昭陽舎に到着し東宮の部屋の前まで来ると、雅貴と藤がとともに膝をついて低頭した。
「明石の加古長信の娘を連れてまいりました」
橙子は二人のやや後ろに控え、額を廊下の板にこすりつける。部屋の奥から、穏やかな声が響いた。
「遅かったな。雅貴、そなたも一緒であったか」
「はい、ちょうど東宮にご報告したいことがあり伺おうとしたところ、廊下で会いまして。私が引き止め、立ち話をしてしまったため遅くなりました」
「そなたが立ち話とは珍しいな」
「懐かしい顔に会いましたもので。申し訳ありません」
丁寧な口調で雅貴がそつなく答える。さっきまでのくだけた態度が嘘のようである。自分のことを「俺」って言っていたのに、がらりと雰囲気が変わり、優雅な殿上人になっている。
「明石の娘、遠慮はいらぬ。面を上げよ」
声をかけられ、橙子の身がきゅっと引き締まる。今は、目の前にある雅貴の背中にほんの少し安心する。
橙子は緊張した面持ちで、おそるおそる顔を上げた。
「明石は加古長信が娘、橙子にございます」
ゆっくりと視線を部屋の奥へと向ければ、左右に橙子と同年代の女房たちが控え、こちらに品定めのごとくの視線を投げかけている。そして中央の御座に、端正な顔の美男子が脇息にもたれかかり座っていた。
昭陽舎の主、東宮その人である。
初めて見る東宮の麗しい姿に、橙子は息を呑む。世の中には、自分の想像を超える美が存在するらしい。
「右大臣から話は聞いている。なんでも、人を美しく飾ることに長けているとか」
「はい」
「そなた自身は飾らないのか? およそ装飾に興味があるようには見えぬ」
橙子の地味な格好を見ての感想だろう。橙子は、すました顔でにっこり笑った。
「出る杭は打たれると言います。今日はそういう装いです。それに私は、自分が着飾ることより、誰かを着飾らせることの方が好きなのです」
商いをする加古家には、いろいろな物が集まってくる。舶来の調度品、珍しい白磁器、きらきら輝く宝飾品に、色鮮やかな織物、可愛い小物に化粧品。
小さい頃からこうした物に囲まれて育った橙子は、お洒落が大好きである。あの人にはどんな装いが似合うか、こっちの人をどのように変化させるか、そんなことを考えているだけでわくわくする。
もはや特殊技能とも言える橙子のお洒落術なのだが、そこに目をつけたのが右大臣だ。「娘が落ち着くまでの間でいいから」と、橙子を出仕させるよう加古家に依頼してきたのである。
当然、地方の豪族ごときが右大臣の依頼を断ることなどできない。橙子は一年という期限付きで、「東宮妃さまに加古の商品を買ってもらおう」という下心を抱えつつ御所に上がることにした。
すると、「適当なことを」と脇に控える女房から声が上がった。
「今日のその格好は、わざとだと言いたいの? 普通、初出仕の時はこれでもかと御粧しするものだわ。東宮さま、この者は今日の自分の身なりが貧相なことをわざとだと誤魔化しているに違いありません。明石の田舎から出てきた者など、所詮この程度。本当に東宮妃さまの身支度をお任せなさるのですか?」
「……失礼ですが、あなたさまは?」
「同じく東宮妃さまの側仕えに任じられました、左大弁は宇野実平が娘、小町です」
「小町さま」
つんと気位が高そうではあるが、太い眉がどこか憎めない顔をしている。何かに似ているな、と思案することしばし、橙子は「あ」と呟いた。
「……狛犬」
次の瞬間、雅貴がぶっと吹き出した。小町が顔を真っ赤にさせる。
「こここ、狛犬? 私のことを狛犬ですって?!」
「あ、率直な感想で……いや、馬鹿にしたつもりは……。ほら、狛犬って愛嬌があって可愛いと思いません?」
「橙子、少しお黙りなさい」
藤が橙子を止める。が、袖で口元を隠し、必死で笑いを堪えているのが見え見えである。小町がぷるぷると体を震わせた。
「このような屈辱、生まれて初めてです!」
言って彼女は、御前であるにもかかわらず憤然と立ち上がる。主人に断りなく、その場を辞すなどありえない行動である。
藤がさっと顔色を変え小町をなだめようと腰を浮かしかけた時、橙子が静かに口を開いた。
「本当に、馬鹿にしてはおりません。むしろ、小町さまはご自身の魅力に気づいておらず、活かしきれていないと思います」
「なんですって?」
「その意志の強そうなお顔立ち、お嫌いですか?」
「え?」
「せっかくの凛としたお顔を必死でお隠しなさっているようなので」
小町が、驚いた顔で言葉に詰まる。そして、むすっと口を尖らせて目をそらした。声には出さないが、その答えは「是」だ。
「顔に粉を塗ったくり、なんとかしようとしても無理があります。化粧だけではなく、装い全体を作り上げていかなければ。ご要望があれば、今日の私のような目立たない装いから愛らしい装いまで幅広くご提案させていただきます」
「で、できるの?」
小町が目をまたたかせて橙子を見る。藤が「小町、座りなさい」と促せば、彼女はすごすごと座り直した。そして彼女は、あちこちに視線をさ迷わせてから——藤をちらりと気にしながら小さく呟いた。
「藤さまのような控えめでお美しい方になりたいの」
「それはまあ……」
目指すところがいきなり高いな、とは口が裂けても言わない。橙子はにこりと小町に笑いかけた。
「分かりますとも。藤さまは、初めて見た私でも見惚れるほど素敵な御方。小町さまが憧れるのは当然。お望みであれば、微力ながらお手伝いさせていただきます」
「本当に?」
すると東宮が「そこまでだ」と会話に割って入った。
「なるほど。右大臣の言うとおり面白い娘だ。どうだ? 橙子に対し、他に異論がある者はいるか」
東宮が他の女房に投げかける。しかし、新たな意見は誰からも出てこず、ひとまずみんな納得したという形になる。
そして橙子がほっと胸をなでおろすのも束の間、東宮が周囲の女房に命じた。
「蔵人少将と掌侍に話がある。みなは下がれ。橙子、そなたは残れ」
「は、はい」
次はなんだろうと橙子は戸惑う。小町をはじめとした女房たちが一斉に部屋から出ていく。そして、誰もいなくなってから、東宮があらたまった口調で三人に声をかけた。
「おまえたち、近くに来い。もう我らだけゆえ、楽にして良いぞ」
雅貴と藤が東宮の側近くに詰め寄る。橙子はさすがに気後れしてしまい、雅貴の隣に隠れるようにちょこんと座る。
東宮が周囲の気配を気にしながらおもむろに口を開いた。
「雅貴、報告とはなんだ? 例の件か?」
「はい。そのとおりです」
橙子はなんの話か分からず、思わずそわそわと目を泳がせる。自分が本当にここにいて良いものか迷ったからだ。
すると、その様子を素早く察した雅貴が説明をしてくれた。
「実は、内裏で紛失事件が起こっているんだ」
「紛失事件?」
「明石の加古長信の娘を連れてまいりました」
橙子は二人のやや後ろに控え、額を廊下の板にこすりつける。部屋の奥から、穏やかな声が響いた。
「遅かったな。雅貴、そなたも一緒であったか」
「はい、ちょうど東宮にご報告したいことがあり伺おうとしたところ、廊下で会いまして。私が引き止め、立ち話をしてしまったため遅くなりました」
「そなたが立ち話とは珍しいな」
「懐かしい顔に会いましたもので。申し訳ありません」
丁寧な口調で雅貴がそつなく答える。さっきまでのくだけた態度が嘘のようである。自分のことを「俺」って言っていたのに、がらりと雰囲気が変わり、優雅な殿上人になっている。
「明石の娘、遠慮はいらぬ。面を上げよ」
声をかけられ、橙子の身がきゅっと引き締まる。今は、目の前にある雅貴の背中にほんの少し安心する。
橙子は緊張した面持ちで、おそるおそる顔を上げた。
「明石は加古長信が娘、橙子にございます」
ゆっくりと視線を部屋の奥へと向ければ、左右に橙子と同年代の女房たちが控え、こちらに品定めのごとくの視線を投げかけている。そして中央の御座に、端正な顔の美男子が脇息にもたれかかり座っていた。
昭陽舎の主、東宮その人である。
初めて見る東宮の麗しい姿に、橙子は息を呑む。世の中には、自分の想像を超える美が存在するらしい。
「右大臣から話は聞いている。なんでも、人を美しく飾ることに長けているとか」
「はい」
「そなた自身は飾らないのか? およそ装飾に興味があるようには見えぬ」
橙子の地味な格好を見ての感想だろう。橙子は、すました顔でにっこり笑った。
「出る杭は打たれると言います。今日はそういう装いです。それに私は、自分が着飾ることより、誰かを着飾らせることの方が好きなのです」
商いをする加古家には、いろいろな物が集まってくる。舶来の調度品、珍しい白磁器、きらきら輝く宝飾品に、色鮮やかな織物、可愛い小物に化粧品。
小さい頃からこうした物に囲まれて育った橙子は、お洒落が大好きである。あの人にはどんな装いが似合うか、こっちの人をどのように変化させるか、そんなことを考えているだけでわくわくする。
もはや特殊技能とも言える橙子のお洒落術なのだが、そこに目をつけたのが右大臣だ。「娘が落ち着くまでの間でいいから」と、橙子を出仕させるよう加古家に依頼してきたのである。
当然、地方の豪族ごときが右大臣の依頼を断ることなどできない。橙子は一年という期限付きで、「東宮妃さまに加古の商品を買ってもらおう」という下心を抱えつつ御所に上がることにした。
すると、「適当なことを」と脇に控える女房から声が上がった。
「今日のその格好は、わざとだと言いたいの? 普通、初出仕の時はこれでもかと御粧しするものだわ。東宮さま、この者は今日の自分の身なりが貧相なことをわざとだと誤魔化しているに違いありません。明石の田舎から出てきた者など、所詮この程度。本当に東宮妃さまの身支度をお任せなさるのですか?」
「……失礼ですが、あなたさまは?」
「同じく東宮妃さまの側仕えに任じられました、左大弁は宇野実平が娘、小町です」
「小町さま」
つんと気位が高そうではあるが、太い眉がどこか憎めない顔をしている。何かに似ているな、と思案することしばし、橙子は「あ」と呟いた。
「……狛犬」
次の瞬間、雅貴がぶっと吹き出した。小町が顔を真っ赤にさせる。
「こここ、狛犬? 私のことを狛犬ですって?!」
「あ、率直な感想で……いや、馬鹿にしたつもりは……。ほら、狛犬って愛嬌があって可愛いと思いません?」
「橙子、少しお黙りなさい」
藤が橙子を止める。が、袖で口元を隠し、必死で笑いを堪えているのが見え見えである。小町がぷるぷると体を震わせた。
「このような屈辱、生まれて初めてです!」
言って彼女は、御前であるにもかかわらず憤然と立ち上がる。主人に断りなく、その場を辞すなどありえない行動である。
藤がさっと顔色を変え小町をなだめようと腰を浮かしかけた時、橙子が静かに口を開いた。
「本当に、馬鹿にしてはおりません。むしろ、小町さまはご自身の魅力に気づいておらず、活かしきれていないと思います」
「なんですって?」
「その意志の強そうなお顔立ち、お嫌いですか?」
「え?」
「せっかくの凛としたお顔を必死でお隠しなさっているようなので」
小町が、驚いた顔で言葉に詰まる。そして、むすっと口を尖らせて目をそらした。声には出さないが、その答えは「是」だ。
「顔に粉を塗ったくり、なんとかしようとしても無理があります。化粧だけではなく、装い全体を作り上げていかなければ。ご要望があれば、今日の私のような目立たない装いから愛らしい装いまで幅広くご提案させていただきます」
「で、できるの?」
小町が目をまたたかせて橙子を見る。藤が「小町、座りなさい」と促せば、彼女はすごすごと座り直した。そして彼女は、あちこちに視線をさ迷わせてから——藤をちらりと気にしながら小さく呟いた。
「藤さまのような控えめでお美しい方になりたいの」
「それはまあ……」
目指すところがいきなり高いな、とは口が裂けても言わない。橙子はにこりと小町に笑いかけた。
「分かりますとも。藤さまは、初めて見た私でも見惚れるほど素敵な御方。小町さまが憧れるのは当然。お望みであれば、微力ながらお手伝いさせていただきます」
「本当に?」
すると東宮が「そこまでだ」と会話に割って入った。
「なるほど。右大臣の言うとおり面白い娘だ。どうだ? 橙子に対し、他に異論がある者はいるか」
東宮が他の女房に投げかける。しかし、新たな意見は誰からも出てこず、ひとまずみんな納得したという形になる。
そして橙子がほっと胸をなでおろすのも束の間、東宮が周囲の女房に命じた。
「蔵人少将と掌侍に話がある。みなは下がれ。橙子、そなたは残れ」
「は、はい」
次はなんだろうと橙子は戸惑う。小町をはじめとした女房たちが一斉に部屋から出ていく。そして、誰もいなくなってから、東宮があらたまった口調で三人に声をかけた。
「おまえたち、近くに来い。もう我らだけゆえ、楽にして良いぞ」
雅貴と藤が東宮の側近くに詰め寄る。橙子はさすがに気後れしてしまい、雅貴の隣に隠れるようにちょこんと座る。
東宮が周囲の気配を気にしながらおもむろに口を開いた。
「雅貴、報告とはなんだ? 例の件か?」
「はい。そのとおりです」
橙子はなんの話か分からず、思わずそわそわと目を泳がせる。自分が本当にここにいて良いものか迷ったからだ。
すると、その様子を素早く察した雅貴が説明をしてくれた。
「実は、内裏で紛失事件が起こっているんだ」
「紛失事件?」

