私の腹を満たすもの

私の腹を満たすもの

一、安楽死は日常に

 安楽死が日本で合法化されてから五年がたった。五年がたった今でも安楽死は一年以上の順番待ちで、志願するものが後を絶たない。安楽死に際し、国は厳しい審査基準を発表した。
一、肉体的、あるいは精神的に耐えがたい一定以上の苦痛を伴う病気であること
一、その費用は安楽死者の負担とし、費用は一律百万円とする
一、三親等以内の親族のすべてが安楽死者を保護することができないこと、かつ、それらのすべてから安楽死の許可を得ていること

 ほか十数の条件があるが、特にこの三つで引っかかる人間が多く、いまだ安楽死への賛否は両論である。だというのに、安楽死は一年以上の待ちがあるのだから、日本がどのくらい病んでいるのかを物語るには十分だろう。
 安楽死が合法化しても自殺者は減るどころか、今も右肩上がりだ。
 尊厳死を当たり前に!
 国は死ぬ権利を等しく国民に保証せよ! 
 安楽死できない人たちに残されるのは、やはり自殺しかないのが現実だった。ずらりと安楽死の予約名簿が長い列を作っている。
 そして、私の名前もまた、そこに載っていることだってあった。五年前の私は、まだ十七歳の子供だった。

 夏に生まれたからなつき。私の名前はそんな風に安易に名付けられたともいえるし、だけど友達に覚えてもらうには十分すぎるほどだった。
 昨今はキラキラネームのせいで戸籍にもフリガナを振るようになったが、私の名前は平仮名だから、読み間違える人間はほぼいなかった。
「あんたが生まれたとき、本当に大きかったから難産だったのよ」
「でも、お母さんが悪いんじゃん」
 この話は何度も聞かされた。私は真夏の生まれだから、暑くて腹帯を巻けなかったのだそうだ。
 暑くて蒸れて、夜も眠れない。腹帯は育ちすぎを防ぐ役割もあったけれど、お母さんは途中でそれをやめた。そうやって私は自由奔放にお腹の中ですくすくと育ち、当時では珍しく生まれは三千七百グラムというジャンボベビーだったのだそうだ。
 私がお腹にいたころ、私は毎日ドンドコドンドコ元気に動き回っていたらしい。産婦人科の先生が、「元気な男の子ですね」と言っていたほどだ。
 結局は臨月になってようやく私の体全体がエコーで見えるようになって、「女の子……かもしれない」と先生が焦ったように言った。
 生まれた私は、やはり女の子で、お母さんは念の為に考えていた女の子の名前を私につけた。
 だからなつき。安易な名前。
 今の時代は、小さく生んで大きく育てる、が主流だが、私の生まれがそれはそれは大きかったから、お母さんは将来私はバレーボール選手になるのではと期待していたらしい。
 残念ながら、私にそんな運動神経はなかったし、そもそも私の身長は百五十五でとまってしまった。
 私は何者にもなれずに、平均的な女の子に育った。お母さんはそれでも私をいつくしんだ。
 背が高くなくてもなつきはなつきだもの。
「お母さんは、私になにを期待してるの」
「別に。健康ならなんでもいいよ」
 そう言ってくれるようになるまでだいぶかかった。私は十七歳の時、体重が三十キロまで減ったことがあった。
 それは拒食症と呼ばれる病気で、その年に、日本では安楽死を合法化する法律が定められた。
 私はその日も普通に過ごして、テレビ越しにその施行を他人事の様に眺めていた。
 芸能人やコメンテーターが命とはなにかを力説する。そんなもの、誰にもわかるわけないと思った。私は私の命を守るので精いっぱいだ。人の命なんて、これっぽっちも興味がない。

 高校に上がって、私は勉強についていくことができなくなった。特に二年に進級してからの成績の降下は著しく、私は私を保てなくなっていた。
 お母さんの期待もあったし、お父さんの望みでもあったその高校は、私には少しレベルが高すぎた。受験で合格できたのは、ひとえに運だと私は思っている。
 ヤマカンなんて良くないし、実力以上の高校に進学したら、苦労するのは目に見えていたのに。
 私はどうしても、そこに通いたかった。姉と同じ高校だ。県内で一番偏差値が高い。お姉ちゃんはそこを無事に卒業して、この春めでたく大学生になった。大学も県内の国立で、全国的にも有名だった。
 二年後の私はまた、両親の期待に応えるべく、お姉ちゃんと同じ大学を受験するのだと思っていた。
 生まれたとき、三千七百もあった体重は、そのとき五十四キロになっていた。BMIだと二十二・四七。つまり平均的な体重。BMIは二十二が一番健康に生きることができるとされている。
 私は高校二年に進級して、体重が四キロ増えた。中学までは五十で増えも減りもしなかったのに、高校の勉強についていけなくなった私は、そのストレスを食事に向けた。
 ばくばく、もぐもぐ。
 食べ物を飲み込むと、胸がスッとした。血糖値が上がると多幸感に包まれて、私は勉強のできない自分を忘れられた。
 家に帰ってきたらおにぎりを握って食べて、夕食も普通に食べる。夜は勉強しながら夜食を食べて、朝はお母さんが作った目玉焼きとご飯を、昼はお母さん手製のお弁当を。
 そうやって高校一年の私は勉強のストレスを食べものに向けた。
 結果、私の体重が増えていって、私は風呂上りに体重計に乗って戦慄した。ぴぴ、と電子音が私を笑った。オマエが食べたものたちは、確実に体に取り込まれている。
 ふよふよのお腹を揉んで絶望する。太もももむっちりしてきた。
「お母さん、私太ったから、ご飯減らして」
「太った? 全然そうは見えないけど」
「でも、体重増えたし」
「成長期なんだから、少しくらい増えても大丈夫よ」
 そうはいっても、スカートを短くするのがだいぶ恥ずかしくなってきた。足太いね、なんてクラスの男子に言われた日には、私は学校に行けなくなるだろう。クラスの男子は、体育の終わりにくだらない話をする。
 女子は更衣室で着替えるから、女子が居ない教室で、男子たちはあの子が可愛い、この子はダメだと、女の子を見定めていた。
 少しだけ食べる量を減らして、ちょっとだけ体重を落とそう。最初はそんな、軽い気持ちからだった。それに、高一であった悩みも相まって、私は高二の春ダイエットを始めるに至った。
 私はまず、朝の白米を抜いた。
 最初はすごく辛かった。おかずを食べたら白米が欲しくなるのは、今までの習慣で、私の中の食文化とも言えた。
けれど私は、血涙を流しながら白米の誘惑に耐えた。
 すると体重が一気に三キロ減った。一週間で三キロだ。あと一キロ戻せば私のベスト体重だ。だが、そこからが、長い。
 朝ごはんは目玉焼きとウィンナー、それからお母さんが手抜きで買ってくる刻んであるとんかつ用のキャベツだけ。お昼はいつも通りお母さんのお手製のお弁当。
 夜は少し節制して、夕食前のおにぎりをやめたし、夜食も夜九時以降は食べないようにした。くぅ、といつもお腹が鳴いていた。
 もしもこの時期に私の食生活が普通だったら、私はバレー選手みたいに高身長になったのだろうか。
 私はひたすら耐えた。また体重が落ち始めるはずだ。停滞期はせいぜい三か月と言われている。
 ならば私は、耐えるまでだ。私は白米を我慢した。朝の白米、昼の白米、夜の白米をすべてやめた。
 なのに、ここ三か月体重の増減が一切ない。白米は相変わらず我慢しているのに。
「お母さん、お弁当はもう作らないくていいから」
「え。買うの?」
「まあ、そうだね。買う」
「じゃあ、お小遣い増やさなきゃね」
 嘘をついた。
 つくつもりはなかったけれど、別に最終的に買い食いに戻すつもりだったからさして気にも留めなかった。
 お弁当の白米は、もうずっとゴミ箱に捨てている。
 ごめんね、お母さんの愛情。食べたら太るから、白米だけは捨てても許して。
 私はお昼ご飯を食べなくなった。クラスの友人の真子が私を心配してくれた。
「最近げっそりしてるけど。家ではちゃんと食べてるんだよね?」
「うそ、私痩せた?」
「痩せたって言うか、こけた」
 真子は私なんかと違って足が細くて、なのにスカートを短くしない。勉強も私よりできるし、顔だってかわいい。私なんかとなんで仲良くしてくれているのか、私にはまるで分らなかった。
 正直に言えば不釣り合い、相川は不破の引き立て役だよな、とはクラスの男子たちが話していたことである。むろん、相川が私で不破が真子だ。
 真子は私をたびたび心配してくれたし、私はそれを適当に流した。ギシギシと髪の毛がきしんできた。
 栄養が不足して肌がガサガサだ。でも、別に気にしない。食べれば直ぐに戻るし、今は健康体重に戻すのが先だ。
「やった……? 四十九?」
 昼ご飯を食べなくなって、一か月で二キロの減量に成功した。私は体重計の上でガッツポーズをする。
 このままいけば、もっと体重が落とせるのでは? そう思うと、昼ご飯を食べる気にはなれなかった。
 白米は完全に体から抜けて、私は朝のおかずと夜のおかずで生き延びていた。
「なつき、やっぱりお昼ご飯食べないのはよくないよ」
「でも、体は軽いしいいことばかりだよ」
「だからって、もう三か月もおひるごはん抜いてるじゃない」
 三か月たって、私の体重は順調に減っていっていた。今では四十五キロにまで減って、スカートをうんと短くしても恥ずかしくなくなった。
 真子よりも細いんじゃないかな、と時折相子の足を凝視する。うん、やっぱり私、いい感じ。
「相川さんって子は、どこですか?」
「あ、私ですけど」
 ある朝、朝礼の前の時間に養護教諭が私のクラスに来て、私は保健室に連れていかれた。
 保健室の先生は女性で、看護師の資格を持っている。いつも保健室でにこにこしていて、人当たりがいい先生だった。
「相川さん。生理は来てる?」
「はい?」
「最後に来たのはいつ?」
 なんでそんなことを聞くのかわからず、私はいぶかし気に保健室の先生を見た。生理はたしか、二か月来てない。
「ごめんね。最近急に痩せたから、具合悪いのかなって心配になって」
「大丈夫です。生理は来てるし」
 目をつけられたくなくて、うそをついた。私は悪い子だ。
「でも、お昼ご飯、食べてないんだって?」
 こんなこと、いち保健室の教師が知るはずがない。誰かが告げ口した、となれば、必然的にそれは真子以外思い当たらなかった。私は教室に戻るなり真子に詰め寄った。
「真子、保健室の先生に私のこと話した?」
「や……だって、最近痩せすぎだよ。心配だったの」
「心配? 嫉妬じゃなくて?」
「嫉妬なんて! なつきがただ、心配で……」
 真子は気弱な女の子だから、その日以来、私の体重に言及することはなくなった。
 同時に、いつの間にか私と真子の間に溝ができて、私はいつしかクラスで誰とも話さなくなった。
 女子たちが私を見て笑っている。くすくす、ひそひそ。
「なんか、きもいよね」
「うん、やせすぎ」
 そんな嫉妬、どうでもいい。私はきれいになりたい。細い足を見せびらかすように、短いスカートを翻した。

 昼ご飯を抜いてから体重がみるみる減るのが楽しくて、私は夜のご飯も食べるのをやめた。
 毎日、明日が来るのが楽しみだった。明日の朝の体重は、どれだけ減っているだろう。
 ワクワク、そわそわ。
「なつき。お昼ご飯は食べてるんだよね?」
「だから、大丈夫だって。お昼にたくさん食べるから、夜が入らなくなっただけ」
 朝ご飯はおかずだけ、昼ご飯は抜き、それで、夜も食べるのをやめた。簡単に体重が落ちていく。私の無駄な脂肪がそぎ落とされて、どんどんどんどんきれいになっていく。
 私はそれがうれしかった。うれしかっただけだ、ただ単純に。
 それでも私は、体重が四十を切った時点で、自分が拒食症であることを自覚した。
「なんで……」
 体重計に乗って、なんとか三十キロ台にはならないようにと朝ごはんだけはちゃんと食べていたのに、体重減少は止まらなかった。どんどん、どんどん、私の体重が減っていく。心も一緒に壊れていく。
 体重が減るにつれて、体力もなくなっていく。私は怖かった。このまま体重が落ちれば、死ぬのは目に見えていた。
 死ぬ? 私が? なんで、なにも悪いことしてないのに。ただ私は、体重を少しだけ落として健康体になって、そうやって短いスカートをひらひらさせたいだけだった。
 体重が三十五キロを切って、私は寝たきりになった。だるくて起き上がれない。日中も夜も関係なく、私は布団に横になった。
 なのに太るのが怖くて、毎日筋トレは欠かさなかった。二階の私の部屋がきしんでも、お母さんはなにも言わなかった。
「なつき」
 お母さんが、心配して私の部屋に訪ねてくる。
 私は相変わらず寝たきりに見えた。本当は、太るのが怖くて毎日なにかしら運動をしていた。
 お母さんは毎日仕事に行って、私の異変に気づくのが遅かった。お母さんがこけた私の頬をなぜて涙ぐんだ。
 私は自分の中で賭けをすることにした。
 私はきっと、このまま死ぬ運命なのだ。だけれどもし、お母さんが私の異変に気付いて、私の病気を治してくれたら。そしたら私は、もう少しだけ生きていこうと思っていた。
 くしくもそのころ、安楽死を認める法が合法化したとたんに申し込みが殺到していた。
 私には遠い世界の話を、栄養のいきわたらない体で聞き流した。

 お母さんは、私のために仕事を辞めた。
 私が高校に入学したら、仕事に復帰するのが夢だったとよく話を聞いていた。
 だから私は、びっくりした。
 お母さんに命をゆだねておきながら、私は母親の強さというものを甘く見ていたのだ。お母さんはなんらいつもと変わらなった。
 中年太りの背中、いつも綺麗な髪の毛、毎朝のご飯作り。
「なつき。今度の日曜、お父さん映画に連れてってくれるって」
「私はいかない。お母さんとお姉ちゃんと、和樹だけで行ってきなよ」
 私が拒食症だというのは、家族のだれもが知っていた。
私だけがつい最近気づいて、学校に行けなくなってもう半年がたっていた。
 なんとか高校二年生には進学できたけれど、この先私はどうなってしまうのだろう。いまだに私はご飯が食べられない。
 怖いのだ。恐怖、生存本能による恐怖。太ることは私の存在の否定だ。
 あとで知ることになるが、拒食症にかかる患者は、まじめな人間が多いらしい。私はきっとそれに当てはまらないが、つまりはこうだ。
 なにかに挫折した人間が、ダイエットという成功体験を得ることで、自分には価値があると思い込んでしまう。
 ダイエットは人間の本能に逆らう行為だ。人間の三大欲求のひとつ食欲を抑え込み、ダイエットに成功する人間はそう多くはない。
 その少数の成功者なのだと痩せている自分に価値を見出せば、人間がどうなるのかなんて想像にたやすい。
 もっともっと痩せることを望んでしまう。
 やせている自分にこそ価値がある。少しでも食べれば太ることに恐怖を抱き、一日中食べ物のこと、体重のことばかり考えてしまう。
 そうやって、食べないと死んでしまうことはわかっているのに、水すら口にするのが怖くなる。
 安楽死なんて合法化するくらいなら、みんな拒食症になればいいんじゃないの、と私は思った。
 餓死はもっとも簡単に死ねる方法だっていうのに、人間は百万円も支払って、安楽に死ぬことばかりを考えている。
 馬鹿らしい。どうせ死ぬのだったら周りに迷惑を掛けずに、人知れず死んでいけばいい。
 安楽死をするには現状、三親等以内に許可を得なければならないのだから、あの子は安楽死を選んだのだと、生涯家族は親戚に白い眼を向けられるのだろう。
 だったら、私の様になにも食べず、孤独に死んでいくことこが、安楽死に変わる正当な死なのではないのだろうか。あいにく、私は賭けに負けて、生きる道を選んだけれど。
 そうはいっても、私は相も変わらずご飯が食べられなかった。お母さんは、ひとりだけ映画に行かずに家に残ってくれた。
「これ、珍しいでしょ」
 お母さんは、私がご飯を残しても、捨てても、必ず私のためにご飯を用意してくれる。うれしくて、申し訳ない。
 今日は家族で映画に行こうって話していて、お姉ちゃんも和樹も楽しみにしていたのに、お母さんを私が独り占めしてとても罪悪感がひどかった。
 お母さんはみんなと一緒に出掛けたと思ったら、ひとりだけ帰ってきて、手にはいつものスーパーの袋がぶら下がっていた。
 そのスーパーのお魚が私はすごく好きだった。季節の魚が豊富にそろっていて、新鮮でおいしい。透明な目の魚は鮮度がいい証だ。
 そこのスーパーで、お母さんが買ってきたのは鮎だった。初夏に差し掛かったとはいえ、スーパーに鮎が並ぶにはまだだいぶ早い。
 お母さんはもしかすると、ほうぼうのスーパーを回って、わざわざ私のために鮎を探してくれたのかもしれない。
「塩焼きにするね」
 証拠に、鮎は一尾しか買ってこなかった。
 お母さんが台所にたつ。ひれに塩を厚く塗って、魚焼きグリルに鮎を入れる。スイカの香りがした。
「お母さん、私のことはいいから、映画に行きなよ」
 そうはいっても、私はお母さんを独り占めできることがうれしかった。お母さんは魚をひっくり返しながら、
「いいの。お母さん、アクション映画は嫌いなのよ。怖くて」
「わかる。私は恋愛ものが好き」
「そう。じゃあ、今度お母さんとふたりで、見に行こうか」
 見に行くことなんてできないってわかっているはずだ。
 私はもう、体重が三十二しかなくて、立ち上がると必ず立ち眩みを起こす。私の立ち眩みは時間差で来るから、私自身も予測がつかない。
 トイレに立ち上がって十歩歩いたところで砂嵐が起こって目の前が真っ白になって、慌ててしゃがんで血が巡るのを待つ。
 耐えろ、耐えろ、と頭の中で祈ることしかできない。体に力が入らなくて、倒れてしまうこともままあった。
 けれど、私は運がいいから、倒れるときに周りに人がいたことはない。たった一度をのぞいては。
 その日は日曜日で、私の体重はまだ三十五あった。お姉ちゃんが居間でDVDを見ていて、私は水を飲みに居間に降りてきた。
「なつき。ご飯食べる?」
「いらない」
 お姉ちゃんは私を心配してくれるけど、ご飯を無理矢理食べさせようとはしない。私はその日も適当にお姉ちゃんを流し見て、その隣を通り過ぎる。
 間が悪かった。今日の立ち眩みはだいぶ時間がたってから起きて、私はお姉ちゃんのいる真ん前でしゃがみ込んだ。
「なつき!?」
「だいじょぶ、すぐおさまる」
 しかし、運が悪いその日の立ち眩みは思ったより重く、私の体が後ろに倒れる。受け身なんて当然取れない、私の頭が床にゴチンと激突する。
 その音があまりにも大きかったらしく、お姉ちゃんが涙目でお母さんに電話していた。
「お母さん! 大変なの! なつきが倒れた! しかも頭打った!」
 その件で、お母さんは仕事を辞める決心をしたのだと聞いている。もっと早くにやめるべきだったね、お母さんが鮎を皿に乗せながら鼻をすすった。ほかほかと湯気をたてる鮎は、うねって口が開いていた。
「焼き立て。食べる?」
「……うん」
 最近の私の食事は、朝ごはんに味噌汁一杯、昼には八枚切りのパン一枚と、おやつに低脂肪牛乳。夜はなし。
 だから、別に、まったくなにも食べないわけではないのだが、私は決まったもの以外を食べるのが怖い。イレギュラーなものを食べて体重が増えようものならば、私は部屋で、腹筋背筋スクワットを、それぞれ百回ずつ行う。
 毎日朝昼晩に体重計に乗って、少しでも体重が増えると自分に運動を課す。私は死ぬのが怖いくせに、なにも食べられない。こうやってたまにお母さんが珍しいものを買ってくれた時は、申し訳ないから少しだけは食べるけれど、そのあとは、食べたカロリー以上に運動をして、結局私の体重は増えないままだ。

 八十田(はとだ)先生という理科の先生が、私は好きだった。
 八十田先生は私のことをそれはかわいがってくれて、だから私が学校を休みがちになって、先生は定期的にお母さんに電話をくれていたようだった。
 お母さんは誰かと電話する時、自分の部屋にこもるから、電話の相手が誰なのか、私はずっと知らなかった。
「事情を話したら、高認を受けたら単位になるって教えてくれたの」
「高認?」
「うん。高校卒業程度認定試験。国語とか数学の試験に合格すると、単位になるんだって。もちろん、出席日数が足りてることは条件になるんだけど」
 夏休みになって、お母さんが私にそんなことを教えてくれた。試験は年二回、八月と十一月。
 試験を受けたとして、今年の出席はどうあがいても一か月くらいにしかなっていない。診断書を出せば出席日数も少しは融通が効くらしいけれど、私は診断書なんて書いて欲しくなかった。
「八十田先生が、今度うちに来たいって言ってるんだけど」
「やだよ、私は会わない」
「でも、すごく心配してて。ほかの先生はともかく、八十田先生は本当になつきのこと心配してるよ」
 不登校の生徒の家庭訪問なんて、一昔前にほろんだと思っていた。時間外の教師の勤務に厳しい声が上がったのは、そう昔の話ではない。
 私は先生が好きだからこそ断りたかったのだが、それでも八十田先生は折れなかった。結局私があきらめて、八十田先生は私の家に来たのだった。お母さんが普段は散らかっている居間だけを綺麗に片した。
 ものをあっちからこっちに移動しただけだから、片付けとは言えないけれど。
「相川さん、久しぶりですね」
「あ、はい」
「これ、授業の課題」
 六月も中旬になっていた。
 担任の教師は私に課題を届けることすらしなかったのに、八十田先生は教師のかがみなのではないかと思う。
 私を見ても顔色一つ変えなかった。
 本当は、痩せすぎて気持ち悪いと思っているんでしょう? 
 疑心暗鬼から笑顔が不細工に引きつった。
「頑張りやさんだから、疲れちゃったのかな」
「いえ。ただの拒食症です」
 私はきっぱりと八十田先生に告げた。
 八十田先生は笑っている。
 私を嘲笑っている訳ではなく、その顔には慈愛が見て取れた。私の顔の緊張がとけて、自然な笑顔を向けられたと思う。
「そう。まじめだからね、相川さんは」
「はあ」
 その意味が、私にはわからなかった。
 あとで聞いた話、八十田先生は私が拒食症であることを知ってから、様々な文献を読んだのだそうだ。そのうえで、お母さんにアドバイスもしていたらしい。
 例えば、拒食症の子は幼児退行が起こるから、お母さんの役割が重要になるとか、非日常を作って、食べるきっかけを作るといいとか。
 お母さんが私のために映画に行かなかったのも、鮎を買ってきてくれたのも、きっと八十田先生のアドバイスだ。
大人は嫌い。嘘をつくから。
 でも私は、八十田先生だけは嫌いにはなれなかった。
 八十田先生は世間話をしただけで、そのまま私の家を出ていった。

 拒食症を自覚して数ヶ月たって、夏が始まろうとしていた、七月の頭。
 じーわじーわと鳴く蝉は、等しく命懸けで地面から這い出た生命そのものだった。
 私はお母さんに誘われて、一緒にスーパーに買い物に来ていた。本当は家で寝ていたかったけれど、最近は寝てばかりでは太るのではと恐怖がわいて、お母さんにくっついて歩き回っている。
 まるで金魚のフンみたいに、ぴったりくっついて離れない。これが幼児退行と言うらしいけれど、それを知るのはまだだいぶ先の話になる。
 訪れたスーパーは家から一番近くて、値段も安く設定されている。
 その、出先のスーパーにはパン屋が入っていて、私はそこに、なんとなく入っていった。
 お店の名前が理由かもしれない。
ベーカリー理恵。理恵子ちゃんは中学の同級生だった。
 今でも覚えている、小麦の香りとバターの香り。私は、なにげなく、そのパン屋の試食を手に取った。
 たった一口だ、これなら太ることもないだろう。なんでそう思ったのか、私にもわからない。私はそのアンパンのかけらを、口に入れた。甘い、あまい、生き返る、染みわたる。
 あんことバターと小麦が、私の飢えを満たしていく。ずっと空腹でたまらなかった腹が、アンパン一口に癒されていく。こんこんと湧く湧き水のように、そのアンパンは私の細胞を潤した。
「あら、いいわね、お母さんも食べよう」
 私の後をついてきていたお母さんが、アンパンの試食に手を伸ばした。なんの迷いもなくアンパンの欠片を手に取って、口に入れて咀嚼する。甘いアンパンがお母さんを笑顔にする。
 私も笑って、久しぶりに私たちの心は穏やかだった。
「美味しい。買ってく?」
 私はフルフルと首を横に振った。お母さんは「そう」とだけ言って、スーパーの方へと戻っていった。
私はレジの店員さんに頭を下げてから、パン屋さんをあとにした。
 その日からだ。お母さんは毎日、買い物に出かけるようになった。その時は、必ず私を誘ってくる。
 お母さんの一世一代の賭けだったのだと思う。本当は、お母さんは私に隠れて心療内科に通っていて、私の体重や食事量を医者に話していることを知っている。そして、お医者さまに一刻も早く入院させろと言われていることだって。
 けれどお母さんは、私を入院させようとはしなかった。拒食症の入院生活が過酷を極めることを、知っていたからだ。
 入院して食事を拒めば、患者は身体拘束されて、胃瘻を流されて体重が安定するまで動けなくなる。いまだ、精神科の治療なんて非人道的なもので、お母さんはそれを知っているからこそ、私を絶対に入院させなかった。
「見て、試食あるよ」
 お母さんがソーセージの試食を指さした。私はフルフルと首を横に振った。
「みて、乳酸飲料の試飲だって」
 やはり私は、それを飲まなかった。
 何回かそんなやり取りを通じて、どうやら私は、あのスーパーのパン屋のアンパンだけは試食に手を伸ばせることが分かっていった。私自身もそれがなんでかなのかはわからない。
お母さんも私にその理由を聞かなかったし、聞かれたところで答えられなかっただろう。
 お母さんは、私をそのスーパーに毎日連れて行った。私とお母さんは、そのスーパーの試食のアンパンを食べるだけ食べて、なにも買わずに帰っていった。
 お母さんと私が、そのパン屋で疎まれていることはすぐに分かった。
 試食だけ食べてなにも買わない厚かましい親子が現れると、いつしかそのパン屋さんは、私たちを見るなり試食のトレーを下げるようになった。それでもお母さんは、なにも言わなかった。
 深夜に、お父さんとお母さんが言い争っていたことを、私は知っている。
「そんなみっともないことやめろ!」
「だって! あの子の命がそれでつながるなら、みっともないもなにもないでしょう!」
「だから! 入院させろ! 今すぐに!」
 お父さんは世間体を気にして、私の試食をやめさせたがった。けれどお母さんは、世間体なんて気にも留めない。ただただ、我が子がかわいい。パン屋に疎まれようが、世間に後ろ指さされようが。
 お母さんは懲りずに、私をスーパーのパン屋に連れて行ってくれた。