「明石から来た新入りって、あなたのこと?」
ここは平安御所の温明殿、御所で働く女房たちの詰め所「内侍司」がある殿舎だ。
綺羅びやかな十二単姿の女房たちが右往左往する中、所在なく広間に突っ立ていた新人の橙子は、ふいに気忙しい声に呼びかけられ振り返った。
「はい、私ですが?」
「掌侍の藤です。あなたのことは右大臣さまから伺っているのだけれど……」
藤と名乗る美しい女性は、華美ではないが気品のある衣をまとい、顔も化粧でしっかり整えられている。年齢は、十九となる橙子より五、六歳ほど年上といったところだろうか。
彼女は、訝しげに橙子の姿を上から下まで眺めた。
「……聞いていたのと印象がだいぶ違うわね。明石の姫は、華やかでお洒落な子だという話だったけれど?」
ここ内侍司では、皇族や公卿家の殿方との出会いに憧れ、若い娘たちが「我こそは!」と美を競い合っている。しかし、橙子の容姿はお世辞にも華やかとはいい難い。
橙子は、すました顔でにっこり笑った。
「間違いございません。明石の加古長信が娘、橙子にございます。私は自分が着飾るより、誰かを着飾らせる方が好きなのです。それに今日は、そういう装いです」
ぱっとしない衣装に無難な化粧——、どこにでもいそうな埋没系の地味女子。目の前の藤には、橙子がそんな風に映っているのだろう。しかし、これは橙子がそう狙ったからである。
衣の襲の色は無難な蘇芳と萌黄。表着の柄は定番の花菱。ここから自分なりに手を加えるのが本当は楽しいのだが、しかし、今日に限って言えば、そういった捻りも一切ない。
顔の化粧もしかり。ぼやけた顔となるよう、橙子はあえて目鼻立ちの印象を押さえる化粧をしてきた。
「華やかに着飾って目立つだけがお洒落ではございません。田舎者らしく目立たぬよう控えめの装いにいたしました」
ごくごく普通の格好と個性を殺す化粧をして、その他大勢に埋没する——。まさに計算し尽くされた、計算されていないように見える装い。おかげで、ここに到着してから集団に埋没しすぎて、誰にも気づかれず放っておかれるという憂き目にあってはいたが。
藤が「まあ、いいわ」と会話を切り上げた。
「今日から私があなたの上役となります。右大臣さまからはどのように聞いている?」
「はい。半年後に東宮妃として入内される右大臣家の姫君、三条彬子さまの身の回りの……特に身支度についての世話を仰せつかっております」
「分かっているようね。でも——地方から出てきた新人女房が皇族の側仕えに抜擢されるなんて、余程のことよ」
値踏みをするような藤の口調に、橙子はきゅっと口元を引き結ぶ。しかし彼女は、すぐににこやかな笑顔を作った。
「右大臣さまは我が加古家にとっても大切な御方。その御息女である彬子さまにも、期間限定ではありますが、ご満足いただけるよう素敵な装いを提案させていただきます」
「期待しているわ」
藤がくるりと踵を返し、「ついて来て」と歩き出す。そして振り向くことなく橙子に告げる。
「まずは昭陽舎に東宮さまへのご挨拶に参ります」
「え? いきなりですか?」
「当然です。あなた、半年後には東宮妃さまのお側に侍るのよ」
言って彼女は立ち止まって振り返り、あらためて橙子の姿を見る。
「派手好きな田舎の娘が勢い込んで馬鹿な格好をして来たら、追い返そうと思っていたけれど——。まあ、合格よ」
にこりと笑って藤が再び歩き始めた。褒められた気はしないが、それでも認めてもらえたと理解して良さそうである。
(掴みとしては、まあまあなのかしら?)
橙子は、大急ぎで彼女のあとに続いた。
御所の広くて大きな廊下をするすると静かに進む。あちこちから、小鳥のさえずりのような話し声が聞こえる。どうやら見慣れない女房が掌侍と歩いているのが珍しいらしい。
そこに居心地の悪さを感じつつ耐えることしばし、少し離れたところからわざとらしい声が上がった。
「あの地味でさえない子、新入りかしら? 藤掌侍さまに呼ばれたのね。お気の毒」
「藤さまは、所作には厳しいし身なりにはうるさいしねえ。あの方は自分より目立つ子が嫌いなんでしょう? 若くして未亡人になっちゃたものだから、次を探すのに必死って話よ。だからほら、あの子も地味でぱっとしていないじゃない」
(うわあ、本人にまる聞こえ。いや、わざとか)
ちらりと陰口が聞こえた方に視線をやれば、派手な格好の女房たちが、にやにやと笑いながらこちらを見ている。しかし残念かな、奇天烈な色づかいの衣装、かわいい顔が台無しな化粧、橙子に言わせれば「洒落ていない」奴らだ。
「橙子、ああいうのは無視しないさい。相手をしていたらきりがない」
「分かりました。ただ……」
「ただ、なに?」
「あの趣味の欠片も感じない装いはどうかと。着ている物を引っぱがし、顔を桶に突っ込んで化粧を洗い流してやりたいです」
「やめなさい。大騒ぎになるから。大人しそうな顔で、わりと物騒なことを言うのね」
率直な感想を述べれば、すかさず藤が袖で口元を隠しつつ注意する。怒られるかなと思ったが、横顔が笑っている。厳しそうだが、冗談は通じる人らしい。
すると、藤が思い出したように橙子に話しかけた。
「そう言えば、右大臣さまのご次男、三条雅貴さまは覚えている? 東宮妃さまの兄にあたる方」
「雅貴——さまですか? ええ。幼い頃、一緒に過ごしましたから」
橙子の祖父は、もとは大納言という地位を得ながら、政争に巻き込まれて都落ちとなった豪族である。以来、加古家は播磨の国の明石と呼ばれる土地に身を落ち着かせ、明石の港に入ってくる物を売って財をなしている。政治の才はなかったが、商売の才はあったらしい。
そして今回、橙子を都に呼び寄せた右大臣三条雅道は、父と懇意にしている人物で、橙子もよく知っているおじさまである。
「右大臣さまは、商談と療養を兼ねて明石によくいらっしゃいますから。過去に一度だけ御子息さまを連れていらっしゃったことがあって、年も近かったので、御子息さまの面倒を……じゃない、遊びのお相手をさせていただきました」
橙子は、その頃のことを思い出しながら答えた。弱々しくて、突いたらすぐに泣きそうになる、一つ下の男の子。小柄で、ひょろっとしていて、食は細いし、木登りもできない。優秀な兄がいるとかで、いつも自信なさそうで、それが顔にも張りついていて……。でも時折見せる笑顔はめっちゃ可愛くて、守ってあげたくなる男の子だった。
一緒にいたのは一年ほど。お互い子どもだったので、身分も関係なく、橙子の方が年上だからという理由だけで「さん」付けで呼ばせていた。もちろん、こちらは呼び捨てだ。
(化粧の練習をするために、顔を貸せと馬乗りになっていたこともあったわね……)
我ながら公卿家の子息相手にとんでもないことをしていたと思う。
「あの、それが何か?」
「ああ、実はね——」
その時、廊下の向こうから呼び止める声がした。
「藤掌侍!」
何かと思って振り返ると、そこに緋色の直衣姿の貴公子が立っていた。
ここは平安御所の温明殿、御所で働く女房たちの詰め所「内侍司」がある殿舎だ。
綺羅びやかな十二単姿の女房たちが右往左往する中、所在なく広間に突っ立ていた新人の橙子は、ふいに気忙しい声に呼びかけられ振り返った。
「はい、私ですが?」
「掌侍の藤です。あなたのことは右大臣さまから伺っているのだけれど……」
藤と名乗る美しい女性は、華美ではないが気品のある衣をまとい、顔も化粧でしっかり整えられている。年齢は、十九となる橙子より五、六歳ほど年上といったところだろうか。
彼女は、訝しげに橙子の姿を上から下まで眺めた。
「……聞いていたのと印象がだいぶ違うわね。明石の姫は、華やかでお洒落な子だという話だったけれど?」
ここ内侍司では、皇族や公卿家の殿方との出会いに憧れ、若い娘たちが「我こそは!」と美を競い合っている。しかし、橙子の容姿はお世辞にも華やかとはいい難い。
橙子は、すました顔でにっこり笑った。
「間違いございません。明石の加古長信が娘、橙子にございます。私は自分が着飾るより、誰かを着飾らせる方が好きなのです。それに今日は、そういう装いです」
ぱっとしない衣装に無難な化粧——、どこにでもいそうな埋没系の地味女子。目の前の藤には、橙子がそんな風に映っているのだろう。しかし、これは橙子がそう狙ったからである。
衣の襲の色は無難な蘇芳と萌黄。表着の柄は定番の花菱。ここから自分なりに手を加えるのが本当は楽しいのだが、しかし、今日に限って言えば、そういった捻りも一切ない。
顔の化粧もしかり。ぼやけた顔となるよう、橙子はあえて目鼻立ちの印象を押さえる化粧をしてきた。
「華やかに着飾って目立つだけがお洒落ではございません。田舎者らしく目立たぬよう控えめの装いにいたしました」
ごくごく普通の格好と個性を殺す化粧をして、その他大勢に埋没する——。まさに計算し尽くされた、計算されていないように見える装い。おかげで、ここに到着してから集団に埋没しすぎて、誰にも気づかれず放っておかれるという憂き目にあってはいたが。
藤が「まあ、いいわ」と会話を切り上げた。
「今日から私があなたの上役となります。右大臣さまからはどのように聞いている?」
「はい。半年後に東宮妃として入内される右大臣家の姫君、三条彬子さまの身の回りの……特に身支度についての世話を仰せつかっております」
「分かっているようね。でも——地方から出てきた新人女房が皇族の側仕えに抜擢されるなんて、余程のことよ」
値踏みをするような藤の口調に、橙子はきゅっと口元を引き結ぶ。しかし彼女は、すぐににこやかな笑顔を作った。
「右大臣さまは我が加古家にとっても大切な御方。その御息女である彬子さまにも、期間限定ではありますが、ご満足いただけるよう素敵な装いを提案させていただきます」
「期待しているわ」
藤がくるりと踵を返し、「ついて来て」と歩き出す。そして振り向くことなく橙子に告げる。
「まずは昭陽舎に東宮さまへのご挨拶に参ります」
「え? いきなりですか?」
「当然です。あなた、半年後には東宮妃さまのお側に侍るのよ」
言って彼女は立ち止まって振り返り、あらためて橙子の姿を見る。
「派手好きな田舎の娘が勢い込んで馬鹿な格好をして来たら、追い返そうと思っていたけれど——。まあ、合格よ」
にこりと笑って藤が再び歩き始めた。褒められた気はしないが、それでも認めてもらえたと理解して良さそうである。
(掴みとしては、まあまあなのかしら?)
橙子は、大急ぎで彼女のあとに続いた。
御所の広くて大きな廊下をするすると静かに進む。あちこちから、小鳥のさえずりのような話し声が聞こえる。どうやら見慣れない女房が掌侍と歩いているのが珍しいらしい。
そこに居心地の悪さを感じつつ耐えることしばし、少し離れたところからわざとらしい声が上がった。
「あの地味でさえない子、新入りかしら? 藤掌侍さまに呼ばれたのね。お気の毒」
「藤さまは、所作には厳しいし身なりにはうるさいしねえ。あの方は自分より目立つ子が嫌いなんでしょう? 若くして未亡人になっちゃたものだから、次を探すのに必死って話よ。だからほら、あの子も地味でぱっとしていないじゃない」
(うわあ、本人にまる聞こえ。いや、わざとか)
ちらりと陰口が聞こえた方に視線をやれば、派手な格好の女房たちが、にやにやと笑いながらこちらを見ている。しかし残念かな、奇天烈な色づかいの衣装、かわいい顔が台無しな化粧、橙子に言わせれば「洒落ていない」奴らだ。
「橙子、ああいうのは無視しないさい。相手をしていたらきりがない」
「分かりました。ただ……」
「ただ、なに?」
「あの趣味の欠片も感じない装いはどうかと。着ている物を引っぱがし、顔を桶に突っ込んで化粧を洗い流してやりたいです」
「やめなさい。大騒ぎになるから。大人しそうな顔で、わりと物騒なことを言うのね」
率直な感想を述べれば、すかさず藤が袖で口元を隠しつつ注意する。怒られるかなと思ったが、横顔が笑っている。厳しそうだが、冗談は通じる人らしい。
すると、藤が思い出したように橙子に話しかけた。
「そう言えば、右大臣さまのご次男、三条雅貴さまは覚えている? 東宮妃さまの兄にあたる方」
「雅貴——さまですか? ええ。幼い頃、一緒に過ごしましたから」
橙子の祖父は、もとは大納言という地位を得ながら、政争に巻き込まれて都落ちとなった豪族である。以来、加古家は播磨の国の明石と呼ばれる土地に身を落ち着かせ、明石の港に入ってくる物を売って財をなしている。政治の才はなかったが、商売の才はあったらしい。
そして今回、橙子を都に呼び寄せた右大臣三条雅道は、父と懇意にしている人物で、橙子もよく知っているおじさまである。
「右大臣さまは、商談と療養を兼ねて明石によくいらっしゃいますから。過去に一度だけ御子息さまを連れていらっしゃったことがあって、年も近かったので、御子息さまの面倒を……じゃない、遊びのお相手をさせていただきました」
橙子は、その頃のことを思い出しながら答えた。弱々しくて、突いたらすぐに泣きそうになる、一つ下の男の子。小柄で、ひょろっとしていて、食は細いし、木登りもできない。優秀な兄がいるとかで、いつも自信なさそうで、それが顔にも張りついていて……。でも時折見せる笑顔はめっちゃ可愛くて、守ってあげたくなる男の子だった。
一緒にいたのは一年ほど。お互い子どもだったので、身分も関係なく、橙子の方が年上だからという理由だけで「さん」付けで呼ばせていた。もちろん、こちらは呼び捨てだ。
(化粧の練習をするために、顔を貸せと馬乗りになっていたこともあったわね……)
我ながら公卿家の子息相手にとんでもないことをしていたと思う。
「あの、それが何か?」
「ああ、実はね——」
その時、廊下の向こうから呼び止める声がした。
「藤掌侍!」
何かと思って振り返ると、そこに緋色の直衣姿の貴公子が立っていた。

