三、入院
だけど、人生はそう簡単には進んでくれない。私の体重が三十を切ろうとしていた時、お母さんは私を無理矢理病院に連れて行った。お父さんと話し合った結果だった。
「やだ、やだ! 入院なんてしない! 私ちゃんと食べてるじゃん!」
「なつき、ごめんね、ごめん。ちゃんとお医者様の言うこと聞くのよ」
最初はスーパーに行こうって誘われて、私はなんの疑いもなくついていった。後ろからお父さんの車がついてきていることも知らずに。お父さんの車には、私の入院の着替え一式がそろっていて、私ははかられたことに怒りを感じた。
「この! くそ! 絶対に許さないからな!」
お父さんが書類にサインして、私は病棟に無理やり連れていかれた。抵抗したから、『保護室』という部屋に連れていかれた。
四畳ほどの部屋に、ベッドが一つ。五十センチの間仕切りの向こうに、むき出しの便座。
私はそのベッドに身体拘束されて、
「看護師さん、なんで拘束するんですか!?」
「暴れたからです。明日には解放するから。おとなしくできたらだけど」
看護師たちが、私によってたかって拘束具をつける。ベルトを胴と手足に回して、ベッドの柵に括り付ける。
「暴れない! 暴れないからほどいて!」
「ダメ。明日まで我慢して。ああ、おむつもしなきゃ」
「や、おむつ!? それは嫌です。我慢します」
「でも」
「我慢できます!」
なんとかおむつだけは逃れて、私は身体拘束されて天井を見ることしかできなくなった。寝返りを打てないから仙骨や背骨が痛かった。
ただでさえ、拒食症で骨が出張るから家の布団に寝ていても褥瘡ができるのに、一晩中あおむけに拘束されて、私は一睡もすることができなかった。
尿と便は我慢して、なんとか朝にはトイレだけは許された。一時だけ拘束を解かれて、看護師さんが見張る中で用を足す。
やりにくくて恥ずかしくて、私は今すぐ死んでしまいたかった。
朝礼を終えた看護師さんが、私の保護室のドアを開けた。
「おはよう。朝ごはん、食べられそう?」
「はい、はい!」
本当は、食べる気なんてさらさらなかったのに、私は拘束を解いてほしい一心で嘘をついた。看護師さんは私の拘束を解いて、保護室に朝食を運んでくる。昨日、私の体を拘束したのとは違う看護師さんだった。
ベッドに備え付けてある小テーブルを出して、そこに朝食が乗せられる。看護師さんが私を見張るように見ていた。
「食べられない?」
「いや、あの」
「そう。これじゃ、お医者さまに報告しなきゃなあ」
看護師さんが、私に憐みの目を向ける――ことはなく、私は身体拘束から解放されて、ほっと胸をなでおろしていた。痛む褥瘡に手を触れる。膿んではなさそうで安心した。
そうして私は、保護室という監獄の中、刹那の平和をかみしめる。
トイレに行くには、外にいる看護師さんにトイレットペーパーをもらわなければならなかったけれど、それ以外は特に不便はない。
昼ご飯の時間になって、また看護師さんが私に食事を運んできてくれた。
「食べられる?」
「はい」
私は決して、わざと嘘をついているわけじゃない。自分では「食べている」つもりだったのだ。
出された昼食のうち、牛乳だけを飲み干して、私はベッドに横になった。
「これは……ダメだね」
看護師さんが、お医者さまを呼んでくる。お医者さまは、看護師さんをもう一人連れてきて、私は看護師さんが持ってきた体重計に乗らされた。
「三十か……うん、四十になるまで、そうして」
お医者さまがなんの感情もなく看護師さんに指示した。
看護師さんたちが頷いて、いったん保護室を出ていった。がやがやと外が騒がしい。
「なんなんだろ」
私はなにも知らない愚かな子供だった。
次にまた、看護師さんたちがぞろぞろと保護室に入ってきて、私はまた、ベッドに括り付けられる。ぎしがたと私は抵抗した。
なんで、なんでこんなことができるのだろう。人間の所業じゃない。私を人間だなんて、思っていない!
「や、やだ! 拘束は朝までって言ったじゃないですか!?」
「体重が減りすぎているから。胃瘻を流します」
「胃瘻!? や、食べる、夜はちゃんと食べます!」
「ダメ。命にかかわることだから。看護師さんたちも心を鬼にします」
感情なんて一切こもっていなかった。
看護師さんたちが、私にまた、あの窮屈なベルトを締める。
私は抵抗した。逃げようとした。
こんなのごめんだ。胃瘻? なんでそんなことするの。私は普通だ。私は、ちゃんと食べている。入院なんて、必要ない。私はおかしくない。誰か助けて、くそ、くそ、あいつら、お父さんもお母さんも、みんな大嫌いだ。こんな扱いを受けるくらいなら。
「じゃあ、殺せよ! そうだ、安楽死! 私は安楽死を望みます! だからもう、ここから出して!」
私の叫びなんて、誰も聞いていなかった。
看護師さんたちは、私の体を拘束すると、私の鼻にチューブを通して、高カロリー液を流し始める。
バナナの風味が胃から上がってきて、私はただ、太ることが怖かった。
身体拘束されて、私の褥瘡が膿んだ。看護師さんたちが、靴下をドーナツみたいに丸めたものを褥瘡の部分においてくれたけど、やせぎすの骨だけの私の体は、そこら中に褥瘡ができた。
毎日天井を眺めて暇を潰す。最初は看護師さんを呼んでいたけれど、私はもう、諦めた。
トイレも自由にできなかった。
おむつを当てられて、そこに三回、尿をすると、看護師さんが取り替えてくれる。便なら一回。
私はまるで、そう、まるで動物のように扱われた。動物と言うよりは、獣。
私は何度もトイレをお願いするのに、看護師さんたちは一度だって私のところに来てくれない。
何度も保護室の前を通るのに、私はここに存在しないようだった。
「看護師さん、殺して」
「疲れてるのね。栄養が廻ったら、死にたいなんて言わなくなるわよ」
「死にたいんじゃない。安楽死させて。こんなの生き恥だ」
私はひとりではなにもできない。おむつに糞尿を垂れ流し、看護師さんが三日に一回体を拭いてくれる。
私がいまだに暴れるから、私の身体拘束は解けないままだ。いや、体重が四十になるまで解かないと説明を受けた。
私が何度も「ちゃんとご飯を食べます」と言っても、誰も取り合ってはくれなかった。
私の自尊心は砕け散って、心も体も自分のものではなくなった。
「看護師さん、お母さんに来てほしいんですけど」
「まだ家族との面会はできないですよ」
私はただ、生きていた。
死んだ状態で、生きていた。
こんな風に、もののように扱われて、私は生きていると言えるのだろうか?
看護師さんたちは、代わる代わる私を世話してくれたけれど、私を人形のように思っているのか、なんら顔色ひとつ変えなかった。
私は人形なのだろうか、屍なのだろうか、生きているのだろうか、なんで、ここにいるのだろうか。
私の体重が徐々に増えていく。
頭に栄養が廻っても、それでも私は、この対応に納得がいかなかった。
「看護師さん、ちゃんと食べるので、もう拘束は解いてください」
「まだ三十八だから。あと二キロの我慢だよ」
「くそ、この! 他人事だと思いやがって!」
「うん、元気が出てきたじゃない」
そんなもの、必要ない。自由になったら、一番に死んでやる。それで、死ぬ瞬間に看護師に言ってやるんだ。「よくもあんな扱いをしたな」
私は生かされている。の胃瘻によって。
それでも、そこまでして生きながらえたいなんて思っていない。
私は確かに、お母さんが私の異変に気づいたら、生きていこうと賭けをした。けれど、こんな形になってまで生きながらえることなんて望んでいない。これは、人間に対する扱いなのだろうか。
私に自由なんて許されない。
トイレすら自由にならない。食事は変な味のするカロリー液で、ひとの食べるものじゃない。
私の体重は順調に増えていく。
安楽死してやる、死んでやる。こんな辱めを受けて、お父さんやお母さんを許せるはずがない。
私は、退院したらまず、安楽死に申し込む。私のこの病気なら、きっと条件は満たすだろう。
問題は、三親等内の親族の許可だ。
「じゃあ、今日から拘束を解きますね」
思ったよりも早く、私の拘束は解けた。そうはいっても一か月だ。一か月丸々寝たきりだった私は、拘束を解かれて、素足でベッドの上から床に降り立った。
立ち上がろうと足に力を籠めるも、うまくいかずに転んでしまった。一か月寝たきりだったのだからしょうがない。
膝をついて、そこからじんじんと痛みが全身に伝わった。
お母さんの涙を思い出した。
私を入院させるとき、お母さんは涙を流していた。十七年生きてきて、初めて見るお母さんの涙だった。
どんな気持ちで私を入院させたんだろう。私がこういう扱いを受けることを知っていたのだろうか。
聞いてみたい、と思った。聞いてから死んでも悪くない。
「あはは、なんだ」
結局私は、なにかに理由をつけて、生きる意味を探していた。
「相川さん、ご飯、食べられそう?」
「やってみます」
やらなければ、また身体拘束される。それだけはごめんだ。
だから私は、その日出された昼食の焼き魚とご飯とお浸しを、全部残らず平らげた。
病院にいる間だけは、私は太る恐怖に耐えて、ご飯をなるべく全部食べた。
けれど、唯一、肉だけはだめだった。わかりやすく私は、肉はもっとも太るものだと、そう、脳が思い込んでいるようだった。
一般部屋に移り、ベッドで無為に過ごしたいのに、清掃員はお構い無しに私の部屋に入ってくる。
最初こそ、清掃員を無視して布団にくるまっていたのだが、どうにも清掃員はベッドのシーツを取り替えたいらしく、私を邪険に扱った。
「ゴロゴロしてるから滅入るんですよ。談話室でみんなとストレッチなり、カラオケなりすれば気分転換になりますよ」
「何時頃に掃除終わりますか」
「そうやってまたゴロゴロするんですか。はあ。いい若いもんが毎日毎日。普通のひとだってこもりきりだったらおかしくなりますよ」
清掃員はだいぶ歳のいった女性だった。八十歳は超えているのに、背中がピンと伸びていてハキハキしている。
中学を出てからずっと働いてきたらしい清掃員は、年齢にしてはかなり進歩的な考えの持ち主だったに違いない。
私の祖母はもう亡くなったが、この清掃員と同じくらいの歳である。
その祖母は、小学校を出てすぐに家業を手伝い、十七で結婚して、それから死ぬまで夫を支え家事のみに従事してきたようなひとだったから、この清掃員は時代を先取りした考えの持ち主なのかもしれない。
そうだとしても、私のことも、ましてや病気のことも理解せようとせずに、私に『おかしい』とレッテルを貼るのはいただけなかった。
長く刻まれた顔のシワと同じで、人間の考え方はそう簡単には変わらないのかもしれない。
「二時くらいまで、談話室に行きます」
「もっとシャキシャキしゃべりなさいな」
「失礼します」
部屋の清掃は三日に一回。私は気だるい体を押して、談話室に向かった。
談話室でも、私に居場所はなかった。
「なつきちゃん、だっけ」
談話室で小説を読むようになって、少しだけ気分転換ができるようになった。
そんなある日、臨床心理士のお兄さんに声をかけられた。
「あ、と」
話しかけてきた人物に、見覚えはなかった。入院患者ではないし、看護師でもない。
「あ。俺、臨床心理士なんだ」
彼が人懐っこい笑みで言った。
「じゃあ、先生ですね」
適当に返事して、なのに臨床心理士のお兄さんは部室から出ようとしない。じっと私を見ていた。
「なんです?」
「あ、いや。俺もその本、好きだったなって」
かなり有名な小説だったから、今思えばただの口実だったのは明らかなのに、私はうれしくなって、その小説の感想を心理士さんに早口でまくし立てた。
「この小説のラストがすごくて。余韻というか。全部投げっぱなしに見えて、でもちゃんとまとまってる。読むひとによってとらえかたが違うのも面白いです」
「俺はここを――」
時間を忘れて語らって、私は臨床心理士さんのおすすめの本を一冊、その日貸してもらった。
「俺、岡山信明」
「私は相川なつきです」
それが私がこの入院でであった幸いのひとつだった。
聞いた話、臨床心理士さんは苦学生で、本来ならば都心の名の知れた大学に合格していたのだけれど、進学するタイミングで父親がリストラ、仕方なく自宅から通える地元の大学を受けなおし、奨学金を借りて無事に大学を卒業したのだそうだ。
私と同じだ、と思った。
私は拒食症という人生の負債を背負っている。
そして、それを苦に、安楽死まで考えている。
私はそれまで、大学というところはほとんどの人間が退屈しのぎに通うところで、例えば日本では、大学に入学するのは難しいけれど、卒業するのは簡単、という言葉はその通りだと思っていた。
臨床心理士さんは、ずっと私に話しかける機会を伺っていたらしい。いつだったか、「なぜ私だったの?」と聞いたことがあった。
「自分の世界を持っていたから」
臨床心理士さんには私がそう映ったらしいけれど、私はただ、不必要なことは喋らずに、誰にも心を開けずにいただけなのに。
私はいつの間にか、臨床心理士さんに、すべてを話していた。
「私、高校、行けなくて。ご飯も、食べられなくて……っ」
「うん」
それはどうして、とは聞かれなかった。
「それでも、私はその経験があったから、今を大事にできるようになって」
「うん。なつきちゃんの強さはそこから来てるんだね」
臨床心理士さんを見上げると、いつもと変わらぬまなざしを私に向けてくれていた。
「私、嫌われたく、なくて」
「嫌う? 親に?」
こくり、頷くと、はあ、と臨床心理士さんのため息。
「やっぱり、嫌われてますよね」
臨床心理士さんが首を横に振る。
「家族っていうのは、そう簡単に嫌いになったりしないよ」
それにね、と臨床心理士さんが続けた。
「なつきちゃんにはいいところがたくさんあるよ。小説の感想を素直に言えること。頑張って痩せたこと、勉強も、理恵子ちゃんのこと」
私の心の澱を、どこまで知っているのだろう。そして彼は、どこまで受け入れてくれるのだろう。期待と不安と、それでもどこか、安堵していた。
彼ならきっと、彼にならきっと、私はいつか、すべてを話せるのだろうという予感がした。
私はその日以来、臨床心理士さんと認知行動療法に励んだ。
その中で、私は退院したら、調理師の高校に転校したいと思うようになった。
私はいまだ、臨床心理士さんにすべての秘密を打ち明けたわけではない。少しずつ、断片的に伝えるそれは、臨床心理士さんにとっては不可解極まりないものなのだろうけれど、確実に、私の中のなにかが瓦解していくのがわかった。
拒食症は私の中から完全に消えたわけではないけれど、もう大分長いこと普通の食事がとれている。
「ねえ、臨床心理士さん」
私は臨床心理士さんを質問攻めするのが好きだった。私はずっと、聞きたかったことがある。
「臨床心理士さんは、もしも今の記憶を持ったまま過去をやり直せるとしたら、いつに戻りたいですか?」
ただの空想だ。そんなこと、今の科学技術では不可能だ。臨床心理士さんがふっと笑った。
「さあ。考えたことないな」
「はぐらかさないでくださいよ」
私の退院が決まって、私は思い切って私の中の核心を臨床心理士さんに訊いてみた。
彼は博識なひとだった。私の知らない小説や、私の知らないきれいな場所、私の知らない豆知識や、私の知らない料理をたくさんたくさん教えてくれた。
だからこそ、私は彼に訊いてみたい。
「あえてあげるなら、受け持った患者さんで最初の安楽死をした人の、心理療法の一日目かな」
ひゅ、とのどが詰まった。
私も、安楽死を訴えたことがあった。入院した初日にも、そして、心理療法をする間も、なにかにつけて、もうこんなつらい思いをするくらいなら、安楽死したいと、なんども臨床心理士さんに訴えた。
しかし、臨床心理士さんは穏やかな顔だ。
臨床心理士さんの人間くささを窺い知る。
「なんでですか? 臨床心理士さんのせいではないじゃないですか」
私は興味本位で聞き返した。
「そうれはそうだね。でも俺は、手の届く範囲の人には、幸せになってほしい、強欲な人間なんだよ。がっかりさせたかな?」
私はそんな、臨床心理士さんのまじめさに目が熱くなった。
「なつきちゃんは? いつをやり直したいの?」
「私はね、高校一年生の時に不登校になったクラスメイトを、助けられなかったことを後悔してるの。だから高校一年生をやり直したい」
臨床心理士さんの表情が変わった。
「それは、誰のためなの」
「え?」
「不登校の子を助けたいのは、その子のため? それとも、自分の人生への言い訳のため?」
はっきりとものを言うところも好き。「自分のため?」でも「自分のエゴ?」でもない臨床心理士さんの問いかけ。それは、臨床心理士さん自身への問いかけでもあったに違いない。
私は気づいた。私はただ、自分が救われたかっただけなのだ。
理恵子ちゃんを不登校にさせなければ、私自身もまた、拒食症にならなかったのではないか。
理恵子ちゃんを不登校から救っていれば、自分が拒食症でも気の持ちかたが違ったのではないか。
理恵子ちゃんさえ救えていれば、私の人生は誇れるものになっていたのでないか。
理恵子ちゃんと友達になっていたら、亜美とは縁を切れていたのではないか。
理恵子ちゃんが私とずっと一緒のクラスになっていたら、私は亜美からの態度に悩まされることはなかったのではないか。
理恵子ちゃんが友達だったのなら、私の拒食症に優しく声をかけてくれたのではないか。
後悔のない人生を送るひとなんて、果たしてどれだけいるのだろう。私は理恵子ちゃんをだしに使って、自分の人生を正当化しようとしていただけだったのだ。
「やり直せないから人生は面白いんだよ」
「……臨床心理士さんって、時々意地悪ですよね」
「否定はしない」
「……そういうところ、信頼できるんですよね」
何度胸の内を明かしても、私はたまらなく恥ずかしくて、だからこそ、気を紛らわせるために色々なことを思い出しては、彼に投げかける。
理恵子ちゃんが今、なにをしているのか私は一切知らないけれど、理恵子ちゃんも私みたいに幸せだったらな。なんてことは思わない。
私の中から悔恨は消えない。けれど私に笑みを向ける臨床心理士さんを見ていたら、私の中にあった理恵子ちゃんの記憶が少しずつ、少しずつ頭の外へ漏れていって、私を形作る様々な色とともに、混濁して揺さぶられ、やがて波に飲まれて打ち震えた。
***
私の入院での幸いのふたつめは、献身的な看護師さんの存在だった。
臨床心理士さんが来るのは、週に一回。
ほかは、看護師さんと過ごさねばならない。
私は体重が戻ったとはいえ、まだまだふらつく体で、毎日をベッドの上ですごしたかった。
なのに清掃員さんが私をごみのように追い出すから、行き場のないわたしは談話室の隅で一人、座って窓にもたれかかっていた。
「大丈夫?」
「あ……」
新しく来た看護師だった。
名前を神野さんといった。
神野さんは今までの看護師と違って、私の目を見て話を聞いてくれる。安心する、温かなヘーゼルの瞳が印象的だった。カラコンではなく自前の瞳だ。キラキラしてお星さまみたいだと思った。
「拒食症のこと――身体抑制のこと、聞いてるよ。まだ体調も万全じゃないし、座ってるのも辛いよね。空いてる部屋でおやすみする?」
「や、でも。看護師さんに迷惑じゃ」
「平気。ここは皆にとって第二のおうちだもの。嫌なことがあったら遠慮なく言っていいんだよ?」
そんなこと、この病院に来て初めて言われた。看護師はみな、私や入院患者に向き合わず、いつもイライラした態度しかとらない。
神野さんのような看護師が本来あるべき姿なのだろうが、他の看護師が辟易する理由も私にはわかる。
私のように厄介な二十人の入院患者を世話し、「帰る」と荷物をまとめる入院患者、「ご飯まだ?」と五分ごとに看護ステーションをたずねる入院患者。
それらを含め、二十人を三人か四人の看護師で見なければならないのは、保育園とはまた違った神経を使うだろう。
看護師は入院患者の命を預かっている。
なかには自殺企図や希死念慮のある入院患者もいるから、気を抜いたら責任問題に発展しかねない。
「看護師さん……私」
「うん」
空き部屋に通されて、布団が敷いてないベッドに私は体を横たえた。ぎしりとベッドが軋んだ。
神野さんが一緒にベッドに座ったからかもしれない。布団の敷いてないベッドは固く寝心地が悪い。
なのに、私の体はベッドに吸い寄せられるように沈んでいき、ベッドとの境界なんて直ぐに溶けてなくなった。
薄汚れた天井を見る。
蛍光灯はつけていない。チカチカして眩しいからと、私が頼んでつけなかったのだ。虫がブンと飛んでいる。
明かりを求めて彷徨うさまは、さながら私そのものだった。
神野さんが私の体をとんとんと叩いた。
まるで子供に戻ったかのように、私の心は穏やかだった。温かな手のひらのぬくもり。『手当て』という言葉があるように、ひとの手からはなにか目に見えない不思議な力が放たれているに違いない。
「私、ここでは看護師さんも介護士さんも、いつも話を聞いてくれなくて。私が頭おかしいから悪いんですけど」
「おかしいなんて誰が言ったの? 拒食症は脳の病気なんだよ。誰でもなりうる病気。ちゃんと治る病気なの」
「病気」
拒食症はわがままなだけだ。
周りはみんな、そんな対応をする。
あるいは、無関心に理解を示さない。
『精神』疾患、なんて名前だから、みんな実体のない部位の病気に無知だった。脳の病気、と言われたのなら、第一印象は百八十度変わるだろう。
私が思い出したのは、私が拒食症を発病してすぐのころ、真子と喫茶店に行った時のことだった。
真子は私の異常な痩せ思考に気づいていたし、そもそも、養護教諭に話したのも真子だ。
唯一気の置けない仲の友人に、理解を求めて私は拒食症と診断されたことも、パンの試食しか食べられないことも話した。
「でも、拒食症っていうからもっと深刻かと思ったよ」
そりゃあ、真子と会うためにおしゃれをしてきたし、体型が隠れる服を選んだ。
私が学校に行けなくなって、会うのは一か月ぶりだった。一カ月前より三キロは体重が減っていたのに、真子は何事もなかったかのように接してくれた。
初夏のファミレスはクーラーが効きすぎるほど涼しくて、貼りつく背中の服が私の体温を奪っていく。
真子はアイスコーヒーを頼んで、私はハーブティーを頼んだ。
「私、彼氏できたんだ」
「え。来年受験じゃない」
「うん。勉強はちゃんとするよ。でも、どうしても付き合ってほしいって。社会人の彼、格好いいんだ。そっちは?」
私の現況は話していたはずなのに、真子は他人事のように私に話題をふった。
今日のお茶会を提案したのは真子だった。
大事な話があると連絡が来ていた時点で、なんとなく察しはついていた。
真子は鼻の頭に汗をかきながら、混ざっていないミルクたっぷりのアイスコーヒーの黒い部分をストローですすった。ガムシロップはいれない。
「私は……彼氏もいないし。そもそも、付き合うってなったら、私の病気の話をどう切り出せばいいか分からないから」
「黙って付きあっちゃえばいいのに」
「……え?」
「見た目普通なんだしさ、大丈夫だよ」
まるでお門違いな言葉だと思った。真子からしてみれば慰めの言葉のつもりなのだろうが、私にとって病気は、生活を揺るがす大きな問題だった。
もしも付き合うとなって、デートで食事ができなかったら、あとから「実は拒食症でしでした」なんて、別れる理由にしかならないだろう。
「それってさ」
それ、の意味がわからなかった。
「遺伝するの?」
主語を理解して、私は言葉を失った。
ネットで調べればなんでもわかるこの時代に、私の友人は精神疾患に悩む私のことをわかろうとする気持ちはなかったらしい。
私の前髪がひたいに張り付き、私は震える手を悟られないように、前髪をひと房かき分けた。
「遺伝はしない。って言われてる」
「そう。ならなおさら、大丈夫じゃん」
カラコロ、と真子がアイスコーヒーの中のストローを混ぜて、氷を溶かしながらミルクを混ぜる。白、茶色、黒に層を作るミルクコーヒーのコップが汗をかいてしとっている。
私はほどよく冷めたハーブティーのカップに口をつける。友人はアイスコーヒーをかき混ぜて、幸せそうに惚気話を始めていた。
コーヒーとミルクが完全に混ざり合い、きれいな薄茶色がコップの中で渦を作る。その渦に巻き込まれそうになりながら、私は友人の話を右から左に聞き流した。
そんなことがあったから、私は他者に自分の病気を話すことをやめた。
どうせ周りは理解してくれない。アイスコーヒーのようには健常者と障がい者は混ざり合えないのだ。
水と油のように層を作って、お互いに違う場所を生きている。
「看護師さん。私、ここから出たいんです」
「聞いてるよ。体重が落ち着いたら迎えに来るって」
「でも、嘘かもしれない」
「私は、本当だと思うけどな」
とんとん、とんとん。神野さんが私の体を優しく叩く。私は睡魔に身を任せて、重い瞼をそっと閉じた。
私にとって神野さんは、唯一気を許せる看護師だったに違いない。実際、神野さんはほかの入院患者からも好かれていたし、神野さんが勤務する日は、私の心も穏やかだった。
「え。辞める?」
「ごめんね。言わずに辞めたらびっくりすると思って」
青天の霹靂だった。
神野さんが務め始めて、まだ二ヶ月しか経っていなかった。
神野さんは詳しくは話さないが、神野さんが入院患者に好かれているからか、あるいは入院患者の待遇改善を上に申告したからか、神野さんは厄介払いされたようだった。
私の目から、枯れたはずの水滴がぼとりと落ちた。頬をつたう生ぬるいそれを拭って、私はほかの看護師に訴えた。
「神野看護師さんを辞めさせないでください!」
「また今日で何件目? 辞めるって入院患者に話せば取り消せるって思ってるのかしら」
小賢しいわね。
看護師たちが笑った。
腐ってる。この病院はおかしい。いや、このひとたちが普通で、神野さんの志が高かっただけなのだ。
わかっている。神野さんのような人間は、もっとやりがいのある職場で働くべきだ。
「神野さん、これ」
神野さんの最後の勤務日、私は神野さんに手紙を書いた。なんのことはない、普通の手紙だ。「今までありがとうございました。神野さんのことは一生忘れません」
神野さんは感極まって泣いてしまった。
ヘーゼルの瞳は涙に濡れると余計に儚く美しい。
その瞳のように美しい心が、こんな病院で濁るのは本望じゃない。私は自分に言い聞かせた。
神野さんのためにも、この退職はしかるべきものだった。私が神野さんの人生のほんの一時の記憶だとしても、忘れられるとしても、私の中から神野さんの真心は一生消えないだろう。
神野さんが私を抱きしめた。
「これから先、辛いことが沢山あると思う。それでも、なにかひとつでいい、人生って悪くないものだなって思えるなにかを、見つけてください」
否定も肯定もできなかった。
私にとって神野さんがそれに当たるのかもしれないが、それが私の現状を好転させるものでもないことも知っている。
お星さまに写る自分の姿を直視できず、私は神野さんから顔を逸らして別れの挨拶をした。
あとから思えば、ちゃんと顔を見て話しておけばよかったと後悔するばかりだった。
神野さんがいなくなった病院は、また元の通り暗く、いつもカリカリした看護師たちの水溜まりのような場所になった。
***
私は少しだけ病院に馴染んできた。
そのなかでよく話すようになったのが、八十を超えた男性入所者、綿引さんだった。私がおむつの件で塞ぎ込んでいたのを見かねて話しかけてきたらしい。
綿引さんは元教師で、博学で話を聞いているだけで楽しかった。少し髪が薄くて、目尻がくしゃっとした笑い方をする。
「あなたは魂は存在すると思う?」
「私はないと思いますね」
でも、この前の話は面白かった。海外の医者だかが、人が死ぬ時に質量が減ることを発見した。それを魂の重さとしたのだ。それが約二十一・三グラム。ただしこの実験は根拠がないと言われ、死したあとに減った二十一・三グラムについては謎のままらしい。
「魂とか輪廻とか。私は信じません」
そんなものがあったら、私はこの世界を選んで生まれてきたことになる。
安楽死を選べなくなる。
「そうだね。でも、魂があるのなら、わたしもあなたも、生きてきた意味があると思わない?」
綿引さんは軽度の認知症だと聞いていた。けれど、私のことを忘れたりすることもなく、同じ話を繰り返したりもしない。
「綿引さんは、死ぬのが怖いんですか?」
「この歳になると、死は怖くないかな。わたしが怖いのはただ」
人間でなくなることだ。
私の目から雫がこぼれそうになる。すんでのところでこらえて、
「その恐怖に勝つには、どうしたらいいですか」
「さあ。それはわたしにも。ただ、あなたはまだ若いのだから。足掻いたっていい。みっともなくてもいい。生きて、生き抜いて、その答えを見つけてください。それで、生まれ変わったわたしにその答えを教えてくださいな」
まるで、もうすぐ死ぬみたいな言い方だと思った。
綿引さんは奥さんに先立たれ、子供たちの世話になる訳にもいかずに、色んな病院をたらい回しにされたそうだ。
それを思えば、私はまだ恵まれているのかもしれない。家族は生きているし、病気だって軽い。
「綿引さん。生まれ変わりがあるとして、どうやって綿引さんだって見分けるんですか」
「はは、そうだね。でもきっと、あなたならわかると思いますよ」
そもそも、と綿引さんが続けた。
「仏陀――お釈迦さまは、輪廻の輪から外れるために修行をしていたんだ」
「生まれ変わりたくないってことですか?」
「人は死んだら、天の神々、人、畜生、餓鬼、地獄の五つの世界で何度も、何度も生まれ変わるんだ。今は阿修羅も加えて六つの世界かな。そこから解脱することこそが、真の平静だと仏陀は解いた」
興味深い話だった。私は魂を信じないが、生まれ変わりは信じたかった。死んだあと、自分がなくなるという恐怖は誰でも一度は味わうだろう。どんなに苦しい世界だとしても、『無』になる覚悟は私にはなかった。
「仏陀は苦行を途中でやめた。なぜだと思う?」
「辛かったからでは? 辛い思いをしても悟りなんか開けないって気づいたんじゃないですか?」
綿引さんがにこりと笑んだ。目尻にカラスの足跡ができている。
「『こんなに苦行に励んでいる自分は、ほかより優れている』そんな悪心ばかりが膨れ上がるだけだったからだよ」
目から鱗だった。綿引さんが言わんとすることがよくわかる。
自分の不幸を嘆くより、自分が持ち得るものを見よ。不幸な拒食症の自分ではなく、ひとりの人間としての自分を。
「でもきっと、わたしもあなたも、次も人間に生まれ変わると思いますよ」
「私にカルマが有るからですか?」
「魂を信じてるからですよ」
さっき私は否定したばかりなのに、綿引さんはやっぱり認知症なのかもしれない。
「来世では幸せになりましょうね。わたしも、あなたも」
不思議なひとだと思った。
私にとって綿引さんはこの病院内での親みたいなもので、私は綿引さんと話すのが毎日のささやかな楽しみになっていた。
***
私の病院での生活は、絶望もあれば希望もあった。
しかし、患者全員がそうとも限らず、例えば家族に虐待されていた子なんかは、ここはレクリエーションがあって楽しいと言う。
「ねえ、あなたって普通なのに、なんで病院に入ってるの?」
同じ拒食症の四十代の女性に言われ、私は苦笑を返すことしかできなかった。
天然パーマのボブの髪の毛は茶色味がかっていて、パーマをかけていないのにほどよくうねるからとても可愛い。
童顔で目が大きいから歳よりも若く見えた。ただ、目が大きいのは痩せすぎていて目が落窪んでいるせいもある。
「私はさ。見てよ、めちゃくちゃ太ってるからさ。ご飯食べたくないんだよね」
「すごく痩せて見えますけど」
「やだあ、お世辞でもうれしい。あなたみたいにもっと痩せたいわ」
本心なのかはわからなかった。けれど、私と同じ痛みを経験したであろうその人に、心を開いてしまった私が、愚かだったのかもしれない。
彼女には自分が病気だという認識がないらしかった。
女性の名前を土屋さんと言った。
土屋さんには妹がいるらしく、私を妹のように気にかけてくれた。くりくりの瞳が私を捉えて離さない。
どうやったらあんなに可愛くなれるのだろう。
「今日の給食多いなあ。食べる?」
「え。一口しか食べてないじゃないですか」
「でも、もうお腹いっぱい。ねえ、こっそり捨てるの手伝ってよ。看護師さんに見つかったらどやされちゃう。あなたにしかこんなこと頼めないんだもの」
頼りにされ、私は錯覚してしまったのだ。
自分は誰かの役に立てる、必要とされている。
「仕方ないな。今日だけですよ」
本来、拒食症の患者が食事を捨てるなんてあってはならない。
けれど私は、知っている。食べなければ身体抑制されてしまう。
だから私は、協力してしまったのだ。
一回のみならず、何回も。
それが看護師にばれて、私の母親が病院に呼び出された。
「娘さんが、拒食症の患者さんのご飯を代わりに捨ててました。困るんですよ、拒食症の患者さんの体重が増えないからおかしいなと思ったら」
「すみ、申し訳ありません。娘は押しに弱くて」
「それじゃあ、土屋さん――拒食症の患者さんが悪いって言いたいんですか? 土屋さんは、娘さんが勝手に捨てたって言ってますけど」
「そんなはず! 土屋さんに頼まれて捨てたんですよ!」
私も病院長との面接に同席させられ、しかし責められたのは私だけだった。土屋さんも同席したのに、すべての責任を私に擦り付けた。
「今後はこのようなことがないように、しっかり見ていきますからね」
実際、その日以来私の一挙一動を看護師や介護士が見張るようについて回り、私はほかの患者には絶対に心を許すものかと誓ったのだ。
***
病院では行事ごとの給食が出たり、レクリエーションが開かれたりする。そのどれもが、私は嫌いだった。
ひな祭りや端午の節句には桜餅や柏餅が出されるらしい。
しかし、全員が全員楽しんでいるわけではなく、特に精神疾患で多剤服用している入所者には、餅菓子は命にかかわる問題だった。
なにしろ薬のせいで舌が上手く動かないから、餅なんかを食べると必ず一人は喉に詰まらせる。
今日は十五夜だからお団子が出て、出されたお団子を一気に口に入れて喉に詰まらせた九十歳の男性入所者が、救急車で運ばれていった。看護師と介護士はてんやわんやなのに、患者はまるで無関係に自分の金平糖に齧り付いていた。
「安野さん、大丈夫かな」
「さあ。私にはなんとも」
隣に座った、土屋さんが私に話しかける。
あんなことがあったのに、土屋さんはまるでなにもなかったかのように私に話しかけてくるのだ。
この病院にいる人間は、それくらい図太くないとやっていけないらしい。ぎょろりとした目がいやらしく私を舐め回した。
私も私で、喉を詰まらせる安野さんを横目に、自分の分のお団子をむしゃむしゃといつも通りに食べ終えた。
「私、食べ終わったので部屋行きますね」
「ええ、あなたって少し変よ」
「変? 私が?」
土屋さんにだけは言われたくなかった。
「変って言うか、図太いわよね。安野さんが運ばれたのに、顔色一つ変えないなんて」
「私が騒いだら、安野さんの容体が回復するんですか?」
「怖い怖い。今時の子ってそんなに薄情なの?」
それは土屋さんの方だろう。土屋さんの分の給食を捨ててあげたのは土屋さんに頼まれたからなのに、土屋さんはそのことを看護師さんには最後まで言わず、あの件は私が勝手に捨てたことにされてしまった。
今思し出しても腹が立つ。私は土屋さんに向き直る。
「土屋さんこそ、なんで嘘、ついたんですか?」
「嘘? 私が?」
心底不思議そうに顔を右に傾けて、土屋さんが私を見た。私ははらわたが煮えくり返る。声を大きく、
「土屋さんに頼まれたから給食捨ててあげたのに。あれ私のせいにしましたよね!?」
「声大きいわよ。なに、だって捨てたのは事実じゃない」
「でも、土屋さんが頼んだのも事実でしょう!?」
「ああ、もう、もう。怒鳴らないでよ。怖いわあ」
まるで悪びれる様子はない。
二人の言い争いに気づいた介護士が、私たちに歩み寄る。するとおもむろに土屋さんが涙をこぼした。
「ああん、いじめられたあ」
「なになに。言い争いはよくないよ。またあなたたちふたりかぁ」
介護士は、はなから私の味方をする気はないらしい。今でも私が土屋さんの給食を『奪って』捨てたのだと申し送られている。
「怒鳴られたの。私はなにもしてないのに」
「そうなの?」
「ち、違います! 土屋さんが私を変とか図太いとか言うから……」
「あら、だってあなた、変なのは本当でしょう。ねえ、土屋さん」
完全に土屋さんの味方に付いた介護士に、私の怒りが振り切れた。
「だから! 私はなにもしてないし。いつも突っかかってくるの土屋さんでしょう!」
「ああん! また怒鳴ったあ」
「ほら、土屋さん怖がって泣いてるじゃないですか。怒鳴る方が悪い。ごめんなさいは?」
まるで子供に言うように叱られて、私はむっと口を結んで食堂を後にする。
なのに。
「ねえ、あなたって本当に世渡り下手ね」
私は自分にあてがわれた部屋に戻った。なのに土屋さんは私を追いかけてきて、部屋の入口で笑っている。
「土屋さんこそ、嘘泣きが上手ですね」
「まあね。ほら、私ってかわいいから、みんな私をかばってくれる」
「……そんな性格だから捨てられたんでしょうけどね」
ハッとして口を結んだ。私が土屋さんを見る――より先に、土屋さんが私に手をあげていた。
殴りかかられ、ふらついて床に倒れる。拒食症の土屋さんのどこにこんな力があるのかというほどの勢いだった。
べちん、べちん、と殴られて、私は看護師を大声で呼ぶ。
「か、看護師さん! 看護師さん!」
一方的に殴られる私を見て、看護師が慌てて土屋さんを止めに入った。
「こら! ふたりとも!」
男性看護師が土屋さんを止めて、土屋さんはいつものようにめそめそと涙を流した。私は一切涙など流さない。泣いた方が負けだ。
それなのに、看護師も介護士も、長く病院にいる土屋さんの肩ばかり持つ。
「あなたが挑発したって話だけど」
「挑発なんて。先に吹っ掛けてきたの土屋さんですよ」
「私はただ、世渡り下手だと苦労するわよって教えてあげただけで。なのに、『捨てられた』なんてひどいこと言って……私は私の意志でこの病院に来たのに。あの子と違って」
あの子、とは私のことである。
つまり、土屋さんは自分で病院に入ったが、私こそが家族に捨てられて病院に来たのだと言い返したのだ。
私もその嫌味の意味はすぐに気づいた。なのに言い返せなかった。
図星だからだ。
自分だってわかってる。自分はもう、この病院から出られないのだ。捨てられたのだ。
ぽろ、と涙がこぼれた。土屋さんがぎょっとしたように目を開いた。
「あ、あ……私」
「これは、土屋さんも悪いね。今後は二人の食事の席を離して……」
看護師と病院長が真剣に話している。
今日のところは痛み分け、私はおとがめなしで、代わりに土屋さんがたしなめられていた。
「いくら私が突っかかったからって、土屋さんのほうが大人なんだし。私はまだここにきて間もなくて不安なんだよ。気遣ってあげられるよね?」
むっとしたように、土屋さんは黙り込んだ。
決して「はい」とは言わずに。この問題は看護会議で追及されることになったらしい。
だけど、人生はそう簡単には進んでくれない。私の体重が三十を切ろうとしていた時、お母さんは私を無理矢理病院に連れて行った。お父さんと話し合った結果だった。
「やだ、やだ! 入院なんてしない! 私ちゃんと食べてるじゃん!」
「なつき、ごめんね、ごめん。ちゃんとお医者様の言うこと聞くのよ」
最初はスーパーに行こうって誘われて、私はなんの疑いもなくついていった。後ろからお父さんの車がついてきていることも知らずに。お父さんの車には、私の入院の着替え一式がそろっていて、私ははかられたことに怒りを感じた。
「この! くそ! 絶対に許さないからな!」
お父さんが書類にサインして、私は病棟に無理やり連れていかれた。抵抗したから、『保護室』という部屋に連れていかれた。
四畳ほどの部屋に、ベッドが一つ。五十センチの間仕切りの向こうに、むき出しの便座。
私はそのベッドに身体拘束されて、
「看護師さん、なんで拘束するんですか!?」
「暴れたからです。明日には解放するから。おとなしくできたらだけど」
看護師たちが、私によってたかって拘束具をつける。ベルトを胴と手足に回して、ベッドの柵に括り付ける。
「暴れない! 暴れないからほどいて!」
「ダメ。明日まで我慢して。ああ、おむつもしなきゃ」
「や、おむつ!? それは嫌です。我慢します」
「でも」
「我慢できます!」
なんとかおむつだけは逃れて、私は身体拘束されて天井を見ることしかできなくなった。寝返りを打てないから仙骨や背骨が痛かった。
ただでさえ、拒食症で骨が出張るから家の布団に寝ていても褥瘡ができるのに、一晩中あおむけに拘束されて、私は一睡もすることができなかった。
尿と便は我慢して、なんとか朝にはトイレだけは許された。一時だけ拘束を解かれて、看護師さんが見張る中で用を足す。
やりにくくて恥ずかしくて、私は今すぐ死んでしまいたかった。
朝礼を終えた看護師さんが、私の保護室のドアを開けた。
「おはよう。朝ごはん、食べられそう?」
「はい、はい!」
本当は、食べる気なんてさらさらなかったのに、私は拘束を解いてほしい一心で嘘をついた。看護師さんは私の拘束を解いて、保護室に朝食を運んでくる。昨日、私の体を拘束したのとは違う看護師さんだった。
ベッドに備え付けてある小テーブルを出して、そこに朝食が乗せられる。看護師さんが私を見張るように見ていた。
「食べられない?」
「いや、あの」
「そう。これじゃ、お医者さまに報告しなきゃなあ」
看護師さんが、私に憐みの目を向ける――ことはなく、私は身体拘束から解放されて、ほっと胸をなでおろしていた。痛む褥瘡に手を触れる。膿んではなさそうで安心した。
そうして私は、保護室という監獄の中、刹那の平和をかみしめる。
トイレに行くには、外にいる看護師さんにトイレットペーパーをもらわなければならなかったけれど、それ以外は特に不便はない。
昼ご飯の時間になって、また看護師さんが私に食事を運んできてくれた。
「食べられる?」
「はい」
私は決して、わざと嘘をついているわけじゃない。自分では「食べている」つもりだったのだ。
出された昼食のうち、牛乳だけを飲み干して、私はベッドに横になった。
「これは……ダメだね」
看護師さんが、お医者さまを呼んでくる。お医者さまは、看護師さんをもう一人連れてきて、私は看護師さんが持ってきた体重計に乗らされた。
「三十か……うん、四十になるまで、そうして」
お医者さまがなんの感情もなく看護師さんに指示した。
看護師さんたちが頷いて、いったん保護室を出ていった。がやがやと外が騒がしい。
「なんなんだろ」
私はなにも知らない愚かな子供だった。
次にまた、看護師さんたちがぞろぞろと保護室に入ってきて、私はまた、ベッドに括り付けられる。ぎしがたと私は抵抗した。
なんで、なんでこんなことができるのだろう。人間の所業じゃない。私を人間だなんて、思っていない!
「や、やだ! 拘束は朝までって言ったじゃないですか!?」
「体重が減りすぎているから。胃瘻を流します」
「胃瘻!? や、食べる、夜はちゃんと食べます!」
「ダメ。命にかかわることだから。看護師さんたちも心を鬼にします」
感情なんて一切こもっていなかった。
看護師さんたちが、私にまた、あの窮屈なベルトを締める。
私は抵抗した。逃げようとした。
こんなのごめんだ。胃瘻? なんでそんなことするの。私は普通だ。私は、ちゃんと食べている。入院なんて、必要ない。私はおかしくない。誰か助けて、くそ、くそ、あいつら、お父さんもお母さんも、みんな大嫌いだ。こんな扱いを受けるくらいなら。
「じゃあ、殺せよ! そうだ、安楽死! 私は安楽死を望みます! だからもう、ここから出して!」
私の叫びなんて、誰も聞いていなかった。
看護師さんたちは、私の体を拘束すると、私の鼻にチューブを通して、高カロリー液を流し始める。
バナナの風味が胃から上がってきて、私はただ、太ることが怖かった。
身体拘束されて、私の褥瘡が膿んだ。看護師さんたちが、靴下をドーナツみたいに丸めたものを褥瘡の部分においてくれたけど、やせぎすの骨だけの私の体は、そこら中に褥瘡ができた。
毎日天井を眺めて暇を潰す。最初は看護師さんを呼んでいたけれど、私はもう、諦めた。
トイレも自由にできなかった。
おむつを当てられて、そこに三回、尿をすると、看護師さんが取り替えてくれる。便なら一回。
私はまるで、そう、まるで動物のように扱われた。動物と言うよりは、獣。
私は何度もトイレをお願いするのに、看護師さんたちは一度だって私のところに来てくれない。
何度も保護室の前を通るのに、私はここに存在しないようだった。
「看護師さん、殺して」
「疲れてるのね。栄養が廻ったら、死にたいなんて言わなくなるわよ」
「死にたいんじゃない。安楽死させて。こんなの生き恥だ」
私はひとりではなにもできない。おむつに糞尿を垂れ流し、看護師さんが三日に一回体を拭いてくれる。
私がいまだに暴れるから、私の身体拘束は解けないままだ。いや、体重が四十になるまで解かないと説明を受けた。
私が何度も「ちゃんとご飯を食べます」と言っても、誰も取り合ってはくれなかった。
私の自尊心は砕け散って、心も体も自分のものではなくなった。
「看護師さん、お母さんに来てほしいんですけど」
「まだ家族との面会はできないですよ」
私はただ、生きていた。
死んだ状態で、生きていた。
こんな風に、もののように扱われて、私は生きていると言えるのだろうか?
看護師さんたちは、代わる代わる私を世話してくれたけれど、私を人形のように思っているのか、なんら顔色ひとつ変えなかった。
私は人形なのだろうか、屍なのだろうか、生きているのだろうか、なんで、ここにいるのだろうか。
私の体重が徐々に増えていく。
頭に栄養が廻っても、それでも私は、この対応に納得がいかなかった。
「看護師さん、ちゃんと食べるので、もう拘束は解いてください」
「まだ三十八だから。あと二キロの我慢だよ」
「くそ、この! 他人事だと思いやがって!」
「うん、元気が出てきたじゃない」
そんなもの、必要ない。自由になったら、一番に死んでやる。それで、死ぬ瞬間に看護師に言ってやるんだ。「よくもあんな扱いをしたな」
私は生かされている。の胃瘻によって。
それでも、そこまでして生きながらえたいなんて思っていない。
私は確かに、お母さんが私の異変に気づいたら、生きていこうと賭けをした。けれど、こんな形になってまで生きながらえることなんて望んでいない。これは、人間に対する扱いなのだろうか。
私に自由なんて許されない。
トイレすら自由にならない。食事は変な味のするカロリー液で、ひとの食べるものじゃない。
私の体重は順調に増えていく。
安楽死してやる、死んでやる。こんな辱めを受けて、お父さんやお母さんを許せるはずがない。
私は、退院したらまず、安楽死に申し込む。私のこの病気なら、きっと条件は満たすだろう。
問題は、三親等内の親族の許可だ。
「じゃあ、今日から拘束を解きますね」
思ったよりも早く、私の拘束は解けた。そうはいっても一か月だ。一か月丸々寝たきりだった私は、拘束を解かれて、素足でベッドの上から床に降り立った。
立ち上がろうと足に力を籠めるも、うまくいかずに転んでしまった。一か月寝たきりだったのだからしょうがない。
膝をついて、そこからじんじんと痛みが全身に伝わった。
お母さんの涙を思い出した。
私を入院させるとき、お母さんは涙を流していた。十七年生きてきて、初めて見るお母さんの涙だった。
どんな気持ちで私を入院させたんだろう。私がこういう扱いを受けることを知っていたのだろうか。
聞いてみたい、と思った。聞いてから死んでも悪くない。
「あはは、なんだ」
結局私は、なにかに理由をつけて、生きる意味を探していた。
「相川さん、ご飯、食べられそう?」
「やってみます」
やらなければ、また身体拘束される。それだけはごめんだ。
だから私は、その日出された昼食の焼き魚とご飯とお浸しを、全部残らず平らげた。
病院にいる間だけは、私は太る恐怖に耐えて、ご飯をなるべく全部食べた。
けれど、唯一、肉だけはだめだった。わかりやすく私は、肉はもっとも太るものだと、そう、脳が思い込んでいるようだった。
一般部屋に移り、ベッドで無為に過ごしたいのに、清掃員はお構い無しに私の部屋に入ってくる。
最初こそ、清掃員を無視して布団にくるまっていたのだが、どうにも清掃員はベッドのシーツを取り替えたいらしく、私を邪険に扱った。
「ゴロゴロしてるから滅入るんですよ。談話室でみんなとストレッチなり、カラオケなりすれば気分転換になりますよ」
「何時頃に掃除終わりますか」
「そうやってまたゴロゴロするんですか。はあ。いい若いもんが毎日毎日。普通のひとだってこもりきりだったらおかしくなりますよ」
清掃員はだいぶ歳のいった女性だった。八十歳は超えているのに、背中がピンと伸びていてハキハキしている。
中学を出てからずっと働いてきたらしい清掃員は、年齢にしてはかなり進歩的な考えの持ち主だったに違いない。
私の祖母はもう亡くなったが、この清掃員と同じくらいの歳である。
その祖母は、小学校を出てすぐに家業を手伝い、十七で結婚して、それから死ぬまで夫を支え家事のみに従事してきたようなひとだったから、この清掃員は時代を先取りした考えの持ち主なのかもしれない。
そうだとしても、私のことも、ましてや病気のことも理解せようとせずに、私に『おかしい』とレッテルを貼るのはいただけなかった。
長く刻まれた顔のシワと同じで、人間の考え方はそう簡単には変わらないのかもしれない。
「二時くらいまで、談話室に行きます」
「もっとシャキシャキしゃべりなさいな」
「失礼します」
部屋の清掃は三日に一回。私は気だるい体を押して、談話室に向かった。
談話室でも、私に居場所はなかった。
「なつきちゃん、だっけ」
談話室で小説を読むようになって、少しだけ気分転換ができるようになった。
そんなある日、臨床心理士のお兄さんに声をかけられた。
「あ、と」
話しかけてきた人物に、見覚えはなかった。入院患者ではないし、看護師でもない。
「あ。俺、臨床心理士なんだ」
彼が人懐っこい笑みで言った。
「じゃあ、先生ですね」
適当に返事して、なのに臨床心理士のお兄さんは部室から出ようとしない。じっと私を見ていた。
「なんです?」
「あ、いや。俺もその本、好きだったなって」
かなり有名な小説だったから、今思えばただの口実だったのは明らかなのに、私はうれしくなって、その小説の感想を心理士さんに早口でまくし立てた。
「この小説のラストがすごくて。余韻というか。全部投げっぱなしに見えて、でもちゃんとまとまってる。読むひとによってとらえかたが違うのも面白いです」
「俺はここを――」
時間を忘れて語らって、私は臨床心理士さんのおすすめの本を一冊、その日貸してもらった。
「俺、岡山信明」
「私は相川なつきです」
それが私がこの入院でであった幸いのひとつだった。
聞いた話、臨床心理士さんは苦学生で、本来ならば都心の名の知れた大学に合格していたのだけれど、進学するタイミングで父親がリストラ、仕方なく自宅から通える地元の大学を受けなおし、奨学金を借りて無事に大学を卒業したのだそうだ。
私と同じだ、と思った。
私は拒食症という人生の負債を背負っている。
そして、それを苦に、安楽死まで考えている。
私はそれまで、大学というところはほとんどの人間が退屈しのぎに通うところで、例えば日本では、大学に入学するのは難しいけれど、卒業するのは簡単、という言葉はその通りだと思っていた。
臨床心理士さんは、ずっと私に話しかける機会を伺っていたらしい。いつだったか、「なぜ私だったの?」と聞いたことがあった。
「自分の世界を持っていたから」
臨床心理士さんには私がそう映ったらしいけれど、私はただ、不必要なことは喋らずに、誰にも心を開けずにいただけなのに。
私はいつの間にか、臨床心理士さんに、すべてを話していた。
「私、高校、行けなくて。ご飯も、食べられなくて……っ」
「うん」
それはどうして、とは聞かれなかった。
「それでも、私はその経験があったから、今を大事にできるようになって」
「うん。なつきちゃんの強さはそこから来てるんだね」
臨床心理士さんを見上げると、いつもと変わらぬまなざしを私に向けてくれていた。
「私、嫌われたく、なくて」
「嫌う? 親に?」
こくり、頷くと、はあ、と臨床心理士さんのため息。
「やっぱり、嫌われてますよね」
臨床心理士さんが首を横に振る。
「家族っていうのは、そう簡単に嫌いになったりしないよ」
それにね、と臨床心理士さんが続けた。
「なつきちゃんにはいいところがたくさんあるよ。小説の感想を素直に言えること。頑張って痩せたこと、勉強も、理恵子ちゃんのこと」
私の心の澱を、どこまで知っているのだろう。そして彼は、どこまで受け入れてくれるのだろう。期待と不安と、それでもどこか、安堵していた。
彼ならきっと、彼にならきっと、私はいつか、すべてを話せるのだろうという予感がした。
私はその日以来、臨床心理士さんと認知行動療法に励んだ。
その中で、私は退院したら、調理師の高校に転校したいと思うようになった。
私はいまだ、臨床心理士さんにすべての秘密を打ち明けたわけではない。少しずつ、断片的に伝えるそれは、臨床心理士さんにとっては不可解極まりないものなのだろうけれど、確実に、私の中のなにかが瓦解していくのがわかった。
拒食症は私の中から完全に消えたわけではないけれど、もう大分長いこと普通の食事がとれている。
「ねえ、臨床心理士さん」
私は臨床心理士さんを質問攻めするのが好きだった。私はずっと、聞きたかったことがある。
「臨床心理士さんは、もしも今の記憶を持ったまま過去をやり直せるとしたら、いつに戻りたいですか?」
ただの空想だ。そんなこと、今の科学技術では不可能だ。臨床心理士さんがふっと笑った。
「さあ。考えたことないな」
「はぐらかさないでくださいよ」
私の退院が決まって、私は思い切って私の中の核心を臨床心理士さんに訊いてみた。
彼は博識なひとだった。私の知らない小説や、私の知らないきれいな場所、私の知らない豆知識や、私の知らない料理をたくさんたくさん教えてくれた。
だからこそ、私は彼に訊いてみたい。
「あえてあげるなら、受け持った患者さんで最初の安楽死をした人の、心理療法の一日目かな」
ひゅ、とのどが詰まった。
私も、安楽死を訴えたことがあった。入院した初日にも、そして、心理療法をする間も、なにかにつけて、もうこんなつらい思いをするくらいなら、安楽死したいと、なんども臨床心理士さんに訴えた。
しかし、臨床心理士さんは穏やかな顔だ。
臨床心理士さんの人間くささを窺い知る。
「なんでですか? 臨床心理士さんのせいではないじゃないですか」
私は興味本位で聞き返した。
「そうれはそうだね。でも俺は、手の届く範囲の人には、幸せになってほしい、強欲な人間なんだよ。がっかりさせたかな?」
私はそんな、臨床心理士さんのまじめさに目が熱くなった。
「なつきちゃんは? いつをやり直したいの?」
「私はね、高校一年生の時に不登校になったクラスメイトを、助けられなかったことを後悔してるの。だから高校一年生をやり直したい」
臨床心理士さんの表情が変わった。
「それは、誰のためなの」
「え?」
「不登校の子を助けたいのは、その子のため? それとも、自分の人生への言い訳のため?」
はっきりとものを言うところも好き。「自分のため?」でも「自分のエゴ?」でもない臨床心理士さんの問いかけ。それは、臨床心理士さん自身への問いかけでもあったに違いない。
私は気づいた。私はただ、自分が救われたかっただけなのだ。
理恵子ちゃんを不登校にさせなければ、私自身もまた、拒食症にならなかったのではないか。
理恵子ちゃんを不登校から救っていれば、自分が拒食症でも気の持ちかたが違ったのではないか。
理恵子ちゃんさえ救えていれば、私の人生は誇れるものになっていたのでないか。
理恵子ちゃんと友達になっていたら、亜美とは縁を切れていたのではないか。
理恵子ちゃんが私とずっと一緒のクラスになっていたら、私は亜美からの態度に悩まされることはなかったのではないか。
理恵子ちゃんが友達だったのなら、私の拒食症に優しく声をかけてくれたのではないか。
後悔のない人生を送るひとなんて、果たしてどれだけいるのだろう。私は理恵子ちゃんをだしに使って、自分の人生を正当化しようとしていただけだったのだ。
「やり直せないから人生は面白いんだよ」
「……臨床心理士さんって、時々意地悪ですよね」
「否定はしない」
「……そういうところ、信頼できるんですよね」
何度胸の内を明かしても、私はたまらなく恥ずかしくて、だからこそ、気を紛らわせるために色々なことを思い出しては、彼に投げかける。
理恵子ちゃんが今、なにをしているのか私は一切知らないけれど、理恵子ちゃんも私みたいに幸せだったらな。なんてことは思わない。
私の中から悔恨は消えない。けれど私に笑みを向ける臨床心理士さんを見ていたら、私の中にあった理恵子ちゃんの記憶が少しずつ、少しずつ頭の外へ漏れていって、私を形作る様々な色とともに、混濁して揺さぶられ、やがて波に飲まれて打ち震えた。
***
私の入院での幸いのふたつめは、献身的な看護師さんの存在だった。
臨床心理士さんが来るのは、週に一回。
ほかは、看護師さんと過ごさねばならない。
私は体重が戻ったとはいえ、まだまだふらつく体で、毎日をベッドの上ですごしたかった。
なのに清掃員さんが私をごみのように追い出すから、行き場のないわたしは談話室の隅で一人、座って窓にもたれかかっていた。
「大丈夫?」
「あ……」
新しく来た看護師だった。
名前を神野さんといった。
神野さんは今までの看護師と違って、私の目を見て話を聞いてくれる。安心する、温かなヘーゼルの瞳が印象的だった。カラコンではなく自前の瞳だ。キラキラしてお星さまみたいだと思った。
「拒食症のこと――身体抑制のこと、聞いてるよ。まだ体調も万全じゃないし、座ってるのも辛いよね。空いてる部屋でおやすみする?」
「や、でも。看護師さんに迷惑じゃ」
「平気。ここは皆にとって第二のおうちだもの。嫌なことがあったら遠慮なく言っていいんだよ?」
そんなこと、この病院に来て初めて言われた。看護師はみな、私や入院患者に向き合わず、いつもイライラした態度しかとらない。
神野さんのような看護師が本来あるべき姿なのだろうが、他の看護師が辟易する理由も私にはわかる。
私のように厄介な二十人の入院患者を世話し、「帰る」と荷物をまとめる入院患者、「ご飯まだ?」と五分ごとに看護ステーションをたずねる入院患者。
それらを含め、二十人を三人か四人の看護師で見なければならないのは、保育園とはまた違った神経を使うだろう。
看護師は入院患者の命を預かっている。
なかには自殺企図や希死念慮のある入院患者もいるから、気を抜いたら責任問題に発展しかねない。
「看護師さん……私」
「うん」
空き部屋に通されて、布団が敷いてないベッドに私は体を横たえた。ぎしりとベッドが軋んだ。
神野さんが一緒にベッドに座ったからかもしれない。布団の敷いてないベッドは固く寝心地が悪い。
なのに、私の体はベッドに吸い寄せられるように沈んでいき、ベッドとの境界なんて直ぐに溶けてなくなった。
薄汚れた天井を見る。
蛍光灯はつけていない。チカチカして眩しいからと、私が頼んでつけなかったのだ。虫がブンと飛んでいる。
明かりを求めて彷徨うさまは、さながら私そのものだった。
神野さんが私の体をとんとんと叩いた。
まるで子供に戻ったかのように、私の心は穏やかだった。温かな手のひらのぬくもり。『手当て』という言葉があるように、ひとの手からはなにか目に見えない不思議な力が放たれているに違いない。
「私、ここでは看護師さんも介護士さんも、いつも話を聞いてくれなくて。私が頭おかしいから悪いんですけど」
「おかしいなんて誰が言ったの? 拒食症は脳の病気なんだよ。誰でもなりうる病気。ちゃんと治る病気なの」
「病気」
拒食症はわがままなだけだ。
周りはみんな、そんな対応をする。
あるいは、無関心に理解を示さない。
『精神』疾患、なんて名前だから、みんな実体のない部位の病気に無知だった。脳の病気、と言われたのなら、第一印象は百八十度変わるだろう。
私が思い出したのは、私が拒食症を発病してすぐのころ、真子と喫茶店に行った時のことだった。
真子は私の異常な痩せ思考に気づいていたし、そもそも、養護教諭に話したのも真子だ。
唯一気の置けない仲の友人に、理解を求めて私は拒食症と診断されたことも、パンの試食しか食べられないことも話した。
「でも、拒食症っていうからもっと深刻かと思ったよ」
そりゃあ、真子と会うためにおしゃれをしてきたし、体型が隠れる服を選んだ。
私が学校に行けなくなって、会うのは一か月ぶりだった。一カ月前より三キロは体重が減っていたのに、真子は何事もなかったかのように接してくれた。
初夏のファミレスはクーラーが効きすぎるほど涼しくて、貼りつく背中の服が私の体温を奪っていく。
真子はアイスコーヒーを頼んで、私はハーブティーを頼んだ。
「私、彼氏できたんだ」
「え。来年受験じゃない」
「うん。勉強はちゃんとするよ。でも、どうしても付き合ってほしいって。社会人の彼、格好いいんだ。そっちは?」
私の現況は話していたはずなのに、真子は他人事のように私に話題をふった。
今日のお茶会を提案したのは真子だった。
大事な話があると連絡が来ていた時点で、なんとなく察しはついていた。
真子は鼻の頭に汗をかきながら、混ざっていないミルクたっぷりのアイスコーヒーの黒い部分をストローですすった。ガムシロップはいれない。
「私は……彼氏もいないし。そもそも、付き合うってなったら、私の病気の話をどう切り出せばいいか分からないから」
「黙って付きあっちゃえばいいのに」
「……え?」
「見た目普通なんだしさ、大丈夫だよ」
まるでお門違いな言葉だと思った。真子からしてみれば慰めの言葉のつもりなのだろうが、私にとって病気は、生活を揺るがす大きな問題だった。
もしも付き合うとなって、デートで食事ができなかったら、あとから「実は拒食症でしでした」なんて、別れる理由にしかならないだろう。
「それってさ」
それ、の意味がわからなかった。
「遺伝するの?」
主語を理解して、私は言葉を失った。
ネットで調べればなんでもわかるこの時代に、私の友人は精神疾患に悩む私のことをわかろうとする気持ちはなかったらしい。
私の前髪がひたいに張り付き、私は震える手を悟られないように、前髪をひと房かき分けた。
「遺伝はしない。って言われてる」
「そう。ならなおさら、大丈夫じゃん」
カラコロ、と真子がアイスコーヒーの中のストローを混ぜて、氷を溶かしながらミルクを混ぜる。白、茶色、黒に層を作るミルクコーヒーのコップが汗をかいてしとっている。
私はほどよく冷めたハーブティーのカップに口をつける。友人はアイスコーヒーをかき混ぜて、幸せそうに惚気話を始めていた。
コーヒーとミルクが完全に混ざり合い、きれいな薄茶色がコップの中で渦を作る。その渦に巻き込まれそうになりながら、私は友人の話を右から左に聞き流した。
そんなことがあったから、私は他者に自分の病気を話すことをやめた。
どうせ周りは理解してくれない。アイスコーヒーのようには健常者と障がい者は混ざり合えないのだ。
水と油のように層を作って、お互いに違う場所を生きている。
「看護師さん。私、ここから出たいんです」
「聞いてるよ。体重が落ち着いたら迎えに来るって」
「でも、嘘かもしれない」
「私は、本当だと思うけどな」
とんとん、とんとん。神野さんが私の体を優しく叩く。私は睡魔に身を任せて、重い瞼をそっと閉じた。
私にとって神野さんは、唯一気を許せる看護師だったに違いない。実際、神野さんはほかの入院患者からも好かれていたし、神野さんが勤務する日は、私の心も穏やかだった。
「え。辞める?」
「ごめんね。言わずに辞めたらびっくりすると思って」
青天の霹靂だった。
神野さんが務め始めて、まだ二ヶ月しか経っていなかった。
神野さんは詳しくは話さないが、神野さんが入院患者に好かれているからか、あるいは入院患者の待遇改善を上に申告したからか、神野さんは厄介払いされたようだった。
私の目から、枯れたはずの水滴がぼとりと落ちた。頬をつたう生ぬるいそれを拭って、私はほかの看護師に訴えた。
「神野看護師さんを辞めさせないでください!」
「また今日で何件目? 辞めるって入院患者に話せば取り消せるって思ってるのかしら」
小賢しいわね。
看護師たちが笑った。
腐ってる。この病院はおかしい。いや、このひとたちが普通で、神野さんの志が高かっただけなのだ。
わかっている。神野さんのような人間は、もっとやりがいのある職場で働くべきだ。
「神野さん、これ」
神野さんの最後の勤務日、私は神野さんに手紙を書いた。なんのことはない、普通の手紙だ。「今までありがとうございました。神野さんのことは一生忘れません」
神野さんは感極まって泣いてしまった。
ヘーゼルの瞳は涙に濡れると余計に儚く美しい。
その瞳のように美しい心が、こんな病院で濁るのは本望じゃない。私は自分に言い聞かせた。
神野さんのためにも、この退職はしかるべきものだった。私が神野さんの人生のほんの一時の記憶だとしても、忘れられるとしても、私の中から神野さんの真心は一生消えないだろう。
神野さんが私を抱きしめた。
「これから先、辛いことが沢山あると思う。それでも、なにかひとつでいい、人生って悪くないものだなって思えるなにかを、見つけてください」
否定も肯定もできなかった。
私にとって神野さんがそれに当たるのかもしれないが、それが私の現状を好転させるものでもないことも知っている。
お星さまに写る自分の姿を直視できず、私は神野さんから顔を逸らして別れの挨拶をした。
あとから思えば、ちゃんと顔を見て話しておけばよかったと後悔するばかりだった。
神野さんがいなくなった病院は、また元の通り暗く、いつもカリカリした看護師たちの水溜まりのような場所になった。
***
私は少しだけ病院に馴染んできた。
そのなかでよく話すようになったのが、八十を超えた男性入所者、綿引さんだった。私がおむつの件で塞ぎ込んでいたのを見かねて話しかけてきたらしい。
綿引さんは元教師で、博学で話を聞いているだけで楽しかった。少し髪が薄くて、目尻がくしゃっとした笑い方をする。
「あなたは魂は存在すると思う?」
「私はないと思いますね」
でも、この前の話は面白かった。海外の医者だかが、人が死ぬ時に質量が減ることを発見した。それを魂の重さとしたのだ。それが約二十一・三グラム。ただしこの実験は根拠がないと言われ、死したあとに減った二十一・三グラムについては謎のままらしい。
「魂とか輪廻とか。私は信じません」
そんなものがあったら、私はこの世界を選んで生まれてきたことになる。
安楽死を選べなくなる。
「そうだね。でも、魂があるのなら、わたしもあなたも、生きてきた意味があると思わない?」
綿引さんは軽度の認知症だと聞いていた。けれど、私のことを忘れたりすることもなく、同じ話を繰り返したりもしない。
「綿引さんは、死ぬのが怖いんですか?」
「この歳になると、死は怖くないかな。わたしが怖いのはただ」
人間でなくなることだ。
私の目から雫がこぼれそうになる。すんでのところでこらえて、
「その恐怖に勝つには、どうしたらいいですか」
「さあ。それはわたしにも。ただ、あなたはまだ若いのだから。足掻いたっていい。みっともなくてもいい。生きて、生き抜いて、その答えを見つけてください。それで、生まれ変わったわたしにその答えを教えてくださいな」
まるで、もうすぐ死ぬみたいな言い方だと思った。
綿引さんは奥さんに先立たれ、子供たちの世話になる訳にもいかずに、色んな病院をたらい回しにされたそうだ。
それを思えば、私はまだ恵まれているのかもしれない。家族は生きているし、病気だって軽い。
「綿引さん。生まれ変わりがあるとして、どうやって綿引さんだって見分けるんですか」
「はは、そうだね。でもきっと、あなたならわかると思いますよ」
そもそも、と綿引さんが続けた。
「仏陀――お釈迦さまは、輪廻の輪から外れるために修行をしていたんだ」
「生まれ変わりたくないってことですか?」
「人は死んだら、天の神々、人、畜生、餓鬼、地獄の五つの世界で何度も、何度も生まれ変わるんだ。今は阿修羅も加えて六つの世界かな。そこから解脱することこそが、真の平静だと仏陀は解いた」
興味深い話だった。私は魂を信じないが、生まれ変わりは信じたかった。死んだあと、自分がなくなるという恐怖は誰でも一度は味わうだろう。どんなに苦しい世界だとしても、『無』になる覚悟は私にはなかった。
「仏陀は苦行を途中でやめた。なぜだと思う?」
「辛かったからでは? 辛い思いをしても悟りなんか開けないって気づいたんじゃないですか?」
綿引さんがにこりと笑んだ。目尻にカラスの足跡ができている。
「『こんなに苦行に励んでいる自分は、ほかより優れている』そんな悪心ばかりが膨れ上がるだけだったからだよ」
目から鱗だった。綿引さんが言わんとすることがよくわかる。
自分の不幸を嘆くより、自分が持ち得るものを見よ。不幸な拒食症の自分ではなく、ひとりの人間としての自分を。
「でもきっと、わたしもあなたも、次も人間に生まれ変わると思いますよ」
「私にカルマが有るからですか?」
「魂を信じてるからですよ」
さっき私は否定したばかりなのに、綿引さんはやっぱり認知症なのかもしれない。
「来世では幸せになりましょうね。わたしも、あなたも」
不思議なひとだと思った。
私にとって綿引さんはこの病院内での親みたいなもので、私は綿引さんと話すのが毎日のささやかな楽しみになっていた。
***
私の病院での生活は、絶望もあれば希望もあった。
しかし、患者全員がそうとも限らず、例えば家族に虐待されていた子なんかは、ここはレクリエーションがあって楽しいと言う。
「ねえ、あなたって普通なのに、なんで病院に入ってるの?」
同じ拒食症の四十代の女性に言われ、私は苦笑を返すことしかできなかった。
天然パーマのボブの髪の毛は茶色味がかっていて、パーマをかけていないのにほどよくうねるからとても可愛い。
童顔で目が大きいから歳よりも若く見えた。ただ、目が大きいのは痩せすぎていて目が落窪んでいるせいもある。
「私はさ。見てよ、めちゃくちゃ太ってるからさ。ご飯食べたくないんだよね」
「すごく痩せて見えますけど」
「やだあ、お世辞でもうれしい。あなたみたいにもっと痩せたいわ」
本心なのかはわからなかった。けれど、私と同じ痛みを経験したであろうその人に、心を開いてしまった私が、愚かだったのかもしれない。
彼女には自分が病気だという認識がないらしかった。
女性の名前を土屋さんと言った。
土屋さんには妹がいるらしく、私を妹のように気にかけてくれた。くりくりの瞳が私を捉えて離さない。
どうやったらあんなに可愛くなれるのだろう。
「今日の給食多いなあ。食べる?」
「え。一口しか食べてないじゃないですか」
「でも、もうお腹いっぱい。ねえ、こっそり捨てるの手伝ってよ。看護師さんに見つかったらどやされちゃう。あなたにしかこんなこと頼めないんだもの」
頼りにされ、私は錯覚してしまったのだ。
自分は誰かの役に立てる、必要とされている。
「仕方ないな。今日だけですよ」
本来、拒食症の患者が食事を捨てるなんてあってはならない。
けれど私は、知っている。食べなければ身体抑制されてしまう。
だから私は、協力してしまったのだ。
一回のみならず、何回も。
それが看護師にばれて、私の母親が病院に呼び出された。
「娘さんが、拒食症の患者さんのご飯を代わりに捨ててました。困るんですよ、拒食症の患者さんの体重が増えないからおかしいなと思ったら」
「すみ、申し訳ありません。娘は押しに弱くて」
「それじゃあ、土屋さん――拒食症の患者さんが悪いって言いたいんですか? 土屋さんは、娘さんが勝手に捨てたって言ってますけど」
「そんなはず! 土屋さんに頼まれて捨てたんですよ!」
私も病院長との面接に同席させられ、しかし責められたのは私だけだった。土屋さんも同席したのに、すべての責任を私に擦り付けた。
「今後はこのようなことがないように、しっかり見ていきますからね」
実際、その日以来私の一挙一動を看護師や介護士が見張るようについて回り、私はほかの患者には絶対に心を許すものかと誓ったのだ。
***
病院では行事ごとの給食が出たり、レクリエーションが開かれたりする。そのどれもが、私は嫌いだった。
ひな祭りや端午の節句には桜餅や柏餅が出されるらしい。
しかし、全員が全員楽しんでいるわけではなく、特に精神疾患で多剤服用している入所者には、餅菓子は命にかかわる問題だった。
なにしろ薬のせいで舌が上手く動かないから、餅なんかを食べると必ず一人は喉に詰まらせる。
今日は十五夜だからお団子が出て、出されたお団子を一気に口に入れて喉に詰まらせた九十歳の男性入所者が、救急車で運ばれていった。看護師と介護士はてんやわんやなのに、患者はまるで無関係に自分の金平糖に齧り付いていた。
「安野さん、大丈夫かな」
「さあ。私にはなんとも」
隣に座った、土屋さんが私に話しかける。
あんなことがあったのに、土屋さんはまるでなにもなかったかのように私に話しかけてくるのだ。
この病院にいる人間は、それくらい図太くないとやっていけないらしい。ぎょろりとした目がいやらしく私を舐め回した。
私も私で、喉を詰まらせる安野さんを横目に、自分の分のお団子をむしゃむしゃといつも通りに食べ終えた。
「私、食べ終わったので部屋行きますね」
「ええ、あなたって少し変よ」
「変? 私が?」
土屋さんにだけは言われたくなかった。
「変って言うか、図太いわよね。安野さんが運ばれたのに、顔色一つ変えないなんて」
「私が騒いだら、安野さんの容体が回復するんですか?」
「怖い怖い。今時の子ってそんなに薄情なの?」
それは土屋さんの方だろう。土屋さんの分の給食を捨ててあげたのは土屋さんに頼まれたからなのに、土屋さんはそのことを看護師さんには最後まで言わず、あの件は私が勝手に捨てたことにされてしまった。
今思し出しても腹が立つ。私は土屋さんに向き直る。
「土屋さんこそ、なんで嘘、ついたんですか?」
「嘘? 私が?」
心底不思議そうに顔を右に傾けて、土屋さんが私を見た。私ははらわたが煮えくり返る。声を大きく、
「土屋さんに頼まれたから給食捨ててあげたのに。あれ私のせいにしましたよね!?」
「声大きいわよ。なに、だって捨てたのは事実じゃない」
「でも、土屋さんが頼んだのも事実でしょう!?」
「ああ、もう、もう。怒鳴らないでよ。怖いわあ」
まるで悪びれる様子はない。
二人の言い争いに気づいた介護士が、私たちに歩み寄る。するとおもむろに土屋さんが涙をこぼした。
「ああん、いじめられたあ」
「なになに。言い争いはよくないよ。またあなたたちふたりかぁ」
介護士は、はなから私の味方をする気はないらしい。今でも私が土屋さんの給食を『奪って』捨てたのだと申し送られている。
「怒鳴られたの。私はなにもしてないのに」
「そうなの?」
「ち、違います! 土屋さんが私を変とか図太いとか言うから……」
「あら、だってあなた、変なのは本当でしょう。ねえ、土屋さん」
完全に土屋さんの味方に付いた介護士に、私の怒りが振り切れた。
「だから! 私はなにもしてないし。いつも突っかかってくるの土屋さんでしょう!」
「ああん! また怒鳴ったあ」
「ほら、土屋さん怖がって泣いてるじゃないですか。怒鳴る方が悪い。ごめんなさいは?」
まるで子供に言うように叱られて、私はむっと口を結んで食堂を後にする。
なのに。
「ねえ、あなたって本当に世渡り下手ね」
私は自分にあてがわれた部屋に戻った。なのに土屋さんは私を追いかけてきて、部屋の入口で笑っている。
「土屋さんこそ、嘘泣きが上手ですね」
「まあね。ほら、私ってかわいいから、みんな私をかばってくれる」
「……そんな性格だから捨てられたんでしょうけどね」
ハッとして口を結んだ。私が土屋さんを見る――より先に、土屋さんが私に手をあげていた。
殴りかかられ、ふらついて床に倒れる。拒食症の土屋さんのどこにこんな力があるのかというほどの勢いだった。
べちん、べちん、と殴られて、私は看護師を大声で呼ぶ。
「か、看護師さん! 看護師さん!」
一方的に殴られる私を見て、看護師が慌てて土屋さんを止めに入った。
「こら! ふたりとも!」
男性看護師が土屋さんを止めて、土屋さんはいつものようにめそめそと涙を流した。私は一切涙など流さない。泣いた方が負けだ。
それなのに、看護師も介護士も、長く病院にいる土屋さんの肩ばかり持つ。
「あなたが挑発したって話だけど」
「挑発なんて。先に吹っ掛けてきたの土屋さんですよ」
「私はただ、世渡り下手だと苦労するわよって教えてあげただけで。なのに、『捨てられた』なんてひどいこと言って……私は私の意志でこの病院に来たのに。あの子と違って」
あの子、とは私のことである。
つまり、土屋さんは自分で病院に入ったが、私こそが家族に捨てられて病院に来たのだと言い返したのだ。
私もその嫌味の意味はすぐに気づいた。なのに言い返せなかった。
図星だからだ。
自分だってわかってる。自分はもう、この病院から出られないのだ。捨てられたのだ。
ぽろ、と涙がこぼれた。土屋さんがぎょっとしたように目を開いた。
「あ、あ……私」
「これは、土屋さんも悪いね。今後は二人の食事の席を離して……」
看護師と病院長が真剣に話している。
今日のところは痛み分け、私はおとがめなしで、代わりに土屋さんがたしなめられていた。
「いくら私が突っかかったからって、土屋さんのほうが大人なんだし。私はまだここにきて間もなくて不安なんだよ。気遣ってあげられるよね?」
むっとしたように、土屋さんは黙り込んだ。
決して「はい」とは言わずに。この問題は看護会議で追及されることになったらしい。
