記憶に間違いが無ければ、委員会が始まる前の皐月は、教室の硬い木の椅子に膝を揃えて座っていた。
机の上では両手を合わせてキュッと握り、天使みたいな微笑みで俺の名前を呼んでいた。
まさか1時間かそこらで魔法が解ける、なんて誰も思わないだろう。
隣には……足を組み、気怠そうに背凭れに身を預ける目付きの鋭い男。
「なるほど……中学時代はヤンチャな方向性だった、と」
「そうだよ若気の至りだよ」
そう言って前髪を掻き上げた皐月は、大きな溜息と共に再び手をダランと垂らした。
すっかり変貌を遂げた様をどうにも受け入れることが出来なくて。目を擦ってみたり、彼の背後をじっと見遣ったりした。
「…………やはり悪いものに取り憑かれた可能性は?」
俺の言葉に、一瞬だけ後ろを振り向いた皐月だが、直ぐに頭をガシガシと掻きながらジトっとした目でこちらを睨む。
「あのなぁ……人の話聞いてた? ここに居るのは紛れもない依澄 皐月、本人だよ」
やはり現実か。無意識にそうでは無いことを願っていたのだが。
「そう、だよな……」
「んな、あからさまにガッカリしないでくれる?」
肩を落とした俺に、隣に座る彼は唇尖らせていた。
どうしよう、頭が痛くなってきた。
現実離れした情報が立て続けに流れ込んで来た頭は、今にも破裂しそうな程に軋んでいる。
「……今日は一旦、解散としないか。この件については後日ゆっくり話し合うと言うことで」
こめかみを抑えながら立ち上がった俺の、服の裾がグイッと思い切り引っ張られる。
「なんだよ」と反射でそちらを睨むと、もうすっかり両眉を下げきった皐月が、こちら見上げていた。
「分かった。でもさ、帰る前にッ……! もう今更だけどさ。……隠し事ナシにするから。全部聞いて欲しい」
「…………何をだ。ずっと可愛いふりをしていた訳だろう」
咄嗟にでた言葉は、自分でも驚く程に冷たかった。
案の定……皐月の眉間には濃い皺が浮かんでいる。
「それは——」
顔を背けて言い淀む彼に、「しまった」と大きく溜息を吐いた。別に責めたいわけじゃないんだ。
「……悪い、嫌な言い方をしたな。むやみやたらに他人に踏み込むのは宜しくない。各々事情もあるだろう。……話は終わりか? なら俺は先に帰るぞ」
なるべく落ち着いた声色でそう話し掛け、俺は席を立った。
するとその右腕が、強い力で引き止められる。
「待って!! ……これが最後だから……!! 俺……雄成が好き。もちろん恋愛対象として。ずっとずっと、好きだった……」
その曇りなき眼は、何ら変わりがなかった。
『好きなものは好き、それの何が悪いんですか?』
あの日カフェで、真っ直ぐ俺に向かってそう言った、あの時と。
紛うことなき彼は、皐月。
——だがこの現状を、どうすればいい。とてもじゃないが理解は追い付かないし、すぐに消化出来そうにもない。
そんな状態で、返事なんて出来るわけない。
丁度いい言葉が見当たらない。
余り先延ばしするのは好きではないが、状況が状況だ。
『返事は保留で』
そう言うつもりだった。
——『仮面を外した彼を、お前は好きだと言えるのか』
ふと、耳元でドス黒い俺がそう……囁いた気がした。
「…………悪いが、俺は君をそういう対象で見てはいない」
まるで台詞を読むかのように、俺の口はそう告げた。
震える瞳をどうにか動かし彼を見ると——そこには、絶望に染まった顔があった。
「そ、か……」
俺はつい唇を噛んだ。
こんな顔をさせるつもりじゃなかったのに……いや、だがどうあがいたってこの結末は逃れられないのではなかろうか。
「すまない、じゃぁ帰るからな」
「ちょっ、雄成!!」
そう言って掴まれた腕を振りほどき、俺は全速力で学校を後にした。
そう、俺は逃げたんだ。
情けないと、笑ってもらって結構。
俺は、逃げた。
もうなにが、どうなってどうすればいいんだよ!!
最低だと罵られても構わない。
だがこの現実を、即座に受け入れ正解を導けるだけのキャパは、俺の中のどこを探しても存在しない。
学校を出てから、どこをどう帰ったか記憶はないが……気付けば俺は、暗い門構えの前へと立っていた。
「どうしろって言うんだよ……酷い事まで言って」
相変わらず死んだようにシンと静まり返る家に入ると、ちょうど階段を降りてきた親父と出会した。
「またこんな時間に帰って……お前、来月は試験があるという自覚があるのか」
いま1番、顔を見たくなかったんだよな。
無条件に苛立つ雰囲気を隠そうともせず、俺は顔を背けたまま、用意されているスリッパへと履き替える。
「……俺が何処かで勉強していたという可能性は?」
すれ違いざまに見えた、鼻で笑う親父の顔には「ある筈がないだろう」と書かれてある。
「もう少し葉山の人間だという自覚を持て。ただでさえ出来損ないなんだから……」
廊下の奥へと向かう俺の背中にはそんな言葉が投げかけられる。
グッと力の入る右手の拳を左手がどうにか宥め、自室のドアノブを握る俺に「久しぶりだな、雄成」なんて声が掛けられる。
後ろを振り返ると、今度は眼鏡をかけた自分と瓜二つの男が、じっと俺を見つめていた。
「あまり父さんを困らせるなよ」
「一輝兄さん……」
自分と5つしか変わらない兄の瞳は、既に父親と同じ冷酷な闇に呑まれている。
「頼むから……恥さらしは、そのふざけた趣味だけにしてくれよ」
厭な笑いを浮かべながら、カバンに付けた件のキーホルダーをポンッと叩くと彼は踵を返し、まだ廊下にいた父親と談笑をしながら、リビングへと消えていく。
俺は口の中で小さく舌打ちをしながら、部屋へと入り乱暴にドアを締めた。
今日は新月なのだろうか。月明かりすらない部屋の中はいやに暗い。
けれど電気を付ける気力もなくて。
俺はカバンを持ったまま、ふらふらとベットに倒れ込んだ。
「皐月は……ありのままの俺を受け入れてくれたのに」
帰り際の彼の顔。
その表情を思い出すだけで心が抉れるように痛む。
「君を受け入れてあげられなかった。傷付けた……」
それがどれだけ不幸な事か、俺が1番分かっている筈なのに。
「勝手に自分を開示した癖に……勝手すぎる、最低だろう、俺は」
あの時、どうしてあんな暗黒の言葉に呑まれてしまったのだろう。
思わず左胸のシャツをグシャッと掴み、そこにギリギリと爪を立てる。
ふと、頬に何か擽ったい物が触れるのを感じた。それは横に投げたカバンに付けた、あのキーホルダー。
『可愛い……雄成くんによく似合います』
あの時は、風薫る草原のような色をしていたのに。
どうして今はこんなにも悲しげに——くすんで見えるのだろう。
「やはり俺は、仮面を被ったまま生きるべきだった」
俺は起き上がり、キーホルダーを手に取る。
パチンッと音を立てて外したそれを持ってゆらりと立ち上がり……真っ暗な机の引き出しへと仕舞った。
◇◇◇
「おかえりー、皐月! ご飯もう少しで出来るからねぇ」
「…………いらない」
「えー? 皐月が好きなオムライスだよぉ~?」
母親の明るい声を素通りしながら、俺は自分の部屋に駆け込んだ。
「ずっと可愛いままだったら……俺は、僕は——もう少し君の傍に居られたのかな」
部屋に入るやいなや、もう立っている気力もなくて。
ふにゃふにゃとその場に倒れ込む。
「やっと……傍にいる事が叶ったと思ったのに……」
スッと手を伸ばした先にあるのは、お揃いだと買ったピンク色のテディベア。
「だから、ピンクなんかじゃないって言ったじゃん……」
それを渡した時の、どこかはにかんだような……それでいて嬉しさが隠せない少年のような微笑みを、忘れる事が出来なくって。
『皐月は可愛いな』
昨日までの、優しい君が重なって見えると、グッと目頭が熱くなる。
「本当の俺にあんな事……言ってくれるはずないよな」
言葉にしてしまえば、それまで堪えていたものが込み上げてくる。
「やっぱり俺は……仮面を剥いじゃダメなんだよなぁ……」
せっかくなら同じ場所に——と付けたスクールバックから、それを丁寧に外す。
弧を描き、彼みたいに優しく笑うテディベアを、両手でギュッと抱き締める。
「ねぇ神様。お願いだから……最初から全部やり直させてよ」
ポツリポツリと零れる雫が、桃色の毛を鈍い色へと変えて行く。
俺はゆっくりと立ち上がると、年季の入った勉強机へと向かう。
ガラガラと開けた1番上の引き出しから、1枚の写真が
顔を覗かせていた。
その上に手の中のクマをそっと置き……閉めた引き出しの鍵をガチャリと掛けた。
机の上では両手を合わせてキュッと握り、天使みたいな微笑みで俺の名前を呼んでいた。
まさか1時間かそこらで魔法が解ける、なんて誰も思わないだろう。
隣には……足を組み、気怠そうに背凭れに身を預ける目付きの鋭い男。
「なるほど……中学時代はヤンチャな方向性だった、と」
「そうだよ若気の至りだよ」
そう言って前髪を掻き上げた皐月は、大きな溜息と共に再び手をダランと垂らした。
すっかり変貌を遂げた様をどうにも受け入れることが出来なくて。目を擦ってみたり、彼の背後をじっと見遣ったりした。
「…………やはり悪いものに取り憑かれた可能性は?」
俺の言葉に、一瞬だけ後ろを振り向いた皐月だが、直ぐに頭をガシガシと掻きながらジトっとした目でこちらを睨む。
「あのなぁ……人の話聞いてた? ここに居るのは紛れもない依澄 皐月、本人だよ」
やはり現実か。無意識にそうでは無いことを願っていたのだが。
「そう、だよな……」
「んな、あからさまにガッカリしないでくれる?」
肩を落とした俺に、隣に座る彼は唇尖らせていた。
どうしよう、頭が痛くなってきた。
現実離れした情報が立て続けに流れ込んで来た頭は、今にも破裂しそうな程に軋んでいる。
「……今日は一旦、解散としないか。この件については後日ゆっくり話し合うと言うことで」
こめかみを抑えながら立ち上がった俺の、服の裾がグイッと思い切り引っ張られる。
「なんだよ」と反射でそちらを睨むと、もうすっかり両眉を下げきった皐月が、こちら見上げていた。
「分かった。でもさ、帰る前にッ……! もう今更だけどさ。……隠し事ナシにするから。全部聞いて欲しい」
「…………何をだ。ずっと可愛いふりをしていた訳だろう」
咄嗟にでた言葉は、自分でも驚く程に冷たかった。
案の定……皐月の眉間には濃い皺が浮かんでいる。
「それは——」
顔を背けて言い淀む彼に、「しまった」と大きく溜息を吐いた。別に責めたいわけじゃないんだ。
「……悪い、嫌な言い方をしたな。むやみやたらに他人に踏み込むのは宜しくない。各々事情もあるだろう。……話は終わりか? なら俺は先に帰るぞ」
なるべく落ち着いた声色でそう話し掛け、俺は席を立った。
するとその右腕が、強い力で引き止められる。
「待って!! ……これが最後だから……!! 俺……雄成が好き。もちろん恋愛対象として。ずっとずっと、好きだった……」
その曇りなき眼は、何ら変わりがなかった。
『好きなものは好き、それの何が悪いんですか?』
あの日カフェで、真っ直ぐ俺に向かってそう言った、あの時と。
紛うことなき彼は、皐月。
——だがこの現状を、どうすればいい。とてもじゃないが理解は追い付かないし、すぐに消化出来そうにもない。
そんな状態で、返事なんて出来るわけない。
丁度いい言葉が見当たらない。
余り先延ばしするのは好きではないが、状況が状況だ。
『返事は保留で』
そう言うつもりだった。
——『仮面を外した彼を、お前は好きだと言えるのか』
ふと、耳元でドス黒い俺がそう……囁いた気がした。
「…………悪いが、俺は君をそういう対象で見てはいない」
まるで台詞を読むかのように、俺の口はそう告げた。
震える瞳をどうにか動かし彼を見ると——そこには、絶望に染まった顔があった。
「そ、か……」
俺はつい唇を噛んだ。
こんな顔をさせるつもりじゃなかったのに……いや、だがどうあがいたってこの結末は逃れられないのではなかろうか。
「すまない、じゃぁ帰るからな」
「ちょっ、雄成!!」
そう言って掴まれた腕を振りほどき、俺は全速力で学校を後にした。
そう、俺は逃げたんだ。
情けないと、笑ってもらって結構。
俺は、逃げた。
もうなにが、どうなってどうすればいいんだよ!!
最低だと罵られても構わない。
だがこの現実を、即座に受け入れ正解を導けるだけのキャパは、俺の中のどこを探しても存在しない。
学校を出てから、どこをどう帰ったか記憶はないが……気付けば俺は、暗い門構えの前へと立っていた。
「どうしろって言うんだよ……酷い事まで言って」
相変わらず死んだようにシンと静まり返る家に入ると、ちょうど階段を降りてきた親父と出会した。
「またこんな時間に帰って……お前、来月は試験があるという自覚があるのか」
いま1番、顔を見たくなかったんだよな。
無条件に苛立つ雰囲気を隠そうともせず、俺は顔を背けたまま、用意されているスリッパへと履き替える。
「……俺が何処かで勉強していたという可能性は?」
すれ違いざまに見えた、鼻で笑う親父の顔には「ある筈がないだろう」と書かれてある。
「もう少し葉山の人間だという自覚を持て。ただでさえ出来損ないなんだから……」
廊下の奥へと向かう俺の背中にはそんな言葉が投げかけられる。
グッと力の入る右手の拳を左手がどうにか宥め、自室のドアノブを握る俺に「久しぶりだな、雄成」なんて声が掛けられる。
後ろを振り返ると、今度は眼鏡をかけた自分と瓜二つの男が、じっと俺を見つめていた。
「あまり父さんを困らせるなよ」
「一輝兄さん……」
自分と5つしか変わらない兄の瞳は、既に父親と同じ冷酷な闇に呑まれている。
「頼むから……恥さらしは、そのふざけた趣味だけにしてくれよ」
厭な笑いを浮かべながら、カバンに付けた件のキーホルダーをポンッと叩くと彼は踵を返し、まだ廊下にいた父親と談笑をしながら、リビングへと消えていく。
俺は口の中で小さく舌打ちをしながら、部屋へと入り乱暴にドアを締めた。
今日は新月なのだろうか。月明かりすらない部屋の中はいやに暗い。
けれど電気を付ける気力もなくて。
俺はカバンを持ったまま、ふらふらとベットに倒れ込んだ。
「皐月は……ありのままの俺を受け入れてくれたのに」
帰り際の彼の顔。
その表情を思い出すだけで心が抉れるように痛む。
「君を受け入れてあげられなかった。傷付けた……」
それがどれだけ不幸な事か、俺が1番分かっている筈なのに。
「勝手に自分を開示した癖に……勝手すぎる、最低だろう、俺は」
あの時、どうしてあんな暗黒の言葉に呑まれてしまったのだろう。
思わず左胸のシャツをグシャッと掴み、そこにギリギリと爪を立てる。
ふと、頬に何か擽ったい物が触れるのを感じた。それは横に投げたカバンに付けた、あのキーホルダー。
『可愛い……雄成くんによく似合います』
あの時は、風薫る草原のような色をしていたのに。
どうして今はこんなにも悲しげに——くすんで見えるのだろう。
「やはり俺は、仮面を被ったまま生きるべきだった」
俺は起き上がり、キーホルダーを手に取る。
パチンッと音を立てて外したそれを持ってゆらりと立ち上がり……真っ暗な机の引き出しへと仕舞った。
◇◇◇
「おかえりー、皐月! ご飯もう少しで出来るからねぇ」
「…………いらない」
「えー? 皐月が好きなオムライスだよぉ~?」
母親の明るい声を素通りしながら、俺は自分の部屋に駆け込んだ。
「ずっと可愛いままだったら……俺は、僕は——もう少し君の傍に居られたのかな」
部屋に入るやいなや、もう立っている気力もなくて。
ふにゃふにゃとその場に倒れ込む。
「やっと……傍にいる事が叶ったと思ったのに……」
スッと手を伸ばした先にあるのは、お揃いだと買ったピンク色のテディベア。
「だから、ピンクなんかじゃないって言ったじゃん……」
それを渡した時の、どこかはにかんだような……それでいて嬉しさが隠せない少年のような微笑みを、忘れる事が出来なくって。
『皐月は可愛いな』
昨日までの、優しい君が重なって見えると、グッと目頭が熱くなる。
「本当の俺にあんな事……言ってくれるはずないよな」
言葉にしてしまえば、それまで堪えていたものが込み上げてくる。
「やっぱり俺は……仮面を剥いじゃダメなんだよなぁ……」
せっかくなら同じ場所に——と付けたスクールバックから、それを丁寧に外す。
弧を描き、彼みたいに優しく笑うテディベアを、両手でギュッと抱き締める。
「ねぇ神様。お願いだから……最初から全部やり直させてよ」
ポツリポツリと零れる雫が、桃色の毛を鈍い色へと変えて行く。
俺はゆっくりと立ち上がると、年季の入った勉強机へと向かう。
ガラガラと開けた1番上の引き出しから、1枚の写真が
顔を覗かせていた。
その上に手の中のクマをそっと置き……閉めた引き出しの鍵をガチャリと掛けた。
