家に入り扉が閉まると、音が消える。
秀一は、この瞬間が世界で一番嫌いだった。
街の匂い、遠くで誰かが話している話し声、通り過ぎる車の音、誰かがどこかで家の窓を閉める音。
一気に全てが遮断されて、世界に一人取り残されたような気分になる。
また駆け出したくなる感情を抑えて靴を揃えていると、後ろから、母の声がした。
「秀一?どこ行ってたの?」
寝ていると思っていたが、トイレか何かで起きてきたらしい。
秀一はひゅっと喉が詰まっていくのを感じながら、母の方へ体を向けた。
「コンビニ。糖分が切れちゃったみたいで」
「あら、明日から、なにか夜食用意しましょうか?」
「ううん、必要があったら、またコンビニいくよ」
「でも夜食があったらその分勉強できるじゃない」
「......あー、そう、だね」
母は、本当に、良かれと思って言っている。
勉強させ、医学部に入れ、いつか医者になれば、息子の将来は安泰だと。
わかっている。わかっては、いるけれど。
「......でも、あれを試してるんだ」
「あれ?」
「学習の時に運動を取り入れると、長期記憶が上がるってやつ。ジョージア大学でも実験されてて......」
「あら、そうなの?じゃあ、自分で行った方がいいのね。お金が足りなくなったら、いつでも言いなさい」
「あぁ、うん。ありがとう」
母は、満足げな顔をして、寝室の方へ向かった。
不満は、ない。
ただ、ひたすら勉強机に向かう日々には、今日コンビニで飲んだビールほどの満足感もなかった。
秀一は、ふぅ、と息を吐いて、できるだけ音を立てないよう、2階へと向かった。
*
「あ“ー、暑い。ほんで夏が長い」
秀一の友人、高岡が、Tシャツの胸元をパタパタと仰ぎながら言った。
「まぁね。最近秋がお留守だしねー」
秀一は、高岡の様子に苦笑いしながら言葉を返す。
「それにしても吉澤って、まじで汗かかないよな。なんで?」
「さぁ、何でだろうね」
「暑くねぇの?」
「いや、普通に暑いよ」
確かに暑いけれど、高岡は特に暑さに弱いと思う。
いつもアイスばかり食べているし、ゲーマーで常にエアコンが効いた部屋にいるから、余計夏バテが激しいのだと、秀一は解釈している。
そんなもの迷信だという人もいるけれど、高岡と、普段からクーラーが省エネモードの秀一とでは、確かにバテやすさに差があるようだった。
そうこうしているうちに教室の入り口が見えてきて、秀一はカバンから財布を取り出した。
秀一の大学では、教室の入室時に学生証を機器にかざすことで出欠をとっている。
「......あれ?」
「どした?」
「学生証......」
慌ててカバンをかき混ぜたところで、昨夜の光景が頭に浮かんだ。
昨日酒を買ったあと、財布を尻ポケットにしまう前、果たして秀一は、財布に学生証をしまっていただろうか。
焦って酒を飲んだし、急に少年に話しかけられたから、きちんとしまわないまま、手に持っていたのではあるまいか。
「......うわー、しまった」
「ないの?」
「ない。出席票、貰わないと」
「地味にめんどくさいやつだね」
「仕方ないな」
秀一は学生証を探すのをやめて、やたらと丁寧に財布をカバンにしまった。
*
授業が終わり、急いでコンビニへ向かう。
事前に電話したときには、店には届いてないと言われてしまったが、だとしたら、まだ落ちている可能性がある。
再発行すればいいといえばそうなのだが、自分の身分証が悪用されてはかなわないし、何より、バイトもしていない大学生にとって、2500円の再発行手数料は、安いとはいえなかった。
コンビニの店の前にはどう見ても落ちていなくて、もしやゴミ箱の上にでも置いたかと、ゴミ箱の周りを重点的に探した。
「ねぇ」
声がして振り返ると、そこには昨日の少年が、バイクに跨ったまま立っていた。
彼はヘルメットを外して、それから自分の胸元を、ゴソゴソと探った。
「もしかして、これ探してる?」
彼の手の中には、薄い水色のカードが握られていた。
「あぁ、うん」
「はい」
「......ありがとう」
少年は、あまりにも自然な仕草でその身分証を差し出した。
秀一は少し、驚いた。
夜中までコンビニに屯している、あけすけに言ってしまえば、素行不良の少年が、昨日酒を買うのを断っただけの関係である秀一の身分証を拾って、保管して、わざわざ持ってきてくれたのだ。
秀一が安心と驚きで動けずに彼を見つめていると、少年は自嘲気味に笑った。
「......なに?別に、それ使って酒買ったりしてないよ」
「いや、それは疑ってないけど......」
「ふぅん」
『まぁいいけど、』と続けて、彼はとったばかりと思しきヘルメットを、また被ろうとした。
本当にこのためだけに、コンビニに来てくれたらしい。
「じゃあ、俺、バイトだから。気をつけなよ、吉澤さん」
「あ......名前」
「そこに書いてあったから」
彼は少し気まずそうな顔で、秀一の学生証を顎で示した。
引き止めるのも忍びなかったけれど、秀一にも、秀一なりの流儀がある。
「......あ、うん。でも、あの、君の名前は?」
「それ、知ってどうすんの」
「別に、どうもしないけど」
彼は胡乱げな顔をしたけれど、教えてくれるつもりはあるらしい。
バイクの上で、体をほんの少しこちらに向けた。
「十吾。......苗字までいる?」
「いや、いい。ありがとう、十吾くん」
秀一が名前を呼ぶと、十吾はなんだか、照れたような顔になった。
「昨日は悪かったよ。変なこと言って」
彼はそれだけ言って、ヘルメットを被った。
ブオンと大きな音を立てて消えていく背中を見ながら、彼は案外、いい人なのかもしれないと思った。
