ざかっていった。
清高はベッドに寝転がりながら、そういえば原田がどんな車に乗っているか知らないな、と思った。ガレージが開いているところを見たこともない。バイクを持っていると聞いて、乗せて欲しいとねだったが「いつかね」と誤魔化されてそれっきりだ。原田はどこかにちゃんとした住まいがあるはずだが、それがどこかも教えてもらっていない。清高が知っているのは、この店の中で働く姿と、ベッドの上の振る舞いだけだ。
『カタギと思わん方がええぞ』
宮脇の心配そうな声が耳によみがえり、清高は振り払うように頭を振った。足元にわだかまっていた掛け布団を引っ張り上げて頭から被る。きつく目をつむったが、眠りはなかなか訪れなかった。
目覚めた時は真っ暗だった。
ポケットに入れたままだったスマホを見ると、もう夜中の十一時時を過ぎている。ここへ来たのが三時頃だったから、八時間も眠っていた計算になる。画面には姉からの着信通知が一件。宮脇からメッセージが一件。
清高はどちらも無視してスマホを枕元に放り投げ、トイレへ向かった。暗い中を手探りで移動していると、足先が何かにぶつかり、ドサドサと物が落ちる音がした。
「ヤッベ……」
慌てて作業机の上にある電気スタンドのスイッチを押すと、小ぶりの段ボールが横倒しになって中身が床に溢れているのが見えた。ショップのロゴが入った名刺大のカードだ。しゃがんで拾い集めていると、
「何をしてる?」
と背後から急に声をかけられ、清高は口から心臓が飛び出しそうなほど驚いた。振り向くと原田が片手に弁当屋のロゴの入ったビニール袋をぶら下げて無表情に立っている。
「ご、ごめん! 寝ぼけて箱を蹴り倒しちゃって……!」
清高が言うと、原田は清高の手からカードを取り上げて乱暴に箱に押し込み、
「気にしないで良い。どうせ捨てるものだから。それより腹減ってないか?」
と片手にぶら下げた弁当屋の袋を揺らした。
「減ってるけど……ここは飲食禁止って言ってなかった?」
「もういいんだ。ここは引き払おうと思ってるから」
原田はさらりと言い、自分の分の弁当を持ってベッドに腰掛ける。清高は思いもよらない言葉に動転して何度も目を瞬かせた。
「引き払う? 店は? 移転すんの?」
「移転は考えてない。しばらくは海外でのんびりしようと思って」
原田はスプーンで米をすくって口に運びながら、平然と言い放つ。清高はショックを受けて立ち尽くす。
裏切られたような気分だった。不定期のアルバイトとはいえ三年以上も店を手伝ってきたのだし、本命の恋人ではないとはいえ、それなりに可愛がられていると思っていた。それなのに、原田は清高に一言もなく閉店を決めたという。
「……なんで? 上手く行ってたじゃん、店。なんで閉めるの? 制作はどうするの?」
原田は問いに答えず、
「弁当、そこに座って食いなよ」
とスプーンで作業台の前の椅子を示した。さっきは気づかなかったが、いつもなら工具や材料が整然と並んでいるはずの作業台の上は、ほとんど空っぽになっていた。原田は本気でここから出て行くつもりのようだ。
「……閉めるんなら、先に知らせてくれても良かったじゃん」
清高は釈然としないまま椅子に腰掛け、恨み言に聞こえないよう慎重に発言する。
「寂しい?」
「別に。違うバイト探さなきゃなと思っただけ」
「強がるなよ。寂しいんだろ?」
原田は空になった弁当箱を袋に突っ込み、ベッドから立ち上がって清高の前に立った。背はそれほど高くないが、鋭い目で見下ろされるとひどく圧迫感がある。清高は原田に顎を掴まれて上を向かされたが、首を振って逃げる。原田は短く笑った。
「オレがどこ行くか聞かねえの?」
原田の指が耳をくすぐり、髪を撫でる。この男はいつもこういうやり方で清高を煽る。ほのめかしで気を引いて、こっちが欲しがるのを待っているのだ。卑怯だと思うが、上手くかわせるほど清高は大人ではなかった。
精一杯の意趣返しのつもりで、
「……Princesaのとこだろ」
と睨み上げると、
「Princesa?」
と笑い含みに問い返される。清高は舌打ちして髪に絡んだ原田の指を振り払った。
「知ってんだよ! アンタがずっと連絡してる女がいるのは! オレは外国語は分かんねえけど、何回も何回も聞かされたら、単語一つくらいは聞き取れる。アンタが本気でオレの相手をしてくれたんじゃないのは分かってるけど……っ」
まくし立てると、頬を両手で挟まれて上を向かされ、口づけられた。近すぎてぼやけた視界で、原田が元々細い目を更に細めている。押しつけられた唇は、何度か清高の唇を噛むようにした後、アッサリと離れた。名残惜しげに開いた清高の唇を指で撫で、原田は底の見えない笑みを浮かべる。
「おまえは可愛いねえ、基」
「……ご機嫌取りのつもりかよ?」
「そう怒るなよ。ご機嫌取りくらいさせてくれ。お前が思うより、オレはお前を好きなんだぜ?」
「るっせぇ! オレのこと捨てるくせに!」
清高が立ち上がって原田の胸ぐらを掴もうと手を伸ばすと、その腕を素早くひねり上げられ、ベッドに連れて行かれてうつ伏せに押さえつけられた。関節を極められて、痛みに思わず声が出る。
「うう……っ」
「基、オレはお前に良くしてやって来ただろ? お前が望むことは全部教えてやったし、お前がして欲しいことは何でもしてやった。秘密の恋人ごっこにも付き合ってやったよな?」
『恋人ごっこ』の一言が胸に深々と突き刺さり、清高は唇を噛みしめる。
「Princesa、Princesa……Querida princesa! 王女様には逆らえない……お前が何を誤解してるのか知らないが、王女様はオレの女なんかじゃない」
原田は歌うように囁く。腕を掴む指にはますます力が入って、骨が軋み出した。清高は全身で抵抗したが、原田はびくともしない。
「王女様の正体が知りたいか?」
「……知りたいっつったら教えてくれんのかよ?」
苦痛を堪えて絞り出すように言うと、突然拘束が解けた。清高は大きく息を吐いて原田に向き直る。原田は清高の顎を片手で掴み、鼻先が触れるほどの距離で顔をのぞき込みながら、
「教えてやっても良い。だけど、知ったらもうお前は戻れない。覚悟はあるか?」
と薄く笑った。清高はゴクリと唾を飲み込む。頭の隅に警告灯が灯っていた。聞かない方が良い、このまま何も知らずに別れた方が良い。そう思うのに、口は勝手に動いてしまう。知りたいのだ、この危険な男のことを。
「……どういうこと?」
原田は酷く優しい顔で笑った。
「オレはね、基、お前の事を買ってるんだよ。お前は馬鹿なチンピラと違って頭が良い。入っちゃいけない領分をちゃんと弁えてる。〝普通〟が何か分かってる。そういう感覚を身につけてることが大事なんだよ」
原田は節の目立つ細長い人差し指で清高の額を押し、そのまま指を真っ直ぐに滑らせる。鼻から顎、首、胸へとラインを引くようになぞり、心臓の位置で止めた。清高は原田が何を言っているのか分からず当惑する。
「境界線を理解してる人間しか、線を跳び越えることはできない。わかってねえ奴らはフラフラ深みにはまり込んで破滅する。お前は違う。お前はビジネスを任せられる男だ」
「ビジネス? 店の経営のこと?」
清高が慎重に質問すると、原田は歯を見せて笑った。
「しらばっくれるなよ。この三年、オレの回りをうろちょろして、賢いお前はもう分かってんだろ? オレの商売が単なるアクセサリー屋じゃねえのは?」
ぐいと胸を押されて清高は唇を噛む。
『あの男のこと、カタギと思ってんのか?』
宮脇の顔が頭の中に蘇る。言われなくても何度も考えたことだった。徹底して私生活を見せない原田には裏の顔がある。そんなことは、とっくに勘づいていた。けれど、原田は清高に決して裏を見せなかった。見えないのなら、表しかないのと同じだ。
清高は原田が普通だと信じたかった。優しい男だと信じたかった。隠している裏にあるのは外国に住む〝Princessa〟だけだと自分に言い聞かせていた。原田という男が真っ当である可能性に自分を賭けたのだ。
そして賭けに負けた。
「……聞きたくない。表に出せないビジネスに興味はない」
落胆を隠して睨み付けると、原田は哄笑してベッドに腰掛け、ジャケットの内ポケットから取り出した煙草に火をつけた。美味そうに深く吸って、煙を吐き出す。清高は嗅いだことのない嫌な臭いの煙だった。
「お前の用心深さと、鼻が利くところは長所だ。でも度胸が少し足りないな。お前は選ばなきゃならない。オレに愛されるビジネスパートナーになるか、支配される駒になるか? もう恋人ごっこはもうおしまいだよ。どうする、Mi Chiquito?」
原田は再び盛大に煙を吐き出す。窓のない部屋に煙が充満して、清高は立ち上がって咳き込みながら後ずさる。
「オレは普通の高校生だよ。どっちにもなれやしない。もう帰る」
清高が階段へ向かおうとすると、原田は煙草を靴の踵で踏み潰し、逃げようとする清高の両腕を掴んだ。揉み合いになって、あっという間にベッドへ押し戻される。本気になった原田は、ゾッとするほど人の身体の自由を奪う技に長けていた。的確に急所を押さえられてマウントを取られ、痛みと恐怖で清高は息を荒くした。上から薄笑いの顔が近づいてきて、思わず顔を背ける。
「もうすぐ女王が死ぬんだ。そしたら王女様の時代が来る。オレは本国に戻らなきゃなんねえが、その間こっちで動く半身が居れば、代替わりの後すぐにビジネスを広げられる。もう販路は確保できてるんだ。基、オレはお前に連絡役を頼みたいんだ。オマエは頭が良い。胆力もある。その顔で女も男もたらし込める。オレはお前が欲しいんだよ……」
無理矢理顔を正面に向けられ、真っ直ぐに見下ろされた。鋭いカミソリで切ったような細い一重の奥で、小さい黒目が異様な光に輝いている。清高は激しい頭痛と目眩を感じ、何度も目を瞬かせた。
「アンタはオレに……何になれって言ってんの……?」
息を喘がせながら言うと、原田はギラつく目をほんの少し遠くして、
「一心同体、運命共同体、夜にしか飛べない比翼の鳥、地獄の道を這う双頭の蛇……Entra por sangre y sale por sangre……」
と歌うように囁いた。
「なにいってんのかわからねえ……」
段々と身体から力が抜けて、思考が散漫になってくる。
「考えなくて良い。SiかNoで答えりゃ良いんだ」
甘やかすように首筋を撫でられ、清高は目を瞑ったまま首を横に振る。
「しばらく時間をやるから、ゆっくり考えな。オレが待ってる答えはSiだけだ」
脳髄に染みこむような甘い笑い声を最後に、清高の意識は闇に落ちた。
一駅戻って原田の店へと向かう。土曜日の昼下がり、工場町は人気もなく静かだ。空には、今にも雨が降りそうな雲が重く垂れ下がっている。不定休の店が開いているかどうかは賭けだったが、閉まっていればそのまま帰ればいいだけだ。
児童公園の角を曲がり、袋小路に入り込む。原田の店はトタン張りの倉庫を改装したもので、元の倉庫の半分が店、半分がガレージになっている。どちらのシャッターも半分だけ開いていた。腰を屈めて店の中を覗き込むと、カウンターの奥にだけ明かりが付いている。何度か叩いても応答はない。
中へ入ろうか迷っていると、ガレージ側のシャッターが勢いよく開いて、原田が姿を見せた。ひどく苛立った様子でスマホを耳に当て、外国語でまくし立てている。
原田は清高を認めた途端に通話を切り、
「どうした? 今日は呼んでないよ」
と薄い唇を笑みの形にした。声には明らかな苛立ちが含まれていて、切れ長の細い目は少しも笑っていない。清高がいつもと違う原田の様子に怯みつつ、
「呼ばれてなくても来て良いでしょ、オレはデリヘルじゃねーんだから」
と軽い調子で言うと、
「悪いが遊んでる暇はない。何の用だ?」
と冷たく答えられてしまう。
「別に遊んで欲しいわけじゃないよ。店の二階に泊めてもらえないかと思って。姉貴が帰ってきてて、家に居づらいんだ」
原田は蛇のような目で清高を上から下まで一瞥し、しばらく考えてから、
「それなら構わないよ」
と微笑んで、店のシャッターを上げた。清高が促されるまま中へ入ると何かが腐ったような臭いがした。原田は清高が顔をしかめたのに気づき、
「臭う? ごめんな、この間ゴミを出し忘れてさ。今から捨てに行くから、気になるなら換気扇を回してくれ」
と先回りして言い訳する。
「竜弥さん、ここで食事することあるんだ?」
原田はチラリと鋭い目を清高に投げかけたが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべ、
「しばらく仕事が立て込んでたから」
と階段を上った。
二階に上がると、腐臭はますます強くなった。清高はシャワーブースの換気扇を最大にし、エアコンのスイッチを入れる。原田は作業机の上にある香立てに香をセットして火をつけた。すぐに甘い香りが漂い始め、腐臭を覆い隠す。
「オレはしばらく戻らないけど、シャワー使うなら自由にどうぞ」
「ありがとう。でも今はイイや」
清高は服のまま仮眠用のベッドに潜り込む。原田はそれを無表情に見下ろし、
「おやすみ」
と声を掛けて階下へと戻っていった。
しばらくガレージで物音が続いた後、シャッターを上げ下げする音が聞こえ、車のエンジン音が遠ざかっていった。
清高はベッドに寝転がりながら、そういえば原田がどんな車に乗っているか知らないな、と思った。ガレージが開いているところを見たこともない。バイクを持っていると聞いて、乗せて欲しいとねだったが「いつかね」と誤魔化されてそれっきりだ。原田はどこかにちゃんとした住まいがあるはずだが、それがどこかも教えてもらっていない。清高が知っているのは、この店の中で働く姿と、ベッドの上の振る舞いだけだ。
『カタギと思わん方がええぞ』
宮脇の心配そうな声が耳によみがえり、清高は振り払うように頭を振った。足元にわだかまっていた掛け布団を引っ張り上げて頭から被る。きつく目をつむったが、眠りはなかなか訪れなかった。
目覚めた時は真っ暗だった。
ポケットに入れたままだったスマホを見ると、もう夜中の十一時時を過ぎている。ここへ来たのが三時頃だったから、八時間も眠っていた計算になる。画面には姉からの着信通知が一件。宮脇からメッセージが一件。
清高はどちらも無視してスマホを枕元に放り投げ、トイレへ向かった。暗い中を手探りで移動していると、足先が何かにぶつかり、ドサドサと物が落ちる音がした。
「ヤッベ……」
慌てて作業机の上にある電気スタンドのスイッチを押すと、小ぶりの段ボールが横倒しになって中身が床に溢れているのが見えた。ショップのロゴが入った名刺大のカードだ。しゃがんで拾い集めていると、
「何をしてる?」
と背後から急に声をかけられ、清高は口から心臓が飛び出しそうなほど驚いた。振り向くと原田が片手に弁当屋のロゴの入ったビニール袋をぶら下げて無表情に立っている。
「ご、ごめん! 寝ぼけて箱を蹴り倒しちゃって……!」
清高が言うと、原田は清高の手からカードを取り上げて乱暴に箱に押し込み、
「気にしないで良い。どうせ捨てるものだから。それより腹減ってないか?」
と片手にぶら下げた弁当屋の袋を揺らした。
「減ってるけど……ここは飲食禁止って言ってなかった?」
「もういいんだ。ここは引き払おうと思ってるから」
原田はさらりと言い、自分の分の弁当を持ってベッドに腰掛ける。清高は思いもよらない言葉に動転して何度も目を瞬かせた。
「引き払う? 店は? 移転すんの?」
「移転は考えてない。しばらくは海外でのんびりしようと思って」
原田はスプーンで米をすくって口に運びながら、平然と言い放つ。清高はショックを受けて立ち尽くす。
裏切られたような気分だった。不定期のアルバイトとはいえ三年以上も店を手伝ってきたのだし、本命の恋人ではないとはいえ、それなりに可愛がられていると思っていた。それなのに、原田は清高に一言もなく閉店を決めたという。
「……なんで? 上手く行ってたじゃん、店。なんで閉めるの? 制作はどうするの?」
原田は問いに答えず、
「弁当、そこに座って食いなよ」
とスプーンで作業台の前の椅子を示した。さっきは気づかなかったが、いつもなら工具や材料が整然と並んでいるはずの作業台の上は、ほとんど空っぽになっていた。原田は本気でここから出て行くつもりのようだ。
「……閉めるんなら、先に知らせてくれても良かったじゃん」
清高は釈然としないまま椅子に腰掛け、恨み言に聞こえないよう慎重に発言する。
「寂しい?」
「別に。違うバイト探さなきゃなと思っただけ」
「強がるなよ。寂しいんだろ?」
原田は空になった弁当箱を袋に突っ込み、ベッドから立ち上がって清高の前に立った。背はそれほど高くないが、鋭い目で見下ろされるとひどく圧迫感がある。清高は原田に顎を掴まれて上を向かされたが、首を振って逃げる。原田は短く笑った。
「オレがどこ行くか聞かねえの?」
原田の指が耳をくすぐり、髪を撫でる。この男はいつもこういうやり方で清高を煽る。ほのめかしで気を引いて、こっちが欲しがるのを待っているのだ。卑怯だと思うが、上手くかわせるほど清高は大人ではなかった。
精一杯の意趣返しのつもりで、
「……Princesaのとこだろ」
と睨み上げると、
「Princesa?」
と笑い含みに問い返される。清高は舌打ちして髪に絡んだ原田の指を振り払った。
「知ってんだよ! アンタがずっと連絡してる女がいるのは! オレは外国語は分かんねえけど、何回も何回も聞かされたら、単語一つくらいは聞き取れる。アンタが本気でオレの相手をしてくれたんじゃないのは分かってるけど……っ」
まくし立てると、頬を両手で挟まれて上を向かされ、口づけられた。近すぎてぼやけた視界で、原田が元々細い目を更に細めている。押しつけられた唇は、何度か清高の唇を噛むようにした後、アッサリと離れた。名残惜しげに開いた清高の唇を指で撫で、原田は底の見えない笑みを浮かべる。
「おまえは可愛いねえ、基」
「……ご機嫌取りのつもりかよ?」
「そう怒るなよ。ご機嫌取りくらいさせてくれ。お前が思うより、オレはお前を好きなんだぜ?」
「るっせぇ! オレのこと捨てるくせに!」
清高が立ち上がって原田の胸ぐらを掴もうと手を伸ばすと、その腕を素早くひねり上げられ、ベッドに連れて行かれてうつ伏せに押さえつけられた。関節を極められて、痛みに思わず声が出る。
「うう……っ」
「基、オレはお前に良くしてやって来ただろ? お前が望むことは全部教えてやったし、お前がして欲しいことは何でもしてやった。秘密の恋人ごっこにも付き合ってやったよな?」
『恋人ごっこ』の一言が胸に深々と突き刺さり、清高は唇を噛みしめる。
「Princesa、Princesa……Querida princesa! 王女様には逆らえない……お前が何を誤解してるのか知らないが、王女様はオレの女なんかじゃない」
原田は歌うように囁く。腕を掴む指にはますます力が入って、骨が軋み出した。清高は全身で抵抗したが、原田はびくともしない。
「王女様の正体が知りたいか?」
「……知りたいっつったら教えてくれんのかよ?」
苦痛を堪えて絞り出すように言うと、突然拘束が解けた。清高は大きく息を吐いて原田に向き直る。原田は清高の顎を片手で掴み、鼻先が触れるほどの距離で顔をのぞき込みながら、
「教えてやっても良い。だけど、知ったらもうお前は戻れない。覚悟はあるか?」
と薄く笑った。清高はゴクリと唾を飲み込む。頭の隅に警告灯が灯っていた。聞かない方が良い、このまま何も知らずに別れた方が良い。そう思うのに、口は勝手に動いてしまう。知りたいのだ、この危険な男のことを。
「……どういうこと?」
原田は酷く優しい顔で笑った。
「オレはね、基、お前の事を買ってるんだよ。お前は馬鹿なチンピラと違って頭が良い。入っちゃいけない領分をちゃんと弁えてる。〝普通〟が何か分かってる。そういう感覚を身につけてることが大事なんだよ」
原田は節の目立つ細長い人差し指で清高の額を押し、そのまま指を真っ直ぐに滑らせる。鼻から顎、首、胸へとラインを引くようになぞり、心臓の位置で止めた。清高は原田が何を言っているのか分からず当惑する。
「境界線を理解してる人間しか、線を跳び越えることはできない。わかってねえ奴らはフラフラ深みにはまり込んで破滅する。お前は違う。お前はビジネスを任せられる男だ」
「ビジネス? 店の経営のこと?」
清高が慎重に質問すると、原田は歯を見せて笑った。
「しらばっくれるなよ。この三年、オレの回りをうろちょろして、賢いお前はもう分かってんだろ? オレの商売が単なるアクセサリー屋じゃねえのは?」
ぐいと胸を押されて清高は唇を噛む。
『あの男のこと、カタギと思ってんのか?』
宮脇の顔が頭の中に蘇る。言われなくても何度も考えたことだった。徹底して私生活を見せない原田には裏の顔がある。そんなことは、とっくに勘づいていた。けれど、原田は清高に決して裏を見せなかった。見えないのなら、表しかないのと同じだ。
清高は原田が普通だと信じたかった。優しい男だと信じたかった。隠している裏にあるのは外国に住む〝Princessa〟だけだと自分に言い聞かせていた。原田という男が真っ当である可能性に自分を賭けたのだ。
そして賭けに負けた。
「……聞きたくない。表に出せないビジネスに興味はない」
落胆を隠して睨み付けると、原田は哄笑してベッドに腰掛け、ジャケットの内ポケットから取り出した煙草に火をつけた。美味そうに深く吸って、煙を吐き出す。清高は嗅いだことのない嫌な臭いの煙だった。
「お前の用心深さと、鼻が利くところは長所だ。でも度胸が少し足りないな。お前は選ばなきゃならない。オレに愛されるビジネスパートナーになるか、支配される駒になるか? もう恋人ごっこはもうおしまいだよ。どうする、Mi Chiquito?」
原田は再び盛大に煙を吐き出す。窓のない部屋に煙が充満して、清高は立ち上がって咳き込みながら後ずさる。
「オレは普通の高校生だよ。どっちにもなれやしない。もう帰る」
清高が階段へ向かおうとすると、原田は煙草を靴の踵で踏み潰し、逃げようとする清高の両腕を掴んだ。揉み合いになって、あっという間にベッドへ押し戻される。本気になった原田は、ゾッとするほど人の身体の自由を奪う技に長けていた。的確に急所を押さえられてマウントを取られ、痛みと恐怖で清高は息を荒くした。上から薄笑いの顔が近づいてきて、思わず顔を背ける。
「もうすぐ女王が死ぬんだ。そしたら王女様の時代が来る。オレは本国に戻らなきゃなんねえが、その間こっちで動く半身が居れば、代替わりの後すぐにビジネスを広げられる。もう販路は確保できてるんだ。基、オレはお前に連絡役を頼みたいんだ。オマエは頭が良い。胆力もある。その顔で女も男もたらし込める。オレはお前が欲しいんだよ……」
無理矢理顔を正面に向けられ、真っ直ぐに見下ろされた。鋭いカミソリで切ったような細い一重の奥で、小さい黒目が異様な光に輝いている。清高は激しい頭痛と目眩を感じ、何度も目を瞬かせた。
「アンタはオレに……何になれって言ってんの……?」
息を喘がせながら言うと、原田はギラつく目をほんの少し遠くして、
「一心同体、運命共同体、夜にしか飛べない比翼の鳥、地獄の道を這う双頭の蛇……Entra por sangre y sale por sangre……」
と歌うように囁いた。
「なにいってんのかわからねえ……」
段々と身体から力が抜けて、思考が散漫になってくる。
「考えなくて良い。SiかNoで答えりゃ良いんだ」
甘やかすように首筋を撫でられ、清高は目を瞑ったまま首を横に振る。
「しばらく時間をやるから、ゆっくり考えな。オレが待ってる答えはSiだけだ」
脳髄に染みこむような甘い笑い声を最後に、清高の意識は闇に落ちた。
