壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 *** 2 ***

 文房具のイベント会場を意気揚々と周り、デパートをあとにして都会の文房具ショップを何軒か渡り歩いていると、いつの間にか太陽はすっかり沈んでいた。

 空の端にオレンジ色が微かに見えるだけで、ほとんどが深い青色に覆われている

 ビル街を行き交う人々は、家路につく緩んだ足取りや、これから華やかな夜の街へと繰り出すそわそわとした気配へと、徐々に表情を変えていく。

 そして、玲瑠にとって特別でかけがえのない記念日もまた、駅という終わりに向かってカウントダウンが始まっていた。

(リヒト先生ともっと一緒にいたいな……)

 玲瑠の胸に一足早い秋風が吹き抜ける。

 どうして楽しい時間は光の速さのように過ぎ去ってしまうのだろう。社会の構造だけじゃなく、脳の仕組みまでも理不尽だ。

 そっとリヒトの横顔を見上げた。街灯の光を浴びて、横顔の輪郭が幻想的に浮かび上がっている。
 視線に気づいたのか、リヒトは不意に顔を下げて優しく微笑んだ。

「そろそろ帰ろうか。大人が夜遅くまで女子高生を連れまわしてたら、俺が捕まっちまうからな」
「そうですね……でも、私は通報なんかしませんよ」
「ハハッ、レイルちゃんが許してくれても、世間が許してくれないんだよ」

 リヒトは笑顔を絶やさないが、玲瑠の顔に差す影は濃くなっていく。

(ああ……もう、終わっちゃうんだ……)

 魔法にかけられた夢のような時間が終わりに近づいている。
 このまま駅へ向かい、電車に乗ってしまえば、あの冷え切った我が家が待っている。
 その真っ黒な現実に、視線が安物の靴先へと落ちていく。

「……あ、でも」

 あからさまに落ち込んだ玲瑠の空気を察したのか、リヒトはピタリと足を止める。
 玲瑠は慌てて靴底に力を込めてブレーキをかける。

「帰る前に、今日一日画材を買う手伝いをしてくれたお礼に、ご飯をご馳走させてもらってもいいか? お腹も空いただろ? どこかで食べてから帰らないか?」
「えっ!? いいんですか!?」
「もちろんだ」」

 思いがけない提案に、玲瑠の顔が一瞬でネオンより明るく華やいだ。

 まだ一緒にいられる。ほんの少しだけ、この夢の時間を楽しめる。

 玲瑠は跳び上がりたい体を必死に抑え込んで、ルンルンっとリヒトについていく。

 リヒトに連れられてやってきたのは、大通りから少し外れた路地に静かに佇むカフェだった。カランコロンカランとベルが鳴る扉を開ける。

 こげ茶色の木材で内装された店内には、軽快に流れるジャズの音楽と、油とガーリックの香ばしい匂いが漂っていた。

 あちこちに飾られたアンティークな家具や、温かな光を放つランプシェード。どこを切り取っても、SNSに写真を上げたら映えそうな空間だ。

 リヒトは少し懐かしそうに店内を見渡しながら、奥にある小ぶりな丸いテーブルへと玲瑠を案内して、向かい合わせで腰を下ろした。

「ここは昔つき合ってたカノジョが好きだった店なんだ。雰囲気もよくて、料理もかなり美味しいんだ」
「そっ、そうなんですね……」

 リヒトと一緒にご飯を食べられる嬉しさから一転、サラリと述べた言葉が毒のようにジワジワと心に広がっていく。

 玲瑠よりもずっと前に、リヒトの隣を並んで歩き、この落ち着いた空間で向かい合って笑っていた大人の女性が存在するという事実。

 リヒトにとってはアルバムの一ページに過ぎない昔話だとしても、玲瑠にとっては耐えがたい嫉妬にまみれた話だった。

(そうだよね……私はリヒト先生にとって、特別な女の子じゃないんだよね)

 必死に大人ぶっていた幼さが、一瞬にして暴かれたような惨めさと悲しみが込み上げてくる。

 マステ絵を教えてもらえる立場になっても、リヒトを一生懸命励ましても、一緒に画材を買いにいく間柄になっても、リヒトにはただの子供としてしか思われていない。

 本当に特別な女性なら、わざわざ元カノの話なんてするはずがない。

 容赦ない現実を叩きつけられた気がした。

「ここの店はボンゴレビアンコがおススメなんだ」
「それじゃあ私もそれでお願いします!」
「わかった、注文するね」

 リヒトがどう思っているかなんてわからない。
 でも今、この瞬間というリヒトの時間を独り占めできているのは、まぎれもない目の前にいる玲瑠なのだ。ここに過去の女なんて存在しない。

 せっかくリヒトは時間を使ってくれているのだ、暗い顔をしていたら失礼だ。
 胸のモヤモヤを強引に押し込め、料理が届くまでの時間、今日の出来事について語り合った。

 しばらくすると、白い湯気をもわっと上げる大きな皿がテーブルへと運ばれてきた。
 オリーブオイルの艶やかな光沢をまとったスパゲッティが、キレイならせん状になって盛りつけられている。その周囲を飾るように、ぷっくりとしたあさりがゴロゴロと贅沢に散りばめられていた。

 白ワインとコンソメが混ざったコクのある芳醇な香り、そしてガーリックと香ばしい香りが胃袋を猛烈に刺激する。

「いただきます」
「いただきます!」

 玲瑠はフォークを取り、くるくると麺を巻き取って口へと運んだ。
 口に含んだ瞬間、白ワインの上品なコクと、コンソメの強いコクが一気に爆発し、鼻からふわりと抜けていった。
 アルデンテの麺は絶妙な弾力で、噛みしめるたびにしっかりと絡みついたソースが舌の上で踊り出す。
 あさりは高級なものを使っているのか、身がプリプリとしていて、凝縮された海の出汁が溢れ出してきた。

「ボンゴレビアンコ初めて食べたんですけど、すごくおいしいです!」
「それはよかった」

 リヒト嬉しそうに目を細め、自身のスパゲッティを食べ進めていく。

 憧れの人と向かい合い、オシャレなカフェで絶品のスパゲッティを食べながら、他愛もない会話を交わす時間。

 窓の外の通りを行き交う人々みたいに、玲瑠も今だけは世間一般の普通の女の子になれているかのような、甘い錯覚に包まれる。

――ブッ、ブッ。

 冷たい現実世界に引き戻される振動音。

 トートバッグの底で、スマートフォンが不気味に震えた。
 玲瑠の華奢な肩もビクッと震える。

 人と食事をしている最中にスマホを開くなんてマナー違反だ。わかっていても、底知れぬ恐怖から、スマホを取り出して電源を入れた。

 画面に浮かんでいたのは、衣琉華からのポップアップ通知。
 恐る恐るメッセージアプリを開く。

『何時に帰ってくるの? 心配だから早く帰りなさい』

 一見するとテンプレートな親心の言葉。だけどその裏にあるのは、玲瑠を支配したい攻撃性を孕んでいる。

 その一文を見た瞬間、血の気がサーっと引いていった。

 ほんの数十秒前まで体を満たしていた普通の幸福感が、一瞬にして冷え切った氷へと変わる。

 玲瑠は思い知らされる。親の過干渉と不機嫌の呪縛から逃れられない、普通になれない女の子だと。

「……レイルちゃん? どうしたの?」

 スマホを握りしめたまま固まってしまっている玲瑠の異変に、リヒトがすぐさま気づいた。

「あ……いえ、なんでもないです!」

 リヒトに心配させないように、引きつる唇を必死に動かし、感情を押し殺した作り笑いを貼りつけようとした。

「そうか……ご飯食べ終わったら時間ある? もうひとつ寄りたい所があるんだ」
「えっ! いいんですか! よろしくお願いします」
「ありがと、こんな遅い時間までつき合ってくれて」
「いえ、こちらこそありがとうございます!」

 明るく声を張り上げてはみるものの、店に入った瞬間のあの浮き立つような幸せは二度と戻ってこなかった。玲瑠は途端に砂のような味しかしなくなったパスタを、ただ機械的に口へと運んだ。

◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

 カフェを出たふたりが向かったのは、大通りに面した少し開けた開放的な広場だった。

 太陽は完全に沈みきり、街はビルの明かりに照らされている。

 この時間に家に帰れば、玄関のドアを開けた瞬間に衣琉華からヒステリックな嫌味や罵声を浴びせられるのは間違いなかった。想像するだけで足元がすくんでしまう。

 ぬるい夜風がビル街を吹き抜ける中、リヒトが行きたいと言った場所は駅前の広場だった。

 駅の出入口近くでは、ストリートミュージシャンがギターを弾いたり、酔った若者がワイワイと騒いでいたりする。

 その出入口から少し離れた広場には、いくつものベンチが設置されていた。ベンチでは、身を寄せ合うカップルたちの姿がある。仲睦まじそうに肩を並べて笑い合ったりしている人たちは眩しく、普通の女の子じゃない玲瑠にはまるで別世界の光景みたいに映る。

 リヒトは空いているベンチを見つけると、玲瑠を促して腰を下ろした。

 隣り合って座り、互いの気配を感じながら静かな時間が流れていく。

 街路樹の葉がカサカサと夜風に揺れる音と同時に、リヒトが静寂を破った。

「レイルちゃん、こんな遅くまでつき合わせてゴメンね」
「いえ、別に大丈夫ですよ。それで、なにか話でもあるんですか?」
「ああ。勘違いだったら申しわけないんだけど、レイルちゃん今日一緒に歩いているとき、たまーに暗い顔をしてたし、さっきスマホを見たときもすごい落ち込んでたから気になったんだ。なんか抱えてることがあるんだったら、話を聞かせてくれないか?」
「あっ……いえ……それは……」

 玲瑠は太ももの上で指をクルクルとさせる。

「この前、俺のカッコ悪い話を聞いてもらったから、次はレイルちゃんの話も聞かせてくれないか? 遠慮しなくていいからさ」
「いえ……本当に、なんでもないんです」

 指を固く絡め合わせ、細い声を絞り出すのが精一杯だった。

 不登校だった中学生時代。プリントや宿題を届けてくれた近所の同級生に、助けを求めるようにベラベラと境遇を語ったことがある。
 あのとき同級生の顔に浮かんだ『なんだ……こいつ』っとドン引きした苦笑いが、今でも頭にこびりついて離れない。
 誰かに理解してほしい一心で吐き出した苦しみが、相手にとってはただの重荷でしかなかった。それ以来、その同級生との距離はさらに開いてしまった。
 よく考えたら当たり前だ。大して仲良くもない相手から、重たい話を必要以上に連続で投げかけられたら誰だって困惑する。

 あの惨劇が頭をよぎる。惨めな家庭環境やドロドロとした暗い悩みをさらけ出して、リヒトに「面倒くさい子」っと嫌われるのは絶対に嫌だった。

 見捨てないでほしいという強い恐怖が胸を支配する。

「本当になんでもないならいいんだけど……無理に強がらなくていいんだよ。レイルちゃんは俺よりずっと大人っぽいけど、たまにすごく辛そうな顔をするからさ、ひとりでなにか抱え込んでるんじゃないかって、心配になったんだ」

 リヒトの言葉が、じんわりと心に沁み込んでいく。こんな些細な仕草や表情の変化を、リヒトはずっと見守り、気遣ってくれていた。

 錆びついて固まっていた心の扉が、ゆっくりと開き始める。

「俺さ、うつ病になってからなんとなく追い詰められてる人の気配がわかるようになったんだ。レイルちゃんは通信制の高校に通ってるって言ってるし、身近な家族にも話せない悩みをずっとひとりで抱えてるんじゃないかって思ったんだ。違ったら余計なお世話で申しわけないんだけどさ」

 リヒトは照れくさそうに鼻の頭をかくと、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳を向けた。

「レイルちゃんはたまに甘えん坊さんだけど、俺に気を遣ったり、俺の悩みを聞いたり、無理して大人の振る舞いをしてる感じがしたんだ。だから普通の高校生みたいに、勉強や部活の嫌なところを友達としゃべるみたいに、俺に言えることなら話してくれないかな?」

 リヒトのやわらかい声が心を揺らし、温かい夜風が玲瑠の前髪を揺らす。

 ふたりだけのアトリエで、リヒトは壮絶な家庭環境も、会社での凄惨なパワハラも、うつ病で心が壊れてしまった絶望も、包み隠さずに打ち明けてくれた。あんなにも傷つきながら、弱さと醜さをさらけ出してくれた。

 あのとき、同じ傷を抱える玲瑠はその痛みを真っ向から受け止めた。

 心の痛みを知っているリヒト先生なら、惨めな過去や本音を真剣に受け止めてくれるかもしれない。

 目の前にいるこの大人を信じてみたい。

 玲瑠はワンピースのスカートをギューッと強く握りしめ、震える唇をゆっくりと開いた。

「私、ずっと生きる意味がないなって思っていて、中学生のときその思いが限界になって、不登校になったんです。今の通信制の高校の勉強も、母親からやれって言われてるからやってるだけで、ホントはやる意味なんてないって思ってるんです……」

 絞り出すような声が夜風に溶けて消えていく。

「夜、眠れなくてスマホでSNSを見てると、人生は最初に配られた手札で決まるんだとか、親ガチャ失敗だとか、インターネットの底にある争いばかり目に入ってくるんです。それに、同年代の子たちの成功体験を見てると、私ってホントになにもできないんだなって思って、さらに自分は生きてる意味なんてないって思うんです」

 奥歯を噛みしめながら、溢れる感情を言葉に変えていく。

「それだけじゃないんです。将来の暗いニュース記事を見てると、こんななにもできない人が足掻いても、暗い未来しかないって思って、努力するだけ無駄だって思って、なにもかも嫌になっちゃうんです」

 指先でスクロールすると無限にあふれ出す、現実の残酷さと諦念。

「それに……お母さんとの生活も、ずっと息が詰まりそうで。お母さん、自分から浮気して離婚したくせに、お父さんの悪口を私に叩き込んで……自分が悪いのに『お金がない』って叫んで。私が不登校になったら『なんでこんな子に育っちゃったの』ってお酒を飲んで当たり散らして……もう、家にいるのが耐えられないんです」

 ぽろぽろと大粒の涙が溢れだし、白いスカートの生地に深いシミを作っていく。

 同時に、激しい自己嫌悪と罪悪感が玲瑠の胸をグサリと貫いてくる。
 その自己嫌悪と罪悪感の正体を、そっと口にする。

「でも……こんな悩み、ただの甘えなんですよね」

 玲瑠は両手で顔を覆った。

「リヒト先生みたいに、会社で凄惨なパワハラを受けたわけでもない、体を壊して働けなくなったわけでもない、ただ逃げ出しただけの私に、辛いなんて言う資格、どこにもないんですよね。リヒト先生が味わってきた本当の地獄に比べたら、私のはただのワガママで、逃げで、甘えで……」

 まだ社会にも出て本物の荒波に揉まれたこともない人間が傷ついて被害者ぶるなんて、実におこがましいと、玲瑠は心底思う。

 すべてをぶちまけた瞬間、リヒトに「そんなの生温い悩みだ」っと言われ、鼻で笑われるかもしれない恐怖が襲いかかる。

 でも、言ってしまったからには取り返しがつかない。
 覚悟してリヒトの返事を待つ。

「話してくれてありがとなレイルちゃん。レイルちゃんの悩みは、甘えなんかじゃないぞ」

 リヒトの静かで、どこまでも温かく力強い声が、玲瑠の自虐的な心をバッサリと切り裂いた。

 伏せていた顔を上げると、そこには真っ直ぐな眼差しで見つめるリヒトの顔があった。
 その瞳には、呆れや軽蔑の影なんて微塵もない。深い慈愛に満ちた光が宿っていた。

「そもそも、自分の痛みを他人の痛みと比べる必要なんてないんだ。この世界には、人間の数だけ人間の痛みがあるんだ。誰がなんと言おうと、レイルちゃんが傷ついて、泣きたくなるほど苦しかったのはまぎれもない事実なんだから、自分を責めることなんかないぞ」

 リヒトはポケットからタオルハンカチを取り出して玲瑠に手渡した。

「ありがとうございます」

 ふわふわなタオルハンカチを受け取り、涙を拭う。リヒトが使っている柔軟剤がたっぷりとしみ込んだ、やさしい香りが胸の不安を和らげる。

「感情があるって、いいこともあるかもしれないけど、面倒なことのほうが多いよな。俺もうつ病になったとき生きてる意味がないって思って、その辺の潰されて死ぬ虫や、ただ働くだけのロボットに生まれてたらどれだけよかったかって、何回思ったことか」

 リヒトはベンチの背もたれに深く体を預け、夜空を仰いだ。

「それに、なんの慰めにもならないかもしれないけど、普通に高校を卒業して、社会的な看板としては勝ち組側の会社に入った、世間が言う王道のルートを歩んできた俺だって、つまずいて立ち止まったんだ。学生の頃は、自分が将来こんな感じで心が病んで、倒れるなんて夢にも思ってなかった。こんな健全な人生を歩んだ人間でさえ、明日には転んでることだってあるんだ」

 唯一見える一等星を見つめながら、リヒトはふーっと、苦労に満ちた深い息を吐き出した。

「だから人間は立ち止まってもいいんだ。世間の人たちは『そんなところで休んでたら後悔するぞ』って言うけど、当の本人からしたらそのときの行動がギリギリの選択だし、無理に立ち上がったらもっと傷つくことだってあるんだ」

 リヒトは顔を玲瑠に向け、すべてを許すような聖母のような微笑みを浮かべた。

「玲瑠ちゃんは他人の痛みなんか考える必要はない。自分と他人を比べる必要なんてない。世間が言う普通や、遠くのすごすぎる人を見るから苦しくなるんだ。もっと自分を見て、もっと自分を大切にして生きたらいい」
「はい……わかりました、自分を大切にします」

 悩むことすら許されないと思い詰めていた心を丸ごと肯定してもらい、肩の荷がひとつ降りたような気がした。

 リヒトのタオルハンカチにさらに涙が染みていく。

「自分を大切にして生きてくれよ。そういえば話が飛んじゃったな。えっと、玲瑠ちゃんは勉強する意味がないって思ったから不登校になって、未来に絶望して生きる気力もなくて、家庭環境も嫌なんだよな?」
「はい、そうです」
「未来に希望が持てないのは、十歳以上年が離れてる俺もまったく同じだ。夢も希望もない将来から逆算して、どうやって人生をキレイに畳むかって考えてる。その途中で、イラストレーターとして食べていければいいかなって思ってる」

 リヒトは苦笑しながら顎に手を当て、一瞬なにか考えて口を開いた。

「こんな社会不適合者の俺なんて、年を取って体が動かなくなったら野垂れ死ぬのはわかってる。死んだあとに迷惑かけたくないから、特殊清掃員の人にはお金を先に払っておきたい
ぐらいだ。死体は共同墓地に入れると手間をかけるだろうから、ゴミ処理場の焼却炉に投げ入れてほしいって思ってる」

 あまりにも淡々と語られる物悲しいリヒトの人生の終末。

 十七歳の少女に話す内容としては刺激が強すぎるかもしれない。でも玲瑠は興味津々に聞き続ける。

 リヒトの主張はリヒトだけがしているわけじゃない。時折SNSで見かけているから、むしろリヒトの人生設計に共感をするぐらいだった。

「家庭環境に関しては、俺と同じで配られたカードだな。これはあきらめて、受け入れて、嘆き続けることしかできない。特にレイルちゃんみたいな未成年は親に支配されるしかないから辛いよな」
「はい……なんにもできないので辛いです」
「画材も人間もホントに理不尽だよな。どっちも自分の意思とは関係なく勝手に作られて、時代の流れから外れたり、利用価値がなくなったりしたら『売れ残り』だの『不良品』だの言われて切り捨てられる。でも、作った人はなんにも責任を取ってくれない」

 リヒトはなにかを決意したように、背筋をスッと伸ばした。
 その顔からは数秒前までのやわらかさが消え、眉毛をキリッと上げて凛々しい顔になっていた。

 リヒトがこんな硬い顔をするなんて思ってもいなかった

「でも……生み出されてしまったからには仕方がないんだ。どんなに理不尽な世界でも、俺たちはこの地獄で生きて、死なない限り生き続けないといけないんだ」

 穏やかだったリヒトの声に、迫真の熱が宿って呆気に取られる。

「だから最後、レイルちゃんに『このまま生きて大丈夫だよ』なんて言葉で無責任な慰めはできない。曲がりなりにも俺は一応大人だから、子供を少しでもいい方向に導く義務がある」

 リヒトの声に、ほんの少しだけ厳しい、けれど深い愛情のこもった熱が宿る。

「誰かが決めた普通にならなくてもいい。でも、普通のレールから外れて生きるなら、その先にある苦しみを覚悟するんだ」

 その言葉に、玲瑠はポカーンっと気が抜けてしまう。

『普通のレールから外れて生きるなら、その先にある苦しみを覚悟するんだ』この言葉は、衣琉華や不登校になったときの担任、SNSで説教をする大人と同じだった。

(結局、リヒト先生もそうしか言えないのか……)

 ほんの少し失望する。だけど、大人の立場に立って、本当に苦しい道を歩んできた身なら、そう言ってしまうのはなんとなくわかる。

「でも、玲瑠ちゃんが苦しいときは、今日みたいにまた一緒の雨に打たれて、傷を舐めてあげるから、いつでも言ってくれよ……でもゴメンな、俺は強い大人じゃないから、玲瑠ちゃんが進む道を敷いてあげられなくて。未来が見えなくて辛いときって、誰かに普通の道を敷いてもらいたいものだよな。でも俺は敷いてあげられなくて」

 前言撤回。リヒトはその辺のテンプレートなことしか言えない大人じゃなかった。

 社会に打ちのめされて、心に大怪我を負ったからこそ、同じ怪我を負った人に寄り添い、身の丈に合ったことを言っている。

 世間一般的にはリヒトみたいに甘やかす大人は無責任かもしれない。でも、玲瑠からしてみれば、身の程を理解してできる範囲でアドバイスをしているリヒトのほうがよっぽど責任感があると思えた。

「いえ、ありがとうございます。苦しみを聞いてくれただけですごく嬉しいです。今まで学校のカウンセラーと話したんですが、表面上のキレイごとばっかりで、この人たちは話を合わせてるだけなんだなって冷めてたんですけど、リヒト先生の言葉はすっごく胸に響きました」
「それはよかった」
「はい! ホントにありがとうございます! リヒト先生に相談してよかったです」

 玲瑠はタオルハンカチで顔をぬぐって顔を上げた。しかし、すぐに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていく。

「あと。もうひとつ言わせてくれ。まだ若いレイルちゃんは、俺がいるような世界にくる人間じゃない。だから少しでも勉強して、世間を歩む術を身につけて、幸せの道を歩んでほしい。絶対に俺みたいな道を歩むな」
「わっ……わかりました。できるだけいい道を選びます」

 なんだろう。他の大人からは「勉強しろ」「常識を身につけろ」なんて言われても面倒くさいっと思っていたけど、リヒトに言われるとやらなきゃいけない気分が湧き起こる。

「あの……リヒト先生、お願いがあるんですけど……」
「なんだ?」
「頭……撫でてもらってもいいですか?」
「いいぞ。こんなことで喜んでくれるんだったら、いくらでも撫でてやるよ」

 リヒトは大きくゴツゴツとした手を伸ばし、玲瑠の頭にポンっと置いた。ごわごわとしている、少し硬い玲瑠の黒髪を撫で始めた。

 シルクのようなタッチで、頭のてっぺんから心地よい温もりが何度も何度も伝わってくる。
 ずっと胸の奥に澱んでいたドロドロとした泥のような感情が、リヒトの手によってキレイに洗い流されていくみたいだ。

 生まれて初めて、誰かに心の底から醜い本音を打ち明けることができた。
 そして、憧れの神イラストレーターはその心を抱きしめてくれた。

 悩みの根源が消えたわけじゃない。でも、抱えてきた闇をリヒトに聞いてもらっただけで、胸が嘘みたいに軽くなっていた。

 もし、リヒトという救世主と出会っていなかったら、埠頭玲瑠という人物はどうなっていただろうか。それこそ、明日にはベッドの下のロープを取り出していたかもしれない。

 人生は配られたカードで戦うしかないというけど、玲瑠が出会った「リヒト」というカードは、どんなカードよりもレアカードかもしれない。

「そろそろおしまいにする?」
「嫌です。もう少し撫でてください」
「わかったよ……レイルちゃん、本当にスキンシップになると甘えん坊さんだな」

 空気を変えるためか、リヒトは茶化したように言う。

「リヒト先生がまだ大人にならなくていいって言ったんじゃないですか。もっと撫でてください」
「ハハッ、そうだったな。それじゃあ、気が済むまで撫でてあげるよ」
「お願いします……家に帰る前に、リヒト先生に撫でてもらわないと、私耐えられないので」

 薄い口でぼやく。

「そういえばレイルちゃんは家のことも悩んでたんだったな。家庭の事情のこともなんにもしてあげられないけど、こうやって力をあげられるなら、店にきたら毎日撫でてあげるよ」
「よろしくお願いします……あの、リヒト先生の家に……住んでもいいですか?」

 つい口から出てしまったお願いに、リヒトの手がピタッと止まる。
 言ってしまった玲瑠も恥ずかしさのあまり、うつむいて固まってしまう。

「それは無理なお願いだな。おばあちゃんもいるし、レイルちゃんの親御さんに通報されたら、ホントに俺が捕まっちゃうからな。いくら人生投げ捨てても、さすがに犯罪者にだけはなりたくないよ」
「そう……ですよね」

 淡い期待はすぐに砕け散った。
 家出少女の物語にも憧れた。でも、あんな近い距離で家出をしたらすぐに足がついて、リヒトを犯罪者に仕立て上げてしまう。

 玲瑠もその事態だけは嫌だった。リヒトが捕まったら、あのマステ絵も、あの温かいお絵描きの空間もなくなってしまう。

「じゃあ、今は嫌な家のことは話さないで、頭を撫でてください!」
「はいはい」

 玲瑠は人生で撫でてもらえなかった分を取り戻すかのように、満足するまでリヒトに撫でられ続けた。