東宮がにやにやと面白そうに目を細める。
「やけに橙子が関わることを嫌がって——。こんなにぐちぐちと煮えきらないそなたは初めて見るぞ」
橙子は「そうなのですか?」と首を傾げた。淡々としている雅貴なんて、逆に想像がつかない。
「東宮さま、いつもはどんな蔵人少将さまなのか教えてください。さっきも話していたように頑固で意見を曲げないでしょう? だから、思い通りにいかないとずっとぐちぐちと言って面倒でした。今みたいにうるさいし」
「ほう、それは興味深い。にしても、教えて欲しいとは。幼馴染であろう?」
「いえ、幼馴染ではありません。幼い頃にしばらく一緒に過ごしただけの顔見知りです」
「だあっ、もうっ! 余計な話をするなっ、東宮——子さん!」
「……」
しばしの沈黙。とうとう「東宮」と「橙子」と「さん」が合体した。もう誰に対する言葉なのかさえ分からない。
次の瞬間、こらえきれなくなった東宮が大笑いした。藤も袖で口元を隠しながら肩を揺すっている。
雅貴が顔を真っ赤にさせて二人をにらんだ。
「真面目に話し合う気がないなら私はこれで失礼します」
「まあ待て、雅貴。橙子一人では心配だという話だろう? どうだ藤、誰かつけることはできそうか?」
「可能ですが……やはり、誰もが疑わしい状況での選抜は慎重にならざるをえません。それに、女一人が二人になったところで危険はあまり変わらないかと。蔵人少将さまが近くにいてくれれば確かに安心ですけど、男ですしねえ」
藤が悩ましげにため息をつく。
しかしその時、橙子が「あ!」と声を上げた。
「そうです! 女です!」
そう言って、橙子は目をきらきら輝かせながら三人を見る。
「蔵人少将さまに女性になってもらいましょう! そうすれば二人で一緒に行動できます!」
「ちょっと待って、橙子さん。ど、どういう意味?」
「あなたに女装してもらうわ。大丈夫、服飾と化粧だけは自信があるから。知っているでしょ?」
「は? いやいやいやいや」
雅貴が何を言い出すんだとばかりに首を左右に振る。しかし、すぐさま「名案だな」と東宮が賛成した。
「確かに。雅貴が側にいれば安心だ」
「……なるほど、そうですね。では、橙子の従妹ということでどうでしょう?」
藤も大きく頷いて賛同する。雅貴がおろおろになりながら「ちょっと待て」と反論した。
「二人とも、勝手に話を進めないでください。女装なんてできるわけがない——」
「おまえが言い出したのだぞ。橙子一人では荷が重すぎると」
「そうよ。だって雅貴さん、心配なのでしょう?」
「……!」
雅貴が助けを求めるような眼差しを橙子に向ける。橙子はそれを受け止め——元気よく握りこぶしを掲げた。
「分かっているわ。ばっちり変身させてあげるから、安心して!」
「そうじゃない……」
雅貴が信じられないと両手で顔を覆った。
その後、明日の早朝に藤の部屋に集合することが決定し、今日はこれで解散となった。
帰りは、温明殿までの道が分からない新人を送るという名目で雅貴がついてきた。ちなみに藤は、東宮に引き止められてそのまま残っている。
「蔵人少将さま、ここまで来れば分かります。ありがとうございます」
二人で並んで歩くだけでも目立つ。それなのに、温明殿までついて来られてはたまらない。橙子は、歩き出してすぐに前を行く雅貴に声をかけた。
雅貴がぴたりと足を止め、不満そうな顔で振り返る。
「そんな他人行儀な呼び方をするな。会った時は雅貴と呼んでくれたじゃないか」
「あれは久しぶりだったからうっかり……。公の場では、義姉である藤さまとも役職で呼び合っているじゃない」
「橙子さん」
「それもおかしいわ、改めないと。さっきも東宮さまの前でうっかり出ていたでしょう? 私は地方のしがない豪族の娘よ。家柄も身分も、あなたの方がずっと上」
ここが明石で、まだ子どもだと言うのなら許されるかもしれない。しかし、ここは御所であるし、もう二人とも立派な大人だ。
言葉きつめに橙子が苦言を呈すると、雅貴はむすっとした顔で目をそらした。
(あ、また拗ねた)
橙子は心の中で嘆息する。すっかり変わってしまったなと思うのに、こういうところは変わっていない。
頭をなでてなだめる? でも、ここはきちんと線引するところだ。
「蔵人少将さま——」
「じゃあ、雅貴さまで。口調は、いつもどおり。でないと口をきかない」
雅貴が強い口調で言い返してきた。これ以上は絶対に譲らないといった感じだ。
(妙なところで意地っ張りなんだから)
でも、橙子としても実のところ「雅貴さま」の方が呼びやすい。
「分かったわ。雅貴さま」
それで橙子が了承すると、雅貴は得意げな顔でにこりと笑った。そしてふいに顔を寄せ、耳元でささやく。
「じゃあまた明日、橙子」
雅貴の息が耳たぶにかかる。かあっと血が逆流する。思わず橙子は耳を押さえて退いた。
「あああああなたね!」
「さん付けはおかしいと指摘したのは橙子だろ」
意地悪な口調でさらりと答え、雅貴は踵を返して歩き出す。
(雅貴のくせに——!)
耳に残る低い声。雅貴の背中を見つめ、橙子は感じたことのない胸の高鳴りを覚える。しかしまだ、二人の関係が思わぬ方向へ転がり始めていることに彼女は気づいていない。
「やけに橙子が関わることを嫌がって——。こんなにぐちぐちと煮えきらないそなたは初めて見るぞ」
橙子は「そうなのですか?」と首を傾げた。淡々としている雅貴なんて、逆に想像がつかない。
「東宮さま、いつもはどんな蔵人少将さまなのか教えてください。さっきも話していたように頑固で意見を曲げないでしょう? だから、思い通りにいかないとずっとぐちぐちと言って面倒でした。今みたいにうるさいし」
「ほう、それは興味深い。にしても、教えて欲しいとは。幼馴染であろう?」
「いえ、幼馴染ではありません。幼い頃にしばらく一緒に過ごしただけの顔見知りです」
「だあっ、もうっ! 余計な話をするなっ、東宮——子さん!」
「……」
しばしの沈黙。とうとう「東宮」と「橙子」と「さん」が合体した。もう誰に対する言葉なのかさえ分からない。
次の瞬間、こらえきれなくなった東宮が大笑いした。藤も袖で口元を隠しながら肩を揺すっている。
雅貴が顔を真っ赤にさせて二人をにらんだ。
「真面目に話し合う気がないなら私はこれで失礼します」
「まあ待て、雅貴。橙子一人では心配だという話だろう? どうだ藤、誰かつけることはできそうか?」
「可能ですが……やはり、誰もが疑わしい状況での選抜は慎重にならざるをえません。それに、女一人が二人になったところで危険はあまり変わらないかと。蔵人少将さまが近くにいてくれれば確かに安心ですけど、男ですしねえ」
藤が悩ましげにため息をつく。
しかしその時、橙子が「あ!」と声を上げた。
「そうです! 女です!」
そう言って、橙子は目をきらきら輝かせながら三人を見る。
「蔵人少将さまに女性になってもらいましょう! そうすれば二人で一緒に行動できます!」
「ちょっと待って、橙子さん。ど、どういう意味?」
「あなたに女装してもらうわ。大丈夫、服飾と化粧だけは自信があるから。知っているでしょ?」
「は? いやいやいやいや」
雅貴が何を言い出すんだとばかりに首を左右に振る。しかし、すぐさま「名案だな」と東宮が賛成した。
「確かに。雅貴が側にいれば安心だ」
「……なるほど、そうですね。では、橙子の従妹ということでどうでしょう?」
藤も大きく頷いて賛同する。雅貴がおろおろになりながら「ちょっと待て」と反論した。
「二人とも、勝手に話を進めないでください。女装なんてできるわけがない——」
「おまえが言い出したのだぞ。橙子一人では荷が重すぎると」
「そうよ。だって雅貴さん、心配なのでしょう?」
「……!」
雅貴が助けを求めるような眼差しを橙子に向ける。橙子はそれを受け止め——元気よく握りこぶしを掲げた。
「分かっているわ。ばっちり変身させてあげるから、安心して!」
「そうじゃない……」
雅貴が信じられないと両手で顔を覆った。
その後、明日の早朝に藤の部屋に集合することが決定し、今日はこれで解散となった。
帰りは、温明殿までの道が分からない新人を送るという名目で雅貴がついてきた。ちなみに藤は、東宮に引き止められてそのまま残っている。
「蔵人少将さま、ここまで来れば分かります。ありがとうございます」
二人で並んで歩くだけでも目立つ。それなのに、温明殿までついて来られてはたまらない。橙子は、歩き出してすぐに前を行く雅貴に声をかけた。
雅貴がぴたりと足を止め、不満そうな顔で振り返る。
「そんな他人行儀な呼び方をするな。会った時は雅貴と呼んでくれたじゃないか」
「あれは久しぶりだったからうっかり……。公の場では、義姉である藤さまとも役職で呼び合っているじゃない」
「橙子さん」
「それもおかしいわ、改めないと。さっきも東宮さまの前でうっかり出ていたでしょう? 私は地方のしがない豪族の娘よ。家柄も身分も、あなたの方がずっと上」
ここが明石で、まだ子どもだと言うのなら許されるかもしれない。しかし、ここは御所であるし、もう二人とも立派な大人だ。
言葉きつめに橙子が苦言を呈すると、雅貴はむすっとした顔で目をそらした。
(あ、また拗ねた)
橙子は心の中で嘆息する。すっかり変わってしまったなと思うのに、こういうところは変わっていない。
頭をなでてなだめる? でも、ここはきちんと線引するところだ。
「蔵人少将さま——」
「じゃあ、雅貴さまで。口調は、いつもどおり。でないと口をきかない」
雅貴が強い口調で言い返してきた。これ以上は絶対に譲らないといった感じだ。
(妙なところで意地っ張りなんだから)
でも、橙子としても実のところ「雅貴さま」の方が呼びやすい。
「分かったわ。雅貴さま」
それで橙子が了承すると、雅貴は得意げな顔でにこりと笑った。そしてふいに顔を寄せ、耳元でささやく。
「じゃあまた明日、橙子」
雅貴の息が耳たぶにかかる。かあっと血が逆流する。思わず橙子は耳を押さえて退いた。
「あああああなたね!」
「さん付けはおかしいと指摘したのは橙子だろ」
意地悪な口調でさらりと答え、雅貴は踵を返して歩き出す。
(雅貴のくせに——!)
耳に残る低い声。雅貴の背中を見つめ、橙子は感じたことのない胸の高鳴りを覚える。しかしまだ、二人の関係が思わぬ方向へ転がり始めていることに彼女は気づいていない。

