私の腹を満たすもの

五、崩れた平穏

 冬休みのさなかのことだった。
 とても寒い一日だった。
 ドカン! と地面が突き上げられる音は、最初なにかが爆発したのかと思うほどに、店ごと縦に大きく揺れた。
 私は冬休みに際し、フレンチレストランでのアルバイトに出られるまでに回復した。
 しかし、上下関係が厳しく、同じ女性シェフもいるというのに、下っ端の私はいつも皿洗いばかりで、みんな私のことを無視した。
 けれど、それしきで私はめげない。
 あの日々を思えば、なんてことはないことだった。
「地震だ! ガス閉めろ!」
 料理をしていた私たちに、コック長は機敏に指示を出した。
 ちょうど私たちがまかないを食べていた時間だった。
 突如起きた縦揺れに、機敏に反応したのはコック長だけだった。
 ガタガタと揺れる店内で、私はテーブルの下でテーブルの足にしがみついた。実に長い時間揺れていたように思う。店内の食器は床に散乱し破片と化す。
 シャンデリアも大きく揺れて、天井に当たってパラパラと割れた。テーブルやレジががたた!と倒れた。
 なにもかもが、一変する。二分以上の大きな揺れは、私の店も、一般の家も、等しくすべてを狂わせた。
 ものが散乱し、午後の営業は不可能だろう。いや、外はどうなった? この揺れで倒壊した建物もあるかもしれない。
 感じたことのない、大きな大きな揺れだった。
 テレビをつける。どこも地震速報でもちきりだった。
 家は大丈夫だろうか。携帯を取り出し電話をかける。回線が込み合ってつながらない。
 コック長が冷蔵庫を確認する。
「今日はもう帰っていい。家族の無事を確認しなさい。それから、冷蔵庫にある水と保存食は、社員で分け合って持ち帰るように」
「え、え?」
「なつき。落ち着け。この中でおまえが一番若い。一番経験値が低い。一番気遣わなければならないのはわかってる。けど、なつき。ここから一週間が勝負だ。この地震は、日本に大きな影響を与えるだろう」
 コック長の言うことはもっともだった。この大地震は、死者・行方不明者数二万人を超える大災害として知れ渡ることとなる。

 私たち見習いコックは、コック長の計らいで食料と水を等分に分けて、混乱する交通網の中、あるひとは歩いて帰り、あるひとは厨房に泊まった。
 私は幸いにも店の近くに実家があったため、その日のうちに帰宅することができた。
 今でも耳にこびりつく、皿やシャンデリアの割れる音。
『避難してください』
 テレビはどこも同じ言葉を繰り返す。
 家に帰って、ぐちゃぐちゃに散らかった自分の部屋で、しばし呆然とする。
 大地震なんて、大災害なんて、自分が経験するとは思わなかった。明日からどうなるのだろう。ライフラインが断たれたとコック長が言っていた。水も電気もガスも使えない。
 私は店からもらってきた食料と水を数える。
「持って三日……? いや、一週間は持たせなきゃ。家族五人……」
 帰って来た母と父が確保した食料と水を合わせても、五日持つかというところだった。
 ライフラインが断たれたとはいえ、一週間もすればすべて元通りになるだろうと、私はその日はなにも食べずに布団に入った。
 明日目が覚めて、すべてが夢だったら、なんてことを思った。

 翌朝起きて携帯を起動して、昨日の地震の情報を集めた。
 阿鼻叫喚、とはこのことだろうか。地獄絵図のような映像と写真。
 津波が来た、沿岸部に。
 この県も海に面してはいるが、私が住んでるこの場所は、海には程遠い。だが、他人事でもない。同じ県内の人間が、津波の被害にあっている。
 こと、震源地の津波は目を覆いたくなるような惨状だった。
「ひとが、流されてる……?」
 車も、家も。
 同じ県内でも、家のほうは震度が一ほど大きかった。
 建物は損傷しなかったものの、店内のものは散乱しているし、テーブルも椅子も、落ちてきた電球もどうにかしなければならないだろう。
 さいわいにして、私の家族は全員無事だ。
 しかし、この状態はいつまで続くのだろうか。
 コック長にもらった食料を見ながら、私は途方に暮れた。

 結局ライフラインが復旧したのは、震災から十日後のことだった。
 それまで私は、コック長にもらった食料と、何日かに一度少量だけ入荷されるコンビニの食糧だけが頼りだった。
 水は市がタンクに積んで配り歩いてくれたおかげで、脱水にならずに生き延びることができた。
 普段当たり前に使っていた水道も、トイレも、お風呂も、暖房も。なにもかもを失って、寒い冬を孤独に過ごした。
 どこから情報を仕入れるのか、ガソリンがガソリンスタンドに入荷されると聞き及んでは、早朝四時には大行列ができる。
 コンビニの物資だってそうだ。入荷とともに皆が我先にと買い占めるから、結局情報に疎いものは食料さえ得られない。
 一月はまだまだ肌寒く、暖房のない日中の家はより一層寒さがこたえた。
 冷蔵庫が使えないから、おのずと保存食ばかりに頼ることになる。火も使えないから冷えた食事ばかりだった。
 普段は大好きなパンに、飽きた。たまには温かいご飯が恋しくなるが、そうわがままも言ってられない。
 一度だけ、近くの小学校で炊き出しが行われたことがあった。私はそれを、アルバイト先の先輩から聞いた。先輩はネットに明るく、そういう情報をどこからか聞いたのだ。
 普段は私に冷たい先輩たちだが、困った時は別だった。こういう事態なのだから、気に入らない後輩だろうが、仲の悪い先輩だろうが、関係ない。
「うわ、行列じゃん」
 私は炊き出しを頼りに家族と小学校へ向かった。朝は八時、行列は百人はいるだろう。足りるだろうか。
「あ、先輩」
「なつき。炊き出し、自衛隊のだからなくなることはないだろうって。最後尾三十分待ち」
「ありがとうございます」
 先に炊き出しの牛丼を食べていた先輩に挨拶をして、私は列に並ぶ。
 一月の底冷えする日で、ダウンコートを着ているひともいるくらいだった。
「さむ」
 両手をポケットに突っ込みながら、空を見上げる。晴れているからまだいいものを、これで雨や、ましてや雪などふったら二次災害も起きるだろう。
 しかし、こんな状況でさえ、私はその炊き出しの『肉』を食べられなかった。
 牛丼を作っていた自衛隊のお兄さんからそれを受け取って、家族で体育館に移動する。
 そこで腰を落ち着けて、私は牛丼の上の牛肉を、弟と姉にわけていた。本当は、肉が載っていた白米すら食べたくなかったけれど、非常事態だ、そこは我慢する。
「なつき……こんな時まで」
「ごめん。でも、どうしても無理」
「いいじゃない。白米食べられれば元気になるわよ」
 お母さんがフォローする。
 私は牛肉をよけた牛丼をかきこむ。
「おいしい! あったかい! おいしい!」
 隣にいた老夫婦に笑われた。しかし、美味いものは美味い。久々の温かな食事に涙が出そうだ。
 牛丼のタレが細胞ひとつひとつに染み渡るようだ。甘辛い味付けは濃すぎず薄すぎず丁度いい。
 なくしかけていた活力が湧いてくるのがわかった。
「おいしい、おいしいな……やっぱり炊き出しは大量調理だからうまみが出るのかな」
 こんな時まで分析してしまうのは、もう癖のようなものだ。
 あっという間に牛丼を平らげて、場所を譲るために忙しなく体育館を出る。
 炊き出しをしてくれた自衛隊に頭を下げてから、家路を歩く。
 ライフラインの復旧まであと何日かかるだろう。コンビニもスーパーも、物資が滞ったままだ。
 美味しい食事で腹が満たされて、多少は心が落ち着いた。しかし、まだまだ不安な日々は続くだろう。
 この県でこれなのだから、震源地はもっとひどいのだろう。今はもう、テレビを見るのさえ嫌になった。余震の恐怖も、目を覆いたくなるような惨劇も、なにも見る気にはなれない。
 そういえば、真子は無事だろうか。携帯を開いて連絡先を読み込む。
 通話ボタンを押しかけて、やめた。
 半年近く連絡も取っていなかったくせに、いまさらだ。それに、震災で忙しい時に無駄に時間と携帯の電池を使わせるわけにもいかない。
 私は携帯をポケットにしまって、いまだ片付け切れていない家に帰った。

 十日ぶりにアルバイト先に赴くと、コック長の神妙な面持ち。
「コック長、大丈夫でしたか?」
 いまだ食料が手に入りにくい状況ではあるが、いったん店員全部を店に呼んだのはコック長の境だった。
「この震災の被害は大きすぎた」
 散らかったコックたちの食事部屋で、境がこうべを垂れている。
 嫌な汗が伝った。もしかすると、この災害は他人事ではなかったのかもしれない。
「わたしの妻の実家が東北で」
 境が声音を低くする。
「妻の両親が津波に、巻き込まれた。義父も義母も遺体で見つかった」
 コック長の目が潤んでいるように見えた。
 皆がしんと静まり返る。かける言葉が見つからない。
「あの、こういう時だからこそ、食事でみんなを励ませませんか?」
 私がカラカラののどから絞り出した。先輩たちが目を真ん丸にする。
「元気にするって言ったって、食材も手に入らないのになに言ってるんだよ」
「だからこそ、ですよ。今すぐにとはいかないけど、ライフラインが完全に復旧したら、誰でも気軽にフレンチを楽しめる、立食、そうだ、立食パーティーみたいなの、開きませんか」
 もちろん、そのためには材料を仕入れる費用が掛かる。手間も。
 ボランティアで料理は作れないが、少しでも参加費を設けて、できる範囲内でフレンチを食べてもらう。
 震災のさなかでも、ひとは絶対にものを食べる。極限状態であれば、どんなものでも。
 正直、私は日本がどれだけ恵まれた国だったのかを、まざまざと感じた。
 食べたいときにいつでもご飯が食べられる。コンビニに行けば弁当等がある。水だって、蛇口をひねれば飲める水が出てくる。海外ではこうはいかない。海外の水道水は、日本の様に飲めるものは少ない。
 水を買う、というのは世界では当たり前のことであるが、私はこの震災を経て、初めて『水を買う』経験をした。
 トイレだってそうだ。水が流せなければトイレは汚物で汚れて臭くなる。
 風呂に入らなければ体がかゆくなるし、電気やガスがなければ料理もできない。食材の保管だってままならない。
 食うや食わずの日々は、私の食への執着心をより一層芽生えさせた。
「人間って、食べなきゃ死んでしまうんですよ。でも、極論を言えば、食べられればなんでもいいはずなんです、生きる上では。それでも人類は、いかに食べ物をおいしく調理するかを研究してきた。食は人間の根源であり、一生の課題なんだと思います」
「なに講釈垂れて。おまえさ、料理の学校通っているからって、ちょっと世間知らずなとこあるよな?」
 先輩コックの辛らつな言葉。もっとも過ぎて返す言葉もない。
「今さっき、コック長の義父母さんのこと、聞いてたか? コック長の心中察しろよ」
「……わかってます。でも、この催しは、食べるひとのためだけじゃなくて、作る側のためでもあるんです」
 人間の三大欲求を満たせない今、そのうちのひとつでもいい、食欲を満たせたら、救われるひともいるのではないか。
「おまえ、この状況分かって言ってるのか? 薬が必要な人間に、薬情やお薬手帳の提示があれば処方箋なしで薬が処方された。それを取りに行くための車のガソリンがない。だったらどうする? 歩きか自転車で何時間もかけて薬をもらいに行く。そんな事態なんだよ。今は」
「今すぐにって話じゃないです」
「じゃあなんだよ、いつだ? 復旧したらとか、ライフラインが回復したらとか。そんなことどうでもいいんだよ。この災害で悲しむひとを救いたい? そんなのただの傲慢だ。コックにできる人助けなんてないんだよ。だってそうだろ、食は本能とか言ったって、こういう災害の時にわざわざフレンチを食べたがる人間なんていない」
 先輩の言うことはもっともだった。
 私は口をつぐむ。だからって、なにもしないよりはましじゃないか。
「なつき。おまえが誰かのために調理師になりたいのかは理解してる。でもな、今回の件で思い知ったよ。わたしが幸せにしたかったのが、誰なのか」
 誰のために作る。
 誰のために。誰のためって、みんなのため。レストランを訪れる、すべてのお客様。
「わたしはね、恥ずかしい話、家では料理は妻に頼りっきりだったんだ」
 コック長がぼそぼそと口を動かす。いつもとは違い、のっぺりとしたしゃべり方だった。
「でも、震災で。たった十日前のことだけど。十日前、妻の両親が行方不明になって、妻は食事も喉を通らなくなってしまって」
 私も先輩コックも、境の言葉に耳を傾ける。
「妻に、『食べたいものはないか?』って聞いたら、『今までそんなこと一度も言ってくれなかったくせに』って言われてしまったよ」
 力なく笑うコック長。
「だからね、私なりに台所に立ったんだ。私の家は、一足先にライフラインが復旧したから。でもね、わたしはフレンチしか作れない。家庭料理なんてからっきしで。炊飯器すら使い方がよくわかってなくて」
 コック長がうつむき、ぎゅっとこぶしを握った。
「だからね、冷蔵庫に入ってたジャガイモで、冷たいヴィシソワーズを作ったんだ」
「……奥さん、今は大丈夫なんですか?」
「いや。今もまだ立ち直れてない。落ち着いたらご遺体を見に行かなきゃならないし」
 コック長は私を見る。弱々しい瞳だった。
「私が作ったヴィシソワーズを、妻が食べてくれたんだ。そしたら、『あなたの料理って、こんなにおいしいのね』って。わたしが作ったのは、スーパーで手に入る普通のジャガイモを、裏ごしもせずに作ったヴィシソワーズだったのに」
 コック長の言いたいことが、私にはよくわからなかった。コック長の腕は一流だ。ならばどんな材料だろうと、おいしい料理になって当たり前だ。
「なつき。なつきは誰に『おいしい』って言ってほしくて調理師になった?」
「私、は。この店に来る、みんなにです」
「そうか。そうだな、なつき。きっとなつきは、その言葉の本当の意味を、まだ分かってない」
 むっと口を結ぶ。
 確かに私は半人前かもしれないが、誰かのために料理をする喜びは知っているつもりだった。
「わたしはね、この店をたたむことにしたんだ」
「え……?」
「やっぱり。コック長も色々ありましたもんね」
 コック長が頷く。しかし、私は納得いかなかった。なんで。どうして。たたんでどうするんだ。
 一緒についていきたいとさえ、思った。
「落ち着いたら妻の要望通り、安楽死をさせようと思う」
「え……?」
 私の口から洩れたのは、間抜けな息だった。
 なぜ。
「なんで……! なんで! せっかく生き伸びたのに!」
「おまえ、さっきから聞いてれば……! コック長の奥さん、家族を亡くしたんだ! 安楽死だってしたくなるだろ!? おまえには人の心がわからないのか!?」
 そんなもの、痛いほどにわかる。
 死にたいほどつらい現実も、だけど、それを乗り越えた先に幸せがあることも。
「わたしはみんなのために料理を作りたかったわけじゃなかった。妻がわたしのヴィシソワーズをおいしいと言ってくれて、気づいてしまったんだ。妻の決めたことに、私は従うつもりだ」
 そんなの勝手だ。
「なんで!」
 なんで、私の周りの人間はみんな、そんな無責任なことを言い出すのだろう。
 復興作業にだって何年もかかる。
「自分勝手で済まない。退職金は後程振り込む」
 一か月ほどして、コック長は内陸の県へと引っ越した。奥さんが本当に安楽死を選んだのかは、わからない。

***

 震災から一ヶ月。
 冬休みが明けたその日、私は久々に真子に呼ばれてファミレスに赴いていた。
 みんな、あの震災で友人や家族のありがたみを再認識した。
 だから、真子は私と、亜美を引き合わせたのだと思う。
「す、素敵なネックレスだねえ」
 思ってもいない言葉を亜美に向けると、満面の笑みを返された。
 最初はそんな、他愛ない話からだった。
 転校前の高校の仲良しグループは全部で十人いて、転校してからはなんの音沙汰もなかった。
 特に亜美とは、ようやく縁が切れたと思っていたのに、目の前にいる亜美は、相変らず人生が楽しくてしょうがないらしい。
 なぜだか真子は私と会う時は必ず亜美を誘うのだった。
「これ、いいでしょう? これに惹かれるってことは、なつきもアセンションの時なんだよ」
「あせん……?」
 嬉々として語りだした亜美と私は、いわゆる問題児というものだった。
 亜美は安楽死を違法に申し込み、私は拒食症で高校を転校。 
「アセンションっていうのは、今地球で起きている大規模な次元上昇なの。私が通っている心療内科のドクターが詳しいから、今度聞きに来なよ」
「そう……考えとく」
 私はあいまいに返事をして、真子はずずっとアイスコーヒーを飲み干した。
 真子はいつも、都合が悪い話題には返事をしない。
 だからいつも、亜美のこの話は私が相手をする羽目になる。真子がドリンクバーに席を立つ。
 カツカツとヒールを鳴らす真子はすっかり都会の女だ。数ヶ月前まで中学生だった真子と亜美は、もうすっかり垢抜けた。
 化粧をしてイヤリングをしゃらしゃらとぶら下げて、私の耳にはなにもないっていうのに。
 亜美は不登校になったらしいからか髪をキンキンの金髪に染めて、イヤリングはいつしかピアスにすげ変わっていた。
「それでね、アセンションは人類の三分の一しか乗れないんだけれど」
「ねえ、あっちでなんか新しいコーヒー豆入れてたよ。めちゃくちゃおいしい」
 帰ってきた真子が椅子に座り、話題を転換する。
 亜美が「マジで!」と顔をぱっと明るくした。私がこのお茶会にまじる前は、ふたりきりでこのファミレスに通っていたらしい。
 なんの話をしていたのだろう。やっぱりアセンション?
 だったら真子が、亜美とお茶会の話が出る度に、私も一緒に誘うのは、その話題についていけなかったからなのかな。
「そういえば、なつきは拒食症治ったの?」
 真子の話題転換であまりよろしくない方向に話が進んだ。私もドリンクバーに行けばよかったと後悔して、
「うーん、一応はまだお肉は食べられないけれど、ほかは普通」
 体が拒絶している。今日こそは肉を食べようとしても、体が鉛のようになって動かない。涙があふれて息が苦しい。苦しい、酸素が足りない。
 あっぷあっぷで口を開いて大きく空気を吸い込むのに、一向に酸素は私の肺に入らない。
 私の肺は壊れてしまったのかもしれない。
「そうなんだ、うちの心療内科くればいいのに。アセンションすれば治るんだけどな」
「いや、私はちゃんとほかの心療内科に通っているし」
 亜美がアイスティーのカップを手に、私に言った。なんて?
 どこまでも他人事な二人に、私はあいまいに笑って見せた。キラキラのプリズムが真子の真っ黒な髪を綺麗に演出していた。
 亜美の話を聞いていなかったら、単なるプリズムのネックレスだったそれ。
「うーん、でも、今の学校で少しずつ回復はしてるよ」
「そうなんだ。まあ、いつでもアセンションできるし」
 真子が安心したようにアイスコーヒーのストローに口をつけた。
もう、亜美のアセンションの話は終わったらしい。結局、アセンションってなんだったんだ?
 この肉体は宇宙から繋がる仮の姿で、本体は宇宙にあるらしい。
 なんだそれ、ちんぷんかんぷん、蝶々がひらりとなつきった。
「そうそう。高校だって、何歳になってもいけるんだから」
 亜美の言葉には重みがない。
 きっとその言葉たちはアセンションのドクターの受け売りなんだろうなと、私は冷めたホットコーヒーを喉に流し込んだ。
 ぬるいコーヒーって苦味が消えて酸味が際立つから、あまり好きじゃない。私は苦味の強いエスプレッソが、好き。

 定期的に亜美と真子と会うようになって、私の生活は少しだけ安定した。
「でも、なつきまで転校するとは思わなかったよ」
「私も意外だった。真子と亜美がふたりで会ってるなんて」
 きっかけはなんだったかも忘れたけれど、グループLINEで真子やほかの友達が海に行こうって話していて、私はいけないかなって返したら、真子から個別LINEが来た。
 半年ぶりの連絡に、私の胸が踊ったのは言うまでもない。同時に後ろめたくて、返事をするか私は迷った。
「お母さんが、なつきががりがりに痩せて怖かったって言ってて、もしかしてって思ったらやっぱり拒食症かって。なんでそんなことしたの?」
 亜美がわざとらしく私に言った。真子は亜美の悪意に気づいていない。
 亜美は私に今でも敵対心を抱いている。
 亜美がにた、と私にいやな笑みを向けた。
 拒食症の原因なんて、亜美たちが安楽死事件を起こしたから、疲弊して自尊心を取り戻すためだった。
 なんて、そんなことは今はもう、思わない。
 病院の臨床心理士さんや神野看護師さん、お父さんお母さん、お姉ちゃん弟。みんなのおかげで、私は今、こうして生きている。
「ちょっと、間違ったダイエットをしてしまったんだよ。でも今は、それがおかしなことだったって自覚はあるし。無駄な経験でもなかったと思っているよ」
 亜美が面白くなさそうに顔をゆがめた。
 真子は、「そうなんだね、よかったね」と対照的に笑っている。
「本当は、私と佳代が、安楽死するって騒いだ事件のせいだって、思っているくせに」
 亜美が本音をこぼした。
「そんなこと……いや、本音を言えば、そう思ったことはあるよ。でも今は、それは関係ないって思ってる」
 しかし、亜美はわざとらしく泣きだして、真子がよしよしと背中をさすった。
「亜美だって、傷ついてるんだよ。なつきだってわかるでしょ」
「そうだね、私も、安楽死を考えたこと、あるもの」
 え、と真子が固まった。
「なにそれ、初耳なんだけど」
「そりゃあ、誰にも言ってないもん。拒食症で私、入院したでしょう? あの時、一ヶ月近く身体抑制されて……おむつして、そこに用を足して、お風呂にも入れなくて。それで、生きているって言えると思う?」
 真子が絶句している。どうせ、理解されないのはわかっていた。
「なんだ、なつきも私とおんなじじゃん。死にたがりのメンヘラなんだ」
 亜美が嬉しそうに笑っている。
 この子は昔から、悪意の塊だった。
「ま、まあ……そういうことも、あるよね」
 真子が話題を転換する。亜美は、必死に私にアセンションのドクターの説法を溶いたけれど、私にはそんなものは、響かなかった。

 ある夜、亜美からLINEが来た。個別に連絡が来たのは初めてで、私は連絡に気づいた午前三時、そのメッセージを何気なく開いた。
 真っ暗な部屋にスマホのブルーライトが光っていて目に悪い。次に返事が来たら既読だけつけて寝ようと思った。
『なつきもアセンションの子供だから、次の日曜、広野先生のイベント行こう』
 にこにこのペンギンのスタンプと、なんかよくわからない虹のエネルギーの書かれたスタンプ。
 私はどう返信していいのか迷った。いつか誘われるとは思っていたが、その速さに苦笑すらできない。
 既読をつけて、速攻で返信した。スタンプも顔文字もつけない。
『私はそういうの信じてないから』
『でも、なつきも安楽死選んだんだし。きっとなつきの転校もいい方向に向かうよ!』
 先輩面されて、私は少しだけ腹が立った。亜美は私がアセンションすると信じて疑わないらしいが、そんなものこっちから願い下げだ。
 私は間髪入れずフリック入力する。
『変だよ、それ。アセンションとか五次元とか。そんなもの存在するはずがない』
『は? なにそれ。なつきが折角心入れ替えたのに。ねえ、今度の休みに、直接話そう?』
 断るつもりが、なぜだか今度は真子と亜美と私のグループLINEからの通知。すぐに開いて、
『今度の日曜日に、会えないかな?』
 亜美のメッセージ。
 ついた既読は私のものだけだ。今は午前三時、当然真子は寝ている時間だ。
 私は読むだけ読んで返事をせず、その日はもう、布団に入ることにした。亜美のLINEを思い出して、布団の中でひとり憤慨する。なにがアセンションだ、次元上昇だ。そんなもの、存在しない。
 存在したのなら、私はいったいなんだっていうのだろうか。

 次の日曜日、私と亜美と真子はいつものファミレスで待ち合わせた。注文を済ませて各々がドリンクバーを持ってきたところで、亜美が私にではなく真子に話した。
「聞いて、真子。なつきがね、私の先生の話だとアセンションの子供だって。安楽死を選んだ子はね、アセンションの子供なんだけど」
「ああ、あのすごい先生の?」
 真子は亜美の話を真剣には聞かない。
 合わせているのだ。
 私はわざとらしく顔をしかめる。
 なにが『すごい先生』だ。亜美は狂信してるだけで、そこはある種の宗教と同じだった。
「それでね、なつきはアセンションした子供だってわかったのに、信じてないんだよ」
「だから、アセンションとか、宗教みたいで嫌なの」
「宗教じゃないよ。アセンションは合理的な次元上昇なの。私もなつきも、アセンションした五次元の子供なのに、なんでうれしくないの?」
「うれしいわけないじゃん。五次元なんて信じてないし」
「安楽死を望んだこと自体が、五次元に生きる証明だよ?」
 亜美は心底広野先生に心酔しているらしく、なにを決めるのも広野先生の言いなりだった。
 例えば、運動療法がいいと言われれば、付属のジムに通ったし、デイケアがいいと言われれば、デイケアに通う。
ただ、続くかは別問題だった。
 亜美は今でも不登校だし不安定だから、どの療法も長くは続かない。けれど、それでいいのだ。
 先生からしてみれば、自分の指示通りに動く患者は、いや、信者は気持ちがいいだろう。
 そうやって傷の舐めあいをして、悦に入って、意味の分からないアセンションの講釈を垂れる。
 次元が高いからアナタたちは生きづらいだけだよ、安楽死を選んだのが証拠だよ。
 大丈夫アナタたちはなにもおかしくない。
 なんて甘い言葉。
 自分のせいじゃなくて他者のせい。
 亜美さんは五次元だから次元の低い他者とかかわれなかっただけなんだよ。復学はまだ早いです。じゃあいつが? それは先生が見極めるから大丈夫。わかりました、私復学はまだやめときます。
 そもそも、次元が高いだの低いだの、そういう考えかたが嫌い。誰しも人間は平等で、いいも悪いもない。
 そう思う反面、幸と不幸だけは存在するのだから、私は頭がおかしくなりそうだった。
「私もさ、最初は学校なんて行きたくなくて生きづらかったけど、ちゃんとアセンションできたし。なつきもきっとちゃんとアセンションに乗れるよ」
 なんともいえない、言葉にできない不快感を覚えた。亜美にできたから私にもできる、というのはいささか乱暴すぎないだろうか。
 私がいまいちぱっとしないでいると、亜美はふっと眉間にしわを寄せたままに笑った。無邪気でいて邪悪だった。
「だからなつきは、拒食症なんてしちゃうんだよ」
「それは私も同感」真子が畳み掛けた。
 亜美の言葉に、しかし私は呆れてなにも言えなくなった。亜美はどこまで私の話を他者にしているのだろう。
 あることないこと、いや、拒食症は実際に患っているけれど。亜美から見た私って、どんな人間なのだろうか。
 出来損ない? 光の子供?
 でも、私はただ、真摯に調理に向き合っていた。
 真子がことりとアイスコーヒーのカップを置いた。コーヒーのコップが汗をかいている。真子はナフキンでコップの結露を拭きながら、私に侮蔑の目を向けていた。亜美に悪気はないらしく、
「でも、大丈夫。肉が食べられないのもアセンション前の一時の落ち込みなんだって。なつきがアセンションするには必要なことだったんだって。私にはわかるよ」
 なにもわかってない。これは私の問題で、たとえ真子でも立ち入ることは許されない。
 亜美はそれをわかっていて、わざわざ真子の前でアセンションの話に結び付ける。
 悪徳なやり方だ。安楽死が合法化したから、それをダシに患者を洗脳する心療内科なんてあってはならない。
 けれど、今の私は、昔とは違う。
 私はたくさん、たくさん悩んで、乗り越えて、時々後ろは見てしまうけれど、お母さんのために、自分のために、精一杯の人生を歩み出した。
 だから、亜美の行動にも不思議と恐怖はなかった。
「きっとなつきも広野先生の話を聞いたら、自分の役割がわかるようになるよ」
「……さっきから、アセンションとか役割とか……! あんたになにがわかるっていうの!」
 誰が私を救ってくれたの? 
 亜美も真子も、私の苦労を「大変なんだね」の一言で聞き流した。私はどこに行けばよかったのだろう。
 亜美と真子のふたりだけのお茶会のままのほうがよかったね、きっと。
「私をくだらない話に巻き込まないで!」
「くだらない? は? 五次元に上昇してもいないくせに、私がくだらないって?」
 真子はそこにいないかのようにふるまって、亜美は私の胸倉をつかんだ。ティーシャツが伸びて、ああこの子はまったくなんにもわかっていない。アセンションが悪いわけじゃない、私が言いたいのはその危うさ。
 アセンションのみが世界の真実だと思い込む、視野の狭さと決めつけに他ならない。
「あんたみたいなただのメンヘラがアセンションなんて、こっちから願い下げだっていうの! あーもう、本当に腹立つ!」
 亜美は財布から千円札を取り出して、テーブルにどんと起き席を立つ。真子が困ったように私と亜美を見て、しかし立ち上がることはなかった。
 それは、覚悟していたことだった。少なからず、摂食障害をよく思わない人間がいることは覚悟していた。
 証拠に、真子が私に向ける目も、言葉も、冷たかった。
「拒食症なんて、やっぱり私も甘えだと思う。私は止めたよね? なのに、食べなかったのはなつきだよね?」
 真子の言葉は正しい。甘んじて受け止めよう。
 だけど、亜美だって等しく迷惑をかけたのに、私だけがおかしいと断じられて、私は少しだけ落胆した。
「なつきももう、別の学校で友達できただろうし。私たちなんてどうでもいいのだろうね。連絡だって、私の方からして今日に繋がったし」
 真子の言葉には血が通っていなかった。
 どこまでも他人事に、事務的な言葉。
 昔の私なら、それだけで折れていたであろう言葉だった。 
 でも生憎、私は真子や亜美が否定する拒食症に――それを通じて出会った人によって、救われた。
 人間のなんたるかを知った。
 悪意のうらにある真意も、儚さも愚かさも。
 全てひっくるめて人間なのだと、今の私は知っていた。
 冬のファミレスは暑くも寒くもないはずなのに、私は羽織っていたラベンダーのトレンチコートを脱いで、隣の椅子に掛けた。
「私、何度も言うけど、拒食症はつらかったけれど、今はすごく幸せだよ」
 私はルイボスティーに口をつけた。お母さんの淹れるものと違って、癖が強い。ぬるくてちょっと、臭みがあった。
 真子はどちらの味方をするわけでもなく、どちらの意見も聞きたいらしかった。昔から変わらない、広く浅く。
「私と会う会わないはふたりの自由だよ。でも私は、縁を切りたいと思ったことはないし、拒食症を恥とも思ってないよ」
「待って、うん、整理つかない」
 真子は亜美に助けを求めた。亜美は、「なつきがおかしいじゃん」と真子の手を取った。
 真子はそのまま立ち上がり、私を見下ろす形になる。
 真子が即断できないところを見ると、亜美の言葉も信じているのだろう。
 私ってそんなに信用なかったのかな。そもそも、亜美は相変わらず外堀から埋めていく。
 私の動向が気になるのなら、一対一でお茶に誘えばいいじゃない。
 私は逃げも隠れもしないんだから。 
 まあ、誘われたって、私はアセンションなんてしないし、仲直りもしないのだろうけれど。
「言い訳ってそれだけ? じゃあ、私たち帰るね」
 亜美が真子を引いて歩いた。私は止めもしなかった。

***

 亜美と真子は、二人で鎌倉や京都に行くくらい仲が良くて、ならなぜ真子は亜美とのお茶会に私を呼んだのだろうか。
 少なからず、あんな別れかたをして、な私は少しだけ意気消沈していた。
 しぼんだ風船
 けれど、亜美のアセンションの話を聞かなくて済むのなら、致し方ないとも思ってしまう。亜美のアセンションと私の拒食症。
 真子は亜美を取ったけれど、生きるために仕方なしに拒食症になった私の気持ちを、わかってほしかった。
 わかったらわかったで軽蔑するのだけれど。
『なつき、月末の日曜に亜美とお茶するんだけど、来る?』
 真子から一ヶ月ぶりにLINEが来て、私は返事をするのに二日かかった。LINEを立ち上げて消して、文章にして送るのを躊躇ってはまた消して立ち上げて、またさまよう。宇宙のなかにひとりだけ、取り残されてしまいそうだった。
『私が行ったら、真子の立場が悪くなるよ』
『でも、喧嘩別れなんて嫌だし』
 とは言っても、真子は亜美を宥めるわけではないようだった。
 つまり、内緒でそのお茶会に来て自分で仲直りしろということらしい。
 どこまでも他人事で、だからこそ私の転校になにも言わない。一拍迷って、
『何時から?』
『いつも通り、十一時』
『わかった。行くかはわからないけど、考えとく』
 行ったところでなんの解決にもならないと思ったけれど、私はもしかしたらわかりあえるかもしれないと期待して、日曜日のファミレスに足を運んだ。
 本格的な春が始まろうとしていた。
 曇天の空の下を自転車で走って、私はいつものファミレスの重いドアを開けた。白い息が消えて暖房のあたたかさに血管が一気に拡張した。
 偏頭痛のひとはこの寒暖差だけでも頭痛になるらしいから、私はその点は恵まれている。
 頭痛なんて年に一回かあるかないかだ。
 いつもの席に二人を見つけて、私は意味もなく足音を消してそこに歩いた。テーブル脇に立つも亜美は私のほうを見なかった。私は存在しない。
「なんでこのひとがいるの? まさか真子が?」
 もはや名前すら呼ばなかった。
 虫を見るような目で、亜美は席に座ったまま私にじっとりとした目を向けた。
 存在しなかった私が地球に現れて、宇宙の無酸素から酸素を得て、私は暖房の埃なつきう空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
 まったく酸素が行き渡らない。ここはまだ宇宙のなかだ。
「ごめん、やっぱり喧嘩したままはよくないと思って」
「そのひとが無理やり聞き出して押しかけたんでしょ。キモ」
「亜美。話を聞いて」
 私は亜美の向かいに座る。
 隣の真子は少し体を奥に座り直した。
 真子はドリンクバーのホットコーヒーのカップを意味もなく手で包み込んで、冷えた手をあたためている。
「私、アセンションは信じてないけど、亜美とは友達だと思っていて」
「信じてない? じゃあ、なつきの拒食症はただの怠惰だね」
「え?」
「アセンションじゃないなら、なつきの拒食症の理由なんてないじゃん」
 理由は前にも話したのに、亜美にとって世界は、アセンションかそうじゃないかにわかれるらしい。
 だったらきっと、最初から私も亜美もこの世界には存在しない。
 あなたがアセンションだって証明するものはないのだから。
 仏陀の弟子は解いた。
 地獄から帰還したものがいないのは、罪を犯したものがそう簡単に釈放されないからだ。
 されば天界から帰るものが居ないのは? トイレに溺れた人間がそこを脱して、再び汚れた世界に戻りたくないのと同じだ。
 死した人間から魂が抜けるのを見ることができないのは? 寝ているひとの夢のなかを覗けないのと同じだ。
 人体を解剖しても心なぞ出てこなかった。木から火を起こすには斧でも臼でもなくキリが必要であるように、心を見るには修行が必要なのだ。
 もっともらしいことを言うが、私は自分の考えを変えることにプライドが許さない。乾いた豚のフンを頭に乗せて、「雨が降ったら大変なことになる」と言われてもおろさず、酷い目に合うようなものだ、また、敵を回避するのにフンをかぶって対峙するのは、下劣な考えで聖職者に向かうそのものである。
 でも死後の世界は誰も知らないのだから、輪廻があることだって証明できない。
 死んでみなければ、だれにも答えはわからないし、死んだ人間が生きた人間に死後の答えを伝えるすべはない。
 だったらやっぱり、輪廻は存在するの?
「そんなこと言ったら、真子だってアセンションしてないじゃん」
「えぇ、なつき私を巻き込まないでよ……」
 困ったように真子がテーブルのうえで手を組んで、おでこを乗せて俯いた。ホットコーヒーは冬の寒さで冷めきって、真子は半分以上残したそれをじっと見ていた。
「真子はいいの。私の友達だから、アセンションするし」
「そういう話じゃないよね。私も真子も、アセンションなんて信じてないよ」
 がん、とテーブルを叩いて亜美が立ち上がった。私を見下ろして顔を真っ赤にして、
「真子はアセンション信じてるでしょ!」
「わた、私は」
 真子は亜美を宥めようと立ち上がり、私と亜美を交互に見ている。
 私は立ち上がらずに亜美を見上げて、スンとした表情を浮かべてやった。
 ひとは見えないものは信じないし、いくら仲のいい友人だって、宗教の自由があるし、なにを信じて信じないかは、私と真子の自由だった。
「真子、真子はなつきの味方なの!?」
「味方とか……私はどちらも友達だと思ってるし」
「このメンヘラを?」
「それは……」
 亜美が私を鼻で笑った。メンヘラ、メンヘラと繰り返して、なにか納得したように頷いた。
 いびつに口元が弧を描く。
 私は亜美のこれが苦手だった。
「アセンションに失敗するとね、次元がさがるひともいるんだって。あんた、三次元未満ね」
 きっと亜美は私と喧嘩したあとに、広野クリニックで私の悪口を言ったのだろう。
 それできっと、広野先生は次元がさがる話を亜美にしたのだろう。
 それは最初からわかっていたし、わかっていてなお、私はここに来た。
 一縷の望みにかけたかったが、どうにも亜美は、広野クリニックの先生の言葉こそが真実で、他者の言葉は偽りだと思っているらしい。
 そして広野先生のアセンションを理解している自分が世界の理で、私はアセンションから落とされた。
「真子、帰ろう。この子頭おかしい」
「真子」
「亜美……なつき……」
 どちらの味方なんてしなくていい。
 どちらも友達だよって言って欲しかった。
 真子は広く浅く友達と付き合うし、だから私とも仲良くしてくれた。
 それは別に悪いことじゃないし、それが真子だと言ったらそれまでだ。
「もしかして、真子も拒食症で痩せたなつきがうらやましいの?」
 亜美の言葉に、真子は私を突き押して席を出ていった。
ファミレス内の雑踏が一気に凪いだ。
 さわさわ、さわさわ。
 耳鳴りが聞こえる。血流が私の耳のなかを駆け巡っている。
「拒食症なんて、最低だよ。私は止めたし、それを聞かなかったのに、いまさら仲良くはできない」
 それを言ったのは、真子だった。

 自分で望んだ訳でもなく、私は広野クリニックに足を踏み入れた。
 どうにも納得がいかなかった。
 亜美をあんな風にしたドクターは、どれほどの人格者なのだろう。
 亜美を心酔させる先生は、どれだけカリスマ性を持つのだろうか。
「初めまして。話は聞いてるよ。なつきさん」
 診察室に入ると、二畳ほどの狭い部屋にデスクがあって、座り心地のよさそうなチェアに座った広野先生らしき男が私を見ていた。
 髭を蓄えた先生はそれを撫で付けて、「うん」と頷く。
 広野先生の後ろにはドアがあって、そのドアの窓から事務員がストップウォッチを持ってこちらを睨んでいた。
「アセンションって、なんなんですか」
「なるほど。それを聞きに来たか」
「はい。……友人がアセンション、アセンションっておかしくなってしまったので」
 ヒク、と広野先生の眉が上がった。顔をひきつらせてため息をひとつ。うーん、と手を組んでデスクの上に置き、手の上に額を乗せて口元を歪ませた。
 それがあまりにも恐ろしくて、私はなにも言えなくなった。
「アナタはアセンションしてないね。だからそんなことを聞く」
「そうですね。私はアセンションなんてしてませんよ。信じてもいません。胡散臭いと思ってます。宗教の一種みたいだと。安楽死に便乗した、救済のていを取った洗脳だと」
 広野先生は今度は天井を仰いで、声を上げて笑った。
 ははは、参ったな。とでも言いたげに私を見て、
「ならもう、うちには来なくていい!」
 キィと椅子を軋ませ立ち上がり、広野先生は部屋から出ていった。
 ストップウォッチを持った事務員が広野先生に時間を見せる。きっかり三分。
「……こっちから願い下げだよ」
 呟き、私もカウンセリングルームを出る。
 結局私の拒食症は私の問題であるし、亜美はどこまでいっても自分のことしか考えていない。
 広野先生だって、自分に従う患者だけを手元に残して、私のように疑問を抱くものたちの診療は拒絶する。
 そうやって亜美も広野クリニックという宗教にのめり込んで行って、成せもしないアセンションへの祈りを捧げ続けるのだ。
 私はその帰り道、亜美と真子にグループLINEを送った。
『広野クリニックに行ったよ。でもやっぱり、アセンションなんて信じられない。それに、亜美にはひどいことをされたよね。車に轢かれたあの日のこと。私は亜美に突き飛ばされて轢かれたよね。私は亜美の友達じゃないよ。それは亜美も同じだよね。だからもう、今後は会わない。今までありがとう』
 グループLINEブロックして携帯をカバンにしまう。 
 私のなかで、ようやく答えが出たような気がした。私はきっと、ずっとこうしたかった。
 真子との関係までこれで切れるのなら、残念なことだけれど仕方がない。それでも私は、一歩前進した自分を褒めてやりたかった。
 帰りの足取りは軽やかで、誰にもばれないように少しだけスキップしてみた。着地の瞬間脳みそがぐらぐら揺れて、私のステップで世界が崩れていく、生まれ変わっていく、輝いていく!