皐月の仮面が剥がれた日から、2週間が過ぎた。
結局のところ俺はいまだに——皐月と会話できずにいる。
何度か校内で顔を合わせる事はあった。
「皐……」
と声を掛けようと試みるも、彼はどこか哀しげな表情で、俺の横を通り過ぎていく。
「……自業自得、だよな」
その度に俺は、行き場を無くした手をグッと握り締めた。
結局、文字通り何も手につかない、様子のおかしい日々が続き……俺はひとり頭を悩ませていた。
そうこうしているうちに、テスト週間が訪れる。
俺は……人生で初めて、白紙に近い答案用紙を出した。
そして結果が出された週。
教師から「ちょっと」と廊下へ呼び出され、「この後すぐに生徒指導室へ来るように」とのの呼び出しが掛かった。
「え、なんかあったの?」
教室へと戻ると、俺の前の席でイチャついていた春樹と海吏は首を傾げていた。
「呼び出し。相手は教師、場所は指導室だけどな」
「珍しい事もあるもんだね」
海吏を膝に乗せ頭を撫でていた春樹も、その手をピタッと止めて目を丸くしている。
「大した事じゃない。じゃぁ、行ってくる」
机の横に掛けていた鞄を取り、「じゃぁな」と2人に軽く挨拶をすると、そのまま教室を後にした。
いつもより長く感じる廊下を、俺は重い足取りで歩き続けた。
「無理もない」
これまで家での厄介事を避けるべくして保っていた上位の成績を見事——陥落させたのだ。
大きく溜め息を吐きながら、嫌でも下を向きたがる顔を無理やり上げると、そこには件の彼が立っていた。
皐月は立ち止まり、俺を見つめた後にすぐ後ろを振り返り……そうして再び顔をこちらに向けた。
この先にあるのは生徒指導室のみ。おまけに俺の顔はどんよりと暗い。
「……雄…………」
嫌でも驚きの声が上がるだろうな。
「…………」
俺は彼の視線を振り切り、真っ直ぐ廊下を進んで行った。
教師は俺を咎める事は無かった。
「何かあったのなら相談に乗る」その一点張り。
——言えば何か解決してくれるのか。
そう冷めた笑いを浮かべる俺の口は、その場では動こうとしなかった。
「失礼しました」
俺は生徒指導室の前で頭を下げ、手にしたいく枚かの紙をぐしゃっとカバンに詰め込み、窓の外を見上げた。
まだ梅雨明けを望めない空は、どんよりと暗い。
水分を限界まで染み込ませた雲から、ポツリポツリと落ち始めた雨粒が、窓ガラスを叩き始めた。
「降り出したか」
カバンの奥には折りたたみ傘が眠っている。
けれど今は——それを呼び起こす気分にはなれなかった。
「……面倒だな」
職員室に呼ばれた理由、ぐちゃぐちゃに丸めた答案用紙の束。これから家に帰って起こることは、目に見えている。
「どうせ連絡も行ってるんだろう」
一層低い声でそう呟きながら、篠突く雨の中をゆっくりと歩き始めた。
肌に張り付くシャツの不快感に眉を寄せながら鉄格子のような引き戸を開くと、冷たい目の女が俺を出迎えた。
「お父様が書斎でお待ちよ」
「…………わかりました」
ポタリポタリと水色のシャツから水滴が落ちると、女は露骨に眉を寄せた。
「ちゃんと拭いて来てちょうだい。床が濡れるのは嫌なのよ」
「はい」
俺より床の心配か……なんて言葉が瞬時に思い浮かんだが、あまりにも今更すぎて、感情のない返事をした。
「興味はないけれど、何か悩みがあるなら聞くわ。一応、貴方の母親なんだから。成人するまでは」
あからさまに取り繕った笑顔の頬には「面白おかしいネタが欲しい」なんて綺麗に書いてある。
アンタはこの家に来てすぐ、同じ台詞を言った。
その時はまだ疑いなんて持つはずの無い俺は、本当の母に言った「僕が可愛いもの好きって、おかしいのかな」という問を投げ掛けた。
「おかしいに決まってるじゃない」
そう返したこの女の冷たい顔を、俺は忘れもしない。
家族のいい笑い者になった過去も同様に。
「別に、無いです。そんなもの」
そう言い捨て、使用人が差し出すタオルを受け取りながら階段を昇り、暗い2階へと向かった。
「言い訳を聞くつもりはない。今までもロクな成績じゃなかったが、それ以下があるとはな」
書斎に入るなり、激高が飛んできた。
よく分からない本が並ぶこの部屋が重苦しいのは、大きな机の奥で不機嫌そうに座るこの男の所為だろう。
「優秀じゃないもので」
右手に握ったタオルを痛い程に握り締めながら、俺はなるべく抑揚の無い声でそう返した。
この人に何を言っても無駄だ。
俺を上から押さえ付けることしか脳の無い、父親に——
「もうお前には何も期待しない。意味が分かるか。全く……誰が好き勝手に生きろと言った。どれだけ私の顔に泥を塗れば気が済むんだ」
カチンと、その言葉が気に触ってしまう。
いつもそうだ。まるで俺の事なんて見もしない、考えもしない。家だ体裁だ、最後は自分の保身ばかり。
だが、言い返したところで……子供である俺は、余りにも無力だ。
アホくさい……いつも通り謝って部屋に戻ろう。
そう、諦めた時だった。
『お前は、お前だから面白ぇんだろ』
冷静を保とうとしている心に聞こえた、友人の言葉。
その瞬間、今まで抑え込んでいた気持ちがうっすらと波風を立て始める。
——俺、だから……?
目の前には不機嫌を隠しもしない父親が、いまだにグダグダと不満を口にしている。
——なんだ、この……俺を否定することしか脳のない男は。
その瞬間、ブチッと頭の中で何かが切れた音がした。
同時に身体が大きく震える。それはもう、奥歯がガチガチと音を鳴らす程の。
「…………ない」
「兄たちのように有名な大学に行き、有能な職に就く。そう決められた人生を歩めばいいんだ……それを……」
「俺はーッ!! アンタや……家の為に生きている訳じゃない」
それは生まれて初めて口にした、己の本心だった。
父親の顔が、みるみるうちに険しくなっていく。
「————ッッ!! 生意気な口を!!」
父親はバァンッ! と大きく机を叩き、烈火の如く怒り始める。
「俺はアンタの子供だけど、傀儡でもなんでもないッ! ひとりの人間だ……!!」
俺も負けじと強い声でそう言い返す。
フーッフーッと荒ぶる息が、指先を動かす事すら躊躇う空間に深く響く。
「お前、誰に向かってものを言っているんだ!!」
依然として、部屋の空気は張り詰めたまま。
睨み合い……男は次の言葉を待っている。全てをねじ伏せる為に。
俺は口の中で、小さく溜め息を吐いた。
何を言ったところで、無意味なのだろう。やはり、自我を出すなど——
『雄成くんは、雄成くんのままでいいんですよ』
その瞬間、いつぞやに彼が告げた言葉がハッキリと聞こえた気がした。
まるで、背中を押してくれるかのように。
少しだけ鎮火した炎が、再び体の奥で燃え広がり——俺はスっと、前を見据えた。
目の前に居るのは、思い通りにならない事に苛立つ獣のような男。
今、ここで引き下がったら、一生この男に抑圧され続ける——
俺はその場で、大きく息を吸った。
「アンタは今まで、俺の全てを否定し続けてきたがな——好きなものを好きと言って、何が悪い。俺が……俺のままで生きて何が悪いッ!!」
「なっ……」
そう言い放つと、男は唖然としてたじろいだ。まさかそんな言葉が返ってくるなんて思ってもみなかったのだろう。
俺はそれに乾いた笑いを送り、そのまま部屋から勢いよく飛び出すと、黒い家を後にした。
暗い道を暫く歩いた俺は、電柱の下で立ち止まり大きな溜め息を吐いた。
「……非常に、面倒だ」
興奮していた脳が幾分か冷静さを取り戻すと、俺は現状に頭を抱えた。
勢い任せで出てきてしまったが……これから夜が深くなる。この姿でフラフラとそこらを彷徨っていれば補導対象になるのは間違い無し。
そこから学校——ひいては家になんて連絡が行けば余計事態が拗れる。
「せめて着替えておけばよかったな……」
ゴソゴソとポケットを探り、スマホを取り出す。
「申し訳ないが、アイツら……誰かの所にお邪魔するか……」
一先ずは家の近い海吏か……なんて考えている時だった。
心に、彼の顔が思い浮かぶ。
他の誰でもない——俺に勇気をくれた、皐月の笑顔が。
「…………あの微笑みに、触れたい……」
ビチャッと音を立てて踏んだ水溜まりの、波紋のようにそれは俺の中で広がっていく。
「いや、ダメだろう。そもそも突き放したのは俺だ」
俺が返事をした時の、彼に絶望に染まった目が思い返される。
心を泣かせておいて、あの笑顔に救いを求めたいだなんて——
「こんなにも逢いたくて仕方ないなんて……自分勝手が過ぎるだろう」
脳内を巡る邪な考えを消すよう首を大きく振り「予定通り海吏に……」なんて、連絡先を開こうとした時だった。
人気の無い暗い道で、向かいから迫る足音がピタッと俺の前で止まる。
「もしや早速……補導か?」なんて思いながら、おそるおそる目線だけそちらへ向けると——立っていたのは、見覚えのある人物だった。
「「あ……」」
決して多いとは言えない街灯が照らし出した人物。
オーバーサイズのTシャツに、ハーフパンツとサンダル。
片手に閉じた傘を持ち、反対の手には小さなビニール袋。
「皐、月……?」
白いライトの元に浮かぶ彼は、驚きを隠せてはいなかった。
皐月が……目の前に……!!
勢い良く前へと出ようとする右足を、どうにか押し留める。
いけない。こんな、本能で行動しては——あの男と同じになってしまう。
「こんな時間になにしてんの……」
その問いに、俺は答えることが出来なかった。
すると、俯いた俺にひと際大きくなった影が掛かる。
彼はじっと、澄んだ瞳で顔を覗き込んでいた。
反射で目を逸らすも……つい彼の視線を横目で追ってしまう。
まだじっとり濡れたままのシャツ。肩から掛けたスクールバッグ、左手に持ったままの白いタオル。
そんな俺の姿を順に眺め……ハッと、彼の大きな瞳が大きく開かれた。そして次に重なった視線は、とても強い物だった。
「…………な、もう飯食った? 俺ん家、これからなの。まさかの茶が無くてさー」
苦笑う皐月がその場で上げて見せたビニール袋には、大きなペットボトルが入っていた。
「え? な、何を……」
顔を上げるより先に、いつの間にか空になった彼の左手がパッと俺の手首を掴む。
あからさまに狼狽していると、彼はニコッと歯を見せて笑う。まるでこの暗い夜道を、を光で包み込むかのような。
「ウチの母さん、いつも食い切れないくらいの量作るからさ、食べに来いよ! ついでに泊まればいいじゃん」
パッと皐月は俺の腕を掴んだかと思えば、それを強く引き、暗い夜道をズンズンと歩き始める。
「何をしている……離せ……」
「嫌だ。悪いけど今だけは、雄成の要望は聞けない」
消え入りそうな声で吐いた言葉が、皐月の行動を止める事なんて出来やしない。
ましてやこの、偽りの言葉が。
なんで、俺の心を射抜くのがこんなにも上手いんだよ……
それまで氷のように冷たかった胸の奥が、ジワッと暖かくなるのを感じる。
あんなにも希求した君が、俺の腕を掴んで——
「……俺は、君に酷い態度を取ったんだ……」
その瞬間、ピタリと皐月の足が止まる。
「関係無ねぇよ。それにいくらもう夏だからって、そんなに濡れてたら風邪ひくじゃん。理由は聞かないけど……家、帰り辛いんじゃない?」
皐月はこちらを振り向きもせず、ただしっかりとした声で俺にそう告げた。
どうして君はそんなにも——
ジワッと目頭が熱くなるのを、どうにか首を振って耐える。
「ありがとう……さつ、き……」
「どういたしまして。ってか悪い、痛かったか」
皐月はここで、目一杯の力で俺の腕を引っ張っていた事に気が付いたのだろう。
慌ててパッと手を離し「家はこっちだから」と指で示し、再び歩きだそうとした。
「……ッ!! 待ってくれ」
離れた君の手を、俺は思わず引き留める。
同じように手首を掴むと、皐月のビクッと身体が揺れ足がとまる。
「え、ちょっ……雄成!?」
そのまま皮膚を撫でるように手を下へと滑らし、掌をスリっと合わせる。
軽く、ただ握ろうとした手が1度思い止まり——控え目に指を絡めた。
すると彼の指がそれに応えてくれる。僅かな震えを隠すように、ゆっくりと。
その手が安心するようにと、俺はギュッと握り締めた。
「……暖かいな」
「うん……」
暗い夜道で君の表情は見えなかったけれど、伝わる熱がしっかりと教えてくれている気がした。
「このまま歩きたい……ダメか?」
そう問い掛けると、クっと掌が強く握り返される。
「……じゃぁ……ゆっくり、帰ろ……」
そう言って俺たちは、再び歩き始めた。
会話は、少しぎこち無かったけれど——それでも、触れた手の暖かさが互いの心をゆっくりと溶かしていった。
結局のところ俺はいまだに——皐月と会話できずにいる。
何度か校内で顔を合わせる事はあった。
「皐……」
と声を掛けようと試みるも、彼はどこか哀しげな表情で、俺の横を通り過ぎていく。
「……自業自得、だよな」
その度に俺は、行き場を無くした手をグッと握り締めた。
結局、文字通り何も手につかない、様子のおかしい日々が続き……俺はひとり頭を悩ませていた。
そうこうしているうちに、テスト週間が訪れる。
俺は……人生で初めて、白紙に近い答案用紙を出した。
そして結果が出された週。
教師から「ちょっと」と廊下へ呼び出され、「この後すぐに生徒指導室へ来るように」とのの呼び出しが掛かった。
「え、なんかあったの?」
教室へと戻ると、俺の前の席でイチャついていた春樹と海吏は首を傾げていた。
「呼び出し。相手は教師、場所は指導室だけどな」
「珍しい事もあるもんだね」
海吏を膝に乗せ頭を撫でていた春樹も、その手をピタッと止めて目を丸くしている。
「大した事じゃない。じゃぁ、行ってくる」
机の横に掛けていた鞄を取り、「じゃぁな」と2人に軽く挨拶をすると、そのまま教室を後にした。
いつもより長く感じる廊下を、俺は重い足取りで歩き続けた。
「無理もない」
これまで家での厄介事を避けるべくして保っていた上位の成績を見事——陥落させたのだ。
大きく溜め息を吐きながら、嫌でも下を向きたがる顔を無理やり上げると、そこには件の彼が立っていた。
皐月は立ち止まり、俺を見つめた後にすぐ後ろを振り返り……そうして再び顔をこちらに向けた。
この先にあるのは生徒指導室のみ。おまけに俺の顔はどんよりと暗い。
「……雄…………」
嫌でも驚きの声が上がるだろうな。
「…………」
俺は彼の視線を振り切り、真っ直ぐ廊下を進んで行った。
教師は俺を咎める事は無かった。
「何かあったのなら相談に乗る」その一点張り。
——言えば何か解決してくれるのか。
そう冷めた笑いを浮かべる俺の口は、その場では動こうとしなかった。
「失礼しました」
俺は生徒指導室の前で頭を下げ、手にしたいく枚かの紙をぐしゃっとカバンに詰め込み、窓の外を見上げた。
まだ梅雨明けを望めない空は、どんよりと暗い。
水分を限界まで染み込ませた雲から、ポツリポツリと落ち始めた雨粒が、窓ガラスを叩き始めた。
「降り出したか」
カバンの奥には折りたたみ傘が眠っている。
けれど今は——それを呼び起こす気分にはなれなかった。
「……面倒だな」
職員室に呼ばれた理由、ぐちゃぐちゃに丸めた答案用紙の束。これから家に帰って起こることは、目に見えている。
「どうせ連絡も行ってるんだろう」
一層低い声でそう呟きながら、篠突く雨の中をゆっくりと歩き始めた。
肌に張り付くシャツの不快感に眉を寄せながら鉄格子のような引き戸を開くと、冷たい目の女が俺を出迎えた。
「お父様が書斎でお待ちよ」
「…………わかりました」
ポタリポタリと水色のシャツから水滴が落ちると、女は露骨に眉を寄せた。
「ちゃんと拭いて来てちょうだい。床が濡れるのは嫌なのよ」
「はい」
俺より床の心配か……なんて言葉が瞬時に思い浮かんだが、あまりにも今更すぎて、感情のない返事をした。
「興味はないけれど、何か悩みがあるなら聞くわ。一応、貴方の母親なんだから。成人するまでは」
あからさまに取り繕った笑顔の頬には「面白おかしいネタが欲しい」なんて綺麗に書いてある。
アンタはこの家に来てすぐ、同じ台詞を言った。
その時はまだ疑いなんて持つはずの無い俺は、本当の母に言った「僕が可愛いもの好きって、おかしいのかな」という問を投げ掛けた。
「おかしいに決まってるじゃない」
そう返したこの女の冷たい顔を、俺は忘れもしない。
家族のいい笑い者になった過去も同様に。
「別に、無いです。そんなもの」
そう言い捨て、使用人が差し出すタオルを受け取りながら階段を昇り、暗い2階へと向かった。
「言い訳を聞くつもりはない。今までもロクな成績じゃなかったが、それ以下があるとはな」
書斎に入るなり、激高が飛んできた。
よく分からない本が並ぶこの部屋が重苦しいのは、大きな机の奥で不機嫌そうに座るこの男の所為だろう。
「優秀じゃないもので」
右手に握ったタオルを痛い程に握り締めながら、俺はなるべく抑揚の無い声でそう返した。
この人に何を言っても無駄だ。
俺を上から押さえ付けることしか脳の無い、父親に——
「もうお前には何も期待しない。意味が分かるか。全く……誰が好き勝手に生きろと言った。どれだけ私の顔に泥を塗れば気が済むんだ」
カチンと、その言葉が気に触ってしまう。
いつもそうだ。まるで俺の事なんて見もしない、考えもしない。家だ体裁だ、最後は自分の保身ばかり。
だが、言い返したところで……子供である俺は、余りにも無力だ。
アホくさい……いつも通り謝って部屋に戻ろう。
そう、諦めた時だった。
『お前は、お前だから面白ぇんだろ』
冷静を保とうとしている心に聞こえた、友人の言葉。
その瞬間、今まで抑え込んでいた気持ちがうっすらと波風を立て始める。
——俺、だから……?
目の前には不機嫌を隠しもしない父親が、いまだにグダグダと不満を口にしている。
——なんだ、この……俺を否定することしか脳のない男は。
その瞬間、ブチッと頭の中で何かが切れた音がした。
同時に身体が大きく震える。それはもう、奥歯がガチガチと音を鳴らす程の。
「…………ない」
「兄たちのように有名な大学に行き、有能な職に就く。そう決められた人生を歩めばいいんだ……それを……」
「俺はーッ!! アンタや……家の為に生きている訳じゃない」
それは生まれて初めて口にした、己の本心だった。
父親の顔が、みるみるうちに険しくなっていく。
「————ッッ!! 生意気な口を!!」
父親はバァンッ! と大きく机を叩き、烈火の如く怒り始める。
「俺はアンタの子供だけど、傀儡でもなんでもないッ! ひとりの人間だ……!!」
俺も負けじと強い声でそう言い返す。
フーッフーッと荒ぶる息が、指先を動かす事すら躊躇う空間に深く響く。
「お前、誰に向かってものを言っているんだ!!」
依然として、部屋の空気は張り詰めたまま。
睨み合い……男は次の言葉を待っている。全てをねじ伏せる為に。
俺は口の中で、小さく溜め息を吐いた。
何を言ったところで、無意味なのだろう。やはり、自我を出すなど——
『雄成くんは、雄成くんのままでいいんですよ』
その瞬間、いつぞやに彼が告げた言葉がハッキリと聞こえた気がした。
まるで、背中を押してくれるかのように。
少しだけ鎮火した炎が、再び体の奥で燃え広がり——俺はスっと、前を見据えた。
目の前に居るのは、思い通りにならない事に苛立つ獣のような男。
今、ここで引き下がったら、一生この男に抑圧され続ける——
俺はその場で、大きく息を吸った。
「アンタは今まで、俺の全てを否定し続けてきたがな——好きなものを好きと言って、何が悪い。俺が……俺のままで生きて何が悪いッ!!」
「なっ……」
そう言い放つと、男は唖然としてたじろいだ。まさかそんな言葉が返ってくるなんて思ってもみなかったのだろう。
俺はそれに乾いた笑いを送り、そのまま部屋から勢いよく飛び出すと、黒い家を後にした。
暗い道を暫く歩いた俺は、電柱の下で立ち止まり大きな溜め息を吐いた。
「……非常に、面倒だ」
興奮していた脳が幾分か冷静さを取り戻すと、俺は現状に頭を抱えた。
勢い任せで出てきてしまったが……これから夜が深くなる。この姿でフラフラとそこらを彷徨っていれば補導対象になるのは間違い無し。
そこから学校——ひいては家になんて連絡が行けば余計事態が拗れる。
「せめて着替えておけばよかったな……」
ゴソゴソとポケットを探り、スマホを取り出す。
「申し訳ないが、アイツら……誰かの所にお邪魔するか……」
一先ずは家の近い海吏か……なんて考えている時だった。
心に、彼の顔が思い浮かぶ。
他の誰でもない——俺に勇気をくれた、皐月の笑顔が。
「…………あの微笑みに、触れたい……」
ビチャッと音を立てて踏んだ水溜まりの、波紋のようにそれは俺の中で広がっていく。
「いや、ダメだろう。そもそも突き放したのは俺だ」
俺が返事をした時の、彼に絶望に染まった目が思い返される。
心を泣かせておいて、あの笑顔に救いを求めたいだなんて——
「こんなにも逢いたくて仕方ないなんて……自分勝手が過ぎるだろう」
脳内を巡る邪な考えを消すよう首を大きく振り「予定通り海吏に……」なんて、連絡先を開こうとした時だった。
人気の無い暗い道で、向かいから迫る足音がピタッと俺の前で止まる。
「もしや早速……補導か?」なんて思いながら、おそるおそる目線だけそちらへ向けると——立っていたのは、見覚えのある人物だった。
「「あ……」」
決して多いとは言えない街灯が照らし出した人物。
オーバーサイズのTシャツに、ハーフパンツとサンダル。
片手に閉じた傘を持ち、反対の手には小さなビニール袋。
「皐、月……?」
白いライトの元に浮かぶ彼は、驚きを隠せてはいなかった。
皐月が……目の前に……!!
勢い良く前へと出ようとする右足を、どうにか押し留める。
いけない。こんな、本能で行動しては——あの男と同じになってしまう。
「こんな時間になにしてんの……」
その問いに、俺は答えることが出来なかった。
すると、俯いた俺にひと際大きくなった影が掛かる。
彼はじっと、澄んだ瞳で顔を覗き込んでいた。
反射で目を逸らすも……つい彼の視線を横目で追ってしまう。
まだじっとり濡れたままのシャツ。肩から掛けたスクールバッグ、左手に持ったままの白いタオル。
そんな俺の姿を順に眺め……ハッと、彼の大きな瞳が大きく開かれた。そして次に重なった視線は、とても強い物だった。
「…………な、もう飯食った? 俺ん家、これからなの。まさかの茶が無くてさー」
苦笑う皐月がその場で上げて見せたビニール袋には、大きなペットボトルが入っていた。
「え? な、何を……」
顔を上げるより先に、いつの間にか空になった彼の左手がパッと俺の手首を掴む。
あからさまに狼狽していると、彼はニコッと歯を見せて笑う。まるでこの暗い夜道を、を光で包み込むかのような。
「ウチの母さん、いつも食い切れないくらいの量作るからさ、食べに来いよ! ついでに泊まればいいじゃん」
パッと皐月は俺の腕を掴んだかと思えば、それを強く引き、暗い夜道をズンズンと歩き始める。
「何をしている……離せ……」
「嫌だ。悪いけど今だけは、雄成の要望は聞けない」
消え入りそうな声で吐いた言葉が、皐月の行動を止める事なんて出来やしない。
ましてやこの、偽りの言葉が。
なんで、俺の心を射抜くのがこんなにも上手いんだよ……
それまで氷のように冷たかった胸の奥が、ジワッと暖かくなるのを感じる。
あんなにも希求した君が、俺の腕を掴んで——
「……俺は、君に酷い態度を取ったんだ……」
その瞬間、ピタリと皐月の足が止まる。
「関係無ねぇよ。それにいくらもう夏だからって、そんなに濡れてたら風邪ひくじゃん。理由は聞かないけど……家、帰り辛いんじゃない?」
皐月はこちらを振り向きもせず、ただしっかりとした声で俺にそう告げた。
どうして君はそんなにも——
ジワッと目頭が熱くなるのを、どうにか首を振って耐える。
「ありがとう……さつ、き……」
「どういたしまして。ってか悪い、痛かったか」
皐月はここで、目一杯の力で俺の腕を引っ張っていた事に気が付いたのだろう。
慌ててパッと手を離し「家はこっちだから」と指で示し、再び歩きだそうとした。
「……ッ!! 待ってくれ」
離れた君の手を、俺は思わず引き留める。
同じように手首を掴むと、皐月のビクッと身体が揺れ足がとまる。
「え、ちょっ……雄成!?」
そのまま皮膚を撫でるように手を下へと滑らし、掌をスリっと合わせる。
軽く、ただ握ろうとした手が1度思い止まり——控え目に指を絡めた。
すると彼の指がそれに応えてくれる。僅かな震えを隠すように、ゆっくりと。
その手が安心するようにと、俺はギュッと握り締めた。
「……暖かいな」
「うん……」
暗い夜道で君の表情は見えなかったけれど、伝わる熱がしっかりと教えてくれている気がした。
「このまま歩きたい……ダメか?」
そう問い掛けると、クっと掌が強く握り返される。
「……じゃぁ……ゆっくり、帰ろ……」
そう言って俺たちは、再び歩き始めた。
会話は、少しぎこち無かったけれど——それでも、触れた手の暖かさが互いの心をゆっくりと溶かしていった。
