温明殿では、すでに女房たちが忙しなく動き始めていた。橙子が雅貴を連れて登場すると、小町がずんずんとこちらに向かって歩いてきた。
「ちょっと新入りのくせに遅いわよ。東宮さまの身支度や御朝食の準備に行くから早くして」
「ああ、それなんですが、今日は、調度品や小物の片付けするよう藤掌侍さまから仰せつかりました」
「ええ? そんな雑用——って、その美人な子は?」
後ろに控える見慣れない顔を小町が訝しげに見る。橙子は、あえて元気よく笑った。
「御所で一人は寂しいだろうと心配した父上が寄越した私の従妹です。急なことだったから、今ほど藤掌侍さまにご挨拶をして、ここで働く許可をいただきました」
小町が「はあ?」と顔をしかめた。
「なんて過保護な父親なの。それに、寂しいなら、先輩である私を頼りなさいよ。しかも、こんな美人な従妹……あなた、名前は?」
雅貴が、「名前?」と裏返った声を震わせる。そう言えば全く考えていなかった。小町が早く言えとばかりに詰め寄れば、雅貴は意を決した様子で口を開いた。
「ええと……あ、明石?」
「なんで名乗るのに疑問形なのよ。というより、思ったより声が低いのね」
なぜか顔を赤らめる小町である。そして、ちろちろと雅貴の容姿を確認しつつ、橙子に耳打ちする。
「あの子の身支度は、やっぱりあなたがしたの?」
「ええ、そうです」
「まあ、もともと美人なのだろうけど素敵だわ。あと、その他人行儀な話し方はいいから。もう私たち同僚でしょう?」
「ああ、うん。そうね!」
小町が「それじゃ困ったことがあったら相談して」と気忙しく去っていく。橙子と雅貴は、小町の後ろ姿を見送って、ふうっと胸を撫で下ろした。
「焦った……名前、あれで良かったか?」
「いいと思う。それで、どうする?」
「温明殿に使われなくなった調度品や小物類を保管する場所がある。まずはそこに行こう。こっちだ」
「あ、ちょっと待って」
さっきよりは歩幅が小さくなったものの足が早い。そもそも、今日の新入りに置いていかれる昨日の新入りってどうなのか。橙子はさっさと歩いて行く雅貴のあとを慌てて追いかけた。
「ここだ」
殿舎北側の角に位置する部屋へ到着すると、雅貴は腰に手をあて部屋の中を眺める。
「もともと女房の詰め所の一つだと聞いているが……今はもうただの物置だ」
うちわや扇子が入った籠、香炉、文机、鏡などの小物類が、特に規則性もなく乱雑に置かれてある。奥には、螺鈿が施された棚、几帳と呼ばれる衝立、立派な絵が描かれた屏風といったものまであった。
「これは、何がなくなっても分からないでしょう? よく気づいたわね」
「たまたまだ。一旦片付けたものを次の日にやっぱり出すことになって……そしたらなくなっていたんだ。で、あれこれ確認したら他にもなくなっている物があるは、別の殿舎でも似たようなことが起きているはで、大騒ぎとなった」
「そういうこと」
その時、突然するすると衣擦れの音が近づいてきて、橙子と雅貴はハッとする。とっさに雅貴が橙子の手を引き——几帳と調度品が置かれてある隙間に二人は潜り込んだ。
「ちょっと、なんで隠れるの??」
「や、なんとなく。しっ、来るぞ」
人間が一人入ることができる程度の空間。そこへ二人して入ったものだから、否応なしに体が密着する。ぎゅっと胸に顔を押しつけられ、橙子の心臓は早鐘を打つ。
衣を何枚重ねて着ていても、女っぽい香をたしきめていても、伝わる肌の感覚は誤魔化しようがない。
ふと着替えの最中に見た雅貴の半裸姿を思い出し、橙子はかあっと頭に血が上った。
息苦しさに顔を上げれば、真剣に耳をすませる雅貴の顔がある。彼は無言で橙子の口元に指を立ててから、ゆっくりと外を指した。
その意味するところは、「静かに様子をさぐれないか」だ。雅貴は背を向けた形になっているため、橙子が雅貴の肩越しに見るしかない。橙子はすぐさま気持ちを切り替え、静かに首を伸ばすと、几帳の薄布の隙間から外の様子をうかがった。
女房が一人、何かを探しているようである。まあ、物置であるので、必要な物を取りに来ただけかもしれない。しかし、周りに誰もいないのに、彼女は顔を扇で隠していた。
(誰かに見られたくない?)
もう少し見えないかと、橙子は目を凝らす。ほんの一瞬、衣の襲の色がはっきりと見えた。
そして、ことんっと何かを置く音がして、謎の女房は足早に去っていった。
人の気配が完全に消え、橙子と雅貴は大きく息をつく。まさか、いきなり怪しい人物に遭遇するとは思わなかった。
「雅貴さま、」
「ああ、そうだな」
雅貴が大きく頷く。しかし、すぐに動こうとはしない。なぜか橙子を懐に収め、いつまでも抱きしめている。
「あの……ええと?」
「昔のかくれんぼを思い出した。ほら、大事な白磁の器を割ってしまって、土蔵に二人で隠れただろ」
懐かしそうに雅貴が目を細めた。
「ちょっと新入りのくせに遅いわよ。東宮さまの身支度や御朝食の準備に行くから早くして」
「ああ、それなんですが、今日は、調度品や小物の片付けするよう藤掌侍さまから仰せつかりました」
「ええ? そんな雑用——って、その美人な子は?」
後ろに控える見慣れない顔を小町が訝しげに見る。橙子は、あえて元気よく笑った。
「御所で一人は寂しいだろうと心配した父上が寄越した私の従妹です。急なことだったから、今ほど藤掌侍さまにご挨拶をして、ここで働く許可をいただきました」
小町が「はあ?」と顔をしかめた。
「なんて過保護な父親なの。それに、寂しいなら、先輩である私を頼りなさいよ。しかも、こんな美人な従妹……あなた、名前は?」
雅貴が、「名前?」と裏返った声を震わせる。そう言えば全く考えていなかった。小町が早く言えとばかりに詰め寄れば、雅貴は意を決した様子で口を開いた。
「ええと……あ、明石?」
「なんで名乗るのに疑問形なのよ。というより、思ったより声が低いのね」
なぜか顔を赤らめる小町である。そして、ちろちろと雅貴の容姿を確認しつつ、橙子に耳打ちする。
「あの子の身支度は、やっぱりあなたがしたの?」
「ええ、そうです」
「まあ、もともと美人なのだろうけど素敵だわ。あと、その他人行儀な話し方はいいから。もう私たち同僚でしょう?」
「ああ、うん。そうね!」
小町が「それじゃ困ったことがあったら相談して」と気忙しく去っていく。橙子と雅貴は、小町の後ろ姿を見送って、ふうっと胸を撫で下ろした。
「焦った……名前、あれで良かったか?」
「いいと思う。それで、どうする?」
「温明殿に使われなくなった調度品や小物類を保管する場所がある。まずはそこに行こう。こっちだ」
「あ、ちょっと待って」
さっきよりは歩幅が小さくなったものの足が早い。そもそも、今日の新入りに置いていかれる昨日の新入りってどうなのか。橙子はさっさと歩いて行く雅貴のあとを慌てて追いかけた。
「ここだ」
殿舎北側の角に位置する部屋へ到着すると、雅貴は腰に手をあて部屋の中を眺める。
「もともと女房の詰め所の一つだと聞いているが……今はもうただの物置だ」
うちわや扇子が入った籠、香炉、文机、鏡などの小物類が、特に規則性もなく乱雑に置かれてある。奥には、螺鈿が施された棚、几帳と呼ばれる衝立、立派な絵が描かれた屏風といったものまであった。
「これは、何がなくなっても分からないでしょう? よく気づいたわね」
「たまたまだ。一旦片付けたものを次の日にやっぱり出すことになって……そしたらなくなっていたんだ。で、あれこれ確認したら他にもなくなっている物があるは、別の殿舎でも似たようなことが起きているはで、大騒ぎとなった」
「そういうこと」
その時、突然するすると衣擦れの音が近づいてきて、橙子と雅貴はハッとする。とっさに雅貴が橙子の手を引き——几帳と調度品が置かれてある隙間に二人は潜り込んだ。
「ちょっと、なんで隠れるの??」
「や、なんとなく。しっ、来るぞ」
人間が一人入ることができる程度の空間。そこへ二人して入ったものだから、否応なしに体が密着する。ぎゅっと胸に顔を押しつけられ、橙子の心臓は早鐘を打つ。
衣を何枚重ねて着ていても、女っぽい香をたしきめていても、伝わる肌の感覚は誤魔化しようがない。
ふと着替えの最中に見た雅貴の半裸姿を思い出し、橙子はかあっと頭に血が上った。
息苦しさに顔を上げれば、真剣に耳をすませる雅貴の顔がある。彼は無言で橙子の口元に指を立ててから、ゆっくりと外を指した。
その意味するところは、「静かに様子をさぐれないか」だ。雅貴は背を向けた形になっているため、橙子が雅貴の肩越しに見るしかない。橙子はすぐさま気持ちを切り替え、静かに首を伸ばすと、几帳の薄布の隙間から外の様子をうかがった。
女房が一人、何かを探しているようである。まあ、物置であるので、必要な物を取りに来ただけかもしれない。しかし、周りに誰もいないのに、彼女は顔を扇で隠していた。
(誰かに見られたくない?)
もう少し見えないかと、橙子は目を凝らす。ほんの一瞬、衣の襲の色がはっきりと見えた。
そして、ことんっと何かを置く音がして、謎の女房は足早に去っていった。
人の気配が完全に消え、橙子と雅貴は大きく息をつく。まさか、いきなり怪しい人物に遭遇するとは思わなかった。
「雅貴さま、」
「ああ、そうだな」
雅貴が大きく頷く。しかし、すぐに動こうとはしない。なぜか橙子を懐に収め、いつまでも抱きしめている。
「あの……ええと?」
「昔のかくれんぼを思い出した。ほら、大事な白磁の器を割ってしまって、土蔵に二人で隠れただろ」
懐かしそうに雅貴が目を細めた。

