高校デビュー同士 -あの頃の君になりたかった-

 ――勅使河原が転校したと聞いたのは、翌年の冬休み明けの教室でのこと。
「えー、お父さんの仕事の都合もあって、残念ながら君たちに挨拶できなかったが……。本人からよろしく言っておいてくれとさっき連絡があった」
 ふうん、思ったより早かったな。
 僕は頬杖をついて窓の外に目を向けた。
 冬の風が葉のない木の枝を揺らしている。
 勅使河原は多分担任に自分のしでかしたことを打ち明けた。
 けれども、担任と学校は公にせずに済ませたいみたいだ。
 まあ、予想通りだったけどね。
 蓮君もそう望んだから僕も証拠は封印したけど、その処分は今後の勅使河原や学校の動向による。
 蓮君は呆れるほど優しすぎる。
 罠にかかった獲物は息の根を止めておかないと、いつまた牙を剥くのかわからないのに。
 まあ、その時は僕が破滅のカードを切るだけだ。
「よーし、終礼終わり。委員長、三者面談の連絡のプリント配って」
「はい」
 僕は机に手をついて立ち上がった。
「いよっ! 新委員長!」
 蓮君が音頭を取る。
 鈴木君も合いの手を入れた。
「真柴の場合委員長じゃなくて組長だろ〜!」
 このクラスは進学校にしては随分うるさ……明るい。
 蓮君がクラスにいるおかげだろう。クラスメートは皆毎日楽しそうだ。
 ……昔と同じだな。
 いや、違う。
 皆蓮君を大好きなところは変わらない。
 でも、今は僕だけは蓮君の特別だ。
 蓮君も僕を世界で一番好きだと言ってくれた。
 だから、蓮君は僕のものだ。
 僕だけの、ものだ。
 プリントを配りながら佐藤君と笑い合う蓮君を見つめる。
 蓮君、知っていた?
 僕のこの手の傷痕、わざと消さなかったんだ。

***

 僕は昔低身長で痩せっぽちで、そのくせ勉強だけはできるという、いじめっ子にとっては格好の獲物だった。
 お金を取られたりノートを破られたりと、教師には見つからない陰湿ないじめを随分された。
 母さんには言いたくなかったし、言えるはずがなかった。
 一人で僕を抱えて毎日働いて、家事をして、疲れ果てて帰ってきていて、それ以上迷惑をかけたくはなかったから。
 ところが、ある日その現場で蓮君と出くわした。
『おい、お前らよってたかって何してんだァ!?』
『げっ、三組の三上……』
 蓮君は小学校でもう有名になっていた。とんでもない悪ガキで教師も手を焼いていると。
 家が近いとは知っていたけど、僕は怖くて近づけなかった。
 だから、なおさら蓮君の登場に驚いた。
 蓮君は肩を怒らせて近づいてきて、いじめっ子たちはじりじりと後ずさった。
『お、おい。何ビビってんだよ。こっちは三人だぞ』
『で、でも……』
『クソッ。おい、殴ったら先生とお前の親に言いつけるからな!』
『はっ! ダッセぇ』
 蓮君はいじめっ子のリーダーの前に立ちはだかった。
『俺の親父はんなこと気にしねーし俺もセンセーの説教なんてどーでもいいっての。お前ら、あんなのをコワイヨーって言ってんのかぁ?』
 僕は驚きながらも不思議だった。
 その頃の蓮君も決して体格が良かったわけでもない。顔立ちなら当時の僕と同じ系統で女の子みたいだった。
 なのに、大きく感じる。
 存在が、大きかった。
 いじめっ子たちが『畜生』と唸って逃げていく。
『はん、意気地なし。だーからイジメなんてやるんだな!』
 僕は我に返って頭を下げた。
『あ、ありがとう……』
 蓮君はフンと鼻を鳴らした。
『お前、三軒隣の三上のオバチャンのガキか?』
『そ、そうだけど……』
『お前のかーちゃん美人だよな!』
『そ、そう?』
『家帰ったらあんな美人がいるとか羨ましいぞ!』
『……』
 僕はポカンと口を開けていたけど、なんだかおかしくなって笑ってしまった。
『か、母さんはいないけど、今からうちに来る? 手作りのブリュレがあるんだ』
『ぶりゅっ……』
『ブリュレ』
 蓮君は目を輝かせて頷いた。
『俺んちのオヤツどら焼きばっかなんだよなあ。大工はどら焼き食うもんだとか、うちの親父わけわかんねえの』
『あはは、何それ』
 あんなに笑ったのは久しぶりだった。
 そしてそれが蓮君と友達になった最初の一日だった。

***

 蓮君とはそれから時々一緒に帰るようになった。
 というよりは、蓮君は僕を守ろうとしていたんだろう。
 いいよと遠慮しても、
『俺が一緒に帰りたいんだよ!』
 と強引に隣に並ぶ。
 ――蓮君はどうしてこんなに優しいんだろう。
 僕は胸の奥がギュッと苦しくなるのを感じた。
 蓮君は僕のことをどう思っているんだろう?
 ところが、蓮君の評価は真逆だった。
『琢磨っていいヤツだよなあ』
 ある日僕の部屋に遊びに来た時、脈絡なくそう言われたので驚いた。
『ぼ、僕が?』
『うん。頭いいし、しっかりしてるし……かーちゃんのこと、無茶苦茶大事にしてるじゃん』
『……っ』
 僕は震える声でこう答えた。
『違うよ。母さんが、頑張ってるだけで、僕は何も……』
『してるだろ』
 蓮君はマンガを読みながら言い切った。
『お前は、やってる』
 次の瞬間、辛かったことがどっと心に押し寄せてきた。
 蓮君はそんな僕の背中に自分の背中をぐいぐいと押し当ててきた。
 その温もりを感じた時にこう思った。
 ――僕、蓮君が好きだ
 好きだ。好きだ。
 大好きだ。
 世界一、大好きだ――。

***

 恋をした途端世界は息苦しくなるのだと、僕はそこから思い知ることになった。
 僕はすぐに気づいてしまった。
 蓮君は優しい。僕だけにではなく誰にでも。
 本当に分け隔てなく思いやりを与える。
 そこには老若男女どころか善悪の区別もない。
 悪ガキと言われる理由がよくわかった。
 蓮君は優しさを与える相手を選ばない。
 それは大人にとっては都合の悪いことなんだ。
 そして蓮君を不良と断じる。
 違う。蓮君は不良なんかじゃない。
 蓮君は一度だって自分のために暴力を振るったことはない。
 なら正義とはなんなんだ?
 人を守るためではない。社会の秩序を維持することが正義なら、僕は蓮君を否定するそんな正義はいらない。
 いや、僕が変えてやる――。

***

 ところが、そんな僕の決意も呆気なく破られることになった。
 やっぱり大人の都合で。
「――引っ越し?」
 僕は呆然とそう呟いた。
 七月の初めのことだった。台所の窓から蝉の声が聞こえた。
「この家はお母さんの実家だけど貸家でしょう。家主の方が亡くなって、借りられなくなってね」
 母さんの異動に合わせて会社近くに引っ越すのだという。そこなら地方で家賃も安いからと。
「ごめんね。中学に入ったばかりなのに」
 夏休みに引っ越すことになるのだと母さんは言った。
 嫌だなんて言えなかった。
 でも、いつものように「わかった」と頷くこともできなかった。
 その時初めて悔しく感じた。
 どうして僕はなんの力もない子どもなんだろう。
 蓮君のそばにい続ける、それだけの力もない。

 その夜僕は布団の中で眠ることもできずに、僕がいなくなった後の蓮君の世界について考えていた。
 ちょっとくらいは悲しんでくれるかもしれない。
 でも……わかってしまった。
 蓮君は僕のことなんてすぐに忘れる。
 蓮君は確かに不良扱いされている。
 地元の公立中学に入ってからは、身なりも派手になって、髪を茶髪に染めるようになった。
 けれども、僕は知っていた。
 ――学校でも、外でも、蓮君の周りにはいつも人がいる。
 学校では蓮君曰く子分とやらがいつも一緒にいるし、外では蓮君と同じ外見が派手なタイプの友だちと遊んでいる。
 そして皆楽しそうに笑っていた。
 蓮君の隣にいるのは心地良いんだろう。
 皆とっくに蓮君の優しさを知っていたんだ。
 僕だけじゃ、なかったんだ。
 蓮君の世界は僕が欠けてもすぐに別の誰かで埋められて、何事もなかったようにまた動き出す。
 そんなの、耐えられなかった。