次の日、東宮が源式部少輔を昭陽舎に呼び出し、急ぎの仕事を申しつけた。その時に、東宮妃の入内準備用の部屋にある舶来の扇子が多すぎて整理しきれていないことを雑談ついでに話す。当然、餌巻きのための話題振りである。
そして二日後の夜。再び、淑景舎近くの渡り廊下で橙子と雅貴は式部少輔を待つ。もう雅貴は明石の姿ではない。きちんとした蔵人少将の格好である。
「来るかな?」
「来るだろう。扇子が三本もなくなっていたからな」
「それは……明石に対する思い入れの大きさね」
橙子がそう言うと、雅貴が「やめてくれ」とばかりに身を震わせた。
すると人の気配がして——包みを大切そうに抱えた源式部少輔が、いそいそと現れた。式部少輔は橙子と雅貴の姿を見つけるなり、怪訝な顔をした。
「蔵人少将……このようなところで何を? そなたほどの男が、そのような地味な女と逢い引きというわけではあるまい」
橙子を見ても表情を変えないところを見ると、橙子の顔はすっかり忘れているようである。雅貴が、したり顔で笑った。
「逢い引きであれば、こちらとしては嬉しいんですがね。まあ、あなたには彼女の魅力は分かりませんよ。それより、その包みの中身を見せていただいても?」
「なっ、何を突然——。断る! どうしてそなたたちに見せねば——」
「明石は来ませんよ」
出し抜けに雅貴が式部少輔に告げる。式部少輔が、びくりと体を震わせ蒼白となった。
「なぜ……そのことを……」
「彼女は俺の半身のような存在です。全て知っていますよ。一昨日ここで二人が会っていたことも、舶来の扇子を今夜贈るつもりだったことも。そう、昭陽舎から盗んだ扇子をね」
「ちっ、違っ——!」
式部少輔がくるりと踵を返し走り出す。しかし、物陰から誰かが出てきて式部少輔の足を引っかけた。式部少輔がみっともなく転んで倒れる。
「何をする!」
「見苦しいぞ、式部少輔」
穏やかではあるが、他を圧倒する声。東宮が静かな面持ちで立っていた。同時に、庭の植木や部屋の隅に潜んでいた近衛士たちが一斉に出てきて式部少輔を取り囲む。
「ひっ、東宮?!」
「そなたに命じられ盗みを働いたと思われる女房は、藤掌侍が話を聞きに行っている。あとはおまえだけだ」
「私は知りません! 金に困っているから工面して欲しいと言ったまで。そしたら、東宮妃への贈答品を……唐鏡なんて持ってくるから返して来いと言ったのです!」
「こいつを捕らえろ。詳しいことはあとで聞く」
あっという間に近衛士たちが式部少輔を組み伏せた。持っていた包みが落ち、そこから舶来の扇子が三本こぼれ出る。東宮が、ふんと鼻を鳴らしてそれらを拾い上げた。
「言っておくが、私の知る明石はこの程度ではなびかんぞ。なあ、雅貴?」
「……そうですね」
東宮に投げかけられ、雅貴は居心地悪そうに肩をすくめた。
それから数日、源式部少輔が働いた悪事が明らかになり、温明殿の内侍司では大きな話題となった。式部少輔は口説いた女房に御所の物品を盗ませて換金していたらしい。唐鏡が戻ってきたのは、「希少価値が高く、さすがに足がつくと思った」からで、返品に困った女房が温明殿の物置部屋に戻したというのが真相だった。
そして、紛失事件と同じくらい美女「明石」の存在も噂になった。
「あの蔵人少将さまが、自らの半身とおっしゃられたと聞いたわ」
「華やかで愛らしい姫だとか」
「いいえ、涙ボクロのある妖艶な方だと」
そして最後はみんなが橙子に詰め寄ってくる。なぜなら、彼女は橙子の従妹という設定だからだ。今日も朝から迫られ、橙子はたまらず温明殿から逃げ出す。藤から「仕事をしろ」と怒られそうだが、ちょっともう身が持たない。
殿舎の庭の端っこ、誰もいないことを確認し、へとへとになりながら橙子は庭石に座る。
「疲れた……」
こんな調子でこの先もやっていけるのだろうか? 少し不安になる橙子である。
すると、背後で「見つけた!」と雅貴の声がした。
「どこにもいないから探したぞ、橙子」
「雅貴さま……。どうしてここに?」
実は、雅貴とはここ数日会っていない。もともと所属する部署が違うし、事件の処理で雅貴が忙しかったためだ。
雅貴は、橙子の前に膝をついてしゃがむと、心配そうに彼女を見上げた。
「義姉上から話を聞いた。明石のことを問い詰められて大変なんだって?」
「まあちょっと……。御所の人間は噂が大好きだと父さまから聞いてはいたけれど……ここまでとは思ってなくて」
「だったら橙子、名案がある。今回、俺も頑張っただろ。だからご褒美が欲しい」
雅貴がにっと笑う。雅貴の言う「名案」と「ご褒美」がにわかに結びつかず、橙子は怪訝な顔を返した。
「それはどういう——」
「俺のために着飾った橙子が見たい」
「え?」
橙子は突然の雅貴の提案にたじろぐ。
「何をいきなり。私は自分が着飾るより——」
「知っている。誰かのためだろ。だから、俺のため。俺はもう美女になるのはこりごりだから、橙子が変わりに着飾って」
言って雅貴が橙子をそっと抱きしめる。そして、背中をぽんぽんと叩く。
初めての雅貴からの背中ぽんぽん。やっていた側の人間としては、なんだかとても気恥ずかしい。でも、彼の手は大きくて優しくて、ひどく気持ちが落ち着いた。
雅貴の声が耳元で響く。
「俺、女装して一緒に橙子と回っていた時に思ったんだ。橙子はこんなに魅力的なのに、誰も気づかないんだなって。それがなんだか悔しくて」
「いや、それはみんなの評価が正しいような……」
「あいつら全員を見返したい!」
いやいや、なんの執着だ? それは、大好きな食べ物をけなされた時の怒りと似てやしないだろうか。
橙子は必死で言い繕う。
「別に私は気にしてないし。それにほら、目立ったところでいいことないし?」
「俺が嫌なんだ。それに噂をどうにかしたいのだろう?」
ふと抱く手を緩め、雅貴が意味ありげな眼差しを橙子に向ける。橙子がどういう意味だと目で問えば、雅貴はしたり顔で言葉を続けた。
「噂を消すのは、噂が一番。いつも控えめな装いの橙子が本気で着飾ればきっとみんなびっくりする。そしたら明石のことなんて忘れるはずだ」
「な、なるほど。毒を持って毒を制す的な?」
「そういうこと。よし、決まりだな。明日の朝、会いに行くから」
雅貴が満面の笑みを浮かべた。
そして二日後の夜。再び、淑景舎近くの渡り廊下で橙子と雅貴は式部少輔を待つ。もう雅貴は明石の姿ではない。きちんとした蔵人少将の格好である。
「来るかな?」
「来るだろう。扇子が三本もなくなっていたからな」
「それは……明石に対する思い入れの大きさね」
橙子がそう言うと、雅貴が「やめてくれ」とばかりに身を震わせた。
すると人の気配がして——包みを大切そうに抱えた源式部少輔が、いそいそと現れた。式部少輔は橙子と雅貴の姿を見つけるなり、怪訝な顔をした。
「蔵人少将……このようなところで何を? そなたほどの男が、そのような地味な女と逢い引きというわけではあるまい」
橙子を見ても表情を変えないところを見ると、橙子の顔はすっかり忘れているようである。雅貴が、したり顔で笑った。
「逢い引きであれば、こちらとしては嬉しいんですがね。まあ、あなたには彼女の魅力は分かりませんよ。それより、その包みの中身を見せていただいても?」
「なっ、何を突然——。断る! どうしてそなたたちに見せねば——」
「明石は来ませんよ」
出し抜けに雅貴が式部少輔に告げる。式部少輔が、びくりと体を震わせ蒼白となった。
「なぜ……そのことを……」
「彼女は俺の半身のような存在です。全て知っていますよ。一昨日ここで二人が会っていたことも、舶来の扇子を今夜贈るつもりだったことも。そう、昭陽舎から盗んだ扇子をね」
「ちっ、違っ——!」
式部少輔がくるりと踵を返し走り出す。しかし、物陰から誰かが出てきて式部少輔の足を引っかけた。式部少輔がみっともなく転んで倒れる。
「何をする!」
「見苦しいぞ、式部少輔」
穏やかではあるが、他を圧倒する声。東宮が静かな面持ちで立っていた。同時に、庭の植木や部屋の隅に潜んでいた近衛士たちが一斉に出てきて式部少輔を取り囲む。
「ひっ、東宮?!」
「そなたに命じられ盗みを働いたと思われる女房は、藤掌侍が話を聞きに行っている。あとはおまえだけだ」
「私は知りません! 金に困っているから工面して欲しいと言ったまで。そしたら、東宮妃への贈答品を……唐鏡なんて持ってくるから返して来いと言ったのです!」
「こいつを捕らえろ。詳しいことはあとで聞く」
あっという間に近衛士たちが式部少輔を組み伏せた。持っていた包みが落ち、そこから舶来の扇子が三本こぼれ出る。東宮が、ふんと鼻を鳴らしてそれらを拾い上げた。
「言っておくが、私の知る明石はこの程度ではなびかんぞ。なあ、雅貴?」
「……そうですね」
東宮に投げかけられ、雅貴は居心地悪そうに肩をすくめた。
それから数日、源式部少輔が働いた悪事が明らかになり、温明殿の内侍司では大きな話題となった。式部少輔は口説いた女房に御所の物品を盗ませて換金していたらしい。唐鏡が戻ってきたのは、「希少価値が高く、さすがに足がつくと思った」からで、返品に困った女房が温明殿の物置部屋に戻したというのが真相だった。
そして、紛失事件と同じくらい美女「明石」の存在も噂になった。
「あの蔵人少将さまが、自らの半身とおっしゃられたと聞いたわ」
「華やかで愛らしい姫だとか」
「いいえ、涙ボクロのある妖艶な方だと」
そして最後はみんなが橙子に詰め寄ってくる。なぜなら、彼女は橙子の従妹という設定だからだ。今日も朝から迫られ、橙子はたまらず温明殿から逃げ出す。藤から「仕事をしろ」と怒られそうだが、ちょっともう身が持たない。
殿舎の庭の端っこ、誰もいないことを確認し、へとへとになりながら橙子は庭石に座る。
「疲れた……」
こんな調子でこの先もやっていけるのだろうか? 少し不安になる橙子である。
すると、背後で「見つけた!」と雅貴の声がした。
「どこにもいないから探したぞ、橙子」
「雅貴さま……。どうしてここに?」
実は、雅貴とはここ数日会っていない。もともと所属する部署が違うし、事件の処理で雅貴が忙しかったためだ。
雅貴は、橙子の前に膝をついてしゃがむと、心配そうに彼女を見上げた。
「義姉上から話を聞いた。明石のことを問い詰められて大変なんだって?」
「まあちょっと……。御所の人間は噂が大好きだと父さまから聞いてはいたけれど……ここまでとは思ってなくて」
「だったら橙子、名案がある。今回、俺も頑張っただろ。だからご褒美が欲しい」
雅貴がにっと笑う。雅貴の言う「名案」と「ご褒美」がにわかに結びつかず、橙子は怪訝な顔を返した。
「それはどういう——」
「俺のために着飾った橙子が見たい」
「え?」
橙子は突然の雅貴の提案にたじろぐ。
「何をいきなり。私は自分が着飾るより——」
「知っている。誰かのためだろ。だから、俺のため。俺はもう美女になるのはこりごりだから、橙子が変わりに着飾って」
言って雅貴が橙子をそっと抱きしめる。そして、背中をぽんぽんと叩く。
初めての雅貴からの背中ぽんぽん。やっていた側の人間としては、なんだかとても気恥ずかしい。でも、彼の手は大きくて優しくて、ひどく気持ちが落ち着いた。
雅貴の声が耳元で響く。
「俺、女装して一緒に橙子と回っていた時に思ったんだ。橙子はこんなに魅力的なのに、誰も気づかないんだなって。それがなんだか悔しくて」
「いや、それはみんなの評価が正しいような……」
「あいつら全員を見返したい!」
いやいや、なんの執着だ? それは、大好きな食べ物をけなされた時の怒りと似てやしないだろうか。
橙子は必死で言い繕う。
「別に私は気にしてないし。それにほら、目立ったところでいいことないし?」
「俺が嫌なんだ。それに噂をどうにかしたいのだろう?」
ふと抱く手を緩め、雅貴が意味ありげな眼差しを橙子に向ける。橙子がどういう意味だと目で問えば、雅貴はしたり顔で言葉を続けた。
「噂を消すのは、噂が一番。いつも控えめな装いの橙子が本気で着飾ればきっとみんなびっくりする。そしたら明石のことなんて忘れるはずだ」
「な、なるほど。毒を持って毒を制す的な?」
「そういうこと。よし、決まりだな。明日の朝、会いに行くから」
雅貴が満面の笑みを浮かべた。

