あれからしばらくの間降り続いた雨も上がり、空気が本格的な夏のものへと変わった。
熱気を孕む太陽光を肌で受けながら、ひとり中庭のベンチに腰を下ろしていた。
さすがのこの時期、外で昼食を摂ろうと思う生徒は居ないのだろう。
緑に囲まれた静かなこの場所は、深い森のオアシスへと姿を変えていた。
「好き、か——」
広大な雲の峰に、ポツリと呟いたその言葉は吸い込まれていく。
つい先週前、俺と皐月の関係には明確な変化が訪れた。
『俺、ホントに雄成のこと大好きなの』
彼は心の内を明かしてくれた。
それを素直に嬉しいと受け入れる自分が居る一方で——果たしていま、この胸にある高揚は、彼の云う「好き」と同じなのか。
それに——
二人で訪れたの遊園地。そこで湧いた、自分はないような行動、想い。
その正体をまだ俺は、自分の中で消化できずにいる。
ジージーと五月蝿いほどのセミの鳴き声が耳を覆う。
それは——心のノイズのようだった。
確かにいま、この胸は……彼が視界に入るだけででキュッと強い何かに掴まれる感覚に陥っている。
これが『好き』という気持ちなのかもしれない。
だが俺は、元々愛されたいと願う気持ちが強かった。だから自分に愛を注いでくれる皐月の事を、ただ——利用しようとしているのでは無いか。
その堂々巡りのトンネルから、まだ抜け出せずにいた。
「俺は、皐月のことを——」
そう溜息混じりに吐いた時、静かな森がまるで息を吹き返したかのようにザワ付き始める。
男女の入り混じる声の方に顔を向けると、そこにはよく知っている人物が立っていた。
「よぉ、雄成じゃん。珍しいじゃん、こんなとこいんの」
今日も今日とて王の風格を顕にする男は、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
こちらへと近付いてくる団体に軽く手を挙げ挨拶をすると、彼の周りから黄色い声が上がる。
「えっ、葉山くんじゃん!! うわぁー初めて近くで見た」
「カッコよすぎじゃん!? やっば……」
王の眷属たちは暑さになんて屈していないようだな。
「……そういえば、ここは紅雅の定位置だったか。悪いな、邪魔した」
そう言って立ち上がろうとした俺の肩を、彼はグッと抑えその場に留まらせた。
「いいって。そうだ、せっかくじゃん2人で話そうぜ。……ってことで解散なー」
紅雅がそうひと声掛けると、取り巻きの女性たちは「えー」なんて不満げな声を漏らしながら立ち去って行った。
「で。なに、上手くいってないの? この世の終わりみたいな顔してっけど」
ベンチの後ろに置かれた自販機の前に立ちながら、紅雅は俺にそう告げた。
「そういうわけじゃないが——あぁ、折角だ。少し聞いてみたい事がある」
俺の悩みを晴らすのに、丁度いい相手では無いのか。百戦錬磨であろうこの男、ならば。
「おー、なになに?」
そう言って紅雅は、手にしたサイダーの片方を差し出しながら、興味津々、と目を光らせ俺の隣に座った。
「……好き、というのは何だ。どんな気持ちだ。お前はその類に詳しいんじゃないか?」
プシュッとプルタブを開けながら、真隣の彼に目線を送る。
色男は「あーね」なんて言いながら口に含んだサイダーで喉を潤している。何か考える様子で、目線を下に向けたまましばらく黙り……おもむろに、渡り廊下の方を指さした。
俺は首を傾げながら、その人差し指の先を見遣る。
するとそこには……ひとりの、素朴ではあるが小綺麗な男子生徒がじっとこちらを見つめていた。
「……アイツ、入学してから今日まで、1日も欠かさず俺の事を見てる」
「は、はぁ……?」
彼の言わんとせん事が理解出来ず、思い切り首を捻る。
それは愛されている話をしているのだろうか。俺としては紅雅自身のことを聞きたいのだが——
「いや、それは——」と口に出す俺の低い声に、甘い蜜のような吐息が被さった
「可愛いだろ? 健気で……何よりも愛おしいんだ」
「なる、ほど……? ならばお前が声を掛ければ全てが丸く収まるのでは」
遠くにいる黒髪の彼の——表情まではよく見えないが、間違いなく昇る太陽よりも熱い視線が、こちらへ向けられているのを感じる。
俺の言葉に、缶から口を離した紅雅は、ゆっくりと首を横に振った。
「まだ、だな。……もっともっと、俺で雁字搦めになって狂うまで。思考も想いも何もかもが俺に染まるまで」
「……それはまた独特な愛情表現だな」
「人を好きになったのはこれが初めてなんだよ、実はな。恋愛体質に見えるかもしれねぇけど、中身は雄成と同じ。だから好きが明確に説明出来るような立場じゃない」
「そうなのか? ……意外だな」
「だろ?」なんて、まるで他人事のようにケラケラ笑いながら、彼は二口目のサイダーをゴクリと飲む。
艶やかな眼差しで、遠くの彼を見つめたまま。
その目は……幾分か、光を宿していないようにも見えた。
「でも、アイツを見ていて一つだけ分かったことがある。恋は——毒林檎だなって」
「毒……?」
「一見、とても甘くて美味し魅惑の食べ物。だけど……知らないうちにどんどん蝕まれていくんだ。綺麗な感情も言葉も思考も、知らないうちにぐちゃぐちゃのドロドロになっていく。もう……息の仕方が分からなくなる程に」
それを言う紅雅がむせ返るほどの色気を纏っている。
「蝕まれ——」
俺は息を飲んだ。何故って——紅雅の言わんとせんことが、なんとなくわかる気がしてしまったから。
「全てが変わったんだ、アイツに出逢ってから。俺は元来、何かに執着するタイプじゃなかった。とにかく自分が一番だったから」
「全てが、変わる……?」
ドクンと身体が脈打ち、身体が大きく震えるような感覚に陥る。
やはりその言葉には——覚えしかなかない。
「それまで、自分だと思っていたものが全部吹き飛んで粉々になる。息を潜めていた本性が丸裸になる。でも、それでいいと思えた相手——それが、好きな人」
彼の首に絡み付く、燻し銀の——蛇の目が、彼の鋭い眼と重なって見えた。
その瞳が向こうで佇む男の事を、心から愛していると、そう物語っている気がした。
「それでもいい……か」
「理想と現実は、案外掛け離れてるもんだよな。……って何か心当たりがありそうな顔してんな」
それまでとは真逆の——いつもの紅雅の表情が戻っていた。
「まぁ……無きにしも非ず」
「そ? まぁならこの話は無駄じゃなかったってことで。……あ、海吏には内緒にしておけよ、アイツ根掘り葉掘り聞きたがるんだから」
「はは、違いない。ありがとうな、非常に有意義だった」
「おー! んじゃ、なんか進展あったら教えろよ」
「またなー」と紅雅は空き缶を持ち手を振りながら俺の元から去っていった。
「自分が、自分じゃなくなる……か」
また、蝉の声と静寂が俺を包む。
「雄成じゃん!! こんなあっつい中でなにしてんの?」
「……皐月」
驚き振り返ると、ベンチの後ろには件の彼が眩しい笑顔をこちらに向けていた。
彼は「うわ、ベンチあっつー」なんて言いながら、しっかりと俺の横に腰掛けた。
「わぁ、いいもん持ってるじゃん」
彼の視線が、つぅっと滴を垂らす缶に向けられていた事に気が付き……まだ半分ほど中身の残ったそれを差し出す。
「あぁ……飲むか?」
てっきり喜んですぐに受け取るものだと思っていたが、彼は目を泳がせ幾分か困ったように眉を下げていた。
「え、と……」
「ん? どうした」
好みの味ではないのだろうか、別の物を買ってこようか、なんて考えていると、彼はチラッと俺を見上げる。
その頬は暑さとは違う熱に犯されている気がした。
「う、ううん……のむ」
皐月は両手で缶を取ると、それをゆっくりと唇へと充てがった。
ただ飲んでいるだけなのに。缶を挟むぽってりとした唇、俺の半分以下の喉仏が揺れる様——気付けば彼の所作全てが、視覚を魅了していた。
「愛おしいな……」
自然と……彼の後頭部に向けて、俺は手を差し出していた。
すると彼は缶から口を離し、クルッと俺の方を向く。
「え? なんか言った?」
純真無垢な瞳、濡れた唇。
どうしていま俺は、その全てを包みたいと思ったのだろう。
抱きしめてしまいたい、と——
「いや、何でもない。全部飲んでもいいぞ。俺は充分に潤ったから」
——いや、違う……俺は包容される側の存在になりたかった……はずだろ……?
上げた手の行き場に戸惑い……俺はその手を、熱い木の板の上へとそっと戻した。
熱気を孕む太陽光を肌で受けながら、ひとり中庭のベンチに腰を下ろしていた。
さすがのこの時期、外で昼食を摂ろうと思う生徒は居ないのだろう。
緑に囲まれた静かなこの場所は、深い森のオアシスへと姿を変えていた。
「好き、か——」
広大な雲の峰に、ポツリと呟いたその言葉は吸い込まれていく。
つい先週前、俺と皐月の関係には明確な変化が訪れた。
『俺、ホントに雄成のこと大好きなの』
彼は心の内を明かしてくれた。
それを素直に嬉しいと受け入れる自分が居る一方で——果たしていま、この胸にある高揚は、彼の云う「好き」と同じなのか。
それに——
二人で訪れたの遊園地。そこで湧いた、自分はないような行動、想い。
その正体をまだ俺は、自分の中で消化できずにいる。
ジージーと五月蝿いほどのセミの鳴き声が耳を覆う。
それは——心のノイズのようだった。
確かにいま、この胸は……彼が視界に入るだけででキュッと強い何かに掴まれる感覚に陥っている。
これが『好き』という気持ちなのかもしれない。
だが俺は、元々愛されたいと願う気持ちが強かった。だから自分に愛を注いでくれる皐月の事を、ただ——利用しようとしているのでは無いか。
その堂々巡りのトンネルから、まだ抜け出せずにいた。
「俺は、皐月のことを——」
そう溜息混じりに吐いた時、静かな森がまるで息を吹き返したかのようにザワ付き始める。
男女の入り混じる声の方に顔を向けると、そこにはよく知っている人物が立っていた。
「よぉ、雄成じゃん。珍しいじゃん、こんなとこいんの」
今日も今日とて王の風格を顕にする男は、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
こちらへと近付いてくる団体に軽く手を挙げ挨拶をすると、彼の周りから黄色い声が上がる。
「えっ、葉山くんじゃん!! うわぁー初めて近くで見た」
「カッコよすぎじゃん!? やっば……」
王の眷属たちは暑さになんて屈していないようだな。
「……そういえば、ここは紅雅の定位置だったか。悪いな、邪魔した」
そう言って立ち上がろうとした俺の肩を、彼はグッと抑えその場に留まらせた。
「いいって。そうだ、せっかくじゃん2人で話そうぜ。……ってことで解散なー」
紅雅がそうひと声掛けると、取り巻きの女性たちは「えー」なんて不満げな声を漏らしながら立ち去って行った。
「で。なに、上手くいってないの? この世の終わりみたいな顔してっけど」
ベンチの後ろに置かれた自販機の前に立ちながら、紅雅は俺にそう告げた。
「そういうわけじゃないが——あぁ、折角だ。少し聞いてみたい事がある」
俺の悩みを晴らすのに、丁度いい相手では無いのか。百戦錬磨であろうこの男、ならば。
「おー、なになに?」
そう言って紅雅は、手にしたサイダーの片方を差し出しながら、興味津々、と目を光らせ俺の隣に座った。
「……好き、というのは何だ。どんな気持ちだ。お前はその類に詳しいんじゃないか?」
プシュッとプルタブを開けながら、真隣の彼に目線を送る。
色男は「あーね」なんて言いながら口に含んだサイダーで喉を潤している。何か考える様子で、目線を下に向けたまましばらく黙り……おもむろに、渡り廊下の方を指さした。
俺は首を傾げながら、その人差し指の先を見遣る。
するとそこには……ひとりの、素朴ではあるが小綺麗な男子生徒がじっとこちらを見つめていた。
「……アイツ、入学してから今日まで、1日も欠かさず俺の事を見てる」
「は、はぁ……?」
彼の言わんとせん事が理解出来ず、思い切り首を捻る。
それは愛されている話をしているのだろうか。俺としては紅雅自身のことを聞きたいのだが——
「いや、それは——」と口に出す俺の低い声に、甘い蜜のような吐息が被さった
「可愛いだろ? 健気で……何よりも愛おしいんだ」
「なる、ほど……? ならばお前が声を掛ければ全てが丸く収まるのでは」
遠くにいる黒髪の彼の——表情まではよく見えないが、間違いなく昇る太陽よりも熱い視線が、こちらへ向けられているのを感じる。
俺の言葉に、缶から口を離した紅雅は、ゆっくりと首を横に振った。
「まだ、だな。……もっともっと、俺で雁字搦めになって狂うまで。思考も想いも何もかもが俺に染まるまで」
「……それはまた独特な愛情表現だな」
「人を好きになったのはこれが初めてなんだよ、実はな。恋愛体質に見えるかもしれねぇけど、中身は雄成と同じ。だから好きが明確に説明出来るような立場じゃない」
「そうなのか? ……意外だな」
「だろ?」なんて、まるで他人事のようにケラケラ笑いながら、彼は二口目のサイダーをゴクリと飲む。
艶やかな眼差しで、遠くの彼を見つめたまま。
その目は……幾分か、光を宿していないようにも見えた。
「でも、アイツを見ていて一つだけ分かったことがある。恋は——毒林檎だなって」
「毒……?」
「一見、とても甘くて美味し魅惑の食べ物。だけど……知らないうちにどんどん蝕まれていくんだ。綺麗な感情も言葉も思考も、知らないうちにぐちゃぐちゃのドロドロになっていく。もう……息の仕方が分からなくなる程に」
それを言う紅雅がむせ返るほどの色気を纏っている。
「蝕まれ——」
俺は息を飲んだ。何故って——紅雅の言わんとせんことが、なんとなくわかる気がしてしまったから。
「全てが変わったんだ、アイツに出逢ってから。俺は元来、何かに執着するタイプじゃなかった。とにかく自分が一番だったから」
「全てが、変わる……?」
ドクンと身体が脈打ち、身体が大きく震えるような感覚に陥る。
やはりその言葉には——覚えしかなかない。
「それまで、自分だと思っていたものが全部吹き飛んで粉々になる。息を潜めていた本性が丸裸になる。でも、それでいいと思えた相手——それが、好きな人」
彼の首に絡み付く、燻し銀の——蛇の目が、彼の鋭い眼と重なって見えた。
その瞳が向こうで佇む男の事を、心から愛していると、そう物語っている気がした。
「それでもいい……か」
「理想と現実は、案外掛け離れてるもんだよな。……って何か心当たりがありそうな顔してんな」
それまでとは真逆の——いつもの紅雅の表情が戻っていた。
「まぁ……無きにしも非ず」
「そ? まぁならこの話は無駄じゃなかったってことで。……あ、海吏には内緒にしておけよ、アイツ根掘り葉掘り聞きたがるんだから」
「はは、違いない。ありがとうな、非常に有意義だった」
「おー! んじゃ、なんか進展あったら教えろよ」
「またなー」と紅雅は空き缶を持ち手を振りながら俺の元から去っていった。
「自分が、自分じゃなくなる……か」
また、蝉の声と静寂が俺を包む。
「雄成じゃん!! こんなあっつい中でなにしてんの?」
「……皐月」
驚き振り返ると、ベンチの後ろには件の彼が眩しい笑顔をこちらに向けていた。
彼は「うわ、ベンチあっつー」なんて言いながら、しっかりと俺の横に腰掛けた。
「わぁ、いいもん持ってるじゃん」
彼の視線が、つぅっと滴を垂らす缶に向けられていた事に気が付き……まだ半分ほど中身の残ったそれを差し出す。
「あぁ……飲むか?」
てっきり喜んですぐに受け取るものだと思っていたが、彼は目を泳がせ幾分か困ったように眉を下げていた。
「え、と……」
「ん? どうした」
好みの味ではないのだろうか、別の物を買ってこようか、なんて考えていると、彼はチラッと俺を見上げる。
その頬は暑さとは違う熱に犯されている気がした。
「う、ううん……のむ」
皐月は両手で缶を取ると、それをゆっくりと唇へと充てがった。
ただ飲んでいるだけなのに。缶を挟むぽってりとした唇、俺の半分以下の喉仏が揺れる様——気付けば彼の所作全てが、視覚を魅了していた。
「愛おしいな……」
自然と……彼の後頭部に向けて、俺は手を差し出していた。
すると彼は缶から口を離し、クルッと俺の方を向く。
「え? なんか言った?」
純真無垢な瞳、濡れた唇。
どうしていま俺は、その全てを包みたいと思ったのだろう。
抱きしめてしまいたい、と——
「いや、何でもない。全部飲んでもいいぞ。俺は充分に潤ったから」
——いや、違う……俺は包容される側の存在になりたかった……はずだろ……?
上げた手の行き場に戸惑い……俺はその手を、熱い木の板の上へとそっと戻した。
