明日を希う少年と少女

 2022年3月11日(金)――
 チケットを購入して二日が経っていた。陽子はその効果に正直半信半疑だった。でも本気で信じてしまうような不思議な感覚に陥っていた。それほどにあの老婆の笑顔が不敵で、異質で、それでいて優しかった。それにチケットの効果を信じることで、少しだけ心が救われているのも確かだった。
 放課後十六時半。杉ノ宮駅近くの線路沿いにあるカフェに、陽子、憂樹、そして愛那の三人の姿があった。友郎を除いたこの三人で、陽子は自分の内に秘めいていたモノを共有した。病気のこと、小藤町の駄菓子屋のこと、チケットのこと、そして、友郎にそのチケットを使うということ。

 「――だめだよそんなこと……」
 「陽子ちゃん何考えてんだよ……。そもそもそんなこと、友郎が許すわけないだろっ」
 二人ともチケットに関し半信半疑ではあるものの、友郎との記憶を消すことに難色を示し、反対をした。
 「いいの。トモくんには私と違って、未来があるの」
 「だけどっ――」
 「――そのトモくんの未来、限りある大切な時間を、悲しみや傷を抱えたまま生きていって欲しくないの。『私』がトモくんの未来の足枷(あしかせ)になりたくないの……」
 「っ……――」
 憂樹と愛那は言葉が出なかった。陽子は、「茉枝陽子」という一人の人間が、誰かの人生の負担になること自体を望んでいなかった。彼女の下した決断は、友郎に対する最大の思いやりであり、彼女にとってもまた最善の選択だったのだ。
 「もし本当に私とトモくんの記憶が失くなったら、お互いの存在は伝えないでほしいの」
 「そんな……」
 「トモくん優しいから、罪悪感を感じちゃうかもしれない……。知らなくていいことは知らないままでいてほしいから」
 「……でも……チケットのこと愛那たちに言っちゃってよかったの? 『掟』では他言はダメだって……」
 「うん、二人には協力してもらわないといけないから、仕方ないの。それに私はもう先が短いから、『死んだほうがマシな状態』になってもかまわないの」
 陽子は寂しそうに笑ってみせた。二人は納得はせずとも、協力はしてくれそうで陽子は安心した。
 帰りの電車は上り方面のため比較的空いていて、陽子と愛那は並んで座る事ができた。
 「新しいお家はどう? 愛那ん家はアパートになって、少し狭くなったなぁ」
 「そうなんだね。うちはそんなに変わらないかな。一階になって、眺めが悪くなったくらいかな?」
 二人はお互いの近況を報告し合った。しかし、お互いの病気のこと、チケットのこと、友郎とのことなど核心に触れる話題を口にすることはなかった。
 電車は大きな橋に差し掛かり、土手が目に入るとチケットのことが脳裏をよぎった。陽子は静かに口を開いた。
 「愛那ちゃん――」
 「うん?」
 「トモくんのこと、別に狙ってもいいからね?」
 「――えっ……?」
 「私に気を使わなくていいからねってこと」
 「ちょっとやめてよっ。愛那別にもう――」
 「いいの。もう気がないならないでいいし、あったとしても私に気を使わないでほしいの」
 「――そ……んな……。うん……」
 愛那の返事に少しの間があった。
 車内のアナウンスが『小藤町』の到着を知らせ、車両がスピードを落とす。
 「私、トモくんのこと忘れちゃうから、愛那ちゃんたちになにがあっても傷つかないし」
 また笑っておどけてみせた。愛那はなにも言うことができなかった。

 電車のドアが開き、愛那が降りる。
 「四月から一緒の学校だね! ――……これからも親友でいてね!」
 ホームで見送りをしてくれる愛那に、陽子は笑顔で想いを伝えた。
 愛那はふと思った。何回陽子と学校に通う事ができるのだろう。あとどれくらい陽子と一緒にいられるのだろう――。発車ベルが鳴るまでの、たった2秒の間でこれまでの思い出が頭を駆け巡り、涙を堪えることができなかった。
 「――うんっ。こっちこそ……よろしくねっ」
  南からの暖かく優しい風が、愛那の濡れた頬を撫でてホームを抜ける。日が伸びてきて、春が近づいていることを知らせた。






 「――それから私とトモくんは三日後の三月十四日にデートをして、本当に記憶を失くしたの。だから私のことを覚えていなくて仕方がないの……」
 友郎はこの突拍子もない話が、やけに信じる事ができた。ここ数日の偏頭痛や妙な気分、心にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚。その原因がわかったような気がして、不思議と腑に落ちていた。
 でも一つ気になる事があった。
 「――じゃあ……どうして今、その、茉枝さんは俺のことを知ってるの……? 俺と一緒に記憶を失くしたんじゃ……」
 陽子は落ち着いていた。
 「『掟』をね……破ったの……」
 「あっ……」
 「愛那ちゃんや芦沢くんにチケットについて話したことで、『他言してはいけない』という掟を破ったの。その代償はね、チケットを使った側の記憶は一生消える事がないということだったの」
 「……どういう……こと?」
 「トモくんとのデートの翌日ね、私記憶が消えてなかったの。だからチケットなんてやっぱり嘘だったんだって思ったの。それでね、トモくんの連絡先を消してたから、私から連絡する事ができなくて一日中ずっと連絡を待ってたのね。でも夜になっても連絡来なくて。次の日学校が終わった後、トモくん家に行ってみたの」
 「あっ……え、もしかして……」
 「うん。ピンポン押したらトモくんのお母さんが出てきて、トモくんを呼んでもらったんだけどね、出てきたトモくんは、私のことを知らなかったの。すごく怪訝そうな表情で、他人行儀で……。私まるで不審者扱いされちゃったの」
 「そうだ……。そういえば、うちの親がよくわからないこと言ってたことがある……『ヨーコちゃんじゃないの?』、『ヨーコちゃんとは最近どうなの?』って……」
 「……そうなんだ。私すごく恥ずかしくて、慌てちゃって……。でもそれよりも……その場で泣いてしまいそうなくらい悲しくなっちゃって。走って逃げちゃったの」
 友郎は、眠っていたモヤモヤが掘り起こされ、すぅーっと解消されていくのを感じていた。
 「心のどこかでは、もしかして、って思って覚悟はしてたんだけど……。いざトモくんの目を見た時、私を見るその目を見た時……もうトモくんは、私の知ってる『トモくん』ではないんだって思って……ショックがあまりにも大き過ぎて……」
 話す彼女の声がうわずむ。
 「――そんなことがほんとに……」
 「それでわかったの。『死んだほうがマシ』な理由が。この先何度デートしようとも、トモくんは私のことを忘れてしまう。私はトモくんの記憶に残る事ができない……。でも私は忘れる事ができないの。こんなに辛いことはないよ……。お互いに、一緒に忘れられると思ってたんだもん……」

 陽子は時折鼻をすすって空を仰いでいた。大きめの咳払いが、泣きそうな声をごまかしているように聞こえた。
 「それで、愛那ちゃんには嘘をついたの。『青木友郎なんて人、知らないよ?』ってね。デートの次の日に愛那ちゃんから予定通り連絡は来てたんだけど、一応チケットの効果を確かめるまでは返事はしなかったの。でも、まさかトモくんだけ記憶が消えてるなんて思わなくて……。愛那ちゃんに『狙っていいよ』なんて言った手前さ、『今更やっぱり』、なんて言えなかったの……。だから私はついこの間まで、記憶がないフリをしていたの」
 「そう……なんだ……」

 ――きっと彼女は、本当のことを言っているのだろう……。

 こんなにも非現実的な話をされ続け、友郎は頭が混乱しそうになっていたが、彼女たちの真剣な眼差し、声色が、いかに辛い思いをしてきたかを物語っていて、信じ込むには十分すぎる状況だった。

 「それから私たちは、それぞれの秘密を胸に抱えたまま……高校生になったの……――」