明日を希う少年と少女

 2021年7月24日(土)――

 「筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)。通称ALSといって、子供に発症することはごく稀な病気です」
 県内でも有数の大学病院へ紹介状を書いてもらい、陽子と両親は週末に訪れ医師の診断を受けた。
 陽子にとっては、険しい顔の大人たちがなにやら難しい話をしているようにしか感じなかった。というより、母親が涙を堪えている表情を見るのが辛くて、聞こえないようにしていた。

 『余命』という言葉の意味はもちろん知っていた。ただ、ドラマや映画の世界でしか存在しないような、身近では使うことのない言葉だと、陽子は無意識に思っていた。だからその言葉を聞いた時、彼女は思わず吹き出してしまったし、理解することができなかった。――あぁ、こんなところに居たくない。早く家に帰りたい――くらいにしか思っていなかった。

 自宅に帰っても、両親の表情は暗かった。抱きしめてきた母の肩が震えていて、父がベランダで辞めたはずのタバコを吸っていた。いつもと違う光景が、彼女に事の深刻さを理解させた。

 ――そうか。病院やお医者さんが悪いんじゃないんだ。私……病気になっちゃったんだ……。

 事態を理解してからは、彼女は部屋に篭り、布団の中で一晩中涙を流した。誰が悪いわけでもない。だから謝らないでほしい、喧嘩をしないでほしい。それが陽子の願いだった。

 友郎には言えなかった。先日のことがあってからは、会うことを避けていた。心の中では許していたが、電話でそれなりに怒ってしまった手前、気まずくてすぐには会うことができずにいた。それに彼のことだ。優しいから、人一倍心配をかけてしまうに違いない。彼に悲しい思いをさせたくない。でもこんな時、本当は彼に一番そばにいてほしかった。そんな複雑な感情と孤独、人生で初めての『死』という恐怖に、胸が押し潰されそうになっていた。

 翌日、母親が部活の顧問に電話をしていた。病気のこと、運動自体は問題がないということ、娘の意思を尊重して、通常通り試合に出ることは問題ないという旨を伝えてくれていた。午前中から姿がなかった父が、家電量販店でランニングマシーンを購入してきたため陽子と母は開いた口が塞がらなかった。適度な運動をしなければ、筋肉が衰えていってしまうためリハビリとして取り入れた方がいいと、昨日一晩中彼女の病気について考えていたらしい。普段無口な父のその姿に、陽子は思わず涙を流してしまった。

 たまに椅子から立てなかったり、お茶の入ったコップが持てなかったり、変わったことといえばその程度のことだけだった。いつもと変わらない日常、いつもと変わらない空模様。なのに、一日で世界が一気に変わってしまったような感じがしていた。感じた事のない不安感や未知への恐れに苛まれるようになっていた。

 ――トモくんに会いたい……。

 夜になって携帯をみると、友郎からの連絡が溜まっていた。気がつけば、【会いにきて】と送ってしまっていた。時刻は二十二時を過ぎている。まさかとは思ったが彼は、【今すぐ行く】と言ってくれた。友郎の家からここまで自転車でおよそ三十分。申し訳ないとも思ったが、会いたい気持ちを止めることができなかった。

 わずか二十分後に【着いたよ】と連絡があり、陽子は慌てて家を出た。玄関を出る時に母に一言告げ、父には伝えないよう念を押しておいた。エレベーターを降りるとエントランスまでの廊下を走った。ずっと会いたくて仕方がなかった。あの事だってもうどうでもよかった。この寂しくて、孤独で、得体の知れない不安は、彼じゃないと癒せないと思った。
 友郎の前にたどり着いた時には、すでに涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
 「――陽子ちゃん……」
 頬に汗を垂らし、まだ少し息を切らした友郎がエントランスの外にいた。
 「トモくん……ごめんね? 全然会おうとしなくて……」
 「えっ―― ごめんねは俺の方だよ……陽子ちゃんを……泣かせちゃって、本当にごめん」
 「ううん……トモくんは悪くないし、愛那ちゃんのことももう責めてないの。そんなこと、もう……どうでもいいの……。だって……――」
 陽子は友郎の胸に飛び込んだ。
 ――私、死んじゃうかもしれないの……。
 喉まで出かかった言葉を、恐怖を、思わず飲み込んだ。彼に触れた時、求めていた匂い、温もり、安心感が、彼女の心の芯までをも包み込んだからだった。そしてなにより、この大好きな人を悲しませたくないという想いがあった。
 「だって……トモくんが大好きだから……」
 彼はおそらく、全てを理解していたわけではなかった。ただ、なんとなく、抱きしめ返さないと彼女が壊れてしまいそうな、そんな焦燥感にかられ、強く、優しく抱きしめ返した。
 陽子は誓った。病気のことは彼には秘密にしようと――。

 「何時だと思ってるんだ」
 突然の低い声に二人は咄嗟にくっついていた体を離した。そこには友郎を睨みつける男の姿があった。
 「パパ……」
 「あっえっ? ……あ、こんばんは。初めまし――」
 「中学生の分際で、何時まで外にいるんだ。……うちの娘になにかあったらどうするんだ」
 「ちょっとパパ……――」
 「陽子は黙ってろ。――なぁ……責任取れんのか。ボウズ」
 「……あっ……いえ……すみません……」
 友郎は小さく息を切らしていた。彼の心臓の音が、陽子にまで聞こえてくるようだった。しばらく沈黙が続き、街灯に集まる羽虫さえも、空気を読んだかのように息を殺していた。
 「さっさと帰れ」
 「――はい」
 友郎はうつむき、陽子を見ることなく自転車のスタンドを上げ、サドルに跨った。
 「おいっ」
 再び聞こえた低い声に漕ぎ出す足を止め、恐る恐る振り返る。
 「今度からは明るい時に来い。茶くらい出してやるよ」
 そう言った父親の表情に優しさが垣間見え、友郎は少し安堵した様子で会釈をした。

 父親と二人きりになった陽子は、バツが悪そうにエレベーターのボタンを押した。
 「おまえも一言俺に言ってからにしろ」
 「――はい……ごめんなさい……」
 「……あいつ、家はどこだ」
 「香澄だって」
 「――そうか……いいヤツなんだな」
 「――うん」
 彼女は嬉しかった。友郎に会えたこと、声が聞けたこと、触れることができたこと。父親に彼を『いいヤツ』と言われたこと。自分を取り囲んでいた孤独な思いが薄まり、まだ見えぬ恐怖、不安、絶望さえも、今だけは忘れることができた。改めて友郎の存在を、大切さを実感した瞬間だった。