きりっとした精悍な眉に、涼し気な目元。しかし、全体的に温和な雰囲気が漂い、怖い印象はない。
彼は、橙子たちを見定めてずんずんと歩いてくる。
「だ、誰ですか?」
思わず小声で藤に尋ねれば、「え?」と驚き顔を返された。
「分からない?」
「分かるわけないでしょう。私、今日ここに来たばかりですよ」
「見覚えは?」
「だからないですってば。あんな美丈夫、一度見たら忘れません」
そうこうしている間に彼が目の間にやって来る。そして、上気させた顔を橙子に向け、出し抜けに言った。
「橙子さん、いつここに?」
「へ?」
いきなり馴れ馴れしく声をかけられ、思わず橙子はたじろぐ。隣で藤が、おかしそうに口元を袖で隠した。
「蔵人少将さま。彼女、あなたのことを忘れているみたいよ」
蔵人少将と言えば、帝の秘書官である蔵人と近衛少将を兼任している者のことで、田舎者の橙子でも分かる出世頭だ。
いよいよ自分の人生に関係がない人種だと分かり、橙子は思わず藤の背中に隠れた。
「忘れたも何も、初めて会う方です」
「ひどいな」
蔵人少将が、がっかりと肩を落し恨めしげに橙子をにらむ。
「俺とあんな約束をしておいて、忘れただなんて」
「あんな約束って——」
なんですか?! 橙子はぶるぶると顔を左右に振る。
「何か知らないけれど、誤解を招くような言い方はやめてくれます? 私は今日、御所に上がったばかりで都に知り合いはほぼおりません。どなたかとお間違いでは?」
「……明石の加古長信殿の御息女、橙子殿ですよね?」
正式に身元を確認され、橙子はうっと言葉に詰まる。この男、父親の名前まで言い当てた。
これはもう間違いでも勘違いでもない。相手は、はっきりとこちらのことを知っている。
背中に妙な汗がだらだらと流れる。ちらりと藤に助けを求める視線を送れば、「自分で考えて」という目で返された。
途端に弱気になって、橙子はおそるおそる蔵人少将に尋ねる。
「あの……。失礼ですがお名前をうかがっても?」
まずは基本ともいうべき氏名確認。すると蔵人少将は、優雅な所作で姿勢を正し、大げさなくらいにこやかな笑みを浮かべた。
「右大臣三条雅道の次男、雅貴です。いつぞやは父と明石でお世話になりました」
「三条のおじさまの——え? 雅貴って、あの雅貴??」
幼い頃、雅道に連れられて明石へ来ていた息子、雅貴だ。
雅貴が、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「やっと分かったか」
「いや、だって——」
へなちょこな男の子だったじゃないか、という言葉はすんでのところで呑み込んだ。
橙子はまじまじと雅貴を上から下まで眺め倒し、すっかり変わった彼の姿を確認する。
背は高く、橙子より頭一つ分は抜きん出ている。細身であるのは変わらないが、幅広の胸や大きな手は、逞しい男性のそれだ。何より——、堂々としていて自信あふれる表情が、端正な顔と相まって眩しいことこの上ない。
「久しぶり、橙子さん。初めての御所で困ってないか心配していたのだけど、大丈夫——」
「やだ、どうしたの! 立派になって!」
藤の背中から飛び出して、橙子が驚きの声を上げると、雅貴は少しうるさそうに眉根を寄せた。しかし橙子は感無量でそれどころではない。
「本当に、あの雅貴? いやあ、見違えたわ。私より背が高いじゃない。大きくなるものねえ、本当にねえ、長生きするもんだわ」
「お節介な年寄りか」
「思い出してくれたようで良かったわね、雅貴さん?」
藤がさっきよりずっと気さくな口調で雅貴に話しかける。まあ、同じ御所で働く者同士、そういうこともあるだろうが、それにしては雰囲気が身内っぽい。
すると、橙子の戸惑いを察した雅貴が、すかさず答えた。
「内裏では、公私混同しないようお互いに役職で呼び合っているけど、藤掌侍は、俺の義理の姉だ。亡くなった兄上の伴侶で……。今回、橙子さんが出仕すると父上から聞いて、義姉上にも橙子さんが来たら教えてほしいとお願いしていたんだ」
「そういうことだったのね。でも、ちょっと待って。兄上さま、亡くなられたの?」
「もう五年ほど経つかな。橙子さんは会ったこともないし、知らないだろう?」
「ええ、ごめんなさい」
「二人ともそこまでよ。東宮をお待たせしてしまうわ」
橙子と雅貴の会話を藤が止める。橙子は、はたと自分の状況を思い出した。
「すみません! 藤掌侍、行きましょう。雅貴、また機会があれば話を聞かせてね。」
話を切り上げ、慌てて橙子は踵を返す。すると雅貴が背後からついてきた。
「俺も東宮に急ぎ報告したいことがあるから一緒に行く」
「え? そうなの?」
「なんで嫌そうな顔をするんだ」
「なんとなく……?」
新人女房が、出世頭の蔵人少将と一緒に現れては目立つではないか。今も柱の影から数人の女房がこちらを見ている。
「私、目立ちたくないの。少し離れて」
「いいから。遅くなった理由は俺から東宮に説明するし」
こちらの要望をまるっきり受け流し、雅貴が甘やかな笑顔を橙子に向けた。
不覚にも橙子はどきりとする。こんな雅貴の表情は知らない。昔は、もっと子供らしく屈託なく笑っていて……まあ、あれはあれで守ってあげたくなる笑顔だったのだけど。
(いやいや、雅貴相手に何を考えているの!)
ちらりと雅貴の横顔をうかがう。視線の高さが変わってしまい、橙子は見上げる形になる。
止まっていた雅貴との時間。それが急に動き出したように思え、橙子の胸はにわかに騒ぎ始めた。
彼は、橙子たちを見定めてずんずんと歩いてくる。
「だ、誰ですか?」
思わず小声で藤に尋ねれば、「え?」と驚き顔を返された。
「分からない?」
「分かるわけないでしょう。私、今日ここに来たばかりですよ」
「見覚えは?」
「だからないですってば。あんな美丈夫、一度見たら忘れません」
そうこうしている間に彼が目の間にやって来る。そして、上気させた顔を橙子に向け、出し抜けに言った。
「橙子さん、いつここに?」
「へ?」
いきなり馴れ馴れしく声をかけられ、思わず橙子はたじろぐ。隣で藤が、おかしそうに口元を袖で隠した。
「蔵人少将さま。彼女、あなたのことを忘れているみたいよ」
蔵人少将と言えば、帝の秘書官である蔵人と近衛少将を兼任している者のことで、田舎者の橙子でも分かる出世頭だ。
いよいよ自分の人生に関係がない人種だと分かり、橙子は思わず藤の背中に隠れた。
「忘れたも何も、初めて会う方です」
「ひどいな」
蔵人少将が、がっかりと肩を落し恨めしげに橙子をにらむ。
「俺とあんな約束をしておいて、忘れただなんて」
「あんな約束って——」
なんですか?! 橙子はぶるぶると顔を左右に振る。
「何か知らないけれど、誤解を招くような言い方はやめてくれます? 私は今日、御所に上がったばかりで都に知り合いはほぼおりません。どなたかとお間違いでは?」
「……明石の加古長信殿の御息女、橙子殿ですよね?」
正式に身元を確認され、橙子はうっと言葉に詰まる。この男、父親の名前まで言い当てた。
これはもう間違いでも勘違いでもない。相手は、はっきりとこちらのことを知っている。
背中に妙な汗がだらだらと流れる。ちらりと藤に助けを求める視線を送れば、「自分で考えて」という目で返された。
途端に弱気になって、橙子はおそるおそる蔵人少将に尋ねる。
「あの……。失礼ですがお名前をうかがっても?」
まずは基本ともいうべき氏名確認。すると蔵人少将は、優雅な所作で姿勢を正し、大げさなくらいにこやかな笑みを浮かべた。
「右大臣三条雅道の次男、雅貴です。いつぞやは父と明石でお世話になりました」
「三条のおじさまの——え? 雅貴って、あの雅貴??」
幼い頃、雅道に連れられて明石へ来ていた息子、雅貴だ。
雅貴が、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「やっと分かったか」
「いや、だって——」
へなちょこな男の子だったじゃないか、という言葉はすんでのところで呑み込んだ。
橙子はまじまじと雅貴を上から下まで眺め倒し、すっかり変わった彼の姿を確認する。
背は高く、橙子より頭一つ分は抜きん出ている。細身であるのは変わらないが、幅広の胸や大きな手は、逞しい男性のそれだ。何より——、堂々としていて自信あふれる表情が、端正な顔と相まって眩しいことこの上ない。
「久しぶり、橙子さん。初めての御所で困ってないか心配していたのだけど、大丈夫——」
「やだ、どうしたの! 立派になって!」
藤の背中から飛び出して、橙子が驚きの声を上げると、雅貴は少しうるさそうに眉根を寄せた。しかし橙子は感無量でそれどころではない。
「本当に、あの雅貴? いやあ、見違えたわ。私より背が高いじゃない。大きくなるものねえ、本当にねえ、長生きするもんだわ」
「お節介な年寄りか」
「思い出してくれたようで良かったわね、雅貴さん?」
藤がさっきよりずっと気さくな口調で雅貴に話しかける。まあ、同じ御所で働く者同士、そういうこともあるだろうが、それにしては雰囲気が身内っぽい。
すると、橙子の戸惑いを察した雅貴が、すかさず答えた。
「内裏では、公私混同しないようお互いに役職で呼び合っているけど、藤掌侍は、俺の義理の姉だ。亡くなった兄上の伴侶で……。今回、橙子さんが出仕すると父上から聞いて、義姉上にも橙子さんが来たら教えてほしいとお願いしていたんだ」
「そういうことだったのね。でも、ちょっと待って。兄上さま、亡くなられたの?」
「もう五年ほど経つかな。橙子さんは会ったこともないし、知らないだろう?」
「ええ、ごめんなさい」
「二人ともそこまでよ。東宮をお待たせしてしまうわ」
橙子と雅貴の会話を藤が止める。橙子は、はたと自分の状況を思い出した。
「すみません! 藤掌侍、行きましょう。雅貴、また機会があれば話を聞かせてね。」
話を切り上げ、慌てて橙子は踵を返す。すると雅貴が背後からついてきた。
「俺も東宮に急ぎ報告したいことがあるから一緒に行く」
「え? そうなの?」
「なんで嫌そうな顔をするんだ」
「なんとなく……?」
新人女房が、出世頭の蔵人少将と一緒に現れては目立つではないか。今も柱の影から数人の女房がこちらを見ている。
「私、目立ちたくないの。少し離れて」
「いいから。遅くなった理由は俺から東宮に説明するし」
こちらの要望をまるっきり受け流し、雅貴が甘やかな笑顔を橙子に向けた。
不覚にも橙子はどきりとする。こんな雅貴の表情は知らない。昔は、もっと子供らしく屈託なく笑っていて……まあ、あれはあれで守ってあげたくなる笑顔だったのだけど。
(いやいや、雅貴相手に何を考えているの!)
ちらりと雅貴の横顔をうかがう。視線の高さが変わってしまい、橙子は見上げる形になる。
止まっていた雅貴との時間。それが急に動き出したように思え、橙子の胸はにわかに騒ぎ始めた。

