明日を希う少年と少女

 2020年6月17日(水)――

 「トモくんは……やっぱり、北高が第一志望……?」
 付き合ってから一週間と四日が経っても、お互いを呼び合うのにまだ恥ずかしさが残る。
 「うん……。本当は陽子ちゃんと一緒の西高に行きたいんだけど……。そもそも北高すら厳しいかもって塾長に言われてて……」
 「そうかぁ……。私も北高にしたいなぁ。でもママがなんて言うか……」

 昨日で梅雨が明け、久々に晴れた空から橙色の光が塾の教室を照らす。授業開始早々に講師の松浦が遮光カーテンを下ろした。襟元(えりもと)を扇子(せんす)で扇(あお)ぎ、〝塾講師っぽさ〟を醸し出していた。来月から夏休みで夏期講習が始まる。松浦いわく、二年生の夏からが本番だという。ここから受験まで、全速力で駆け抜けなくてはならないのだ、と。
 勉強が大切なのはわかるが、友郎との時間も大切にしたい陽子は、早くも受験に憂鬱さを感じていた。愛那が体調を崩して塾を休んだため、別の女子達と話をしていたのだが、近くに座る友郎が気になってしまい話が頭に入らない。
 「しかしトモ、おまえ……すげぇよ」
 「なにが?」
 「なにがって……陽子ちゃんのことだよ」
 憂樹は小声で話すが、教室の雑音の中で二人の声だけが妙に陽子の耳に届いた。
 「あぁ……うん、俺も付き合えるとは思わなかった」
 「そりゃそうだよ……男を一切寄せ付けない、完璧な才色兼備だぞ……」
 「うん……。俺、幸せ者だよな」
 聞き耳を立てていた陽子はこっそりと喜ぶ。
 「おまえが羨ましいよ……。俺ですら全く歯が立たなかったんだから……」
 「え、そうなの? 狙ってたの?」
 「そりゃ男だったら誰だって狙うだろっ。今でこそ愛那が一番だけど、ぶっちゃけ最初は妥協で付き合ってたし……」
 「一葉さんも充分可愛いだろ……」
 「まぁな。とりあえず、色んな男子が狙ってるぞ。獲られないように気をつけろよ」
 「お、おう。頑張るわ」
 陽子は複雑な感情になったが、それでも少し嬉しかった。

 授業が終わり、気を遣ったように憂樹は一人、そそくさと先に帰った。友郎と目が合って、お互いに恥ずかしくて顔を赤らめたけど、その度に『付き合っていて』、お互いに『好き合っている』実感が湧き、幸せな気持ちになった。

 「いつも送ってくれなくていいんだよ? 反対方向なのに……」
 「うん、ありがとう。週に二日しか会えないから、なるべく一緒にいたいからさ――」
 そう言って、恥ずかしそうな表情に、陽子も照れてしまう。
 「あ、あのさ、今度の土曜日、映画観に行かない? 気になってる映画あってさ」
 彼女は嬉しかった。二人はデートというデートをまだしたことがなくて、自分からはなかなか誘うことができなかったからだ。
 「嬉しい――。どんな映画? すごい楽しみっ!」
 「『Good fallen heaven』って言って、洋画なんだけど……」
 「あっCMで予告観た気がする! 怖くないよね?」
 「怖くないよ! 青春ものっぽいかな。もうね、続編の制作も決まってるんだって」
 「そうなんだ――続きも一緒に観られたらいいね」
 「うん。絶対観に行こう」

 陽子の住むマンションのエントランスに着く。
 「今日も送ってくれてありがとう――」
 「うん。――また、明後日」
 「うん、また明後日……金曜日だね――」
 今日もこのまま、なにもなく帰ってしまうのだろうか。そんな彼女の少し不満な気持ちが顔に出てしまったのか、彼もなにかを言いたそうな顔をしていた。
 「あっ――」
 「なに?」
 「――えっと……、また、今夜電話してもいい?」
 「――うん、もちろんっ。また、二十三時くらいかな? 待ってるね」
 「うん。それじゃあまたね」
 やっぱり何事もなく別れ、寂しい足取りでエレベーターのボタンを押す。
 まだ二人の中にある緊張や照れとは裏腹に、言葉や態度だけでは足りないと感じ始めている自分に陽子は驚いていた。
 ――あぁ……早くももう声が聞きたい……。
 彼は携帯を持っていないため、母親の携帯を時々借りて連絡を取っていた。こちらからはかけづらいため、陽子は連絡を待つしかなかった。
 ――昔の人はいったいどうしてたの……? 週に二回しか会えていないけど、これって実は贅沢なの……? あぁ……恋愛って大変だなぁ……。
 初めての経験、感情に悩まされ、陽子の頭の中は勉強どころじゃなくなってきていた――。


 時刻は二十一時半を回る頃、杉ノ宮町立第三中学校の近くにあるコンビニから、アイスを片手に愛那が出てきた。大きめのTシャツにショートパンツを履いていて、いわゆる部屋着状態だった。その時、駐車場を横断する、自転車を飛ばす友郎と目が合った。
 「あれっ――」
 急ブレーキをかけて友郎が止まった。
 「友郎くん――? うそ、どうしてここに?」
 「えっ……、一葉さんこそ……」
 「愛那は……おつかいかな。ここあたしと憂樹の地元なんだよ。――あっ、そっか。陽子送ってたんだ」
 「――うん。……一葉さん、体調、悪いんじゃないの?」
 「『マナ』でいいよ。――体調、別に今は悪くないよ。たまに定期検診があるんだ」
 「――あぁ、そうなんだ。……どこか悪いの?」
 「うーん、なんか腎臓? の病気みたい。よくわかんない。別に特に普段何もないんだけどね。あっ、みんなには内緒ね? 変に心配されてもアレだしっ」
 愛那はおどけてみせた。友郎は少し心配そうな顔をしていた。
 「それよりさっ、こんなとこで友郎くんと会えるの、なんか運命みたいじゃない?」
 「えぇっ? ちょっ、ダメだよ……憂樹がいるじゃん……」
 困った表情を見せる彼の腕を叩く。
 「冗談だってっ! 信じやすすぎっ!」
 そう言って、少し友郎を揶揄(からか)ってみせた。そんな彼の純粋な反応や、優しい言葉が、愛那の心をくすぐった。
 愛那の家まではすぐで、方面が同じだったため彼に一緒に歩いてもらうことにした。
 「でもほんと、陽子は羨ましいなぁって思うよ……。可愛くて成績優秀で、スポーツだってできて、おまけにこんなに優しい彼氏がいるなんて……」
 「――いや、俺なんて全然……普通だよ」
 「ううん。友郎くんは、なんとなく惹かれる魅力があるよ。陽子が気を許した気持ち、わかる気がするもん」
 「そ……そうかなぁ……。でも憂樹もすごい良いやつだと思うよ」
 「憂樹はね、ほら愛那たち同じ三中でしょ? 学校でも一年から同じクラスで、席も近くて接する時間ていうの? 多くて、お互いちょっかい出し合ったりしてて、気づいたらなんか付き合う? みたいな。そんな感じでズルズル、気がつけば丸一年って感じかな」
 「そうなんだね。いいじゃんそういうの。気が合う二人って感じで」
 「そうだね。憂樹もいいとこたくさんあるし……それに、イケメンだしね!」
 愛那は笑ってみせた。友郎も呆れたように笑っていた。
 「でもね、なんか女好きそうじゃん? 付き合う前も、あんまりいい噂とか聞かなかったし……。塾の他の子から聞いたんだけど、陽子のこと狙ってた時期もあったって噂だし……」
 「えっ、そうなんだ……」
 彼は初めて聞いたよう反応をしていた。
 「まぁ、今が楽しければそれでいいよねっ! ありがとう、ここもう愛那の家なの」
 「こちらこそありがとう。……また、明後日だね!」
 「うんっ。またねっ! あっ、今日のこと、憂樹には内緒ね? アイツ嫉妬しちゃうからさっ」
 愛那はイタズラな顔で笑った。友郎はまた困った顔をして笑っていた。彼が小さくなる後ろ姿を、少しだけ長く見つめていた――。


 「おそーいっ」
 二十三時を十五分も過ぎていたため、陽子は少し低めの声で文句を言った。
 「ごめんっ――。ちょっと親と話しててさ……」
 携帯越しの彼の声が、少し息を切らしているように聞こえた。
 「――あ、そうなの? もう大丈夫そう?」
 「あっ、うん今はもう大丈夫だよっ」
 「そっか。――よかったぁ……。今日はもうかかってこないかと思ったよ……」
 「ごめんごめん……――」

 ――本当によかった。元気そうなトモくんの声が聞けた……。

 好きな時に好きなだけ連絡を取るということができない不便さに、モヤモヤを感じつつも、そんな時間が友郎への気持ちをより一層強くしていることを陽子は感じていた。