次の日、橙子は大変だった。まず小町に呼び止められ「明石」のことを尋ねられ、次に残念顔に捕まり、やはり「明石」のことを尋問された。
「気分屋だから、今日は来ないみたい」
と、適当に誤魔化しておいたが、これで納得してくれるかどうかは疑問である。
夕方になり、藤の部屋に集まる。すでに雅貴が来ていて、橙子を見るなり「やるぞ」と意気込んだ。
(昨日はあんなに嫌がっていたのに……)
ちょっと楽しそうなのは、何かに目覚めたからだろうか。
今日の装いのお題は「妖艶」。昨日より、大人っぽい眉を描き、目の縁に朱を入れて強調させる。頬に指す赤は少し抑えめ、その分、唇は艶っぽく塗った。衣はあえて緑と白の単調な襲と薄紫の小袿。
昨日はいろいろあった身支度も今日はすんなりと済んだ。ただ、雅貴がずっと腰に手を回し橙子のことを見つめてくる。
「な、なに?」
「なにも。真剣な橙子を見ているだけ。俺の趣味」
それはどういう趣味だ? しかし、問いただすのも怖いので、言いようのない緊張感に包まれながら橙子は素知らぬ顔で作業を続けた。
「仕上げはこれ」
最後に橙子は墨で目尻に小さな点——泣きぼくろをつける。さらに目が強調され、妖艶な女性が出来上がった。
「やだ、なにこれ。本当に雅貴さん?!」
支度を終えた雅貴の姿を見て、藤が大興奮で言う。完全に面白がっている。
昨日はあれから、見つけた唐鏡とともに東宮へ事の次第を報告した。そして今日、源式部少輔に雅貴が罠を仕掛けることも東宮の了承済みだ。
雅貴が大きく息をして呼吸を整える。そして意を決した様子で、彼は橙子に艷やかな笑顔を向けた。
「では橙子、そろそろ行きましょう?」
「!」
妖艶で完璧な美女。なぜか本気全開の雅貴だ。
源式部少輔を待ち伏せるのは、人通りの少ない淑景舎付近の渡り廊下。そこで、迷子になった「明石」が式部少輔と遭遇するという筋書きである。彼の今日の動きは、東宮を通じて内々に押さえてあり、わざわざ淑景舎への用事を東宮がそれとなく作ってくれた。
柱の影で二人で待つことしばし、風流な面持ちの若者が現れた。
「来たわ、雅貴。あの人?」
「ああ、そうだ。静かに」
すぐには出ていかない。息を潜めて、機会を伺う。式部少輔が何食わぬ顔で二人が隠れている柱のすぐ近くを通り過ぎた。そして、完全に通過したのを見届けて、雅貴は柱の陰から静かに出ていくと、式部少輔の背中に声をかけた。
「もし、そこの御方」
「は、」
いきなり声をかけられ、しかも妖艶な美女に源式部少輔は目を瞬かせる。しかし、女好きで名を馳せているだけあって、彼はすぐさま優美な笑みを作った。
「私に何か? どうされましたか?」
「温明殿への帰り道が分からなくなりました。出仕して間もない身でございまして……御所は広すぎまする」
「それは大変だ。私もちょうど言付かった用事を終えて、自分の持ち場に帰るところです。よければお送りしましょう」
「ありがとうございます。優しそうな御方に出会え、ほっといたしました。私は明石と申します。あなたさまは?」
「源《みなもと》と言います。式部少輔です」
「まあ、お偉いんですね」
式部少輔の鼻の下が、びよんと伸びた。彼は、すぐさま明石の手を握り、自分の元へと引き寄せる。
「東宮に感謝せねばならん。まさかあなたのような美しい人と出会えるとは。少しばかり月でも眺めながら話しませんか?」
「まあ。私たち、今会ったばかりです」
「愛に時の長い短いなど関係ありませんよ」
橙子は柱の影で吹き出しそうになるのを必死にこらえながら二人のやりとりを聞き続ける。源式部少輔は雄弁だ。明石がどれだけ美しいか、自分がどれだけ力があるかを必死に語り続けている。
(雅貴さまはちょっと強引だけど、私の見た目だけを褒めたり、自分の自慢話をしたりは絶対にしないな)
彼の言葉の根底にあるのは、いつでも相手を尊敬し、思いやる気持ち。今、式部少輔が吐いている言葉なんかより、ずっと素朴で飾り気もないけれど、真っ直ぐで気持ちのいい言葉。
(子どもの頃からそう。別れる時も、公卿の子息なら『大きくなったら愛人にしてやる』ぐらい尊大な態度でもいいのに……)
彼の口から出た言葉は、「今度は橙子に都を見せたいから迎えに来ていい?」だった。当然、年上で優位に立っていた橙子は、気恥ずかしさも相まって「立派な貴公子になったらね!」と偉そうに返してしまったものだ。
(……って、あれ? 雅貴さまが言っていた約束って……)
かあっと橙子の顔が熱くなる。彼と再会してからのやり取りを思い出し、そういうことかと胸が震える。
まさか、あれを覚えていたなんて。
その時、
「おやめっ——あ、人がいます! 橙子!」
美女の叫び声……ではなく雅貴のわめき声が響き、橙子は慌てて柱から身を乗り出す。そして何食わぬ顔で、明石にわざとらしく呼びかける。
「明石、こんなところにいたの? 探したのよ!」
ぱっと二人が離れる。明石が慌てて気崩れた衣を直し、式部少輔が苦虫を噛み潰したような顔で橙子をにらんだ。
「……おまえは誰だ?」
「彼女の従妹でございます。あなたさまは……このようなところに何用で?」
「た、たまたま通りかかっただけだ!」
ばつ悪そうに吐き捨てて、式部少輔が逃げるように去っていく。しかし、ちらりと明石に視線を送り、明石が笑顔でそれに答えた。
そして夕闇に消えていく式部少輔の後ろ姿を見送り——、二人は大きく息を吐いた。
「ごめん、出るの遅かった?」
「ごめんじゃない! こっちは貞操の危機を感じたぞ!」
思わず笑って橙子は誤魔化す。思い出にふけっていました、なんて言えない。すると雅貴が、いきなり橙子に抱きついた。
「ななんなっ、なに?!」
「もう美女なんて、絶対にやらない。俺、やっぱりあいつ嫌い」
そこそこ恐ろしい思いをしたらしい。でも、こうやって甘えてくる雅貴は、子どもの頃の雅貴みたいで、全力でなぐさめたくなる。
背中にそっと手を回し、ぽんぽんと叩く。雷を怖がった時、転んだ時、こうしたら雅貴は落ち着いた。
「……もう子どもじゃない。何度言ったら分かるんだ」
「そう? でも落ち着いたでしょ」
「じゃあ、遠慮しないぞ」
雅貴がもぞもぞと顔を胸にうずめてきた。橙子の体にずしっと雅貴の重みがのしかかり、思わず押し倒されそうになる。
橙子は、必死で体を支えながら雅貴の顔を押し返した。
「や、ちょっと! た、倒れる——!」
「……二日後、舶来の扇子をもらう約束をした」
雅貴がふいに呟く。そしてようやく身を起こし、おかしそうに言った。
「時間がないと慌てていたよ。でも、愛に時間は関係ないし、そんなに財力のある源家であれば簡単でしょうと言っておいた」
「うわっ……美女ならぬ悪女じゃない」
「盗みを働かせていた女房は実家に帰ってもういない。でも時間がない。これで目の前にお宝があったらどうなると思う?」
そういうこと。
(自ら盗みを働かせて、そこを押さえるつもりなのね)
橙子が納得顔で頷くと、雅貴が不敵に笑った。
「気分屋だから、今日は来ないみたい」
と、適当に誤魔化しておいたが、これで納得してくれるかどうかは疑問である。
夕方になり、藤の部屋に集まる。すでに雅貴が来ていて、橙子を見るなり「やるぞ」と意気込んだ。
(昨日はあんなに嫌がっていたのに……)
ちょっと楽しそうなのは、何かに目覚めたからだろうか。
今日の装いのお題は「妖艶」。昨日より、大人っぽい眉を描き、目の縁に朱を入れて強調させる。頬に指す赤は少し抑えめ、その分、唇は艶っぽく塗った。衣はあえて緑と白の単調な襲と薄紫の小袿。
昨日はいろいろあった身支度も今日はすんなりと済んだ。ただ、雅貴がずっと腰に手を回し橙子のことを見つめてくる。
「な、なに?」
「なにも。真剣な橙子を見ているだけ。俺の趣味」
それはどういう趣味だ? しかし、問いただすのも怖いので、言いようのない緊張感に包まれながら橙子は素知らぬ顔で作業を続けた。
「仕上げはこれ」
最後に橙子は墨で目尻に小さな点——泣きぼくろをつける。さらに目が強調され、妖艶な女性が出来上がった。
「やだ、なにこれ。本当に雅貴さん?!」
支度を終えた雅貴の姿を見て、藤が大興奮で言う。完全に面白がっている。
昨日はあれから、見つけた唐鏡とともに東宮へ事の次第を報告した。そして今日、源式部少輔に雅貴が罠を仕掛けることも東宮の了承済みだ。
雅貴が大きく息をして呼吸を整える。そして意を決した様子で、彼は橙子に艷やかな笑顔を向けた。
「では橙子、そろそろ行きましょう?」
「!」
妖艶で完璧な美女。なぜか本気全開の雅貴だ。
源式部少輔を待ち伏せるのは、人通りの少ない淑景舎付近の渡り廊下。そこで、迷子になった「明石」が式部少輔と遭遇するという筋書きである。彼の今日の動きは、東宮を通じて内々に押さえてあり、わざわざ淑景舎への用事を東宮がそれとなく作ってくれた。
柱の影で二人で待つことしばし、風流な面持ちの若者が現れた。
「来たわ、雅貴。あの人?」
「ああ、そうだ。静かに」
すぐには出ていかない。息を潜めて、機会を伺う。式部少輔が何食わぬ顔で二人が隠れている柱のすぐ近くを通り過ぎた。そして、完全に通過したのを見届けて、雅貴は柱の陰から静かに出ていくと、式部少輔の背中に声をかけた。
「もし、そこの御方」
「は、」
いきなり声をかけられ、しかも妖艶な美女に源式部少輔は目を瞬かせる。しかし、女好きで名を馳せているだけあって、彼はすぐさま優美な笑みを作った。
「私に何か? どうされましたか?」
「温明殿への帰り道が分からなくなりました。出仕して間もない身でございまして……御所は広すぎまする」
「それは大変だ。私もちょうど言付かった用事を終えて、自分の持ち場に帰るところです。よければお送りしましょう」
「ありがとうございます。優しそうな御方に出会え、ほっといたしました。私は明石と申します。あなたさまは?」
「源《みなもと》と言います。式部少輔です」
「まあ、お偉いんですね」
式部少輔の鼻の下が、びよんと伸びた。彼は、すぐさま明石の手を握り、自分の元へと引き寄せる。
「東宮に感謝せねばならん。まさかあなたのような美しい人と出会えるとは。少しばかり月でも眺めながら話しませんか?」
「まあ。私たち、今会ったばかりです」
「愛に時の長い短いなど関係ありませんよ」
橙子は柱の影で吹き出しそうになるのを必死にこらえながら二人のやりとりを聞き続ける。源式部少輔は雄弁だ。明石がどれだけ美しいか、自分がどれだけ力があるかを必死に語り続けている。
(雅貴さまはちょっと強引だけど、私の見た目だけを褒めたり、自分の自慢話をしたりは絶対にしないな)
彼の言葉の根底にあるのは、いつでも相手を尊敬し、思いやる気持ち。今、式部少輔が吐いている言葉なんかより、ずっと素朴で飾り気もないけれど、真っ直ぐで気持ちのいい言葉。
(子どもの頃からそう。別れる時も、公卿の子息なら『大きくなったら愛人にしてやる』ぐらい尊大な態度でもいいのに……)
彼の口から出た言葉は、「今度は橙子に都を見せたいから迎えに来ていい?」だった。当然、年上で優位に立っていた橙子は、気恥ずかしさも相まって「立派な貴公子になったらね!」と偉そうに返してしまったものだ。
(……って、あれ? 雅貴さまが言っていた約束って……)
かあっと橙子の顔が熱くなる。彼と再会してからのやり取りを思い出し、そういうことかと胸が震える。
まさか、あれを覚えていたなんて。
その時、
「おやめっ——あ、人がいます! 橙子!」
美女の叫び声……ではなく雅貴のわめき声が響き、橙子は慌てて柱から身を乗り出す。そして何食わぬ顔で、明石にわざとらしく呼びかける。
「明石、こんなところにいたの? 探したのよ!」
ぱっと二人が離れる。明石が慌てて気崩れた衣を直し、式部少輔が苦虫を噛み潰したような顔で橙子をにらんだ。
「……おまえは誰だ?」
「彼女の従妹でございます。あなたさまは……このようなところに何用で?」
「た、たまたま通りかかっただけだ!」
ばつ悪そうに吐き捨てて、式部少輔が逃げるように去っていく。しかし、ちらりと明石に視線を送り、明石が笑顔でそれに答えた。
そして夕闇に消えていく式部少輔の後ろ姿を見送り——、二人は大きく息を吐いた。
「ごめん、出るの遅かった?」
「ごめんじゃない! こっちは貞操の危機を感じたぞ!」
思わず笑って橙子は誤魔化す。思い出にふけっていました、なんて言えない。すると雅貴が、いきなり橙子に抱きついた。
「ななんなっ、なに?!」
「もう美女なんて、絶対にやらない。俺、やっぱりあいつ嫌い」
そこそこ恐ろしい思いをしたらしい。でも、こうやって甘えてくる雅貴は、子どもの頃の雅貴みたいで、全力でなぐさめたくなる。
背中にそっと手を回し、ぽんぽんと叩く。雷を怖がった時、転んだ時、こうしたら雅貴は落ち着いた。
「……もう子どもじゃない。何度言ったら分かるんだ」
「そう? でも落ち着いたでしょ」
「じゃあ、遠慮しないぞ」
雅貴がもぞもぞと顔を胸にうずめてきた。橙子の体にずしっと雅貴の重みがのしかかり、思わず押し倒されそうになる。
橙子は、必死で体を支えながら雅貴の顔を押し返した。
「や、ちょっと! た、倒れる——!」
「……二日後、舶来の扇子をもらう約束をした」
雅貴がふいに呟く。そしてようやく身を起こし、おかしそうに言った。
「時間がないと慌てていたよ。でも、愛に時間は関係ないし、そんなに財力のある源家であれば簡単でしょうと言っておいた」
「うわっ……美女ならぬ悪女じゃない」
「盗みを働かせていた女房は実家に帰ってもういない。でも時間がない。これで目の前にお宝があったらどうなると思う?」
そういうこと。
(自ら盗みを働かせて、そこを押さえるつもりなのね)
橙子が納得顔で頷くと、雅貴が不敵に笑った。

