明日を希う少年と少女

 2021年7月21日(水)――

 出会ってから一年、中学三年生となった友郎と陽子は、『夏期講習』の四文字にうなされていた。周りを取り囲むものが本格的に『受験』の話題に切り替わっていて、頭のどこかにずっとモヤモヤがある感じがとても嫌だった。といっても、これからは週二ではなくほぼ毎日顔を合わせることができるのだから、二人にとっては良い側面があるのも事実だった。

 「ていうか絶対、年々気温高くなってるよな……」
 セミが夏真っ最中を嫌というほど知らせてくる。
 「温暖化……なのかなぁ」
 午前中にも関わらず、気温は当たり前のように30℃を超え、何もしていないのに体力を奪っていく。塾の教室は相変わらず涼しくて、天国を感じさせてくれた。
 陽子の鞄には、赤いイルカのキーホルダーと、フェルトでできた手作りのバスケットボールのストラップが付いていた。
 「県大会、来週だね。俺、講習で観に行けないけど、応援してるよ」
 「――うん、ありがとう。とりあえず今日出席したら、一週間は部活に専念するつもり。本当は塾に来て会いたいんだけどね」
 陽子はそう言って、眉をしかめ微笑んだ。
 「イルカとボール、似合ってるね」
 「そうだよね。トモくん赤にしてくれて正解だったよ」
 イルカのヒレに、小さく『Tomo』と書かれていて、嬉しそうにそれを指でなぞった。

 「だぁあああ〜〜〜っ……くそぉ……」
 憂樹が見るからにイライラを抱え教室に入ってきた。勢いよく椅子に座ると、大きめの溜め息を吐いた。
 「――どした……憂樹」
 友郎が恐る恐る訳を伺った。
 「愛那のやつ……いきなり俺と同じ北高を受けるって言い出してよ……」
 「えっ……陽子ちゃんと同じ西高行くんじゃないの?」
 「そうなんだよ……。愛那ならもっと高いとこ行けるのに、わざわざ俺に合わせようとしてんだよ……」
 陽子も心配そうに口を開いた。
 「――そうなんだ……。私は寂しいけど、芦沢くんは嬉しいんじゃないの……?」
 「……そりゃ嬉しいけど、俺なんかのために受ける学校のレベル下げるの、重いっていうか……正直自信ないよ……。かと言って俺が西高目指すのも厳しいし、ていうか北高すら危ういのに……。あぁ〜もうっ……」
 それはきっと、想像以上に複雑な想いだったに違いない。憂樹はとても辛そうに見えた。その程度しか、陽子には理解ができなかった。ただそれ以上に、愛那の憂樹に対する気持ちの強さに衝撃を覚えた。友人である自分との高校生活よりも、恋人との高校生活を優先し、素直に伝えられるその心に感動すらしていた。そこに嫉妬や邪念などは一切なく、心から素晴らしいことだと感じた。ただ少し、寂しさも感じていた。

 愛那は今日も体調が悪いため、夏期講習の初日から欠席をしていた。憂樹は、「俺と話し合いしたくなくて避けているのだろう」と言って、そのことも怒っていた。陽子にとっては、それも含めて微笑ましい光景のように思えていた。

 「トモ。俺も陽子ちゃんも明日からいないから、愛那のこと頼むな。……変な気は起こすなよ?」
 「当たり前だろ。それより、二人とも大会頑張って」
 そう言って、友郎は二人にガッツポーズを見せた。その顔は、どこか羨ましそうな表情にも見えた。彼は口にこそ出さないが、きっと心の中ではバスケ部を辞めたことを後悔しているような、陽子にはそんな気がしていた。
 憂樹も陽子と同様、来週から県大会を控えていて、最低でも一週間は部活に専念するという。友郎と愛那、二人きりの夏期講習に、陽子はほんの少しだけ、ヤキモチを妬いていた。

 帰り道、憂樹は例によって先に帰ってくれていた。相変わらずの気遣いに、二人は思わず笑う。均等に並ぶ街灯に羽虫が集まり、キリギリスの高い鳴き声が休むことなく鳴り続ける。
 陽子は胸に抱えた少しのモヤモヤを友郎に吐き出す。
 「トモくんはさ、私に、北高目指してほしいって思ったりする?」
 「えっ。思うよ。絶対楽しいもん」
 彼が即答したため少し驚く。そして彼は嬉しそうな表情を浮かべていた。
 「――でもね、良いことで合わせていくってすごく素敵だと思うんだけど、こういったレベルを下げてまで合わせることって、あんまり良くないんじゃないかなって。だから今日の憂樹の気持ち、わかる気がするんだ。陽子ちゃんは可愛くて頭が良くて、運動だってできて、みんなからモテて、俺なんか本当は全然釣り合ってないんだ」
 「そんなこと――」
 「ううん。だから俺はすごい幸せ者なんだ。陽子ちゃんといることで、このままじゃダメなんだ、もっともっと頑張って、陽子ちゃんの彼氏として恥のないよう努めなければいけないんだ、って思うんだよ。だからこの一年間、勉強だって本当に頑張れて、成績だってすごい上がったんだよ。それでね、いつか陽子ちゃんに、俺と付き合えて良かったって心から想ってもらえたらすごく嬉しいんだ」
 友郎は頬を赤くしていたが、目は真剣だった。陽子は嬉しくて、涙腺が緩むのを堪えた。
 「もうすでに付き合えて良かったって想ってるからっ!」
 「ほんと? でもまだまだこれからだよ。もっと楽しませて、あの二人よりも幸せそうなバカップルにするよ!」
 「バカは余計じゃない……?」
 こうやって笑いながら帰る時間が本当に楽しかった。なによりも、友郎が自分たち二人のことを、こんな風に考えてくれていたことが陽子はとても嬉しかった。
 「でもやっぱり、学校が違っても上手くやっていけるのかなぁ……」
 「やっていけるさ! これまでだって別々の中学でやってこられたんだし」
 「……そうだよねっ!」

 陽子のマンションに着き、街灯の明かりが眩しく地面を照らす。エントランスのガラスからも強めの光が漏れていた。二人は恥ずかしそうに見つめ合う。
 「……やっぱり……ここは明るすぎるんだよねぇ……」
 「だね……。まぁ、一瞬だけだからっ……」
 彼はそう言うと、陽子の髪にそっと触れ、唇にキスをした。陽子はふふっと笑った。友郎は辺りを見回した。
 「誰もいない?」
 「うん、多分」
 二人はその日、3回のキスをした。


 時計を確認すると、二十一時十五分だった。愛那は分かっていた。多分、今頃友郎は陽子を送った後、自宅に向かっている頃だろうと。その時間が唯一、彼と二人きりになることができる時間だということを――。
 オーバーサイズの白いTシャツにショートパンツ。去年と同じ服を着て、コンビニへと向かう。風は無くひどく蒸し暑い。走ったらもっと汗をかいてしまうけど、会えなかったら意味がない。せっかくシャワーを浴びたばかりなのに、もう下着が汗で蒸れてしまっていた。愛那は腕で頬の汗を拭った。

 彼女は、いけない事だと分かっていた。親友の彼氏だと分かっていた。自分にも彼氏がいる事も分かっていて、それでも、彼に会いたいと想ってしまっていた。偶然を装えば、ただコンビニに用があっただけとすれば、なにも悪い事などないと思っていた。

 だから今日も、本当に彼がコンビニの駐車場を通過しようとした時も、偶然を装って呼び止めた時も、たわいもない話で会話を、彼との時間を繋ぎ止めようとしている時も、家までの道を一緒に歩いている時も、愛那はずっと平静を装うことができていた。〝秘めていた想い〟を飲み込むことができていたはずだった。
 それなのに、再び愛那の病気の話を聞いた彼が真剣に心配をしてくれて、誰にも開けたことのない心の鍵を開けられた途端、同時に愛那はパンドラの箱を開けてしまったのだ。
 彼女は自分でもなにをしているのかわからなかった。「えっ――」と小さく彼の声が漏れただけで、周りの音なんてなにも聞こえていなかった。しばらくするとキーンと耳鳴りがしてきて、目を開けると目の前に友郎がいて、二人の唇が重なっていたことに気づいた。


 「愛那――?」
 ――この感覚は過去にも何度かあった。小学生の頃、トイレ掃除をサボって遊んでいる時に限って、担任がドアを開けてきた時。みんなで石を投げていたのに、自分が投げた時だけガラスが割れてしまった時。そんな最悪のタイミングに感じる〝名もない感覚〟が愛那の全身を覆い尽くし、身体を動けなくしていた。
 「憂樹……」
 友郎が声を出したことで愛那の金縛りが解け、振り向くことができた。ビニール袋を手に下げた憂樹が二人を見ていた。
 「あっ……違うの――」
 「なにが?」
 憂樹の目を見ると、愛那は何も言えなかった。彼が今にも溢れ出してしまいそうな目をしていたからだった。声が出ない――、息をしているだけで精一杯だった。
 憂樹は手に持っていたビニール袋を二人の足元に向かって投げつけたので、愛那が思わず声を出す。そのまま彼は走り去ってしまった。
 「――ごめんなさい」
 「ううん……俺は、大丈夫だけど……」
 足元の袋から中身が出てしまっていた。それを見て、愛那は今にも泣き出しそうになった。
 「ごめんね……。このままでいいから……帰ってくれる?」
 「――……うん……わかった。ごめんね……」
 友郎は手伝う素振りを見せたが、また一言謝ってから自転車に乗り帰っていった。

 浅はかだった。彼にキスをしてしまったことがではない。憂樹に対しての、〝彼女〟としての努めが、〝彼氏〟である憂樹に対してのこれまでの姿勢が、非常に浅はかだったと愛那は思った。一人の人間の感情をいたずらに揺さぶってしまい、心にとても深い傷を負わせてしまった。取り返しのつかないことをしてしまったと――。考えれば考えるほど、申し訳なさで涙が止まらなかった。
 きっとこれで憂樹とは別れることになるだろう。二年間、そばにいることが当たり前で、彼の大切さに気づくことがなかなかできなかった。彼はいつも自分を楽しませようと色んなことをしてくれていた気がする。それに対してちゃんと応えてこれたのだろうか――。
 今となってはわからないけれど、彼が自分をどれほど大切にしてくれていたのかを、愛那は今日、痛いほど知ることになった。

 携帯を開くと、友郎と会っている時間、憂樹からのメッセージが複数送られてきていた。
 【具合どう?】
 【電話、今日はできそうかな】
 【ランニングがてら愛那ん家の近く通るから、栄養ドリンクとか風邪薬買ってくね】
 【風邪薬ってなにがいいんだっけ?】
 【よくわかんないから何個か買っといた!笑 あとポカリとかも。玄関、出てこれそう?】

 涙が止まらなかった――。
 袋の中には二種類の風邪薬とのど飴、スポーツドリンクと、瓶の割れた栄養ドリンクが入っていた――。






 「――覚えて……ないよね」
 十七時を周り、太陽は完全に姿を隠していた。白葉種公園の街灯がいつの間にか灯っていて、陽子が話し始めてから一時間以上が経過していたことに気づく。遠くで聞こえていた小学生たちの声も、陽の光とともに消えていた。

 陽子の向こう隣に座る愛那の、鼻をすする音が聞こえた。
 「うん……。なんとなく……言われてみるとって感じで……なんでだろう……中学の時にそんなことがあったなんて、正直まだ信じられない……。ただ、確かに記憶がぽっかり空いてしまっている気がしてたんだよね……」
 「それはね、仕方のないことなの。私が原因なの」
 陽子は切なそうに細めた目で、友郎を見つめた。
 「それは……どういうことなの……?」
 彼は合点がいかない様子で、不安気だった。
 「それで……その……一葉さんの病気はどうなったの?」
 話しづらそうにする陽子に友郎が質問を重ねる。愛那が初めて口を開いた。
 「まなっ――、私の病気はね、早くから治療していたから、順調に回復したの。これからも検査は必要なんだけど、とりあえずは問題ないくらいには順調なんだって」
 「――そうなんだ……よかった」
 不安な中にもホッとした表情をする友郎を見て、やっぱり彼は本当に優しくて純粋な人だなと陽子は感じた。
 「問題はね……陽子の方なの」
 再び愛那が鼻をすすり始め、肩を小さく震わせた。
 「――え……どういう――」
 強めの風が吹き、足元の落ち葉を攫っていく。不穏な空気が舞い上がり、これから知ることになる話が、陰鬱(いんうつ)であることを友郎に悟らせた。

 陽子は深く息を吸い込み、短く吐いた。
 「愛那ちゃんと芦沢くんは、そのあと別れたの」
 友郎は黙っていた。
 「キスしたこと、愛那ちゃんはその日のうちに私に話してくれた。泣きながら電話してきて……友郎くんは悪くないって」
 陽子はちらっと友郎を見た。
 「私、すごく怒ったし、悲しかった。でもね、すぐ許しちゃったの」
 少し笑みを浮かべ、話を続けた。
 「だって、好きになっちゃう気持ち、わかっちゃったから」

 その言葉が、友郎の胸の奥を鈍く痛めつけた。

 「それでなぜかね、その後私芦沢くんに電話して、愛那ちゃんと別れないでって説得したんだよ? 私って心広いよねっ! ……でもダメだったの。二人は別れちゃって、愛那ちゃんは塾にも来れなくなっちゃって、そのまま辞めてしまったの。
 多分その頃からかな。時々私、手や足に力が入らなくなることがあってね……――」