案内された場所は二階建ての少し年季を感じられるアパートだった。
カンカンと音を鳴らしながら皐月の後について階段を登る。心許ない柵が付いた廊下を進み、彼は1番奥の扉の前で足を止めた。
「多分、雄成の部屋くらいな広さのボロアパートだけど……まぁ、寛いで行ってよ」
そう言いながらエンジ色のドアを開けた皐月の顔は、雨上がりの夜空のように穏やかだった。
スニーカーや女性物のヒールが転がる玄関で「ただいまー」と皐月が大きな声を上げると、レースの暖簾が掛かる向こう側から「おかえりー」という返事と共に1人の女性がひょこっと顔を覗かせた。
靴を揃え、長い髪を緩りと束ねた女性に頭を下げる。
「凄いイケメンじゃない~!! こんなかっこいい子連れて帰ってくるなら言ってよぉ」
顔を上げた先には、キラキラと目を輝かせる女性の姿があった。
正に瓜二つ……間違いなく母親だろうな。
ふわりと笑う女性の顔が、あまりにも皐月と酷似しすぎていて……俺は思わず「ふっ」なんて吹き出してしまった。
「なに色気づいてんの。ほら、お茶買ってきたから……てか雄成も一緒に飯食っていい? ついでに泊まるから」
そう言って皐月は、手にしていたビニール袋をポイッと母親に渡し、俺に「こっちこっち」と手招きする。
母親も「もちろんよ! 皐月のお友達はいつでも大歓迎。狭い所だけれど、どうぞ」なんて、突然の来訪にも関わらず、俺を快く迎えてくれた。
「唐揚げいーっぱい作ったの!」と、お世辞にもあまり大きいとは言えないテーブルの中心に、山盛りになったそれがドンッと置かれる。
「え、雄成も居るのにレモン勝手に搾るのダメじゃん」「あっ、そうだった……!! ごめーん」なんて、料理を囲んで2人が目の前で言い合っている姿を見ていると、何故か心がふんわりとした穏やかさに包まれた。
パリッとした皮が食欲を唆る唐揚げに、ひと口齧り付いてみる。
「……美味い……」
それは今まで食べたどんな料理より暖かくて優しくて——
「本当? 嬉しいなぁ、まだまだあるからいっぱい食べてね!」
「唐揚げだけは美味いから、ウチの母さん」
「ちょっとー他も頑張って作ってるでしょう!」
そんな和やかな空気の中で、俺は二口目の唐揚げを頬張った。
「ねぇねぇ、雄成くん。コレ見て」
食後の紅茶を飲みながらぼんやりと遠くのテレビを見ていた俺に、スっとスマホの画面が差し出された。
そこには髪の上半分を桃色に染め、鋭い目付きでこちらを睨み付ける——画面越しにもヤンチャ真っ盛りが漂う少年が映し出されている。
「こ、れ……まさか皐月……ですか?」
テーブルにスマホを置いたまま、ニヤニヤと楽しげに笑いながら母親は向かいの席に着いた。
おおかた、皐月が風呂へと行った隙を狙ったのだろう。
しかしこれが皐月——凄いな、今とは真反対……人はこんなにも変わるものなのか。
「そ。中学の時なんだけど、この時はもう……手が付けらんない程に荒れててねぇ。ちょうど、離婚した頃だったかな」
「なるほど……よく更生しましたね」
「ねー! 中3の夏前頃かな? 突然『可愛くなったら、心願成就するかも』なんて言い出して変容したのよ。おまけに、それまで全くやる気のなかった受験勉強まで始めちゃってねぇ」
「はぁ……心願成就……?」
俺が不思議そうに首を傾げると、母親は「よくわかんないわよね」と言いながら皐月と瓜二つの、ふわりとした笑いを魅せた。
「まぁね、どんな子でもいいのよ。あの子らしく、元気に育ってくれれば。親としてはそれで充分」
そう言って、画面の彼を見つめる彼女は、間違いなく母親の顔をしていた。
「……皐月は、幸せ者ですね」
「ふふ、そうかしら」なんて二人で笑い合っていると、向こうからドタドタと大きな足音とともに「おおおおい!!」と絶叫が聞こえてきた。
「嫌な予感したんだけど……やっぱり!! ちょ、母さん何見せてんだよ!!」
まだ湿った髪にタオルを被せたままの皐月は、テーブルに置かれたスマホをパッと取り上げる。
「えー? アンタの黒歴史」
「んな堂々と言ってんじゃねぇ!! も、いいから雄成もこんなん見てないで風呂入れって!!」
俺は堪えきれない笑いを漏らしながら立ち上がり、案内された浴室へと向かった。
風呂から上がると、真新しい下着と部屋着が洗濯機の上に用意されていた。パッケージからして、先程お茶を買いに行ったのであろうコンビニに戻り、揃えてくれたのだろう。
「わざわざこんな事まで……」
きっと、皐月はこの夜道を駆けて行ったのだろう。
いつ上がるか分からないから、なんて息を切らしながら。
そんな彼を想像しキュッと締め付けられる胸を、肌触りの良いシャツで隠した。
風呂を上がると、小さな部屋に案内された。
床へ投げ捨てられたように置かれたスクールバッグ、ぐしゃっと丸まったタオルケットが投げられた窓際のベッド。
安らぐ香りに包まれたここは、間違いなく彼の部屋なのだろう。
「とりあえず座りなよ」と、乱れたベッドに腰掛けた皐月は、隣のスペースをポンポンと叩いた。
「ごめんなー騒がしい母さんで」
物珍しく部屋の中を見回しながら、彼の誘いのままベッドの縁へと腰掛ける。
物が多くて乱雑で……如何にも男子の部屋だな。
サイドテーブルには封が空き中身が出かかったグミと、何故かご丁寧にケースに入れられた1枚の百円玉。その横に投げ置かれた携帯用ゲーム機を見ながら、彼の本当の姿に思わずクスリと笑みが零れた。
「素敵なお母様だな」
「そ? もー、ほっとくと変な事ばっかり言い出すから……」
「あ、なんか飲む? 取ってくるわ」と言いながら立ち上がった彼を制するかのように、その腕をパッと掴む。
「ウチは……家族の機能を果たしていないんだ」
どうしてこんなことを言ったのか。
あまり身の上話は好きではなかった。
俺の中では、家族は羞恥と位置づけられてるから。
家族ぐるみで付き合いのある海吏にだって、詳しく話した事もない。
それでも——皐月には、知って欲しいと思ったんだ。
「どういう事……?」
皐月は立ったまま、至極不思議そうな表情で首を傾げている。
そんな無垢な瞳を直視出来なくて——俺は足元に広がる水色のラグに視線を落とした。
「俺を産み愛してくれた母親は、10歳になる頃事故で亡くなった。父親は兄たちと比べて出来損ないの俺を息子とは認めていない。そんな親父が迎えた後妻は、金と名声にしか興味のない女で——すまない、つまらない話をした。同情を誘っている訳じゃないんだ」
別にここまで喋るつもりはなかった。
父親とは不仲、それだけを伝えるつもりだった。あまり重い内容を言うつもりなんて無かったのに。
どうしてだろうな、この家庭の暖かさに触れてしまったのだろうか。
雰囲気にあてられたんだ。どうあがいても手に入れることの出来なかった——無償の愛を受ける、皐月の姿を目の当たりにして。
俺は『愛されたかった』、ただそれだけで良かった。けれど、現実とは残酷で——
気が付けば、心の膿を吐き出すかのように全てを喋った。勢い良く溢れてくる言葉の、止め方が分からないままに。
じっと自分の膝を見つめ、その視界の中でギュッと拳を握り締める。ギリギリと爪が食い込んで痛い程に。
すると、ふわっとベッドの隣が沈み込む。
「分かってるよ。大丈夫」
スっと、羽根のような何かが俺の背中を優しく撫でる。
「まるで擬似家族だよ。だから……皐月のご家族が……少し羨まし——」
ヒクッと大きくしゃくり上がった所で、言葉の荒波が漸く鎮まった。
同時に……握られた拳へ、何か生暖かいものがポツリポツリと落ちる。
それが涙だと気付いたのは、手の甲で受け止められない液体が膝へと流れた時だった。
……あぁ……泣くのなんて、何時ぶりだろうか。
母さんの葬式でさえ、堪えていたのに。
別に感情を押し殺していた訳じゃない。
傷付いた時、つらい時だって「泣ければ楽になるのにな」なんて何度思ったことか。
それでも何かが麻痺してしまい、おまけに脳内では「鬱陶しい」なんて父親の叱咤する声が飛んでくると、全てがスッと押し込められてるしまう。
そうやって止められていたものが、いま——
「……っ、は……悪いな、こんな姿を見せて……」
「思い切り泣けるのは良い事だ。我慢すんな。もっと泣けよ、出し切っちまえって」
「……すま、ない……」
あぁ、いま……とんでもない醜態を晒している。
頭では分かっているが、一度雪崩たものが易々と止まるはずもない。
「そもそも……自分勝手な振る舞いで……俺は君を傷付けたのに。仮面を被って生きていたのは、互いに変わらない癖に被害者面して……」
「関係ねぇよ、もう終わった事じゃん。今こうやって一緒にいてくれてる。それだけで俺は嬉しいよ」
「さつ、き……」
情けなくて俯き小さくなった身体が、ふわりと暖かい何かに包まれる。
それが皐月の体温だと分かったのは、とても優しい手の感触が、背中へと伝わった時だった。
ひと回り程、ちいさな背中に手を回し——しがみつきながら、俺は暫く泣き崩れた。
そんな不甲斐ない俺を、皐月は優しく撫でてくれて。
その度に、まるで自分の中で凝り固まった全てが溶け落ちて、浄化されていくみたいだった。
「てかさ。暖かい家庭が欲しいなら、いつか作ればいいじゃん、俺と雄成で」
その言葉に、俺の涙がピタリと止まる。
驚きを隠せず、顔を上げまだ赤い目を皐月に向けると……彼はばつが悪そうに笑って見せた。
「は、い……?」
最初おどけていた彼の顔は——すぐに澄んだ夜空のように凛とたものへと変わる。
「なんて——言ってみただけ。でも俺……ホントに雄成のことが好きなの」
彼の大きな目が「これは嘘偽りない本心だ」と俺に語り掛けている。
「皐月……俺は——」
前は間違えた、結果として彼を傷付けた。
今度は同じ轍は踏まない……だが、どう返せばいい?
確かに皐月に好意的な気持ちは持っている。けれど、これは彼の熱量と同じものだろうか。
次の言葉を言い淀む俺の背中が、ポンッと優しく撫でられる。
「いいっ、いま焦って返事とかしなくていいから! きっと雄成はいっぱい考えてくれてるんだろうし」
何度が優しく撫でられると、いつの間にか強ばっていた筋肉が緩りと解けていく。
何もかもお見通しなのだろうか……
「すまない本当に、今日は失態ばかりで……」
眉を寄せながらそうつけ告げると、彼は「いいって」と首を横に振った。
「落ち着いて、ゆっくり考えて……そして聞かせてよ。雄成の素直な気持ち」
「あぁ……わかった」
「約束だ」と言わんばかりに、今度は自分から彼の身体を抱き締める。
「でもいっこだけ、わがまま聞いて欲しい」
彼は俺の胸に顔を埋めたまま、消え入りそうな声でそう呟いた。
「何だ? なんでも聞く。言ってくれ」
すると彼は、おそるおそる顔を覗かせる。真っ赤に染った頬はまだ胸板で隠したまま、綺麗な眼だけをじっと上げて。
「これから、俺で——俺の好きで……雄成をいっぱいにさせてよ。一方的でいいからさ。そしたら……それが沢山集まったら、心の隙間が埋まって寂しくないだろ?」
それだけ言って彼は再び、俺の胸へと隠れた。
「皐月……」
そんな彼がいじらしくてどうしようもなくて……キュッと心臓が掴まれる。
「別に、雄成に同じ気持ちを求めないよ。俺が好きでやる事だからさ。……だめ、かな。気持ち悪かったら言ってよ!」
「そんな事思う筈がないっ……素直に嬉しいよ。ありがとう。……すまない、こんな時上手い言葉が紡げなくて……」
「誠実である証じゃん! どんな雄成でも愛してるよ。大好き」
今度はしっかりと顔を出した彼は、ハッキリとそう告げた。
もう何度も見た——あの天使みたいな微笑みを携えて。
『愛してる』
それは焦がれていた言葉だった。
——初めて己の身体、その至る所に……血が巡るのを感じる。
『君は俺を、愛してくれるのか……? それは俺が求めた——』
俺は言葉を返す代わりに、腕の中に収まる皐月の身体を強く抱き締めた。
カンカンと音を鳴らしながら皐月の後について階段を登る。心許ない柵が付いた廊下を進み、彼は1番奥の扉の前で足を止めた。
「多分、雄成の部屋くらいな広さのボロアパートだけど……まぁ、寛いで行ってよ」
そう言いながらエンジ色のドアを開けた皐月の顔は、雨上がりの夜空のように穏やかだった。
スニーカーや女性物のヒールが転がる玄関で「ただいまー」と皐月が大きな声を上げると、レースの暖簾が掛かる向こう側から「おかえりー」という返事と共に1人の女性がひょこっと顔を覗かせた。
靴を揃え、長い髪を緩りと束ねた女性に頭を下げる。
「凄いイケメンじゃない~!! こんなかっこいい子連れて帰ってくるなら言ってよぉ」
顔を上げた先には、キラキラと目を輝かせる女性の姿があった。
正に瓜二つ……間違いなく母親だろうな。
ふわりと笑う女性の顔が、あまりにも皐月と酷似しすぎていて……俺は思わず「ふっ」なんて吹き出してしまった。
「なに色気づいてんの。ほら、お茶買ってきたから……てか雄成も一緒に飯食っていい? ついでに泊まるから」
そう言って皐月は、手にしていたビニール袋をポイッと母親に渡し、俺に「こっちこっち」と手招きする。
母親も「もちろんよ! 皐月のお友達はいつでも大歓迎。狭い所だけれど、どうぞ」なんて、突然の来訪にも関わらず、俺を快く迎えてくれた。
「唐揚げいーっぱい作ったの!」と、お世辞にもあまり大きいとは言えないテーブルの中心に、山盛りになったそれがドンッと置かれる。
「え、雄成も居るのにレモン勝手に搾るのダメじゃん」「あっ、そうだった……!! ごめーん」なんて、料理を囲んで2人が目の前で言い合っている姿を見ていると、何故か心がふんわりとした穏やかさに包まれた。
パリッとした皮が食欲を唆る唐揚げに、ひと口齧り付いてみる。
「……美味い……」
それは今まで食べたどんな料理より暖かくて優しくて——
「本当? 嬉しいなぁ、まだまだあるからいっぱい食べてね!」
「唐揚げだけは美味いから、ウチの母さん」
「ちょっとー他も頑張って作ってるでしょう!」
そんな和やかな空気の中で、俺は二口目の唐揚げを頬張った。
「ねぇねぇ、雄成くん。コレ見て」
食後の紅茶を飲みながらぼんやりと遠くのテレビを見ていた俺に、スっとスマホの画面が差し出された。
そこには髪の上半分を桃色に染め、鋭い目付きでこちらを睨み付ける——画面越しにもヤンチャ真っ盛りが漂う少年が映し出されている。
「こ、れ……まさか皐月……ですか?」
テーブルにスマホを置いたまま、ニヤニヤと楽しげに笑いながら母親は向かいの席に着いた。
おおかた、皐月が風呂へと行った隙を狙ったのだろう。
しかしこれが皐月——凄いな、今とは真反対……人はこんなにも変わるものなのか。
「そ。中学の時なんだけど、この時はもう……手が付けらんない程に荒れててねぇ。ちょうど、離婚した頃だったかな」
「なるほど……よく更生しましたね」
「ねー! 中3の夏前頃かな? 突然『可愛くなったら、心願成就するかも』なんて言い出して変容したのよ。おまけに、それまで全くやる気のなかった受験勉強まで始めちゃってねぇ」
「はぁ……心願成就……?」
俺が不思議そうに首を傾げると、母親は「よくわかんないわよね」と言いながら皐月と瓜二つの、ふわりとした笑いを魅せた。
「まぁね、どんな子でもいいのよ。あの子らしく、元気に育ってくれれば。親としてはそれで充分」
そう言って、画面の彼を見つめる彼女は、間違いなく母親の顔をしていた。
「……皐月は、幸せ者ですね」
「ふふ、そうかしら」なんて二人で笑い合っていると、向こうからドタドタと大きな足音とともに「おおおおい!!」と絶叫が聞こえてきた。
「嫌な予感したんだけど……やっぱり!! ちょ、母さん何見せてんだよ!!」
まだ湿った髪にタオルを被せたままの皐月は、テーブルに置かれたスマホをパッと取り上げる。
「えー? アンタの黒歴史」
「んな堂々と言ってんじゃねぇ!! も、いいから雄成もこんなん見てないで風呂入れって!!」
俺は堪えきれない笑いを漏らしながら立ち上がり、案内された浴室へと向かった。
風呂から上がると、真新しい下着と部屋着が洗濯機の上に用意されていた。パッケージからして、先程お茶を買いに行ったのであろうコンビニに戻り、揃えてくれたのだろう。
「わざわざこんな事まで……」
きっと、皐月はこの夜道を駆けて行ったのだろう。
いつ上がるか分からないから、なんて息を切らしながら。
そんな彼を想像しキュッと締め付けられる胸を、肌触りの良いシャツで隠した。
風呂を上がると、小さな部屋に案内された。
床へ投げ捨てられたように置かれたスクールバッグ、ぐしゃっと丸まったタオルケットが投げられた窓際のベッド。
安らぐ香りに包まれたここは、間違いなく彼の部屋なのだろう。
「とりあえず座りなよ」と、乱れたベッドに腰掛けた皐月は、隣のスペースをポンポンと叩いた。
「ごめんなー騒がしい母さんで」
物珍しく部屋の中を見回しながら、彼の誘いのままベッドの縁へと腰掛ける。
物が多くて乱雑で……如何にも男子の部屋だな。
サイドテーブルには封が空き中身が出かかったグミと、何故かご丁寧にケースに入れられた1枚の百円玉。その横に投げ置かれた携帯用ゲーム機を見ながら、彼の本当の姿に思わずクスリと笑みが零れた。
「素敵なお母様だな」
「そ? もー、ほっとくと変な事ばっかり言い出すから……」
「あ、なんか飲む? 取ってくるわ」と言いながら立ち上がった彼を制するかのように、その腕をパッと掴む。
「ウチは……家族の機能を果たしていないんだ」
どうしてこんなことを言ったのか。
あまり身の上話は好きではなかった。
俺の中では、家族は羞恥と位置づけられてるから。
家族ぐるみで付き合いのある海吏にだって、詳しく話した事もない。
それでも——皐月には、知って欲しいと思ったんだ。
「どういう事……?」
皐月は立ったまま、至極不思議そうな表情で首を傾げている。
そんな無垢な瞳を直視出来なくて——俺は足元に広がる水色のラグに視線を落とした。
「俺を産み愛してくれた母親は、10歳になる頃事故で亡くなった。父親は兄たちと比べて出来損ないの俺を息子とは認めていない。そんな親父が迎えた後妻は、金と名声にしか興味のない女で——すまない、つまらない話をした。同情を誘っている訳じゃないんだ」
別にここまで喋るつもりはなかった。
父親とは不仲、それだけを伝えるつもりだった。あまり重い内容を言うつもりなんて無かったのに。
どうしてだろうな、この家庭の暖かさに触れてしまったのだろうか。
雰囲気にあてられたんだ。どうあがいても手に入れることの出来なかった——無償の愛を受ける、皐月の姿を目の当たりにして。
俺は『愛されたかった』、ただそれだけで良かった。けれど、現実とは残酷で——
気が付けば、心の膿を吐き出すかのように全てを喋った。勢い良く溢れてくる言葉の、止め方が分からないままに。
じっと自分の膝を見つめ、その視界の中でギュッと拳を握り締める。ギリギリと爪が食い込んで痛い程に。
すると、ふわっとベッドの隣が沈み込む。
「分かってるよ。大丈夫」
スっと、羽根のような何かが俺の背中を優しく撫でる。
「まるで擬似家族だよ。だから……皐月のご家族が……少し羨まし——」
ヒクッと大きくしゃくり上がった所で、言葉の荒波が漸く鎮まった。
同時に……握られた拳へ、何か生暖かいものがポツリポツリと落ちる。
それが涙だと気付いたのは、手の甲で受け止められない液体が膝へと流れた時だった。
……あぁ……泣くのなんて、何時ぶりだろうか。
母さんの葬式でさえ、堪えていたのに。
別に感情を押し殺していた訳じゃない。
傷付いた時、つらい時だって「泣ければ楽になるのにな」なんて何度思ったことか。
それでも何かが麻痺してしまい、おまけに脳内では「鬱陶しい」なんて父親の叱咤する声が飛んでくると、全てがスッと押し込められてるしまう。
そうやって止められていたものが、いま——
「……っ、は……悪いな、こんな姿を見せて……」
「思い切り泣けるのは良い事だ。我慢すんな。もっと泣けよ、出し切っちまえって」
「……すま、ない……」
あぁ、いま……とんでもない醜態を晒している。
頭では分かっているが、一度雪崩たものが易々と止まるはずもない。
「そもそも……自分勝手な振る舞いで……俺は君を傷付けたのに。仮面を被って生きていたのは、互いに変わらない癖に被害者面して……」
「関係ねぇよ、もう終わった事じゃん。今こうやって一緒にいてくれてる。それだけで俺は嬉しいよ」
「さつ、き……」
情けなくて俯き小さくなった身体が、ふわりと暖かい何かに包まれる。
それが皐月の体温だと分かったのは、とても優しい手の感触が、背中へと伝わった時だった。
ひと回り程、ちいさな背中に手を回し——しがみつきながら、俺は暫く泣き崩れた。
そんな不甲斐ない俺を、皐月は優しく撫でてくれて。
その度に、まるで自分の中で凝り固まった全てが溶け落ちて、浄化されていくみたいだった。
「てかさ。暖かい家庭が欲しいなら、いつか作ればいいじゃん、俺と雄成で」
その言葉に、俺の涙がピタリと止まる。
驚きを隠せず、顔を上げまだ赤い目を皐月に向けると……彼はばつが悪そうに笑って見せた。
「は、い……?」
最初おどけていた彼の顔は——すぐに澄んだ夜空のように凛とたものへと変わる。
「なんて——言ってみただけ。でも俺……ホントに雄成のことが好きなの」
彼の大きな目が「これは嘘偽りない本心だ」と俺に語り掛けている。
「皐月……俺は——」
前は間違えた、結果として彼を傷付けた。
今度は同じ轍は踏まない……だが、どう返せばいい?
確かに皐月に好意的な気持ちは持っている。けれど、これは彼の熱量と同じものだろうか。
次の言葉を言い淀む俺の背中が、ポンッと優しく撫でられる。
「いいっ、いま焦って返事とかしなくていいから! きっと雄成はいっぱい考えてくれてるんだろうし」
何度が優しく撫でられると、いつの間にか強ばっていた筋肉が緩りと解けていく。
何もかもお見通しなのだろうか……
「すまない本当に、今日は失態ばかりで……」
眉を寄せながらそうつけ告げると、彼は「いいって」と首を横に振った。
「落ち着いて、ゆっくり考えて……そして聞かせてよ。雄成の素直な気持ち」
「あぁ……わかった」
「約束だ」と言わんばかりに、今度は自分から彼の身体を抱き締める。
「でもいっこだけ、わがまま聞いて欲しい」
彼は俺の胸に顔を埋めたまま、消え入りそうな声でそう呟いた。
「何だ? なんでも聞く。言ってくれ」
すると彼は、おそるおそる顔を覗かせる。真っ赤に染った頬はまだ胸板で隠したまま、綺麗な眼だけをじっと上げて。
「これから、俺で——俺の好きで……雄成をいっぱいにさせてよ。一方的でいいからさ。そしたら……それが沢山集まったら、心の隙間が埋まって寂しくないだろ?」
それだけ言って彼は再び、俺の胸へと隠れた。
「皐月……」
そんな彼がいじらしくてどうしようもなくて……キュッと心臓が掴まれる。
「別に、雄成に同じ気持ちを求めないよ。俺が好きでやる事だからさ。……だめ、かな。気持ち悪かったら言ってよ!」
「そんな事思う筈がないっ……素直に嬉しいよ。ありがとう。……すまない、こんな時上手い言葉が紡げなくて……」
「誠実である証じゃん! どんな雄成でも愛してるよ。大好き」
今度はしっかりと顔を出した彼は、ハッキリとそう告げた。
もう何度も見た——あの天使みたいな微笑みを携えて。
『愛してる』
それは焦がれていた言葉だった。
——初めて己の身体、その至る所に……血が巡るのを感じる。
『君は俺を、愛してくれるのか……? それは俺が求めた——』
俺は言葉を返す代わりに、腕の中に収まる皐月の身体を強く抱き締めた。
