ある晴れた日、温明殿はいつになくざわついた。それもそのはず、ずっと埋没系の控えめな装いを貫いていた橙子が着飾って登場したからである。
「地味でぱっとしなかったあの子が……」
「身支度の技能を右大臣さまに買われての抜擢とは聞いていたけれど——本当だったのね」
着ているのは正装である唐衣裳。
深緑の単衣に、黄色と山吹を順に重ね、微妙な色の違いを遊ぶ。表着は萌黄、その上に蝶の文様が施された蘇芳の唐衣を羽織る。
眉と目は強調しすぎず、しかしぼやけた印象にならないよう目尻に朱を入れ引き立たせた。
「橙子、素敵だわ。絶対に、次は私に手ほどきしてよ」
小町が感激しきりで褒めてくる。そして、得意げに橙子の横に立って遠巻きに見ている女房たちに言う。
「これが橙子の実力よ。ぱっとしない奴だなんて思っていた子は、今すぐ考えを改めることね!」
橙子はと言うと、普段とは全く違う好奇の目にさらされ、よそ行きの笑顔が顔に張り付いてこわばっている。
(ちょっとやりすぎたかしら……)
そう思った時、小町が広間の外へ目をやった。
「あら、蔵人少将さまよ」
小町の視線のその向こう、緋色の直衣姿の雅貴がいる。
彼は、橙子の晴れ姿を認めると、迷うことなくこちらに突っ込んできた。そして真ん前まで来ると、まじまじと橙子の姿を眺め、感無量な様子で言った。
「いつも見惚れるくらい魅力的だけど、今日は目が離せないほど綺麗——」
「や、大げさな……」
再会してからこっち、わりと雅貴の言動に戸惑ってばかりだが、今日はさらに甘くて困る。気恥ずかしさが勝り、橙子は茶化し気味に雅貴に答えた。
「ほら、どうせならこの格好で加古家の商いを触れ回ればいいと思って……ちょっと気合を入れすぎてしまったわ」
自分を着飾る時、橙子はその場の状況に応じて着るものを考える。
目立たないように、目を引くように、控えめに、強調するために——。
なので、そこに自分の感情はあまり入らない。
しかし今日ばかりは違う。雅貴がどう感じるか、彼に気に入ってもらえるか、そんなことに悩みながら雅貴に見てもらいたいと思って身支度をした。
「雅貴さま、今日はこれから昭陽舎に行くわ。藤掌侍さまに話したら、ぜひ東宮さまにお見せしようと言われて……」
来る東宮妃の入内を見据え、藤も橙子の実力を目に見える形で示したいのだろう。雅貴の「橙子の魅力をみんなに認めてもらう」という希望も叶うし、何よりこの場から逃げることができる。
「さあ雅貴さま、行きましょう」
橙子が促す。しかし雅貴は動かない。じっとひたすら橙子を見つめ続けている。
ややあって、
「駄目。やっぱりやめた。東宮に見せるなんて、とんでもない。今日は今から右大臣家に行く。こっちに来てから父上にまだ会っていないだろう? 母上も会いたがっていたし、紹介する」
「へ? 右大臣家って、御所の外よ? それにだって、今から私の魅力……そんなものがあるかどうか知らないけれど、それを御所中に触れ回るのではなかったの?」
「橙子の魅力は俺一人で堪能する。誰にも見せない。なんで誰かに見せようなんて思ったかな、俺」
「いやいやいやいや」
言い出しっぺが何を言っているの?!
思わずたじろぐ橙子だったが、雅貴は橙子の手を引いてずんずんと昭陽舎とは別の方向に歩き出す。若い女房たちの間から、「きゃあ」と黄色い声が上がるが、雅貴は気に止める様子もない。
「いっそこのまま右大臣家で引き取ればいいんじゃないか?」
「や、あのっ……、雅貴さま?」
「ああそうだ。既成事実を作ってしまおう。うん、それがいい!」
「よくないし! 雅貴っ、落ち着きなさい!」
雅貴の手を振り払い、かつてのように叱りつければ、雅貴がようやく立ち止まる。そして、情けない顔で振り返っておろおろになる。
「お、怒らないで」
「これは怒るでしょう? 既成事実がなんですって?」
顔を引きつらせて雅貴をにらめば、彼はいよいよしょんぼりと縮こまった。
「だって橙子、俺のこと全然眼中にないし、なんなら一年後に本当に帰ってしまいそうだし……」
「帰らない。もう少し、ここで働くことにする」
そう答えれば、雅貴が「え?」と目をまたたかせた。
「本当に? でも、どうして——」
「二人の約束、思い出したの」
はにかみながら橙子は答える。
緊張で声が上ずる。でも、ちゃんと伝えたいと思う。
橙子は手をもじもじさせて、たどたどしく言葉を続けた。
「久しぶりに再会した雅貴さまは、本当に変わってしまっていてびっくりしたけれど、でもやっぱり私の知っている雅貴さまで——。約束を覚えてくれていたんだって分かった時、とても嬉しかった。女装して二人で紛失事件を調査した時は楽しかったし、東宮さまに初めて拝謁した時は雅貴さまの背中を見て安心したわ。それにね、今日は……どきどきしてる」
「……」
「だからね、もう少しここにいてもいいかなって。ただ、右大臣家への挨拶はまだ無理。だって私はただの地方豪族の娘だし、身分違いも甚だしいもの。会いたいとおっしゃってくれているのならなおさら、せめて雅貴さまにふさわしい女性になって、きちんとご挨拶をしたいわ」
次の瞬間、雅貴が橙子を引き寄せ抱きしめた。
「なにこれ、夢かな。俺のこと前向きに考えてくれるの? もう絶対に望みないって思っていたのに」
「大げさね。私、まだ御所に来たばかりよ。東宮妃さまの入内だって、今からだもの。だから、その……雅貴さまとのことも、これからだって思ってる」
最後はしどろもどろになりながら伝えれば、雅貴が抱く手を緩めて橙子を見つめる。熱い視線に耐えきれなくなって目をそらすと、こっちを向いてとばかりにあごを捕らえられた。
ゆっくりと近づいてくる雅貴の顔。互いの息が触れ合い、ほんの一瞬だけ混じり合う。
まるでままごとのような口づけ。でも、今の自分たちにはこれがちょうどいい。
雅貴が、ふんっと意気込んで宣言する。
「もう二度と橙子が約束を忘れないよう、これから毎日求婚する」
「ま、毎日? や、それは……」
いささか重すぎやしないだろうか。
ついさっきまでの甘い気持ちが吹き飛び、ふっと冷静になってしまう橙子である。
空は晴れ。今日の装いは橙子には華やかすぎて、ちょっと肩がこる。
(明日からやっぱり埋没系の装いに戻そう)
蔵人少将の求婚対策は……おいおい考えるとして。
しかし、地味にいきたい橙子の毎日は、さらに賑やかになりそうである。
『お洒落好きな落ちぶれ姫は、地味に参ります!〜再会した貴公子とじれ恋が始まりました〜』
2026年10月24日完
「地味でぱっとしなかったあの子が……」
「身支度の技能を右大臣さまに買われての抜擢とは聞いていたけれど——本当だったのね」
着ているのは正装である唐衣裳。
深緑の単衣に、黄色と山吹を順に重ね、微妙な色の違いを遊ぶ。表着は萌黄、その上に蝶の文様が施された蘇芳の唐衣を羽織る。
眉と目は強調しすぎず、しかしぼやけた印象にならないよう目尻に朱を入れ引き立たせた。
「橙子、素敵だわ。絶対に、次は私に手ほどきしてよ」
小町が感激しきりで褒めてくる。そして、得意げに橙子の横に立って遠巻きに見ている女房たちに言う。
「これが橙子の実力よ。ぱっとしない奴だなんて思っていた子は、今すぐ考えを改めることね!」
橙子はと言うと、普段とは全く違う好奇の目にさらされ、よそ行きの笑顔が顔に張り付いてこわばっている。
(ちょっとやりすぎたかしら……)
そう思った時、小町が広間の外へ目をやった。
「あら、蔵人少将さまよ」
小町の視線のその向こう、緋色の直衣姿の雅貴がいる。
彼は、橙子の晴れ姿を認めると、迷うことなくこちらに突っ込んできた。そして真ん前まで来ると、まじまじと橙子の姿を眺め、感無量な様子で言った。
「いつも見惚れるくらい魅力的だけど、今日は目が離せないほど綺麗——」
「や、大げさな……」
再会してからこっち、わりと雅貴の言動に戸惑ってばかりだが、今日はさらに甘くて困る。気恥ずかしさが勝り、橙子は茶化し気味に雅貴に答えた。
「ほら、どうせならこの格好で加古家の商いを触れ回ればいいと思って……ちょっと気合を入れすぎてしまったわ」
自分を着飾る時、橙子はその場の状況に応じて着るものを考える。
目立たないように、目を引くように、控えめに、強調するために——。
なので、そこに自分の感情はあまり入らない。
しかし今日ばかりは違う。雅貴がどう感じるか、彼に気に入ってもらえるか、そんなことに悩みながら雅貴に見てもらいたいと思って身支度をした。
「雅貴さま、今日はこれから昭陽舎に行くわ。藤掌侍さまに話したら、ぜひ東宮さまにお見せしようと言われて……」
来る東宮妃の入内を見据え、藤も橙子の実力を目に見える形で示したいのだろう。雅貴の「橙子の魅力をみんなに認めてもらう」という希望も叶うし、何よりこの場から逃げることができる。
「さあ雅貴さま、行きましょう」
橙子が促す。しかし雅貴は動かない。じっとひたすら橙子を見つめ続けている。
ややあって、
「駄目。やっぱりやめた。東宮に見せるなんて、とんでもない。今日は今から右大臣家に行く。こっちに来てから父上にまだ会っていないだろう? 母上も会いたがっていたし、紹介する」
「へ? 右大臣家って、御所の外よ? それにだって、今から私の魅力……そんなものがあるかどうか知らないけれど、それを御所中に触れ回るのではなかったの?」
「橙子の魅力は俺一人で堪能する。誰にも見せない。なんで誰かに見せようなんて思ったかな、俺」
「いやいやいやいや」
言い出しっぺが何を言っているの?!
思わずたじろぐ橙子だったが、雅貴は橙子の手を引いてずんずんと昭陽舎とは別の方向に歩き出す。若い女房たちの間から、「きゃあ」と黄色い声が上がるが、雅貴は気に止める様子もない。
「いっそこのまま右大臣家で引き取ればいいんじゃないか?」
「や、あのっ……、雅貴さま?」
「ああそうだ。既成事実を作ってしまおう。うん、それがいい!」
「よくないし! 雅貴っ、落ち着きなさい!」
雅貴の手を振り払い、かつてのように叱りつければ、雅貴がようやく立ち止まる。そして、情けない顔で振り返っておろおろになる。
「お、怒らないで」
「これは怒るでしょう? 既成事実がなんですって?」
顔を引きつらせて雅貴をにらめば、彼はいよいよしょんぼりと縮こまった。
「だって橙子、俺のこと全然眼中にないし、なんなら一年後に本当に帰ってしまいそうだし……」
「帰らない。もう少し、ここで働くことにする」
そう答えれば、雅貴が「え?」と目をまたたかせた。
「本当に? でも、どうして——」
「二人の約束、思い出したの」
はにかみながら橙子は答える。
緊張で声が上ずる。でも、ちゃんと伝えたいと思う。
橙子は手をもじもじさせて、たどたどしく言葉を続けた。
「久しぶりに再会した雅貴さまは、本当に変わってしまっていてびっくりしたけれど、でもやっぱり私の知っている雅貴さまで——。約束を覚えてくれていたんだって分かった時、とても嬉しかった。女装して二人で紛失事件を調査した時は楽しかったし、東宮さまに初めて拝謁した時は雅貴さまの背中を見て安心したわ。それにね、今日は……どきどきしてる」
「……」
「だからね、もう少しここにいてもいいかなって。ただ、右大臣家への挨拶はまだ無理。だって私はただの地方豪族の娘だし、身分違いも甚だしいもの。会いたいとおっしゃってくれているのならなおさら、せめて雅貴さまにふさわしい女性になって、きちんとご挨拶をしたいわ」
次の瞬間、雅貴が橙子を引き寄せ抱きしめた。
「なにこれ、夢かな。俺のこと前向きに考えてくれるの? もう絶対に望みないって思っていたのに」
「大げさね。私、まだ御所に来たばかりよ。東宮妃さまの入内だって、今からだもの。だから、その……雅貴さまとのことも、これからだって思ってる」
最後はしどろもどろになりながら伝えれば、雅貴が抱く手を緩めて橙子を見つめる。熱い視線に耐えきれなくなって目をそらすと、こっちを向いてとばかりにあごを捕らえられた。
ゆっくりと近づいてくる雅貴の顔。互いの息が触れ合い、ほんの一瞬だけ混じり合う。
まるでままごとのような口づけ。でも、今の自分たちにはこれがちょうどいい。
雅貴が、ふんっと意気込んで宣言する。
「もう二度と橙子が約束を忘れないよう、これから毎日求婚する」
「ま、毎日? や、それは……」
いささか重すぎやしないだろうか。
ついさっきまでの甘い気持ちが吹き飛び、ふっと冷静になってしまう橙子である。
空は晴れ。今日の装いは橙子には華やかすぎて、ちょっと肩がこる。
(明日からやっぱり埋没系の装いに戻そう)
蔵人少将の求婚対策は……おいおい考えるとして。
しかし、地味にいきたい橙子の毎日は、さらに賑やかになりそうである。
『お洒落好きな落ちぶれ姫は、地味に参ります!〜再会した貴公子とじれ恋が始まりました〜』
2026年10月24日完

