壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 リヒトとお出かけをした日の夜。

 ガチャリ、っとアパートのドアを開けて部屋に入る。
 
 鼻を突くのは、アルコールとホコリが混ざった酸っぱい空気。

 狭いリビングキッチンのテーブルに突っ伏してウトウトしていた衣琉華が、玲瑠の気配に気づいてのそりと体を起こした。眉をつり上げて、刃物のような視線を向ける。

「こんな時間までどこをフラフラ歩き回ってたのよ。非行に走るのは勘弁してちょうだいよ……まったく、連絡も無視しやがって」

 酔った口で、矢継ぎ早に投げつけられる刺々しい責めの言葉。

 LEDの白い光の下で、衣琉華の不機嫌な顔を見て、空間全体が歪んでいくようなめまいが……起きなかった。

 いつもなら、ガラスを爪で引っかいたような声を聞くだけで、手足の先から血の気が引いて全身が強張っていた。

 でも、今の玲瑠の胸には、どんな泥水をぶっかけられても一瞬で蒸発させてしまうような、小さく熱い太陽が灯っていた。

 広場のベンチで、リヒトが注いでくれた、眼差しと、言葉と、撫でる手が、玲瑠の中で心地よいメロディみたいにリピートしている。

「ゴメンなさい。明日から心を改めて勉強します」

 すんなりと頭を下げ、心に波風ひとつ立てず、玲瑠は衣琉華の脇を通り抜けた。

 怯えて肩を縮こませることもなければ、機嫌を取ろうと必死に声を張ることもしない。ごくごく自然体で、平然とキッチンを横切っていく。

 その肩透かしな対応に拍子を抜かれたのか、衣琉華は開いた口が塞がらない様子で、去っていく娘の背中をぽかーんと見送った。

 自室のドアを静かに閉める。瞬間、抑え込んでいた感情が一気に爆発した。

「ふふっ! うふふっ!」

 暗い部屋で、口元を両手で覆い、薄気味悪い笑い声を押さえる。
 ベッドへとダイブし、やわらかい枕に顔を埋めた。

 目を閉じると、今日一日リヒトと刻んだ宝物のような時間がまぶたの裏に蘇る。

 肩を並べて歩いた繁華街。夢中でカップに詰め込んだマスキングテープ。カフェで食べたスパゲッティ。そして……広場でもらったリヒトの温もり。

 思い出せば思い出すほど、胸がギュンギュンっとしめつけられる。顔をさらに枕に押しつけた。

 鏡を見なくても、顔が真っ赤になっているのがわかる。耳の奥で、心臓がうるさいぐらいハイテンポで鼓動を刻んでいた。

 インターネットの海を泳ぎ回ってきた玲瑠には、この体中で荒れ狂う感情の正体が、嫌というほど理解できてしまう。

 人生を救ってくれた感謝でもなく、圧倒的な画力を持つイラストレーターに対するファンとしての憧れでもない。

 ひとりの女性として、ひとりの男性のリヒトの隣にいたい。

「私、リヒト先生のことが、好きだ! キャアアアア!」

 その事実を言葉にした瞬間、全身の血液が沸騰した。

 今まで生きてきて、同級生の男子にちょっとした淡い感情を抱いたことはあったかもしれない。
 だけど、こんなにも胸が痛くて、愛おしくて、相手のことだけで頭がいっぱいになるような感覚は生まれて初めてだった。

 リヒトの体にふれたい。あのかわいい笑顔も、困ったように眉を寄せる繊細な表情も、全部玲瑠だけのものにしたい。

 甘く切ない想いが、溢れ出して止まらない。

 しかし、ふわふわと浮き上がる心にひやりと冷たい汗が伝った。

 脳裏をよぎったのは、SNSのタイムラインや匿名掲示板、Q&Aサイトで何度も目にしてきた、年齢差恋愛に対する冷淡な書き込みの数々。

『女子高生に手を出す大人は全員アウトでしょ』
『高校生が大人に抱く好きなんて、ただの勘違い』
『未成年に思わせぶりな態度取る男なんて、下心か犯罪者予備軍』
『家庭環境に問題ある子って、優しい大人にコロッと落ちやすいよね』

 鋭い言葉のナイフが玲瑠の胸を容赦なくえぐっていく。

 やっぱり、十歳も年が離れた、それも女子高生が大人の男性に恋をするなんて、世間から見たら異常なことなのだろうか。

(ううん、違う! 私はそんなんじゃない……!)

 長い髪がバサバサと乱れるほど頭を強く振った。

 今まではインターネットの書き込みを真に受けては「どうせ自分なんて」っと人生をあきらめてきた。
 でも、この気持ちだけは絶対に譲れない。画面の向こうの誰かにこの気持ちを決められてたまるものか。この気持ちもまぎれもなく、玲瑠自身の心から生まれた本物の気持ちなのだ、っと、強く強く心に言い聞かせる。

(でも……今好きって伝えたら、リヒト先生を困らせちゃうのは事実だよね)

 ふと冷静になり、胸がすくんだ。

 もし今、感情のままに幼く無力な女子高生が想いをぶつけたら、リヒトを困惑させてしまうのは目に見えている。

 断られた場合、最悪距離を置かれてしまうかもしれない。

 あのアトリエで寄り添い合い、同じ絵を見つめて語り合うかけがえのない時間まで壊れてしまうのは絶対に避けたかった。

 でも、リヒトには過去につき合っていた恋人がいた。SNSにはたくさんのファンがいて、玲瑠が知らない大人の素敵な女性たちがリヒトの周りにはたくさんいるはずだ。

 さらに、リヒトには「可愛い教え子」「守るべき子供」としてしか見られていない焦燥感が押し寄せ、明日にでも告白してしまいたい衝動に駆られる。

(焦っちゃダメ!)

 ベッドの上でガバッと起き上がった。

 今は親の支配下でしか生きられず、将来に確信が持てない弱い高校二年生だ。

 大人の世界を生きるリヒトの隣に、対等に立つ資格なんて持ってない。

 この恋心は胸の奥深く隠しておこうと決めた。

 玲瑠はトートバッグからスマートフォンを取り出し、カレンダーアプリを開いて画面を勢いよくスクロールしていく。

 一年半後の「三月三十一日」の日付を力強く指先でタッチした。

『リヒト先生に告白する』

 一文字ずつ想いを込めてテキストを打ち込む。

(あと一年半!)

 単位をひとつ残らず積み重ねて、無事に高校の卒業証書を手にしたとき。世間から見ても子供の枠組みを抜け出して、ひとりの大人として自分の足で立ったとき。

 そのときに、隠し続けたこの気持ちを全部ぶつける。

 それまでに、リヒトの隣に胸を張って並べるような素敵な女性になってみせる。

(早く大人になりたいな……)

 昨日までは先細りしていく人生の悲惨なネタバレに絶望して、呼吸を繰り返して生きているだけだった玲瑠。

 それが今では、リヒトとともに新しい色を重ねていきたいと思っている。

 高校を卒業したあとの未来を想像するだけで、見ている景色が色鮮やかになっていく。

「ふふっ……絶対にリヒト先生に似合う素敵な大人になってやるんだから」

 夜の静寂に包まれた小さな自室で、スマートフォンをギュっと握りしめる玲瑠の笑顔は絶えなかった。