目に見える物は“いる物”“いらない物”と即座に判断できるが、目に見えない物は苦手だ。
特に誰かと共同作業で作り上げることは苦手中の苦手だ。
例えば、人間関係でいうと“友情”“師弟”、スポーツで言うと球技のような“チームワーク”、そして何より苦手なものは―――いや嫌いと言ってもいいかもしれない―――“恋愛”だ。
人の感情ほどわからないものはない。
以前付き合っていた女子に、
「私の悪いところを言って」
と、言われた。
特に思いつくことが無かったので、「ない。今のままでいい」と言ったところ、しつこく問いただされ「本当のことを言って、直すから」と言われた。
何か一言言わないと済まない雰囲気だったので、「化粧が濃いのではないか?」と、言った。
次の日から女子たちに無視され、心のない奴だと噂まで流された。
今思うとストレートすぎた感はある。
しかし、あの時の俺はそれが精いっぱいだった。
今でもよくわからない。
あの時、なんと言えばよかったのだろう?
答えが欲しくて、映画や小説、恋愛マニュアル本を読んだけれども、未だ答えは見つかっていない。
あの件で、言葉を言葉のまま受け取るとロクなことがないことを学んだ。
人には本音と建前があり、良好な人間関係を築いていくためには本音を出さないように生きていく必要があるのだ。
そんなことを考えながら生きてきたら、自分の感情がわからなくなった。
自分は何が好きで、何が嫌いなのか。
得意なもの、不得意なものは何なのか。
自分にとって大切なものは何か。
全部がオブラートにくるまれ、曖昧になった。
俺は他人との距離感を掴むのが苦手だ。
こちらが友人と思っていても、相手はそう思っていない、またその逆も然りだ。
こちらが良かれと思ってやったことが、相手にとっては都合の悪いことだったりもする。
一言でいうと、空気の読めない奴なのだろう。
そのせいか、高校3年になった頃から自分から積極的に友人を作るのはやめた。
目が悪くなったことも重なり、メガネをかけ始めたのもこの頃だったような気がする。
他人と必要以上に接したくない。
一人の方が楽だ。
人間関係を割り切って考えるようになった。
そんな俺に声をかけてくれたのが、大学に入ってすぐに別れた元彼女、小山さゆりだ。
「真面目で嘘をつかないところが好き」
思っていることを素直に口に出す、そんなところが自分と似ている気がして親近感が湧いた。彼女から告白され、付き合うこととなった。
彼女と過ごした1年間は初めてのことばかりで、学びの多い日々だった。
初めてのデートは水族館、そこで初めてのキスを経験した。
映画を一緒に見て、感想を言い合い、泣いたり笑ったり怒ったり、感情を共有し合った。
そして、ベッドでの初体験……。
思い出しただけで全身が火照る。
すべてが順調だった。
ところが、大学に入ってすぐ、突然の別れが訪れた。
「女の人と仲良く歩いているところを見た。浮気するとは思わなかった」
弁明する余地もなく、激しいビンタと共に彼女は去っていった。
その彼女が再び俺の前に現れた。
「やり直したい」
校舎裏の自転車置き場に移動するなり、さゆりが口を開いた。
さゆりの目は潤んでいる。
「大路君が歩いていたのはお姉さんだったんだよね?あの時は、気が動転して大路君の話を聞かずに、別れを切り出したこと、後悔してる。一方的にごめんなさい」
さゆりが頭を下げる。
「謝らなくて、いいよ」
「でも……」
「俺も誤解を与える行動をしていたわけだし」
「……」
さゆりとの会話が続かない。
以前はそんなこともなかったのに、しばらく会わないうちにさゆりとのコミュニケーションの取り方を忘れてしまったようだ。
居心地の悪さを覚え、「授業が始まるから、ごめん」と、さゆりを残してその場を去った。
同じ学校だし、これからもさゆりと顔を合わせることはあるだろう。
どんな顔をして会えばいいのか、わからなくなった。
できるなら、別れたままでいたかった。
こちらは復縁など考えてもいなかったのだから。
さゆりと別れ、姉貴が家を出ていき、ぽっかり空いた穴を埋めたのは夢斗だった。
ストレスまみれの同居生活が、寂しい、悲しい、虚しい、といった感傷に浸るまでもなく、一日一日をどう乗り切っていけばいいのかで頭を埋め尽くしていた。
そんな生活を半年も続けていたら、彼女に振られて悲しみに浸っている暇などなかったのだ。
そこに、復縁……。
以前の俺だったら、二つ返事で「Yes」と答えていたような気がする。
他人が満足しそうな答えにあたりを付けて、返事をし、その場を乗り切る。
その場が上手く収まるのが、最も効率のいい方法だと考えていた。
でも、今は……。
それでいいのか。
さっき、さゆりに復縁を求められた時、嬉しい気持ちよりも面倒な気持ちのほうが強かった。今まで自分の感情と向き合ってこなかったので、自分は何を求めているのか鈍感になっているのかもしれない。
返事はしないと……いけないよな……。
感情がごちゃまぜのまま、足早に教室に向かった。
夕方、自宅に戻ると夢斗がバイトに出かけるところだった。
「今日の夕食、カレーでいいか?」
同居してすぐに、玄関で夢斗が倒れたことをきっかけに、二人分の夕食を俺が作っていた。
夢斗はいつも「いいよ」と言う。
あまり食べ物にこだわりがないようだ。
今日も想定通りの「いいよ」が返ってきた。
「今日は8時くらいに帰る」
最近、バイトに出かける際に顔を合わせると、夢斗は帰る時間帯を伝えるようになった。
同居の初日に帰ってくる時間が遅かったことを怒られたことを気にしているようだ。
「今日は早いな」
「新しいバイトが入ったんで、今日は早く上がれるんだ」
「わかった。夕飯、待ってる」
「えっ?!倫くん、待っててくれるの?」
「8時だろ?だから風呂にでも入って待ってようかと」
「いやいやいやいや。いつもだったら先に食べて部屋でゆっくりしてる時間でしょ?どうしたの?」
「どうしたのって。待ってちゃ悪いのか?」
「いや。嬉しい。ありがとう。寄り道しないで帰ってくるよ」
夢斗は満面の笑みを浮かべて出かけていった。
スーパーで食材を買い、早速調理を始める。
材料を切り、鍋で炒めて、水を注いでルーを入れ煮込む。
火を使わず煮込み料理が出来るタイパ目的の鍋があるが、それは使わない。
目の前で自分好みの味になるまで、ぐつぐつと食材が煮込まれる様子を眺めているのが好きだ。
特に、不安や悲しみ、焦りで一杯の時にこの行動に走ってしまう。
感情を全部鍋にぶちまけられたらどんなにいいだろう。
その感情が煮込まれていい出汁になってくれれば言うことなしだ。
ぐつぐつと音をたてながら煮込まれているカレーを見つめていると、さゆりの顔が頭に浮かんだ。
一人になり、時間ができると、思い出したくないことが浮かんでくる。
「だめだめだめだめ。今は考えなくていい」
ひとりごちた。
カレーを味見すると、完璧な味わいだった。
玉ねぎのうまみとカレーのスパイスが口の中に広がり、香りが鼻から抜けた。
目を閉じて、余韻に浸る。
夢斗が食べたら何というだろう。
「ココ〇チのカレーみたい!美味しい」
夢斗はカレーを頬張り、きっとこんなことを言うはずだ。
思わずクスッと笑ってしまった。
「いかん、いかん」
何でも夢斗を紐づけてしまう。
しかも、なんでヤツを……。
風呂から上がると、さゆりの件から解放された気分になった。
誰もいないと思い、上半身裸で腰にタオルを巻きつけフラフラしていたら、夢斗が丁度バイトから戻った。
リビングでばったり鉢合わせする。
髪から水滴が垂れている俺を見て、
「水も滴るいい男、だね」
夢斗が茶化しながら言った。
「まあな。俺様の美貌に惚れたか?」
俺も負けじと言ってみる。
すると、夢斗の頬がピンク色に染まり、次第に顔全部が真っ赤に変わった。
耳まで真っ赤だ。
「その姿、倫くんらしくないよ。早く着替えなよ!」と目をそらした。
「ぼく、着替えてくる」
と言い、そそくさと自室へ入っていった。
「う、うん。準備して待ってる」
思わず首をかしげる。
なんだ?
赤くなるところか?
俺は一人リビングに取り残された。
部屋着に着替え、カレーを温めた。
夢斗と向かい合わせで座り、「いただきまーーーす!」と声を合わせる。
目の前のカレーをスプーンで口に運ぶ。
夢斗の目が大きく見開かれ、輝きだした。
「うん。美味い!ココ〇チのカレーみたい!」
一口頬張るなり、夢斗が口に出した。
「ぷっ!」
俺の想像通りのことを夢斗が言うものだから、俺は思わず吹き出してしまった。
「えっ?!何?倫くん。ぼく、おかしなこと言った?」
「いや、全然。じっくり煮込んだかいがある。美味くて良かった」
「そ、そう?怒られるかと思った」
「怒る?なんで?」
「コンビニコーヒーって言ったら機嫌を悪くしたから……」
「あぁ」
あの頃は確かにイラついていた。
俺の淹れたコーヒーの比較対象がコンビニコーヒーであることに気が立ったことは確かだ。でも、今はそんな感情はない。
『これが夢斗なのだ』と諦めのような、達観した気持ちが出てきたからなのかもしれない。
「ねえ。ぼくの部屋も倫くんのおかげで片付いたし。倫くんは今日はご機嫌なようだから、一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
夢斗が上目遣いで俺を見る。
片付けを手伝ってほしいとは何度も言われたが、夢斗から予測不能なお願いをされるのは初めてだ。
何を言い出すのか、持っていたスプーンを置いた。
「なんだ?俺にできることであれば……」
控えめに答えてみた。
「倫くん、ぼくのことを“お前”って言うじゃない?ぼくは夢斗って名前があるんだから、名前で呼んでよ」
「名前……」
「そう。夢斗って」
「……」
いざ、名前で呼ぼうとすると声が出ない。
「じゃ、ぼくに続いて」
「わかった」
「な」
「な」
「い」
「い」
「と」
「と」
「倫くん、言えたよ。今度は自分で言ってみて」
夢斗の顔が悪魔に見える。
「な……うっ」
次が続かない。
たかだか人の名前を言うだけなのに、こんなにも労力がいるのか?!
さっきまで美味いと感じていたカレーがやけにスパイシーに感じて、舌をヒリつかせる。
辛い。
額から汗がダラダラ垂れてきて、拭いても拭いても汗が湧いてくる。
「言ってくれるまで水飲んじゃ駄目」
水を飲もうとコップを取ろうとした手を夢斗が制した。
夢斗が本当の悪魔になった。
「な……い……と」
徐々に声が小さくなったが、ひとまず希望は叶えた。
「もう少し大きく言って」
「お前、わかってて言ってるだろ?」
夢斗をにらみつけた。
「うん。倫くん、かわいいんだもん」
夢斗は頬杖を突きながら、笑顔で俺の様子を観察している。
やけくそになって、俺は叫んだ。
「ないと!!」
「倫くん、ありがとう。水、汲んでくるね」
夢斗がウキウキしながら冷蔵庫に向かう後ろ姿を眺めた。
特に誰かと共同作業で作り上げることは苦手中の苦手だ。
例えば、人間関係でいうと“友情”“師弟”、スポーツで言うと球技のような“チームワーク”、そして何より苦手なものは―――いや嫌いと言ってもいいかもしれない―――“恋愛”だ。
人の感情ほどわからないものはない。
以前付き合っていた女子に、
「私の悪いところを言って」
と、言われた。
特に思いつくことが無かったので、「ない。今のままでいい」と言ったところ、しつこく問いただされ「本当のことを言って、直すから」と言われた。
何か一言言わないと済まない雰囲気だったので、「化粧が濃いのではないか?」と、言った。
次の日から女子たちに無視され、心のない奴だと噂まで流された。
今思うとストレートすぎた感はある。
しかし、あの時の俺はそれが精いっぱいだった。
今でもよくわからない。
あの時、なんと言えばよかったのだろう?
答えが欲しくて、映画や小説、恋愛マニュアル本を読んだけれども、未だ答えは見つかっていない。
あの件で、言葉を言葉のまま受け取るとロクなことがないことを学んだ。
人には本音と建前があり、良好な人間関係を築いていくためには本音を出さないように生きていく必要があるのだ。
そんなことを考えながら生きてきたら、自分の感情がわからなくなった。
自分は何が好きで、何が嫌いなのか。
得意なもの、不得意なものは何なのか。
自分にとって大切なものは何か。
全部がオブラートにくるまれ、曖昧になった。
俺は他人との距離感を掴むのが苦手だ。
こちらが友人と思っていても、相手はそう思っていない、またその逆も然りだ。
こちらが良かれと思ってやったことが、相手にとっては都合の悪いことだったりもする。
一言でいうと、空気の読めない奴なのだろう。
そのせいか、高校3年になった頃から自分から積極的に友人を作るのはやめた。
目が悪くなったことも重なり、メガネをかけ始めたのもこの頃だったような気がする。
他人と必要以上に接したくない。
一人の方が楽だ。
人間関係を割り切って考えるようになった。
そんな俺に声をかけてくれたのが、大学に入ってすぐに別れた元彼女、小山さゆりだ。
「真面目で嘘をつかないところが好き」
思っていることを素直に口に出す、そんなところが自分と似ている気がして親近感が湧いた。彼女から告白され、付き合うこととなった。
彼女と過ごした1年間は初めてのことばかりで、学びの多い日々だった。
初めてのデートは水族館、そこで初めてのキスを経験した。
映画を一緒に見て、感想を言い合い、泣いたり笑ったり怒ったり、感情を共有し合った。
そして、ベッドでの初体験……。
思い出しただけで全身が火照る。
すべてが順調だった。
ところが、大学に入ってすぐ、突然の別れが訪れた。
「女の人と仲良く歩いているところを見た。浮気するとは思わなかった」
弁明する余地もなく、激しいビンタと共に彼女は去っていった。
その彼女が再び俺の前に現れた。
「やり直したい」
校舎裏の自転車置き場に移動するなり、さゆりが口を開いた。
さゆりの目は潤んでいる。
「大路君が歩いていたのはお姉さんだったんだよね?あの時は、気が動転して大路君の話を聞かずに、別れを切り出したこと、後悔してる。一方的にごめんなさい」
さゆりが頭を下げる。
「謝らなくて、いいよ」
「でも……」
「俺も誤解を与える行動をしていたわけだし」
「……」
さゆりとの会話が続かない。
以前はそんなこともなかったのに、しばらく会わないうちにさゆりとのコミュニケーションの取り方を忘れてしまったようだ。
居心地の悪さを覚え、「授業が始まるから、ごめん」と、さゆりを残してその場を去った。
同じ学校だし、これからもさゆりと顔を合わせることはあるだろう。
どんな顔をして会えばいいのか、わからなくなった。
できるなら、別れたままでいたかった。
こちらは復縁など考えてもいなかったのだから。
さゆりと別れ、姉貴が家を出ていき、ぽっかり空いた穴を埋めたのは夢斗だった。
ストレスまみれの同居生活が、寂しい、悲しい、虚しい、といった感傷に浸るまでもなく、一日一日をどう乗り切っていけばいいのかで頭を埋め尽くしていた。
そんな生活を半年も続けていたら、彼女に振られて悲しみに浸っている暇などなかったのだ。
そこに、復縁……。
以前の俺だったら、二つ返事で「Yes」と答えていたような気がする。
他人が満足しそうな答えにあたりを付けて、返事をし、その場を乗り切る。
その場が上手く収まるのが、最も効率のいい方法だと考えていた。
でも、今は……。
それでいいのか。
さっき、さゆりに復縁を求められた時、嬉しい気持ちよりも面倒な気持ちのほうが強かった。今まで自分の感情と向き合ってこなかったので、自分は何を求めているのか鈍感になっているのかもしれない。
返事はしないと……いけないよな……。
感情がごちゃまぜのまま、足早に教室に向かった。
夕方、自宅に戻ると夢斗がバイトに出かけるところだった。
「今日の夕食、カレーでいいか?」
同居してすぐに、玄関で夢斗が倒れたことをきっかけに、二人分の夕食を俺が作っていた。
夢斗はいつも「いいよ」と言う。
あまり食べ物にこだわりがないようだ。
今日も想定通りの「いいよ」が返ってきた。
「今日は8時くらいに帰る」
最近、バイトに出かける際に顔を合わせると、夢斗は帰る時間帯を伝えるようになった。
同居の初日に帰ってくる時間が遅かったことを怒られたことを気にしているようだ。
「今日は早いな」
「新しいバイトが入ったんで、今日は早く上がれるんだ」
「わかった。夕飯、待ってる」
「えっ?!倫くん、待っててくれるの?」
「8時だろ?だから風呂にでも入って待ってようかと」
「いやいやいやいや。いつもだったら先に食べて部屋でゆっくりしてる時間でしょ?どうしたの?」
「どうしたのって。待ってちゃ悪いのか?」
「いや。嬉しい。ありがとう。寄り道しないで帰ってくるよ」
夢斗は満面の笑みを浮かべて出かけていった。
スーパーで食材を買い、早速調理を始める。
材料を切り、鍋で炒めて、水を注いでルーを入れ煮込む。
火を使わず煮込み料理が出来るタイパ目的の鍋があるが、それは使わない。
目の前で自分好みの味になるまで、ぐつぐつと食材が煮込まれる様子を眺めているのが好きだ。
特に、不安や悲しみ、焦りで一杯の時にこの行動に走ってしまう。
感情を全部鍋にぶちまけられたらどんなにいいだろう。
その感情が煮込まれていい出汁になってくれれば言うことなしだ。
ぐつぐつと音をたてながら煮込まれているカレーを見つめていると、さゆりの顔が頭に浮かんだ。
一人になり、時間ができると、思い出したくないことが浮かんでくる。
「だめだめだめだめ。今は考えなくていい」
ひとりごちた。
カレーを味見すると、完璧な味わいだった。
玉ねぎのうまみとカレーのスパイスが口の中に広がり、香りが鼻から抜けた。
目を閉じて、余韻に浸る。
夢斗が食べたら何というだろう。
「ココ〇チのカレーみたい!美味しい」
夢斗はカレーを頬張り、きっとこんなことを言うはずだ。
思わずクスッと笑ってしまった。
「いかん、いかん」
何でも夢斗を紐づけてしまう。
しかも、なんでヤツを……。
風呂から上がると、さゆりの件から解放された気分になった。
誰もいないと思い、上半身裸で腰にタオルを巻きつけフラフラしていたら、夢斗が丁度バイトから戻った。
リビングでばったり鉢合わせする。
髪から水滴が垂れている俺を見て、
「水も滴るいい男、だね」
夢斗が茶化しながら言った。
「まあな。俺様の美貌に惚れたか?」
俺も負けじと言ってみる。
すると、夢斗の頬がピンク色に染まり、次第に顔全部が真っ赤に変わった。
耳まで真っ赤だ。
「その姿、倫くんらしくないよ。早く着替えなよ!」と目をそらした。
「ぼく、着替えてくる」
と言い、そそくさと自室へ入っていった。
「う、うん。準備して待ってる」
思わず首をかしげる。
なんだ?
赤くなるところか?
俺は一人リビングに取り残された。
部屋着に着替え、カレーを温めた。
夢斗と向かい合わせで座り、「いただきまーーーす!」と声を合わせる。
目の前のカレーをスプーンで口に運ぶ。
夢斗の目が大きく見開かれ、輝きだした。
「うん。美味い!ココ〇チのカレーみたい!」
一口頬張るなり、夢斗が口に出した。
「ぷっ!」
俺の想像通りのことを夢斗が言うものだから、俺は思わず吹き出してしまった。
「えっ?!何?倫くん。ぼく、おかしなこと言った?」
「いや、全然。じっくり煮込んだかいがある。美味くて良かった」
「そ、そう?怒られるかと思った」
「怒る?なんで?」
「コンビニコーヒーって言ったら機嫌を悪くしたから……」
「あぁ」
あの頃は確かにイラついていた。
俺の淹れたコーヒーの比較対象がコンビニコーヒーであることに気が立ったことは確かだ。でも、今はそんな感情はない。
『これが夢斗なのだ』と諦めのような、達観した気持ちが出てきたからなのかもしれない。
「ねえ。ぼくの部屋も倫くんのおかげで片付いたし。倫くんは今日はご機嫌なようだから、一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
夢斗が上目遣いで俺を見る。
片付けを手伝ってほしいとは何度も言われたが、夢斗から予測不能なお願いをされるのは初めてだ。
何を言い出すのか、持っていたスプーンを置いた。
「なんだ?俺にできることであれば……」
控えめに答えてみた。
「倫くん、ぼくのことを“お前”って言うじゃない?ぼくは夢斗って名前があるんだから、名前で呼んでよ」
「名前……」
「そう。夢斗って」
「……」
いざ、名前で呼ぼうとすると声が出ない。
「じゃ、ぼくに続いて」
「わかった」
「な」
「な」
「い」
「い」
「と」
「と」
「倫くん、言えたよ。今度は自分で言ってみて」
夢斗の顔が悪魔に見える。
「な……うっ」
次が続かない。
たかだか人の名前を言うだけなのに、こんなにも労力がいるのか?!
さっきまで美味いと感じていたカレーがやけにスパイシーに感じて、舌をヒリつかせる。
辛い。
額から汗がダラダラ垂れてきて、拭いても拭いても汗が湧いてくる。
「言ってくれるまで水飲んじゃ駄目」
水を飲もうとコップを取ろうとした手を夢斗が制した。
夢斗が本当の悪魔になった。
「な……い……と」
徐々に声が小さくなったが、ひとまず希望は叶えた。
「もう少し大きく言って」
「お前、わかってて言ってるだろ?」
夢斗をにらみつけた。
「うん。倫くん、かわいいんだもん」
夢斗は頬杖を突きながら、笑顔で俺の様子を観察している。
やけくそになって、俺は叫んだ。
「ないと!!」
「倫くん、ありがとう。水、汲んでくるね」
夢斗がウキウキしながら冷蔵庫に向かう後ろ姿を眺めた。

