12.おでかけ
十吾から、『おでかけ、行きたいとこがある』と来たのは数日前のことだった。
それはちょうどメッセージが途切れていたタイミングで、きっと勇気を出して送ってくれたのだろうと思ったら、なんだか嬉しくなってその場で喜びを噛み締めた。
なぜ嬉しかったかって、秀一もちょうど、彼にメッセージを送ろうと、携帯を握りしめていたところだったからだ。
けれど、待てど暮らせど、十吾は行き先を教えてはくれなかった。
だから秀一は今、外出先を知らないまま、十吾のバイクにまたがっている。
「結局どこ行くの?」
「秘密だってば」
十吾に話しかけるけれど、風を切る音があまりに大きくて、ずっと話すことはできない。
秀一は諦めて、十吾を抱く腕に、ぎゅっと力を込めた。
行き先は、思いの外遠かった。
そうしてやっと着いたのは、海岸の、小さなレストランだった。
「すいません、二人」
「はーい、そこ座って」
60代くらいのふくよかな女性が、二人をこじんまりとした4人席に通す。
真っ赤な机が、壁に置かれたサインが、いちご模様の爪楊枝入れが、どことなく懐かしい雰囲気を醸し出していた。
秀一はその一つ一つに歴史を感じて、なんだかとても、ワクワクした。
「ここ、よくくるの?」
「ううん、久しぶりに来た」
「そうなんだ」
店員の女性がお冷を持ってきたタイミングで、十吾を見て、ハッとする。
「ねぇもしかして、山内さんとこの?ねぇちょっとあんた!山内さんとこの子!来てる!」
女性は、十吾の返事を待たずに、奥へと呼びかけた。
彼女が覚えていたことに驚いたのか、その剣幕に驚いたのか、十吾は曖昧に頷いただけだった。
「あぁ“?」
店の奥から出てきたのは、女性と同じくらいの歳の、黒く日焼けした男性だった。
服の上からでもわかるほどがっしりとしていて、料理人というよりは、大工か、漁師然としている。
彼は十吾を見て、その強面を緩めた。
「おぉ、山内のとこの孫か!......元気だったか?」
「......はい」
たった一言の返事には、万感の思いが込められていた。
秀一がその全てを知ることはできないけれど、ここが十吾にとってとても大事な場所なのだろうということは、十分に理解できた。
それからは、早かった。
あれよあれよという間に、十吾と秀一の前には、旬の魚が山盛りになった海鮮丼が置かれた。
シラスにマグロ、それからいろんな地魚が、所狭しと並べられている。
十吾はそれを、黙々と食べた。
女将さんは秀一の横に座って、にこやかに笑いかけながら、十吾の幼い頃の写真を見せた。
十吾は幼少期この辺に住んでいて、祖父とここによく来ていたらしい。
祖父というのはきっと、あのバイクを持っていたというお祖父さんのことだろう。
秀一は、一心に海鮮丼を食べる十吾をチラリと見た。
「優しそうな人だね」
「うん」
女将さんは、十吾と秀一のやり取りを、ニコニコと見つめていた。
お腹が破裂しそうな量の海鮮丼をなんとか食べ終えて、二人はもっと先へと向かった。
岩場の多い海岸に飛び出た桟橋の上で、二人は横並びに腰掛ける。
足は僅かに、海面に届かなかった。
「行きたいところ、どこなんだろうと思ったら、お祖父さんとの思い出の場所だったんだね」
「うん」
十吾は、口数が少なかった。
きっと、照れているのだろうと思った。
「母さんに彼氏ができるまでは、一緒に住んでたんだ」
「へぇ」
「じゃあ、陽斗くんとは、引っ越してから?」
「そう」
十吾は、普段過去のことや家庭のことについて、多くを語らない。
秀一もそれでいいと思っていたけれど、こうして共有してくれるのは、それはそれで嬉しかった。
こどもの頃に食べた海鮮丼の味、祖父と行った海岸、あと祖父のバイクで感じた風も全部。
幼い十吾を追体験しているようだった。
「秀一......くんは、どんな子だったの?」
十吾が、問いかけた。
「ん......秀一くん?」
十吾はいつも秀一を、『吉澤さん』と呼んでいるはずだった。
急に変わった呼び名に驚いて覗き込もうとするけれど、十吾は上体を倒していて、表情は伺えない。
「......だめ?」
「あ、別にダメじゃないよ!ただ、急だなって」
「いや......こないだ」
「ん?」
「こないだのコンビニで、陽斗が『秀一さん』て」
「え?あ、あぁ、そうだね」
「だから」
「......そっか」
秀一はくすぐったくなって、身体を引いた。
そこで『さん』でなくて『くん』というのが、陽斗よりも近くありたいという十吾の気持ちの現れな気に思える。
秀一は、これほどに明確な好意をぶつけられたのは、初めてだった。
「で?どんな子だったの?」
十吾は身体を起こして、秀一を覗き込んだ。
「どうって......」
一言で言うなら、いい子、だったと思う。
親の言うように起き、親の言うように食べて、親の言うように眠る。そういう子だったと思う。
受験して幼稚園に入り、受験して小学校に入り、受験して受験して、大学にも受かった。
それが当たり前で最善なのだと、信じて疑わなかった。
それを息苦しく思うようになったきっかけを、秀一は明確に覚えている。
大学の合格発表のあと、合格祝いで行った、高級フレンチだ。
父が、前菜のキッシュを食べながら言った。
「ひとまず、合格おめでとう。次は医師免許だな」
この時初めて、『空虚』という言葉の意味を知った。
最後の受験だと思っていた大学受験が終わったはずなのにまだその先があったことにも、そんなことを何も考えていなかった自分にも、愕然とした。
そして、気がついてしまった。多分この先どんなに頑張ったところで結局、親が秀一を認めてくれる日は、一生訪れないだろう。
親に認めてもらうために医学部に入った秀一は、大学のオリエンテーションの日に問われた『なぜ医学部に入ったのか、なぜ医師になりたいのか』という問いの答えを、持っていなかった。
その時なんと答えたのかさえも、覚えていない。
「正直自分でも、わからないんだ。今やっていることが、正解なのか」
こどもの頃の話をしていたはずが、流れ流れて、ただの悩みを吐露する形になった。
けれど十吾は、ただじっとそれを聞いていた。
「医者に......本当になりたいかどうかも」
足の親指の先が、水に触れる。
秀一は、慌てて足を引っ込めた。
「......俺はさ、正解が何か......っていうか、正解があるのかどうかもわかんないけど」
十吾は、慎重に前置きをした。
「向いてると思うよ、医者に」
「......僕が?」
「うん」
慌てて足を引き上げた秀一と違い、十吾は潮位が上がってきた水を受け入れて、足先で潮を弾きながら、秀一の問いに答えた。
「だって、誰にでも優しいじゃん」
「......優しいだけじゃ医者は務まらないよ」
「でも、医者には優しくあってほしいじゃん」
当たり前のように紡がれる言葉が、乾き切った秀一の心の砂漠に、数滴の水を垂らした。
「そうかな」
「うん」
理性が、優しいだけじゃやっていけないというけれど、でも今だけは、ほんの一筋の、自分が医者に向いているかもしれないという希望に縋ってみたかった。
それからも二人は、取りとめのない話を続けた。
どんどん潮が満ちて、波がふくらはぎを濡らしても、秀一はもう、気にならなかった。
秀一はこの日をこの先ずっと、忘れないだろうと思った。
十吾から、『おでかけ、行きたいとこがある』と来たのは数日前のことだった。
それはちょうどメッセージが途切れていたタイミングで、きっと勇気を出して送ってくれたのだろうと思ったら、なんだか嬉しくなってその場で喜びを噛み締めた。
なぜ嬉しかったかって、秀一もちょうど、彼にメッセージを送ろうと、携帯を握りしめていたところだったからだ。
けれど、待てど暮らせど、十吾は行き先を教えてはくれなかった。
だから秀一は今、外出先を知らないまま、十吾のバイクにまたがっている。
「結局どこ行くの?」
「秘密だってば」
十吾に話しかけるけれど、風を切る音があまりに大きくて、ずっと話すことはできない。
秀一は諦めて、十吾を抱く腕に、ぎゅっと力を込めた。
行き先は、思いの外遠かった。
そうしてやっと着いたのは、海岸の、小さなレストランだった。
「すいません、二人」
「はーい、そこ座って」
60代くらいのふくよかな女性が、二人をこじんまりとした4人席に通す。
真っ赤な机が、壁に置かれたサインが、いちご模様の爪楊枝入れが、どことなく懐かしい雰囲気を醸し出していた。
秀一はその一つ一つに歴史を感じて、なんだかとても、ワクワクした。
「ここ、よくくるの?」
「ううん、久しぶりに来た」
「そうなんだ」
店員の女性がお冷を持ってきたタイミングで、十吾を見て、ハッとする。
「ねぇもしかして、山内さんとこの?ねぇちょっとあんた!山内さんとこの子!来てる!」
女性は、十吾の返事を待たずに、奥へと呼びかけた。
彼女が覚えていたことに驚いたのか、その剣幕に驚いたのか、十吾は曖昧に頷いただけだった。
「あぁ“?」
店の奥から出てきたのは、女性と同じくらいの歳の、黒く日焼けした男性だった。
服の上からでもわかるほどがっしりとしていて、料理人というよりは、大工か、漁師然としている。
彼は十吾を見て、その強面を緩めた。
「おぉ、山内のとこの孫か!......元気だったか?」
「......はい」
たった一言の返事には、万感の思いが込められていた。
秀一がその全てを知ることはできないけれど、ここが十吾にとってとても大事な場所なのだろうということは、十分に理解できた。
それからは、早かった。
あれよあれよという間に、十吾と秀一の前には、旬の魚が山盛りになった海鮮丼が置かれた。
シラスにマグロ、それからいろんな地魚が、所狭しと並べられている。
十吾はそれを、黙々と食べた。
女将さんは秀一の横に座って、にこやかに笑いかけながら、十吾の幼い頃の写真を見せた。
十吾は幼少期この辺に住んでいて、祖父とここによく来ていたらしい。
祖父というのはきっと、あのバイクを持っていたというお祖父さんのことだろう。
秀一は、一心に海鮮丼を食べる十吾をチラリと見た。
「優しそうな人だね」
「うん」
女将さんは、十吾と秀一のやり取りを、ニコニコと見つめていた。
お腹が破裂しそうな量の海鮮丼をなんとか食べ終えて、二人はもっと先へと向かった。
岩場の多い海岸に飛び出た桟橋の上で、二人は横並びに腰掛ける。
足は僅かに、海面に届かなかった。
「行きたいところ、どこなんだろうと思ったら、お祖父さんとの思い出の場所だったんだね」
「うん」
十吾は、口数が少なかった。
きっと、照れているのだろうと思った。
「母さんに彼氏ができるまでは、一緒に住んでたんだ」
「へぇ」
「じゃあ、陽斗くんとは、引っ越してから?」
「そう」
十吾は、普段過去のことや家庭のことについて、多くを語らない。
秀一もそれでいいと思っていたけれど、こうして共有してくれるのは、それはそれで嬉しかった。
こどもの頃に食べた海鮮丼の味、祖父と行った海岸、あと祖父のバイクで感じた風も全部。
幼い十吾を追体験しているようだった。
「秀一......くんは、どんな子だったの?」
十吾が、問いかけた。
「ん......秀一くん?」
十吾はいつも秀一を、『吉澤さん』と呼んでいるはずだった。
急に変わった呼び名に驚いて覗き込もうとするけれど、十吾は上体を倒していて、表情は伺えない。
「......だめ?」
「あ、別にダメじゃないよ!ただ、急だなって」
「いや......こないだ」
「ん?」
「こないだのコンビニで、陽斗が『秀一さん』て」
「え?あ、あぁ、そうだね」
「だから」
「......そっか」
秀一はくすぐったくなって、身体を引いた。
そこで『さん』でなくて『くん』というのが、陽斗よりも近くありたいという十吾の気持ちの現れな気に思える。
秀一は、これほどに明確な好意をぶつけられたのは、初めてだった。
「で?どんな子だったの?」
十吾は身体を起こして、秀一を覗き込んだ。
「どうって......」
一言で言うなら、いい子、だったと思う。
親の言うように起き、親の言うように食べて、親の言うように眠る。そういう子だったと思う。
受験して幼稚園に入り、受験して小学校に入り、受験して受験して、大学にも受かった。
それが当たり前で最善なのだと、信じて疑わなかった。
それを息苦しく思うようになったきっかけを、秀一は明確に覚えている。
大学の合格発表のあと、合格祝いで行った、高級フレンチだ。
父が、前菜のキッシュを食べながら言った。
「ひとまず、合格おめでとう。次は医師免許だな」
この時初めて、『空虚』という言葉の意味を知った。
最後の受験だと思っていた大学受験が終わったはずなのにまだその先があったことにも、そんなことを何も考えていなかった自分にも、愕然とした。
そして、気がついてしまった。多分この先どんなに頑張ったところで結局、親が秀一を認めてくれる日は、一生訪れないだろう。
親に認めてもらうために医学部に入った秀一は、大学のオリエンテーションの日に問われた『なぜ医学部に入ったのか、なぜ医師になりたいのか』という問いの答えを、持っていなかった。
その時なんと答えたのかさえも、覚えていない。
「正直自分でも、わからないんだ。今やっていることが、正解なのか」
こどもの頃の話をしていたはずが、流れ流れて、ただの悩みを吐露する形になった。
けれど十吾は、ただじっとそれを聞いていた。
「医者に......本当になりたいかどうかも」
足の親指の先が、水に触れる。
秀一は、慌てて足を引っ込めた。
「......俺はさ、正解が何か......っていうか、正解があるのかどうかもわかんないけど」
十吾は、慎重に前置きをした。
「向いてると思うよ、医者に」
「......僕が?」
「うん」
慌てて足を引き上げた秀一と違い、十吾は潮位が上がってきた水を受け入れて、足先で潮を弾きながら、秀一の問いに答えた。
「だって、誰にでも優しいじゃん」
「......優しいだけじゃ医者は務まらないよ」
「でも、医者には優しくあってほしいじゃん」
当たり前のように紡がれる言葉が、乾き切った秀一の心の砂漠に、数滴の水を垂らした。
「そうかな」
「うん」
理性が、優しいだけじゃやっていけないというけれど、でも今だけは、ほんの一筋の、自分が医者に向いているかもしれないという希望に縋ってみたかった。
それからも二人は、取りとめのない話を続けた。
どんどん潮が満ちて、波がふくらはぎを濡らしても、秀一はもう、気にならなかった。
秀一はこの日をこの先ずっと、忘れないだろうと思った。
