それから間もなく僕は引っ越し、蓮君と離れ離れになった。
SNSにはしばらく、もう血は止まったかとか、カサブタは取れたかとか連絡が来ていたけど、三ヶ月もするとそれもほとんどなくなった。
やっぱり忘れられたんだと胸が苦しくなった。
でも、いいんだと思った。
――蓮君が忘れても僕は忘れない。
それから半年、一年、二年経っても右手の傷痕を見るたびに蓮君を思い出した。
蓮君の笑った顔も、寝ている顔も、食べている顔も好きだったけど、より色鮮やかに思い出すのは、僕の怪我を見て驚いた蓮君、怒った蓮君、泣きそうな蓮君だった。
あの時だけは蓮君の心は僕だけのものだったから。
そして、中学二年の夏に母が再婚。義父はK県で弁護士事務所を営んでおり、将来僕にも手伝ってもらえたら……と語った。そして、東京での進学を勧められた。
「弁護士になるかどうかは別として、君なら司法試験にも挑戦できそうだと思ってね」
将来司法試験を目指すなら、それも悪くないと思ったが、また蓮君に会えるのではという期待もあった。
それから間もなく受験生となり、一月の淡雪の降る日に、僕は受験会場へ向かった。
会場は本校の教室で、三年一組を指定されていた。
受験票を手に廊下を歩いていくと、様々な中学の制服姿の生徒とすれ違った。
僕を含めて周囲はブレザー姿がほとんどだ。
だから、学ランのその人を見た時にちょっと驚いて、顔を見て今度は心臓が止まりそうになった。
「蓮、君……?」
声は聞こえなかったのだろう。
蓮君は単語帳に目を落としたままだ。
髪は元の深い黒に戻している。
でもそれ以外は髪と同じ色の瞳も、すっと整った顔立ちも蓮君のままだ。
蓮君がふっと顔を上げる。
心臓が大きく跳ねて早鐘を打ち始めた。
その時僕は生まれつき薄茶の髪を黒く染め、度の強い厚い眼鏡をかけていた。
髪は中学で染めたのではと疑われたので、逆に黒くする羽目になったのだ。
それでも、蓮君なら気づいてくれるんじゃないか。僕だと駆け寄ってくれるんじゃないかと期待した。
けれども――。
「……」
蓮君は再び単語帳に目を落とし、僕の脇をすり抜けていった。
僕はしばらくその場から動けなかった。
僕は一目でわかったのに。
ぐっと右の拳を握り締める。
きっと今傷痕の形は歪んでいるだろう。
はは……となぜか笑ってしまった。
そうか。君は僕を本当に忘れたのか。
――なら、思い出させてやるよ。
そして二度と忘れないようにしてやろう。
君が一番気になって、目を引くものを僕はよく知っている。
もちろん元いじめられっ子のカードも捨てない。
手札は多ければ多いほうがいいだろう……?
***
やっと僕に気づいてくれた蓮君は、お人好しなところも変わっていなかった。
嫌だったのは昔はその対象がごく一部だったのに、クラスメート全員どころか担任までもが含まれてしまったことだ。
どうして王子様なんて目指したんだ?
その理由の一つが僕と聞いた時には驚いた。
蓮君から見た僕は優しく品行方正な優等生で、王子様のプロトタイプは僕なんだとか。
……。
全然僕に似てないけど……。
最大の勘違いは僕が優しいと思い込んでいること。
僕が優しいのは好きな人にだけだ。
優しくする振りはいくらでもできるけどね。
蓮君には……これだけは知られたくないな。
嫌われたくない。
でも、すぐにはっとしてこれまでの記憶を思い返した。
蓮君が、誰かを嫌いだとか気に入らないとか、そんなことを言ってるところを見たことがなかった。
またおかしくなってはは……と笑う。
それくらいなら好かれる大勢の一人でいるよりも、一人だけ心から嫌われたほうがいい気がする。
僕は授業でバスケットボールの練習をしたあの日、ぶかぶかの体操着で体育座りをする蓮君に、ダンクをしながらこう語りかけた。
僕を世界で一番にしてよ。
大好きでも大嫌いでもどちらでもいいから――。
***
プリントを配り終わるのと同時にチャイムが鳴った。
「よーし、お前ら新学期も気合い入れろよ! 風邪引くなよ!」
担任の激励を合図に皆が帰り支度を始める。
蓮君の周りには相変わらず皆が集まっていた。
「じゃあな、また明日」
「おい、現場監督の王子様! 明日のサッカーの助っ人忘れてないよな?」
「当たり前よ〜」
僕はクラスメートが帰るのを待った。
文化祭まではこんな時、じりじりと胸を焦がしていた。
誰にでも優しい蓮君に苛立っていた。
でも、今は違う。
――蓮君、君が僕のこの傷痕を忘れていないと知った時、魂が震えるほど嬉しかったんだ。
歓喜という言葉はこの喜びを表すためにあるんだと天啓を得た気すらした。
こんな気持ちを一度知ってしまったら、もう君を知る前の世界には戻れない。
皆が帰っていって蓮君が僕を振り返る。
「じゃ、帰るか」
僕だけに向けられる、僕のためだけの笑顔。
今では自分から手を差し伸べて、繋ごうとしてくれるのも蓮君らしいね。
ああ……そうだね、君は王子様だった。
僕は傷痕のある手で蓮君の手を握り締めた。
さあ、今日も蓮君と一緒に帰ろう。いつものように指を絡めて手を繋いで。
終
SNSにはしばらく、もう血は止まったかとか、カサブタは取れたかとか連絡が来ていたけど、三ヶ月もするとそれもほとんどなくなった。
やっぱり忘れられたんだと胸が苦しくなった。
でも、いいんだと思った。
――蓮君が忘れても僕は忘れない。
それから半年、一年、二年経っても右手の傷痕を見るたびに蓮君を思い出した。
蓮君の笑った顔も、寝ている顔も、食べている顔も好きだったけど、より色鮮やかに思い出すのは、僕の怪我を見て驚いた蓮君、怒った蓮君、泣きそうな蓮君だった。
あの時だけは蓮君の心は僕だけのものだったから。
そして、中学二年の夏に母が再婚。義父はK県で弁護士事務所を営んでおり、将来僕にも手伝ってもらえたら……と語った。そして、東京での進学を勧められた。
「弁護士になるかどうかは別として、君なら司法試験にも挑戦できそうだと思ってね」
将来司法試験を目指すなら、それも悪くないと思ったが、また蓮君に会えるのではという期待もあった。
それから間もなく受験生となり、一月の淡雪の降る日に、僕は受験会場へ向かった。
会場は本校の教室で、三年一組を指定されていた。
受験票を手に廊下を歩いていくと、様々な中学の制服姿の生徒とすれ違った。
僕を含めて周囲はブレザー姿がほとんどだ。
だから、学ランのその人を見た時にちょっと驚いて、顔を見て今度は心臓が止まりそうになった。
「蓮、君……?」
声は聞こえなかったのだろう。
蓮君は単語帳に目を落としたままだ。
髪は元の深い黒に戻している。
でもそれ以外は髪と同じ色の瞳も、すっと整った顔立ちも蓮君のままだ。
蓮君がふっと顔を上げる。
心臓が大きく跳ねて早鐘を打ち始めた。
その時僕は生まれつき薄茶の髪を黒く染め、度の強い厚い眼鏡をかけていた。
髪は中学で染めたのではと疑われたので、逆に黒くする羽目になったのだ。
それでも、蓮君なら気づいてくれるんじゃないか。僕だと駆け寄ってくれるんじゃないかと期待した。
けれども――。
「……」
蓮君は再び単語帳に目を落とし、僕の脇をすり抜けていった。
僕はしばらくその場から動けなかった。
僕は一目でわかったのに。
ぐっと右の拳を握り締める。
きっと今傷痕の形は歪んでいるだろう。
はは……となぜか笑ってしまった。
そうか。君は僕を本当に忘れたのか。
――なら、思い出させてやるよ。
そして二度と忘れないようにしてやろう。
君が一番気になって、目を引くものを僕はよく知っている。
もちろん元いじめられっ子のカードも捨てない。
手札は多ければ多いほうがいいだろう……?
***
やっと僕に気づいてくれた蓮君は、お人好しなところも変わっていなかった。
嫌だったのは昔はその対象がごく一部だったのに、クラスメート全員どころか担任までもが含まれてしまったことだ。
どうして王子様なんて目指したんだ?
その理由の一つが僕と聞いた時には驚いた。
蓮君から見た僕は優しく品行方正な優等生で、王子様のプロトタイプは僕なんだとか。
……。
全然僕に似てないけど……。
最大の勘違いは僕が優しいと思い込んでいること。
僕が優しいのは好きな人にだけだ。
優しくする振りはいくらでもできるけどね。
蓮君には……これだけは知られたくないな。
嫌われたくない。
でも、すぐにはっとしてこれまでの記憶を思い返した。
蓮君が、誰かを嫌いだとか気に入らないとか、そんなことを言ってるところを見たことがなかった。
またおかしくなってはは……と笑う。
それくらいなら好かれる大勢の一人でいるよりも、一人だけ心から嫌われたほうがいい気がする。
僕は授業でバスケットボールの練習をしたあの日、ぶかぶかの体操着で体育座りをする蓮君に、ダンクをしながらこう語りかけた。
僕を世界で一番にしてよ。
大好きでも大嫌いでもどちらでもいいから――。
***
プリントを配り終わるのと同時にチャイムが鳴った。
「よーし、お前ら新学期も気合い入れろよ! 風邪引くなよ!」
担任の激励を合図に皆が帰り支度を始める。
蓮君の周りには相変わらず皆が集まっていた。
「じゃあな、また明日」
「おい、現場監督の王子様! 明日のサッカーの助っ人忘れてないよな?」
「当たり前よ〜」
僕はクラスメートが帰るのを待った。
文化祭まではこんな時、じりじりと胸を焦がしていた。
誰にでも優しい蓮君に苛立っていた。
でも、今は違う。
――蓮君、君が僕のこの傷痕を忘れていないと知った時、魂が震えるほど嬉しかったんだ。
歓喜という言葉はこの喜びを表すためにあるんだと天啓を得た気すらした。
こんな気持ちを一度知ってしまったら、もう君を知る前の世界には戻れない。
皆が帰っていって蓮君が僕を振り返る。
「じゃ、帰るか」
僕だけに向けられる、僕のためだけの笑顔。
今では自分から手を差し伸べて、繋ごうとしてくれるのも蓮君らしいね。
ああ……そうだね、君は王子様だった。
僕は傷痕のある手で蓮君の手を握り締めた。
さあ、今日も蓮君と一緒に帰ろう。いつものように指を絡めて手を繋いで。
終
