16.初めての朝食
瞼越しに強い日差しを感じて、意識が浮上する。トントンと小気味のいい音が聞こえて、美味しそうな香りが鼻腔を満たした。友達伝いに聞き及んだ、理想的な朝の目覚め。終わってしまうのが勿体無く思えて、十吾はあえて、目を開けなかった。
しばらくそうしていると、ジュゥ、という音に隠れて、『あちっ』という小さな声が聞こえた。慌てて目を開くと、キッチンで、人影が忙しなく動いていた。
状況を飲み込めず、十吾は辺りを見回す。カーテンが、開けられていた。この家のカーテンが開いたのは、何年振りのことだろうか。母がいつも朝に寝るものだから、十吾自身もこのカーテンに手をかけたことはなかった。
「あ、起きた?」
声の方を見ると、ちょうど秀一が、テーブルに皿を置いたところだった。皿からは、湯気が立ち上っている。
うちに皿なんかあったんだ、と、ぼんやり考えた。
「ちょうどできたところだよ。食べよ」
秀一が、ダイニングの椅子を引きながら十吾に呼びかける。十吾はまだぼんやりとしたまま、食卓についた。
目の前には、オムライスが置かれていた。卵はボロボロで、隙間から色むらのあるケチャップライスがのぞいている。それでも、いい香りがした。
「ごめん、僕......あんまり料理したことなくて、味は保証できないけど」
秀一が、気まずそうに笑う。フルフルと頭を振ってスプーンを持つと、秀一は十吾が食べるのを、じっと見つめて待った。
「......おいしい」
こぼれ出た言葉に安心して、秀一もスプーンを持つ。一口食べて、『卵固かったね』と笑った。十吾は硬くてボソボソしたそれを、一心不乱に食べた。手料理なんて、いつぶりだろうか。
また、鉛のようなものが込み上げるのを感じた。
秀一は十吾をじっと見て、それから、椅子を寄せた。ぎゅ、と抱きしめられると、余計にダメだった。声を出さないようにしようとすればするほど、喉の奥がクツクツと鳴る。もう自分では、どうしようもなかった。
「......うまい」
「うん」
「めっちゃうまい」
「うん」
結局二人は、オムライスが冷めるまでそうしていた。
食事を終えると、秀一はどこかへ出ようと言った。幸いにも今は夏休みで、することもない。十吾は言われるがままに、バイクを走らせた。
ついたのは、初めて二人で出かけた、河原だった。二人はしばらく、何を話すでもなく、河を眺めた。
「......ご飯、ありがとう」
「いやいや。コンビニにあるものだけで作っただけだから」
「コンビニので作れるの?」
「僕もできるかわからなかったけど、卵があったから。ウインナーとケチャップと、あとレンジのお米で作ってみた」
「......うまかった」
「うん」
二人は、またしばらく河を眺めた。
「そういえば油、使ってないやつ開けちゃったけど、平気だった?」
「......平気」
きっと、新しい男ができた時、最初だけ張り切る癖がある母親の、夢の残骸だ。使ったところで気がつきもしないだろうし、それに母親はもう、帰ってこない。
十吾は足元にある小さな石を、足の裏で転がした。
「......昨日の、ことだけど」
二人がなんとなく避けていた話題に触れると、秀一の肩が、びくりと跳ねた。
「帰らなくて、平気だったの?」
「......あー、うん。どうしてもわからないところがあって、医学部の友達に教えてもらうってことにした」
「今俺、医学生なんだ」
「......そうなるね」
また少しだけ誤魔化して話が終わる。これだけ秀一に世話になったのだから、きちんと理由を話さないとと思ったけれど、大事なことほど上手く言葉になってくれない。
言葉を探していると、秀一が座り直して、少し距離を縮めた。小指の側面が、触れ合っている。そこから伝わる温度が、ひどく心地よかった。
「あのさ、」
秀一が、思い切ったように背筋を伸ばした。思わず十吾の背も伸びる。秀一の指先が、少し動いて、十吾の小指と重なった。
「昨日僕が十吾くんの家に泊まったのはさ......その、どうしても十吾くんと一緒にいたかったんだ」
「......うん」
「一人で泣いていて欲しくないなって......」
「......うん。」
「あのさ、だからさ」
『これからも泣きたくなったら、僕を呼んでよ』
すわぁ、と風が吹いた。まだ緑色のススキが、サワリと音を立てる。十吾を見つめるあまりにもまっすぐな視線にまた目頭が熱くなって、思わず視線を逸らした。
自分はこんなに、泣き虫だっただろうか。昨日今日で、今までの一生分くらい泣いているような気がした。
「は、なんか、告白みてぇ」
そんな自分が恥ずかしくて、吐き捨てるように誤魔化す。それでも秀一の目は、十吾をまっすぐ見つめたままだった。
「うん......告白、だよ」
思いもよらなかった返事に涙は引っ込んで、十吾は秀一をまじまじと見つめた。
「......本気で言ってんの?」
「うん」
「それは、同情とかじゃなくて?」
「はは、違うよ。昨日確信したってだけ」
笑い飛ばされてようやく、話が現実味を帯びる。秀一は、重なった十吾の小指を絡め取った。
「僕、十吾くんのこと、好きだ」
十吾はその指を引き寄せて、秀一を抱きしめた。
「マジで言ってる?」
「大マジ」
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと」
秀一は十吾に抱きしめられながら、クフクフと笑った。二人が腰掛ける石段の下を、ランナーたちが走っていく。けれどそんなことは今、一切気にならなかった。
引っ込んだはずの涙が、秀一の肩を濡らす。それでも秀一は、避けなかった。
「......けど一個だけ文句言っていい?」
「......なに?」
「『十吾』って呼んでって、言ったじゃん」
「でも十吾く......」
「十吾」
「はい」
秀一が、またクフクフと笑った。
瞼越しに強い日差しを感じて、意識が浮上する。トントンと小気味のいい音が聞こえて、美味しそうな香りが鼻腔を満たした。友達伝いに聞き及んだ、理想的な朝の目覚め。終わってしまうのが勿体無く思えて、十吾はあえて、目を開けなかった。
しばらくそうしていると、ジュゥ、という音に隠れて、『あちっ』という小さな声が聞こえた。慌てて目を開くと、キッチンで、人影が忙しなく動いていた。
状況を飲み込めず、十吾は辺りを見回す。カーテンが、開けられていた。この家のカーテンが開いたのは、何年振りのことだろうか。母がいつも朝に寝るものだから、十吾自身もこのカーテンに手をかけたことはなかった。
「あ、起きた?」
声の方を見ると、ちょうど秀一が、テーブルに皿を置いたところだった。皿からは、湯気が立ち上っている。
うちに皿なんかあったんだ、と、ぼんやり考えた。
「ちょうどできたところだよ。食べよ」
秀一が、ダイニングの椅子を引きながら十吾に呼びかける。十吾はまだぼんやりとしたまま、食卓についた。
目の前には、オムライスが置かれていた。卵はボロボロで、隙間から色むらのあるケチャップライスがのぞいている。それでも、いい香りがした。
「ごめん、僕......あんまり料理したことなくて、味は保証できないけど」
秀一が、気まずそうに笑う。フルフルと頭を振ってスプーンを持つと、秀一は十吾が食べるのを、じっと見つめて待った。
「......おいしい」
こぼれ出た言葉に安心して、秀一もスプーンを持つ。一口食べて、『卵固かったね』と笑った。十吾は硬くてボソボソしたそれを、一心不乱に食べた。手料理なんて、いつぶりだろうか。
また、鉛のようなものが込み上げるのを感じた。
秀一は十吾をじっと見て、それから、椅子を寄せた。ぎゅ、と抱きしめられると、余計にダメだった。声を出さないようにしようとすればするほど、喉の奥がクツクツと鳴る。もう自分では、どうしようもなかった。
「......うまい」
「うん」
「めっちゃうまい」
「うん」
結局二人は、オムライスが冷めるまでそうしていた。
食事を終えると、秀一はどこかへ出ようと言った。幸いにも今は夏休みで、することもない。十吾は言われるがままに、バイクを走らせた。
ついたのは、初めて二人で出かけた、河原だった。二人はしばらく、何を話すでもなく、河を眺めた。
「......ご飯、ありがとう」
「いやいや。コンビニにあるものだけで作っただけだから」
「コンビニので作れるの?」
「僕もできるかわからなかったけど、卵があったから。ウインナーとケチャップと、あとレンジのお米で作ってみた」
「......うまかった」
「うん」
二人は、またしばらく河を眺めた。
「そういえば油、使ってないやつ開けちゃったけど、平気だった?」
「......平気」
きっと、新しい男ができた時、最初だけ張り切る癖がある母親の、夢の残骸だ。使ったところで気がつきもしないだろうし、それに母親はもう、帰ってこない。
十吾は足元にある小さな石を、足の裏で転がした。
「......昨日の、ことだけど」
二人がなんとなく避けていた話題に触れると、秀一の肩が、びくりと跳ねた。
「帰らなくて、平気だったの?」
「......あー、うん。どうしてもわからないところがあって、医学部の友達に教えてもらうってことにした」
「今俺、医学生なんだ」
「......そうなるね」
また少しだけ誤魔化して話が終わる。これだけ秀一に世話になったのだから、きちんと理由を話さないとと思ったけれど、大事なことほど上手く言葉になってくれない。
言葉を探していると、秀一が座り直して、少し距離を縮めた。小指の側面が、触れ合っている。そこから伝わる温度が、ひどく心地よかった。
「あのさ、」
秀一が、思い切ったように背筋を伸ばした。思わず十吾の背も伸びる。秀一の指先が、少し動いて、十吾の小指と重なった。
「昨日僕が十吾くんの家に泊まったのはさ......その、どうしても十吾くんと一緒にいたかったんだ」
「......うん」
「一人で泣いていて欲しくないなって......」
「......うん。」
「あのさ、だからさ」
『これからも泣きたくなったら、僕を呼んでよ』
すわぁ、と風が吹いた。まだ緑色のススキが、サワリと音を立てる。十吾を見つめるあまりにもまっすぐな視線にまた目頭が熱くなって、思わず視線を逸らした。
自分はこんなに、泣き虫だっただろうか。昨日今日で、今までの一生分くらい泣いているような気がした。
「は、なんか、告白みてぇ」
そんな自分が恥ずかしくて、吐き捨てるように誤魔化す。それでも秀一の目は、十吾をまっすぐ見つめたままだった。
「うん......告白、だよ」
思いもよらなかった返事に涙は引っ込んで、十吾は秀一をまじまじと見つめた。
「......本気で言ってんの?」
「うん」
「それは、同情とかじゃなくて?」
「はは、違うよ。昨日確信したってだけ」
笑い飛ばされてようやく、話が現実味を帯びる。秀一は、重なった十吾の小指を絡め取った。
「僕、十吾くんのこと、好きだ」
十吾はその指を引き寄せて、秀一を抱きしめた。
「マジで言ってる?」
「大マジ」
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと」
秀一は十吾に抱きしめられながら、クフクフと笑った。二人が腰掛ける石段の下を、ランナーたちが走っていく。けれどそんなことは今、一切気にならなかった。
引っ込んだはずの涙が、秀一の肩を濡らす。それでも秀一は、避けなかった。
「......けど一個だけ文句言っていい?」
「......なに?」
「『十吾』って呼んでって、言ったじゃん」
「でも十吾く......」
「十吾」
「はい」
秀一が、またクフクフと笑った。
